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河川流域の生活文化(平成6年度)

(3)果実の園づくり

 1級河川肱川は、多くの支流を併合していることでも有名である。その一支流小田川は、内子町で、中山川、麓川と合流する。この三河川の合流地点を中心に内山盆地が、中山川上流に中山の村里が開けている。これらの地域は、肱川の上・中流地域と同じように、峡谷型の山地を形成し、起伏が激しく、上流地域は地形急しゅんな高山地帯を形成し、気候も内陸性といいながら変化に富んでいる。この豊かで恵まれた自然の中で営まれてきた農業や、人々のくらしにも様々なものがある。特に、果樹をはじめとした土地利用型農業が、この地域の主要産業である。多くの果樹の中で、この項では全国的にトップクラスにある、中山のクリと内子のカキ作りに生きる人々のくらしをとりあげた。

 ア クリ作り一筋

 **さん(伊予郡中山町栗田 昭和8年生まれ 61歳)
 中山町は、松山市から国道56号を南へ28km、伊予郡の最南端にあり、東西14km、南北8kmの菱形を成し、東は同郡広田村・砥部町、北は伊予市・双海町、南と西は喜多郡内子町に隣接し、地形急峻な高山(600~900m)によって囲まれた、峡谷型の山村である。
 総面積72.4km²、林野率63%、耕地率17%である。町内中心部を中山川が流れ、山腹の急斜面の段丘上に集落が点在している。**さんの住む栗田の集落は、階上(はじかみ)山(898m)の南麓を流れる栗田川(中山川支流)沿いの山腹に立地している。

 (ア)山グリと柴(しば)グリされどクリ-野生種と栽培種-

 クリは山地に自生する落葉高木で、現在はほとんど栽培されている。幹は直立し枝葉はよく茂り、高さ20mにもなる。6月ごろに開花し雌雄異花、雄花が集まって淡黄色の長尾状の花穂となり、新枝の下方葉の脇につき、強い臭いを放つ。雌花は2~3個ずつ雄花穂軸の下部につく。この実は堅く長い刺がある「いが」に包まれ、9~10月ころになると熟して、いがが裂けて、固く茶褐色の果実を散出する。普通3個、実は固い果皮と、種皮にあたる渋皮に包まれている。材は、耐久・耐湿性が強く、家屋の土台、枕木、家具等(⑳)に使われる。
 「わたしの時代には、クリというと栽培されている果樹のクリでした。祖父や曾祖父は、『クリの材は腐らんから家の水回り(湿気の多い部分)に使うとよい。』と言って、奥山で大木に育てていました。また、栗田川の土橋の桁(けた)などに良く使われてもいました。昔は、粉(そぎ)板(屋根茸き用の小薄板)としても加工されていたと聞いています。また、初めてクリの花に接する人は、強烈な臭いと、いがくり坊主のできる過程に、本当にびっくりします。」
 クリは各地の山地に見られ、日本での栽培の歴史は古く、記紀、万葉集にも記されているという。クリの実は、奈良、平安朝期に食用に使われ、武士の出陣の儀に、縁起をかついで干した実を、「勝ちクリ」として食べたといわれている(⑳)。
 現在、クリの実は食用として多く利用される。クリ飯、クリきんとん、茶わん蒸し、マロン・グラッセ、クリまんじゅう、クリようかんなど……、食べ物に〝しゅん〟がなくなったという。けれどもクリは時と場合によっては、欠かせぬ存在であり、しゅんの味でもある。

 (イ)「中山栗」の成り立ち

 中山町は中山間地農業に属し、概してその主幹となる作目に乏しく、種類も雑多である。しかも農家の経営面積は狭く、零細農業の部類に属する。従って専業農家に比して、兼業農家の占める割合が大きい。しかし、こうした反面、農家のたくましい経済向上の意欲はめざましいものがある。最近、「栗の里」として名声を馳せている合理的栗園の経営も、熱心な生産者の意欲の一端ということができる。
 『中山町誌(㉑)』によると、江戸幕府の時代、参勤交代のおり大洲藩の殿様が献上した「中山栗」が好評を博したとされ中山町におけるクリ栽培の最初の記録である。また、山グリ、柴グリともに自生していたということは、地質的にクリの適地ということができる。
 しかしながら、名産「中山栗」として、全国的な地位を築くまでに、並々ならぬ先人の努力と、それを受け継いだ人々の意欲と協力があってのことである。      
 『中山町誌(㉑)』記載の中山栗生産の概況を次に示す。

