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河川流域の生活文化(平成6年度)

(2)国安和紙作りの里

 周桑和紙作りの舞台である東予市国安と石田は、高縄山地と石鎚山脈の山麓から燧灘(ひうちなだ)に囲まれた肥よくな周桑平野の扇状地の扇端に位置している。この地方の手漉き和紙は、江戸時代の享保(きょうほう)年間 (1716年~35年)ころから、大明神川と中山川の豊かで良質な水の恵みのもとに発達してきた。周桑和紙は、まさしく四国山地と高縄山地の深い自然の中で育まれた清れつな水と、瀬戸内海の明るい太陽の恵みによる産物といえよう。

 ア 国安和紙の先覚者田中佐平(たなかさへい)の足跡

 東予市国安(旧松山藩領、旧桑村郡国安村)を訪れ、国安和紙の始まりを尋ねると、先覚者として必ずあげられる人物が田中佐平である。
 「伊佐紙見本帖(④)」によれば、田中佐平(享和(きょうわ)元年~明治19年〔1801年~1886年〕)は、国安村における農民の困窮を座視するに忍びず、私財を投じ、土佐におもむいて製紙技術を習得して帰村した。彼は天保(てんぽう)年間(1830年~43年)、村民に農家の副業として紙漉き業を熱心にすすめ、国安地方の手漉き和紙振興の礎を築いたので、村民から大いに敬慕されたという。
 没後の明治19年(1886年)には、農商務大臣西郷従道(さいごうつぐみち)から功労賞を授与されたが、現在その授与証は杉野和吉さん方の和紙資料室に掲げられている。授与証には、「天保年間居村耕地ノ乏シキヲ憂ヒ抄紙(しょうし)ノ業ヲ創(はじ)メ私財ヲ拠(なげう)チテ村人ヲ導キ遂二該業、今日ノ隆盛ヲ致ス、其功偉ナリ因(よっ)テ之ヲ賞ス」と、国安の農民のために紙漉きの技を広めた先覚者の功績をたたえている。
 さらに国安の人々は、田中佐平の追慕の念をこめて昭和27年(1952年)、国安小学校横の国安公民館前広場に頌徳碑(しょうとくひ)を建立した(写真2-2-1参照)。

 イ 国安の風土と和紙作りの特色

 **さん(東予市国安 昭和15年生まれ 54歳) 東予手すき和紙振興会長
 **さん(東予市国安 昭和15年生まれ 54歳)
 **さん(東予市国安 大正8年生まれ 75歳) えひめ伝統工芸士
 **さん(今治市石井町 昭和43年生まれ26歳)
 現在、東予市において営業中の手漉き和紙業者は、国安地区6名、石田地区5名の計11名である。国安と石田両地区の手漉き和紙業者は、昭和53年(1978年)から東予手すき和紙振興会を組織し、現在、**さんが振興会長を務めている。
 今年75歳を迎えた**さんは、東予手すき和紙振興会員の中でも最高齢の現役である。昭和7年(1932年)に国安尋常高等小学校を卒業後、今日まで62年間にわたり、国安の奉書作りを生甲斐(いきがい)として紙漉き一筋に生きてきた人である。**さんには後継者がいないため、平成4年、長い間続けてきた紙漉き業をやめて、現在は**さんの漉き場で奉書作りを手伝っている。
 **さんは、国安和紙の特色について、「国安の和紙は、天保2年(1831年)に田中佐平さんが始めたときから奉書が特産です。国安と石田では水質が違うので、それぞれに特色があり、国安はパルプ、石田はワラ(藁)を主原料としています。昭和32年(1957年)ころ、国安に越前(福井県)から檀紙(だんし)(クレープ状のしわのある厚手の紙)(いずれも用途は、公用文書・寺社用・慶弔用・各種免状・包装など多種多様)の製法技術を取り入れたので、現在、国安6軒の業者が全国の奉書と檀紙の90%を作るようになりました。国安ではパルプを主原料とするため価格が安く、紙の質も良くなってきたので広がったのですよ。」と語っている。
 最古参の**さんは、「わたしが高等小学校を卒業して紙漉きを始めた昭和初年ころ、国安には紙漉き業者が70軒くらいありましたかな。農業は副業程度で、みんな主に紙漉きを専業として一年中紙を漉いていました。終戦後まもなくでしたが、昭和25、6年(1950、51年)の朝鮮戦争ころは景気も良かったので、紙漉き屋も増えて70軒くらいあったでしょうかな。その後、昭和30年ころより和紙も機械漉きが増えるし、縫製工場やタオル工場が増えて人がそちらへ流れて、だんだん紙漉きも減ってきましたのよ。」と、戦前から戦後にかけての国安における手漉き和紙業の盛衰の様子を語っている。
 最近の和紙の景気について、「現在の経済不況下では、紙の景気も良くありません。特に奉書・檀紙で作る結納品セットなどがリースされるようになり、若い人の意識変化と生活様式の変化の影響が大きいです。また、神社・寺院のお札や納経帳などが機械製紙を使い、手漉き和紙を使わなくなったこともあります。かつて神社・寺院で使う用紙はすべて手漉き和紙でしたが、せめて四国八十八か所くらいは伝統的な手漉き和紙を用いてもらえたら。」と、**さんは残念がっている。

