データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

河川流域の生活文化(平成6年度)

(1)宇和盆地の稲作

 宇和盆地は、愛媛県の西南部、東宇和郡の西部に位置し、周囲を400~800mの肱川系山地に囲まれ、海抜高度平均約230mのL字形をした、面積約133.23km²の山間の高原盆地である。
 その高原盆地における稲作の起源は古く、弥生時代には高度の農耕文化が栄えていたことが、弥生土器やその他の出土品から推測されている。古代においては南予地方の政治的中心地でもあったが、近世以降その地位を宇和島に譲ったものの、南予地方の産業、文化の発展、その他の面で担ってきた役割は大きいものがある。
 現在宇和盆地は全域に耕地整理が行われ、見渡す限りみごとな水田が広がっている。その昔この原野は一面の沼沢地であったことを知る人は少ない。古人がいろいろと工夫し手を加えて農耕を始めたのは、約二千年前と推定されている。その後数百年を経て条里制(*1)による土地の区画制度が設けられ、起源の古い盆地の集落(永長(ながおさ)、清沢、小原、岩木)では条里制に基づいて簡単な溝(みぞ)(水路)と畔(あぜ)(田の中のしきり)によって土地の区画整理が行われていたことが推測される。また一辺60間(約109m)の地割を古地図から読みとることができるという。
 宇和地方の気候は、山間盆地のため、夏季の晴天日数は少なく、真夏の気温は26℃で程度で、東・中予の平野部と比べて約1℃低い。年間降水量は約2,000mmで、夏季3か月間の降水量は東・中予の平野部と比べて1.5倍~2倍程度で、稲作の気象条件としては気温、降水量ともに比較的恵まれているということができる。この条件からみても宇和の稲作の歴史が古いことを物語っている(①②)。しかも、古代から発達してきた現代の稲作にとって温暖な気候と肥よくな土壌に加え、肱川水系となる周辺の山々と林地は豊かな水を溜池に貯える水源地となり、水稲作の適地となっている。また、日較差の大きい高原特有の気象は土壌と水のよさとともに、生産性の高い、味のよい宇和米が生まれる大きな理由になっている。
 平成3年(1991年)における、愛媛県の水稲収穫量は89,800tである。同年の宇和町の収穫量についてみてみると作付面積1,040ha、水稲収穫量4,990tは面積・収穫量において県下で4位(松山・西条・東予の順)、単位収量478kgは松山平野に次いで2位を占めている(④)。平地の乏しい南予においては第1位で、南予の穀倉としての地位を保っているということができる(図表2-1-2参照)。

 ア 穀倉への道のり

 **さん(東宇和郡宇和町岩木 大正8年生まれ 74歳)
 **さん(東宇和郡宇和町岩木 昭和3年生まれ 66歳)

 (ア)耕地整理

 JR予讃線の下り列車がトンネルを抜け、いよいわき駅に近づくと、そこに突然として広々とした平野が開け、見渡す限りの水田の中に碁盤目状の道路・水路が走っているのに目を見張る(写真2-1-1参照)。
 その整然と区画された水田は、60数年前に耕地整備事業によって整備されたものであるという。しかもここが標高200m以上の高原であることに気づく人は少ないであろう。また、宇和の人であっても、明治の末まで、泥川がうねうねと流れ、竹やぶと、葦(あし)(イネ科の多年草)が断続して茂る湿原だったことを知っている人は少ないと思われる。そしてその辺りを深ヶ田(ふけた)、川を深ヶ川(ふけがわ)(不毛川)と呼んでいたが、名の示すように泥沼状の深い湿田で、年中水が溜(たま)ってじめじめしていた。付近一帯の水田も排水不良の湿田で、膝(ひざ)まで沈み込むなかでの田仕事は難渋を極め、農家の人々の乾田化への要望は特に強いものがあったことが容易に想像される。

 (イ)先人の遺産

 明治38年(1905年)県の耕地整理補助規定が発表されたのを契機に、当時の上宇和村長森川智徳は、この事業を熱心に調査研究し、その効果を住民に説き事業の実現に努めた。その結果、宇和で最も古い集落永長(ながおさ)地区の3町3反(3.3ha)水田を対象に事業の実施をみることになった。
 泥田の中で鍬(くわ)とシャベルと人の肩を頼りの工事は、予想外の難工事であったが、人々の協力のもとに予定通り完成した。
 1枚3~5畝(5a)のひも状の湿田が、整然と区画された乾田に姿を変えたのを見て、地域の集落はこぞって耕地の整理事業に取り組んでいった。以後10数年間にこの整理事業は、宇和盆地全域にわたって実施されていった(②③)。
 今を去る約90年前、永長における3町3反の耕地整理の事業が、南予の穀倉への道を開く端緒となり、先覚者森川智徳の功績と、当時の人々の乾田化への熱望と協力の遺産の大きさが感じられる。