 中山町のクリ生産の概況を示したが、昭和32年(1957年)に北宇和郡広見町に果樹試験場落葉果樹試験地が設置されると、北・東宇和郡にもクリ栽培が拡大した。これに大洲市・伊予・喜多・上浮穴郡を合わせた6地区が、県内における栗の主産地として40年代に急速に発展した。この6地区は県内栽培面積約5,300ha中の90%、生産量約9,200t中の90%強を占めている(②)。

   〇クリタマバチ
    タマバチ科、クリの芽に虫こぶを作って枝の発育を止め樹を弱らせ枯死させる。クリ最大の害虫である。成虫は
   2.5~3mm、雌だけで繁殖する。中国原産の侵入種、本県にも昭和25年(1950年)侵入、30年にはシバグリが全滅し
   た。抵抗性品種の「筑波」などによって被害が回避されたが、最近は抵抗性品種にも寄生する能力をもった系統が現れ、
   その被害が問題になってきている。(愛媛県百科大辞典より)

 (ウ)クリの品種とクリタマバチ

 中山町で古くから栽培されてきた品種は、中粒種の「赤中(あかちゅう)」である。これは中山栗の代表的品種で、加工用・青果用として全国的に最高の品質を誇っていた。その他、早生(わせ)系小粒種の「銀寄(ぎんよせ)」、「中早生」、中粒種の「銀寄」等が、昭和初期から栽培されている。高級銘菓「マロングラッセ」の製造には「銀寄」が不可欠といわれているが、この品種の最大の欠点は、反当収量が少ない点で、現在も価格補償がされている。
 「中山町におけるクリの第1次黄金期が昭和15年(1940年)ころでしたが、クリタマバチの被害と、戦時体制で栗園が荒廃してしまい、生産量も30年ころ最低となりました。在来の品種は、特にクリタマバチに弱いのです。わが家のクリもその例にもれず被害を受けたのです。昭和27年(1952年)に本格的にクリ栽培を始めたのですが、今までの品種を全部を廃棄し、クリタマバチに対して抵抗性の品種『筑波』に改植したのです。
 昭和の初期から、昭和30年(1955年)ころまで中山栗の中核的栽培品種は、『赤中』と『中早生』でしたが、36年(1961年)に『筑波』が県の奨励品種に選ばれると共に、中山町でも栽培の中核品種となり、以後50%以上が、『筑波』に集中したのです。
 昭和40年代の前半に第二次黄金期を迎えましたが、後半から抵抗性品種の『筑波』も新しい世代のクリタマバチの被害を徐々にうけるようになり、50年代からの韓国の輸入栗の追い討ちで、ピークは潰れてしまったのです。その後、一時的にピークの年もありましたが、昭和59年(1984年)を境に生産量は低下していきます(図表2-1-14参照)。
 現在、クリ生産農家は次のような方向に進んでいます。
 『筑波』の山を崩せ!………栽培品種が50%以上筑波に集中してくると、販売戦略に支障を来たし、また労力配分面においても問題化してきます。そこで品種の再構成を図るため、筑波の山を崩す必要があります。その声と共に品種の調整をしながら更新計画が進行しているのです。一方、より強力な抵抗性品種『紫峰(しほう)』が発見され、その試植が進行しています。
 クリの王様はやはり『筑波』………クリタマバチに抵抗性が弱くなったとはいいながら、やはり『筑波』は、作り易さ、収量、品格、食味等、あらゆる面から言って、栗の王様です。
 中山町農協の農産物加工場は、地元産のクリを加工(剥皮)し付加価値を高めて、販売することを目的に設置されたのですが、現在はほとんど韓国産の剥(む)きグリを使用している状況です。設置の目的上矛盾しますが、経済性の面で止むを得ないのです。しかし、韓国産のクリにも、〝かげり〟が見えてきました。老木化による減収と品質低下がその原因です。
 品種は日本の『筑波』ですが、クリの木の寿命は約20年、管理を十分にすればプラス10年といわれます。韓国では、小粒多量生産を目的として酷使し、老衰を早めたのです。老本園の更新という難題を抱えているのです。」輸入量は昭和61年(1986年)の約35,800tを最高に平成元年(1989年)30,200t、同4年(1992年)29,200tと漸減(㉒)している。

