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河川流域の生活文化(平成6年度)

(2)米作り一筋

 ア 反収で一喜一憂

 **さん「昭和10年代には、父の籾摺(もみす)りの請負(うけお)いを手伝って各地区を回っていました。乾田化前には反収(10a)3~4俵(1俵=4斗=72ℓ、1斗≒15kg)、乾田化されてからは、倍近く6~7俵の収量になり、20年代になると普通作で7.5~8俵の反収でした。
 熱心な農家は2条植えをして増収を図っていましたが、その当時(昭和10年代)には7.5俵もあるとびっくりし、まして反収8俵もあると、鬼の首を取ったように大喜びをしていたものです。今は普通作で8俵、豊作で10俵といったところです。早生(わせ)系統の有名なコシヒカリが栽培されるようになったのは最近のことですが、コシヒカリは草丈が伸びすぎて倒伏しやすい性質を持っているようです。
 昭和20年代には、田仕事や取り入れは殆ど人力による手作業でした。昭和30年代には稲刈りの主役であった鎌がバインダーに、足踏脱粒機が、刈り取りと脱穀が同時にできるコンバインに主役の座を譲ったのが50年代の後半でした。また最近はライスセンターへ籾(もみ)で直納する農家も増えてきています。」
 **さん、「岩木の耕地整理が実施された当時は、水田も道路の幅員も十分な広さでした。この広さが今までは通用してきたのですが…。現在の農家は先人の残した遺産の上に胡座(あぐら)をかいているのです。耕耘機を初めて導入したのは昭和28年(1953年)でしたが、条里制に基づいた1水田の面積が1反(10a)と道路幅12尺(3.6m)はその当時としては十分な広さでした。1枚の水田の広さと、手植えによる田植えの苦労を言い伝えるものに『1反と5畝(せ)(15a)まちはええが、2反(20a)まちはだらしい。』があります(日本最古の農学書とされる『親民鑑月集(⑥)』に早乙女の田植えの作業行程は1反5畝と記されている。)。いまは、トラクター・コンバイン・6条植えの田植え機等の大型機械が導入され、手植え当時の苦労は昔の物語です(写真2-1-5参照)。
 近代的大型機械を駆使するには、より広い圃場がなければ能率を上げることができません。この機械力による省力化とそれに対応する圃場の整備がこれからの後継者対策にも関連してくるのです。圃場の多角的活用を図り水稲単作から抜けだし、合理的な農業経営を目指すためには、構造改善により圃場の拡大し、最狭でも3反~1町(30a~1ha)の広さにして排水をよくする必要があるのです。しかし、宇和盆地の主幹作物は稲作ですが、農家自体が多様化しています。脱農業を図っている人、現状で満足している人、兼業への移行、後継者の不在等の理由で、全員の賛同が得られないのです。農地の持ち主全員の賛同がなければ、事業を実施することはできません。先人は地域の人々の全面的協力によって耕地整理を完成させましたが、現代人は意見の統一を図ることも、人々の賛同と協力を得ることも難しいのです。」
 宇和町自体は構造改善事業を推進し、この事業を活用していくための全体的施設であるライスセンターが完成し活動している。コンバインで収穫し、センターへ直納する農家も徐々に増加しつつある。盆地産米がここで調精され、おいしい「宇和米」として流通機構に乗るのである(写真2-1-6参照)。

 イ 溜池の水と川の水

 耕地整理によって区画された水田には排水路が通じ、暗渠排水工事によって岩木の深ヶ田と呼ばれる湿田はすべて乾田化された。その水田は大きく三地区に区分かれ、それぞれ五つの溜池から水をひいているが、乾田化されたため、田仕事の時期には用水量が激増する。裏作(冬作)のため水を抜きその後表作の稲作のため、大量の水田用水が必要となってきたのである。夏場の稲作の期間中は、それぞれの水がかりごとに2人の水番がついて、各水田の用水を管理している。年によっては水不足が深刻になることもある。
 **さん、「岩木の五つの溜池それぞれ朧漑(かんがい)する区域が定まっています。水番さんは順送りですが、日照りの年に当たると怒られたり、苦情を言われたりで難儀な年もあるのですが、順送りですから逃げようがありません。地区の一番川下で、深ケ川の水をポンプアップして溜池に戻し再利用を図って、不足分を補っています。将来は五つの溜池をパイプで接続して合理的に使うことを検討しています。限られた溜池の水ですから……。
 宇和盆地の用水はほとんど溜池の水です。井堰からの水は、いま述べたような方法で利用します。」
 嘉永2年(1849年)、宇和島藩の『築池自盆池台帳』によれば、「宇和盆地における溜池は121か所」と記録され、昭和26年(1951年)の宇和町溜池台帳によると127か所とあり(③)、ほとんどが藩政の時代に築造されたことになる。現在の代表的な溜池は東多田にある「関地池(せきじいけ)」で、貯水量100万t、受益水田面積530haで、宇和川(肱川の上流)流域の大部分の水田がその恩恵を受けている(写真2-1-7参照)。