 ウ 美術書画用紙に生きる山本屋四代目

 (ア)和紙のふるさとにUターン

 **さんは、約120年続く手漉き和紙業「山本屋」の四代目で、独自の方法で美術書画用紙を漉いている。
 **さんは、昭和34年(1959年)、地元の丹原高校を卒業後、父のもとで家業の紙漉きを手伝っていたが、当時は紙の景気が良くなかったので、大阪のクレジット屋に就職した。10年あまり勤めたが、やはり手漉き和紙の魅力が忘れられず、昭和50年(1975年)、ふるさとの国安にUターンして再び家業を手伝うようになった。弟さん(50歳)も兄の**さんに続いて国安にUターンし、独立して奉書や檀紙づくりに励んでいる。舟屋(ふなや)(漉き場)は、**さん兄弟の共同漉き場(4槽)としている。

 (イ)三六判(さぶろくばん)の美術書画用紙に挑戦

 **さんは、従来の奉書作りをもとに画家・書家用の美術書画用紙を漉き始めた。国安では、一般的に原料はパルプを主としたが、**さんはコウゾ(楮)を美術用紙の主原料とし、用途によってはミツマタ(三椏)やマニラ麻も使っている。
 **さんが独自の美術書画用紙を思い付かれたのは、「昭和52、3年ころのことです。画家・書家に好まれる墨着きと色乗りの良い紙を作るため、漉素(すきそ)(原料)の配合に苦労し様々な試行錯誤を重ねました。画家・書家から大きいサイズの紙を要望されたので、簀桁(すたけ)はじめ漉き道具一切を一新しました。簀桁は思い切って三六判のサイズ(93.9cmx184.8cm)に改良し、漉舟(すきふね)(漉槽(すきそう))も大きく改造しました。国安の簀桁大工さんに製作を依頼しましたら、ほかに例がないので、『そんな大きいものを作って、どうするのか、そんなものやめとけよ』と言われよしたが、無理にお願いして作ってもらいました。このようにして襖(ふすま)一面と同じサイズの美術用紙が漉けるようになりましたのよ。」と、三六判改良の動機と苦労を語っている。
 さらに、「販路の開拓は、従来のように問屋を通さず、全国の画家や書家に直接紙の見本を何万通も送って注文を待つようにしました。だんだん注文が増えてきましたが、同時に紙の使い勝手や紙質について画家・書家の意見や助言をいただき、自分なりに工夫を凝らすように努めました。」
 **さんの妻**さんも、「見本を送って注文を待つ形をとりましたが、最初の注文があったときは大変うれしかったですよ。あのときの喜びは忘れられません。」と、当時の感激を振り返っている。
 このように苦労を重ねてきた**さんは、三六判の美術紙に加えて独自の円形和紙(直径60cm、40cm)や扇形和紙、また、二三判(63.6cmx93.9cm)、画仙紙(がせんし)判(69.7cmx136.4cm)も作っている。漸次全国各地の画家や書家から注文が増え、作れば売れる状況になり、また、最近のカルチャーセンターなどの俳画・水墨画・書道ブームによって注文が増えてきている(年間生産額、約1,000万円)。さらに、美術書画用紙の販売を通して得意先の画家や書家との私的な交流が深まり、精神的にも充実して、やり甲斐を実感している**さん夫婦である。
 **さんは、取引上の事務手伝いとともに封筒・便せん・のし袋・包紙など和紙製品の手作りに励んでいる。**さんは「主婦の知恵で生活に密着したもの、素朴な味で心のこもったものを作るように心掛けています。紙の二級品でも縁(ふち)を取って加工できますし、趣味と実益を兼ねてやっていますの。」と内助の営みを語っている。

 (ウ)美術作品展示室を造る

 **さんは、全国各地の画家・書家と取り引きをしているうちに多くの画家・書家の作品を頂くようになった。そこで、紙漉き場に接続して美術作品や和紙関係資料の展示館(二階建て)を計画し、自力で建築したのである。一階には国安和紙の関係資料、二階には主として美術作品を展示し、一般に公開しているので、多くの人たちが見学に訪れている。ここにも国安和紙の伝統を継承し、ユニークな美術和紙づくりの匠(たくみ)として、新たな創造に意欲を燃やす**さん夫婦の心意気が示されている(写真2-2-3参照)。

 (エ)若き紙漉き女性の修業~手漉き和紙に夢を託して

 手漉き和紙業者の悩みは、全国どこにおいても後継者の不足である。
 今、**さん方では、**さん(26歳)が紙漉き技術を修業中である。**さんは、大学卒業後、食品会社に勤めていた。元々和紙製品や民芸品に興味をもっていた**さんは、紙漉き技術を身に付けようと決心し、平成5年9月、会社をやめて**さんに弟子入りした。目下、様々な原料を使って和紙作りに挑戦している。**さんは「**さんのお陰で、やっと形だけ紙を漉けるようになりましたが、まだまだ未熟でこれからです。やはりノリ(ノリウツギから抽出したタズ)加減がむつかしいです。できたら紙漉き修業を続けて、将来は趣味と実益を兼ねて独立してやりたいです。」と、若者らしい夢と抱負を語っている。**さんのもとで、21世紀に向けて手漉き和紙の道に旅立つ若き**さんの姿である。

写真2-2-1 田中佐平翁頌徳碑

写真2-2-1 田中佐平翁頌徳碑

東予市国安公民館前広場。平成6年6月撮影

写真2-2-3 山本屋の美術作品展示室(2階)

写真2-2-3 山本屋の美術作品展示室(2階)

平成6年9月撮影