 (エ)銘柄栗・特選栗作り

 「現在、青果栗の市場の流れと消費者のニーズは、皮の剥きやすい〝大玉(おおだま)〟であるということです。価格は高く、味が多少落ちても、2L・3L級であれば、引っ張りだこです。」
 栗出荷協議会では、取扱い基本方針の中に、銘柄栗、特選栗、一般栗の品質区分、設定基準を規定して、会員の自主性による栽培園の合理的管理と、諸規定、特に銘柄栗、特選栗の基準順守を呼びかけている。また、栗出荷協議会の協議会スローガンにも示されるように、常日ごろから、生産者自身の大きい努力と小さい点への気配り、あるいは生産者・JA・行政の三者一体となった前向きの姿勢が、「中山栗」作りの基となって、ますます評価を高めていくであろう(図表2-1-14参照)。
 **さんは、現在クリ園1.5haと山林を経営し中山栗の銘柄化に情熱を注ぐ先進的農家である。

                  - ◇ -
              -こんなに大きな声を
                出したのは久しぶり-
              -みんなの笑顔がやけにまぶしい
                何だか今日は心が軽い-
              -伊予中山には、ふる里がある-
                               (遊栗館資料より)

 イ 山里の果樹作り

 緑と清流の町内子は、松山市から国道56号を南西へ約42km、喜多郡の北部に位置し、四方を緑の山並みに囲まれた人口1万8千余人の農山村で、農産物の生産により栄えるとともに、「木ろうと白壁のまち」、歴史を今に残す町として知られている。気候風土は温暖肥沃で、多くの作物栽培に適しているが、土地の条件は厳しく、全面積の70%を山林が占め、急傾斜地域が多く、畑作農業が主体である。ここでは、内山盆地の代表的果樹である「カキ」を取りあげ、県内最大の産地となるに至った背景と、人々のくらしとのかかわりを探ることにした。

 (ア)カキの産地作り

 一般に内山盆地というのは、肱川の支流小田川及び中山川流域に開けた小盆地のことで、内子町・五十崎町がこれに属する。流域の両岸には、丘陵や洪積台地が開け、果樹その他の土地利用型の農業が発達している。特に内子町のカキ栽培面積は、県全体の約20%に相当し、周桑郡の丹原町と共に県内最大の産地である。農業粗生産額における果樹のなかで、カキの占める割合は大きなものがある。
 このほか、ブドウ・クリ・ナシ・モモなどが内子の町を中心に栽培されている。
 カキの沿革について『親民鑑月集(⑥)』によれば、「木類の事」に「くるみ、栗、柿、榧(かや)、とち……」と記してある。
 いまから350年以上前に、北宇和郡三間町で書かれた文献に載っているので、当地域においても粗放的に植栽されていたことが考えられる。
 また、『大洲藩領史料要録・大洲領庄屋由来書(㉔)』中巻の村々庄屋旧家献上物覚の項に「阿蔵五月御所柿、八日市九月御所柿……中略……、論田正月陳小柿、……中略……、上野九月御所柿……」と記されている。おそらくある程度人工的に栽培され、干し柿として加工されていたことが推察される。
 県内で、カキが園地として栽培されだしたのは大正時代に入ってからで、渋柿の「愛宕(あたご)」が大正3年(1914年)、甘柿の「富有(ふゆう)」は大正10年(1921年)ごろから園地栽培が進行した(口絵参照)。昭和10年(1935年)ごろピークを迎えた。その後、戦時体制とともに荒廃したカキ栽培園も戦後は復興して隆盛期に入ったが、30年代後半から温州ミカンに押されて急減していった。その後はミカンの需給不均衡を反映し、昭和54年(1979年)から再び増加傾向にある。愛媛県の栽培面積、生産量は全国順位9位と10位である(①②)。
 県内の主産地は、周桑平野の平野部から山麓にかけてと、内山地方の中山性の山間地帯であるが、両主産地のカキ栽培を対比するとと次の通りである。

  〔周桑平野と周辺山麓〕-渋柿-「愛宕」-90%(栽培面積)-扇状台地
  〔喜多郡小田川流域〕-甘柿-「富有」-71% (  〃  )-河岸台地

 両産地の最も大きな特徴は、渋か甘のどちらかへ極端に片寄っている点にある。このことは、両地域の複合経営農家の労力配分上、カキ以外の主幹作目の組合せによるものと考えられる。