 ウ 稲の品種とレンゲ栽培

 (ア)宇和米は「日本晴」

 現在栽培されている水稲の主な品種は「日本晴」と「ミネニシキ」で、昭和57年(1982年)には栽培面積の71%強が「日本晴」、14%が「ミネニシキ」であった。いずれも早生種で味がよく、県の奨励品種でもあった。昭和30年ころは晩生、中生種が多く早生種は約10%程度であったが、その後は早生種が増加している。
 現在は早生系統の「日本晴」が圧倒的に多い。その理由は、早生系はイモチ病にかかりにくく、短稈(たんかん)性(茎が短いこと)のため台風による倒伏の被害が少ない点があげられる(②)。
 **さん、「いま作っている稲の品種は、早生系の『日本晴』が大部分です。『日本晴』は、湿田で多発するイモチ病に強く、短稈で倒伏しにくく、非常に作り易いのです。その上、ブレンド米にも、酒米にも適しているのです。多用途米として最適の品種です。」

 (イ)レンゲの里の盛衰

 宇和盆地はかつて採種用レンゲ栽培が盛んで、昭和36年(1961年)には農林省の指定を受け、農家の現金収入源として普及した。その中心地は、盆地西部の旧石城(いわき)地区で、農家の90%はレンゲ栽培を行い、「れんげ採種組合」が結成された。昭和40年代初期には約500haに栽培され、最盛期であったがその後急速に衰え、採種量も昭和50年(1975年)5~6t、56年1.8tと減少している(②)。
 レンゲ栽培の盛衰について、**さんは、「わたしの生まれ里が卯之町(うのまち)ですので、小学生のころよく遠足で、下松葉の城跡に登ったのですが、そこから石城平野を見渡すと、レンゲの薄赤色と、菜の花の黄色と麦の緑色が、区画ごとに整然と広がり、それは見事な眺めでした。今でも忘れることができません。20年代の後半に**家を継ぎ、米作りを始めたのです。裏作には裸麦や、ナタネを栽培しましたが、30年代の後半から、現金収入を図るためレンゲ作りを始めたのです。
 当時、採種組合もでき、石城地区は県指定の採樹圃でもあったので、たいていの農家で作っていました。田仕事の前には、地区の水田全体がレングの薄赤色一色となり見事な眺めでした。
 レンゲ栽培の最初の目的は飼料とすることと、水田にすき込む緑肥とすることでしたが、後に採種が主目的になったのです。飼料用、緑肥用には茎のよく伸びる『山下改良』を栽培したものです。
 しかしきれいな眺めとは裏腹にレンゲの採種作業は、炎天下の過酷な仕事です。
 先ず、夜明け前の朝露のあるときに刈り取りますが、これは日光が当たると、鞘(さや)が乾燥し弾(はじ)け脱粒してしまうためです。また反対に少しの湿気曇天で、鞘が閉じ脱粒が困難になって採種ができなくなるのです。朝露のあるまだ暗いうちから刈り取り、午前中十分に乾燥さして鞘(さや)が弾けやすい日盛りにかけて、たたくか脱穀機で脱粒し精選するという、いわば朝の暗いうちから暑い日盛りが勝負というわけです。種子は、地元で販売した残りを、国の生産指定県岐阜に送り出していました。多い年にはほとんど全部の水田で栽培し、約6石(1,080ℓ)の採種量がありましたが、価格は下落して1升(1.8ℓ)60円でした。これでは引き合いにかかりません。30年代後半から40年代前半にかけてのことで、その後価格の高騰したこともありますが、また急落しだんだんと廃たれていったのです。
 その原因は、飼料や緑肥として使用しなくなったこと、稲の品種が早生種になったこと、機械植えの導入により田植えの時期が早くなり、レンゲの結実期と重複し多忙になったことなどがあげられます。また、レンゲ種子の価格の変動が第一ですが、緑肥として田植え前に鋤(す)き込むと秋口に効き過ぎて、長稈(ちょうかん)(長い茎)となり倒伏しやすくなります。特に早生種の『コシヒカリ』等にこの徴候が見られます。その上に兼業農家が増えてきたことによるものです。」
 『愛媛県史地誌Ⅱ南予(②)』によると、レンゲ種子の農協渡し価格は、昭和47、48年(1972、73年)には1kg当たり1,500円の高値であったが54年(1979年) 860円、55年760円となり、その後600円に暴落した。現在は東山田の少数の農家が栽培している。反当収量も全盛期の約半分にすぎず、宇和盆地のレンゲ栽培は換金作物としての重要性をほとんど失い、「町花」として、また「レンゲ祭り」(4月19日)にその名残りをとどめているに過ぎない。