 (ウ)手作りの排水工法と構造改善事業

 永長地区を筆頭に、岩木地区の耕地整理は2期にわたって実施された。当岩木地区は宇和盆地の西部に位置し、その南を深ヶ川が流れているため、宇和盆地のなかでも深ヶ田(不毛田)の名が示すような、沼田状の湿田が多い地域であった。水田は条里制による地割の名残りをとどめ坪と呼ばれる60間(109m)の四角に区画され、その内部は長方形に細長く分割され、1枚の水田が3~5畝(5a)の広さで、冬でも水が溜り、農作業にも、また狭い農道のため運搬作業や役牛の離合にも支障を来していた。
 **さんと、**さんは、親せきであり家も隣であり、共に農業を営む関係である。耕地整理について2人の口述をまとめた。「岩木の耕地整理は、明治40年(1907年)と大正7年(1918年)の2期にわたって、計142町1反9畝(142.19ha)について実施されたことが、碑文や記録に残されています。その当時の地割りを見てみると、長さ30間(54m)、幅10間(18m)の面積1反(10a)の長方形に区画され、その間に道路が整然と走り、道路に沿う形で濯漑(かんがい)用の水路と排水路が1区画ごとに交互に走っています。道幅は8~12尺(2.4~3.6m)で当時としては広いもので、稲を運搬する荷車の通行ができます(写真2-1-2参照)。その区画化の後で暗渠(あんきょ)排水工が施されています。これは協同や個人で実施したようですがその工法は今も残され受け継がれています。まず水田の中に数尺の溝を掘り、上土(うわつち)を分けて積み、その中に土管か、生の松丸太か竹をくり抜いた樋(とい)を入れこれを主暗渠とし、横に小さな同じものを入れ、その上をシダや小枝、あるいは小石や砂利で被って、中土(なかつち)を盛り最後に上土を拡げていきます。この主暗渠は排水路に通じているので、冬場は排水路にある木管の排水口を開いて排水をし、田仕事にかかる前には水もれを防ぐために、排水口を木栓で閉じて水を溜めるのです(写真2-1-3参照)。
 この工法は、地元の材料を使い費用も安くできる全くの手作りですが、100年近くたった今日も立派に適用しています。しかも不毛田が二毛田(同じ水田に農作物を2回作ること)に変わり、牛で耕起ができるようになり、反収も倍増したのです。先人は、谷川の水も、田の水も治めたわけです。」
 その後の昭和20年代からの耕地の基盤整備は農業構造改善事業の一環として実施される。昭和36年(1961年)伊賀上地区の一次から53年(1978年)の三次事業によって、宇和盆地は県下で圃(ほ)場(農地)整備の先進地となった。
 同事業が従来の耕地整理と異なる点は圃場の整備のみでなく、大型機械の導入による。主要農産物の増産、労働生産性の向上並びに経営の合理化を目的としていることにある(②)。
 **さんと**さん、「宇和の構造改善事業は、伊賀上地区から先ず始まりましたが、地区によっては、実現が困難なところもあり、昔のように全員一致協力とはいかないようです。完成した地区、協力の得られない地区、施工中の地区とさまざまな様相を見せています。これも農家が多様化したせいでしょうか。岩木では意見の一致がなく見通しが立っていません。隣接する郷内地区は今年(平成6年)完成の予定ですし、西山田地区は今年着工しています。昔と違ってすべて機械力によりますので短期間に完成します(写真2-1-4参照)。しかしながら、ここに宇和の稲作の専業農家にとって大きな悩みの種があるのです。」


*1 古代の土地区画制。土地を360歩(約648m)四方の正方形に区画し、南北に一条、二条……、東西に一里、二里……と
  称し、何条何里と表示した。一区画はさらに36等分され坪(60間×60間〔109m〕)と呼んだ。宇和盆地ではこの地割が
  踏襲され、さらに反(30間×10間〔54×18m〕)の標準区画に分割されている(1反=10a)。

図表2-1-2 水稲の作付面積と10a当たり収量

図表2-1-2 水稲の作付面積と10a当たり収量

『愛媛県市町村別統計要覧』昭和50・60・平成3年(④)より作成。

写真2-1-1 区画された水田と深ケ川の支流

写真2-1-1 区画された水田と深ケ川の支流

中央の集落は岩木地区。平成6年10月撮影

写真2-1-2 直線農道と両側の水路

写真2-1-2 直線農道と両側の水路

宇和町岩木。平成6年10月撮影

写真2-1-3 上下2段の排水口

写真2-1-3 上下2段の排水口

宇和町岩木。平成6年10月撮影

写真2-1-4 進行中の圃場整備事業

写真2-1-4 進行中の圃場整備事業

平成6年10月撮影