 (イ)甘柿と渋柿

 -「富有(ふゆう)」-
  甘柿の代表品種で、早生富有(9月中旬)、普通富有(9月下旬~11月下旬)がある。『明治39年(1896年)ころ、伊予
 郡砥郡町岩谷口、日野富三郎(東京帝大農学部学生)が岐阜より苗本数本を持ち帰り、兄陽三郎が植付けたという。内子町に
 植付けられたのは、昭和10年(1935年)ころ喜多郡内子町大瀬の篤農家が、山野を開いて、富有と愛宕を植栽したのがはじ
 まりとされている(㉓)。
 -「愛宕(あたご)」-
  渋柿の代表的品種、愛媛県の特産「愛宕柿」は、周桑郡石根村(現丹原町内)の原産である。これは神亀年間(724年~
 728年)に京都より移植されたものが伝えられ、その後穂木を接木し繁殖さしたという。内子への導入は上記「富有」と同じ
 ころで収穫は富有の終了後(11月中旬~12月中旬(㉕))。

 現在(平成2年)内子町では、「富有」(160ha)を中心に、350戸の農家が約220haで栽培し、生産額は約4億2,800万円となっている(㉓)。

 (ウ)柿作りの道

 **さん(喜多郡内子町五百木 大正5年生まれ 78歳)
 **さん(喜多郡内子町大瀬  昭和10年生まれ 59歳)
 内子町大瀬地区は、最近全国的に名が知られるようになった。大瀬地区は小田川流域に位置し、カキ栽培の先覚地であり、旧大瀬村は内子町の主産地となっている。しかし現在に至るまでには、気象、風土ともにカキに適しているとはいえ、先覚者の様々な苦労の連続であったことがしのばれる。
 **さん、「大正の初期生まれで80歳に近いのですが、子供のころは本当に自然に恵まれていました。
 カキの実などは自然にできるものと思っていました。リンゴなんかは病人食だったのです。その代わり、ヤマナシ、ヤマブドウ、ノイチゴなど、いつごろにどこの山へ行けばあるかを知っていたので、それを遊びながら漁(あさ)って満足していたのです。山と谷に囲まれた村における人々のくらしも自給自足、稲作中心の生活でした。当時の人々のくらしに対する意欲は大変なものがあったのです。大川(小田川)が洪水のときなども、組中の人が川の中で手をつないで、田仕事に使う牛を対岸へ渡していたのを見かけたものです。
 小学生の時父が亡くなり、母一人子一人になったのですが、成人するにつれて、この山の中で母と子がどうしてくらしていくかを考えるようになったのです。青年学校の先生の意見を聞き、傾斜地のミカン栽培を見学して、自分なりに考え抜いた結果が、この広い山畑を生かし、昔から見かけるカキ(写真2-1-20参照)かクリを作ることを思い浮かべたのです。
 昭和10年(1935年)過ぎに、獣道(けものみち)しかない山畑に、カキの苗(はちや)800本を植え付けたのです。近所の人たちは、『無鉄砲にもほどがある!』と言って相手にしてくれなかったものです。昭和14年(1939年)応召、18年除隊になりましたが、その4年間、母と家内が柿園の手入れをしてくれていました。戦時中も山畑ということで伐採しないで残すことができたのです。戦後生活の安定とともにカキの需要も増え、30年代にはカキの全盛期を迎えたのです。栽培品種は長期にわたって収穫できる渋柿の愛宕に主体をおきました。(写真2-1-21参照)」
 内子町のカキの出荷と販売組織については、ここでは省略する。柿選果場については、昭和57年(1982年)、和田地区に、愛宕柿専用選果場が建設されたこと、栽培研究組織として、昭和23年(1948年)喜多郡果樹研究同志会の結成、33年(1958年)内子町果樹研究同志会運営協議会の創設、昭和41年(1966年)内子町果樹同志会に改組、多様化した果樹栽培に対応して各部会に分かれ成果をあげていることを付記しておく。
 「カキ作りのコツは、一にも二にも土づくりです。山と土を十分に見て開園したら、『柿8年…』以上に、根気強く土をつくってやることです。今の農業は目先の利益ばかりを追っていますが、最も大切な基の土づくりを忘れているようです。柿作りにおいても、整枝、せん定、消毒にのみ捕われず、土づくりを第一に心がけるべきです。
 『雨グリ・日ガキ』と良く言われますが、カキは、雨や霧で病気にかかりやすいのです。そのため、大川沿いより、霧の少ないこのような山地の方が適するのです。20年代に肱川沿いに、柿園を開いた人がいましたが、病害のため現在ほとんど廃園になり、山がかった畝筋(うねすじ)にしか柿園は見られません。人の場合には『適材適所』といいますが、果樹にとって一度定植したら、二度と動かすことのできない重い意味をもっています。」