 エ 盆地の風物詩「わらぐろ」

 (ア) わらぐろの里

 **さん、「宇和盆地の冬の風物詩としてわらぐろの景観はなくてはならない存在でしたが、近年は余り見かけなくなりました。稲作農家にとってワラは貴重品でもあったのです。牛の飼料にもするし、冬場には俵(たわら)や、縄や筵(むしろ)に加工し、野村の酪農家に売ってもいました。コンバイン化の時代とともに姿を消していったのですが、当時刈り取り脱穀したワラ束を穂先を先にして、交互に中央で重ね合わせながら円筒形に積み上げていき、中高のくろができると、これに穂先をしばった一束を蓋(ふた)状にのせて縄で固定するのです。1反(10a)のワラ束(たば)を二(ふた)ぐろに巻き上げ、麦播き頃に、大きな一(ひと)ぐろに巻き上げますが、中央に棒を立てるので他の地方より背が高いのです。ワラを永く保存するには、実によく考えられた方法で、今でも巻き上げるすべ(手法)は覚えていますが、コンバインで刈り取った後束立てして乾燥し直ぐに売ってしまうので、その必要もなくなりました(写真2-1-9参照)。
 宇和盆地の冬景色としてシンボル的存在でしたが、今では作る農家もほとんどなくなりました。米博物館では盆地の名物として例年作っていますが、つくづくとさみしさを感じます。」

 (イ)明日訪れる農業のために

 **さん、**さん、「例年『亥(い)の子』の行事は地区で行っていますが、ゴリンの『亥の子石』をつくには農家の子や孫の人数が、残念ですが揃いません。わたしらの子供のごろは『亥の子』が大きな楽しみで夜おそくまでついて回っていたのですが…。『亥の子石』でつき過ぎて庭先を凹ませ苦情をいわれたりしたものです。
 今はワラスボでついています。いつでも孫や子供が揃えばつけるように『亥の子石』は備えてあります。また、その日のくるのを楽しみにしているのです。(亥の子石;径20cm程度のほぼ球形の石で中央に鉄の輪をはめ、輪に10個あまりの環をつけて、環につけた縄を円形になってつく。ワラスボ;約70cmのワラ束を縄でしばって、土をたたくようにしてつく。)」
 宇和町の「町勢要覧(⑦)」に次のような記述がある。

   『宇和町の農業は水稲抜きにしては語れない。……中略……
   〝何といっても必要な若い農業者の育成〟高齢化が急テンポで進む宇和町。2,000haの農地をより発展さすためには、
  青空の下で、土に生き、汗を流し、生き生きと農業にいそしむことのできる意欲のある「青年農業者」が一人でも多く育た
  なければなりません。そのために今、何をすべきか真価を問われる時代でもあります。』

 **さんと**さんは、「宇和の農業の明日を考えたとき、農業構造改善事業の推進に伴って、中核農家の育成と、時代にマッチした農業経営を考究していく必要性をつくづくと感じています。大勢の孫や子供によって、ゴリンの石でつける『亥の子』が一日も早くやってくることを期待しているのです。」

写真2-1-5 コンバインによる収穫作業

写真2-1-5 コンバインによる収穫作業

宇和町岩木。平成6年10月撮影

写真2-1-6 宇和米の里ライスセンターと1級河川肱川

写真2-1-6 宇和米の里ライスセンターと1級河川肱川

宇和町真土。平成6年10月撮影

写真2-1-7 貯水量100万tの関地池

写真2-1-7 貯水量100万tの関地池

宇和町信里。平成6年7月撮影

写真2-1-9 束立てした稲ワラとわらぐろ

写真2-1-9 束立てした稲ワラとわらぐろ

宇和町西山田。平成6年10月撮影