 (エ)カキの品種改良

 **さんは、大瀬地区で果樹(主としてカキ、クリ)の苗木の育成販売業と柿園を経営している。内子のカキの品種及び品種改良について次のように口述されている。
 「現在内子の柿園で、成木になっているものは、ほとんど当農園が直接間接的にお世話したものです。カキの優良品種の創出は、大変むつかしいのです。全国の果樹試験場で研究試作中ですが、未だに発表されていません。これは試作から結果まで長年月を要すること、甘柿と、渋柿の別、早中晩生の系統的なもの、その他の立地条件に影響されるのです。結局、優良木を選出し、突然変異的に枝がわりしたものから、穂木を採り接木(つぎき)苗を育成して結実を待って優劣を識別していく方法が採られています。カキ作り40年の経験から言うと、昔から甘柿では「富有」、渋柿では「愛宕」に優るものは創出されていません。この地域ではこれが最適のようです。柿園の標高限界は約500mですが、300m以上では愛宕の着色が悪いため、『刀根早生(とねわせ)』への高接ぎ更新が進んでいます。現在市場で好評な新品種に『巣南(すなみ)』がありますが、これは富有の早生系のようです。
 『大・美・甘』-青果としてカキの備えるべき三大条件です。より大玉であること、より美しいこと、より甘味が多いことです。
 『カメムシとの戦い』-カキにとって最強の害虫はカメムシ(*4)です。色よく実のった収穫期をねらって周囲の森林(やま)から大挙襲来し、収穫直前のものを落果させるし、果汁を吸飲してこん跡を残します。このため市場では不良品となり、価格に響いてくるのです。収穫の直前なので、強力な殺虫剤も使用できません。その上越冬性なので、翌年もまた襲ってきます。農家の人々は、『3割減収』に匹敵すると言っています。効果的な対策がないようです。」

 (オ)カキの加工品作り

 「生鮮果実の力キの保存、加工法については古くから考えられてきました。しかし、伝統的な干し柿以外には加工保存法がありません。ただ脱渋法については各地で種々の方法が受け継がれ、現代風に工夫もされていますが、『保存用』として加工されない最大のネックは、カキは加熱や冷却によって全くカキ本来の味・うまみが、消えてしまうという点にあります。
 また、近年、内子町内の柿園は開拓造成され、面積的に増加しましたが、生産量には大きな変動がありません。これは、生産農家の高齢化の進行と、内子のカキとしての高級品の生産に主眼点をおいているためです。また、カキの観光農園作りは、柿園の立地的な面、適期の面、普遍性等の問題点があり、今後の検討課題です。」

 (カ)まちづくりと農業づくり

 交通ネットワークをみると、昭和47年(1972年)の国道56号の改良工事完了、昭和61年(1986年)、起工から20年を経て国鉄内山線の開通等によって、木ろうと白壁のまち〝うちこ〟も、変貌を余儀なくされてきた。また、国道、県道など各種の道路網の整備・改良、さらに近い将来町の中心部を通る、四国縦貫自動車道のいわゆる高速化時代を迎え、内子の町自体も、大きくその姿を変えようとしている。
 その内子のまちづくり、まちおこしの三大重点事業をあげると、「内子の未来を担う心豊かな人を生み出す」、「新しい農業、知的カントリーという農業づくり」、「くらしに息づく生きた町並み保存」である(㉓)。この新しい農業づくり……産業づくりの中に、次の農業の担い手の創造による、新作物の開拓、信用第一の会員制の銘柄産品の宅配販売事業等々が進行している。避けて通ることのできない、高齢化の進行、高速化の伸展を背景とした同町の農業のなかに、〝古きをたずね、新しきを知る〟郷土の発展を願い郷土を愛する心が受け継がれていることを感じるのである。


*4:陸生または半水生の昆虫。腹部に臭腺があり、特に陸生のものは悪臭を発する。食性は植物の汁液を吸うものが多く、栽
  培植物を枯らしたり、発育を遅らせたり、果汁を吸って品質を低下させたりして農園芸上の大害虫である。絶対的な対策は
  見当らない。

中山栗生産出荷の推移(抜粋)

中山栗生産出荷の推移(抜粋)


写真2-1-19 斜面の栗園

写真2-1-19 斜面の栗園

平成6年10月撮影

図表2-1-14 クリ取扱量及び単価の推移

図表2-1-14 クリ取扱量及び単価の推移

『伊予中山農業協同組合調査資料(㉒)』より作成。

写真2-1-20 大瀬を見下ろすカキの古木

写真2-1-20 大瀬を見下ろすカキの古木

平成6年10月撮影

写真2-1-21 現在のカキ栽培園

写真2-1-21 現在のカキ栽培園

内子町大瀬。平成6年10月撮影