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河川流域の生活文化(平成6年度)

(5)野村町の泉貨紙作り~400年続く技

 ア 慕われる泉貨居士(せんかこじ)~泉貨紙の由来

 野村町竹之内の雲林山安楽寺(あんらくじ)には、泉貨紙の創始者である兵頭太郎右衛門(ひょうどうたろうえもん)(泉貨居士(*2))の墓地と「泉貨居士頌功碑」がある。愛媛県指定史跡になっている墓碑には、「慶長二年丁酉(ひのととり)二月廿八日」と刻まれ、慶長2年(1597年)に没したことがわかる。また、墓地の入口には、「泉貨方(せんかかた)」(紙専売の取締り役所)と刻まれた石灯篭(とうろう)があり、宇和島藩の保護を示している。今日においても墓前に香華の絶えることはなく、「泉貨さま」と泉貨居士を慕う野村の人々の心がうかがわれる(写真2-2-19参照)。
 また、安楽寺の山門横にある「泉貨居士頌功碑」は、昭和8年(1933年)、野村地方の和紙業者が中心となって、泉貨居士の功績をたたえ、後世に伝えるために建立したものである。ここにも泉貨紙の元祖に対する郷土の人々の敬慕の念がこめられている(写真2-2-20参照)。
 泉貨居士は、宇和の西園寺公広(さいおんじきんひろ)の家臣、土居清兵衛の次男として生まれた。初めは野村の安楽寺で僧の修業に励んだが、18歳のとき還俗(げんぞく)(僧籍を離れて俗人にかえること)して西園寺公広に仕えた。彼は、太郎右衛門と称し、武勲を立てたので、公広より兵頭の姓を授けられた。天正(てんしょう)13年(1585年)、西園寺氏が滅亡し、戸田勝隆(かつたか)の支配となったが、太郎右衛門は戸田に仕えず、安楽寺に「泉貨庵」という草庵を結び、「泉貨居士」と号して隠せいした。彼は、苦心の末、コウゾ皮にトロロアオイとホゼ(マンジュシャゲ)の根汁を混ぜ、2枚の重ね漉きによる厚くて強靭な和紙を考案した。さらに、この製法を農民たちに習熟させ、野村をはじめ南予地方の農民の副業として普及する礎を築いたのである。

 イ 泉貨紙の歩み

 宇和島藩では、コウゾの栽培、泉貨紙など和紙の生産、販売について、天和(てんな)元年(1681年)以降、元禄元年(1688年)、宝永(ほうえい)2年(1705年)、正徳(しょうとく)2年(1712年)、享保4年(1719年)、宝暦(ほうれき)9年(1759年)、文化12年(1815年)と段階的に保護統制を加え、専売制度を強化した。文化6年(1809年)には、泉貨方役所を宇和島と野村、半紙方役所の支局を魚成(うおなし)村に設置し、生産販売の取り締まりにあたった。このようにしてコウゾ栽培と紙漉きは、南予地方山間部における農家の家内副業として発展した。寛政5年(1793年)、吉田藩に起こった「武左衛門(ぶざえもん)一揆(*3)」(「吉田藩紙騒動」)は、藩の紙専売制の強化と特権商人に対する広範な農民の抵抗事件として、史上名高いものである。
 明治時代における和紙の生産状況は、『伊豫紙見本帖(④)』によると、明治27年(1894年)の東宇和郡の和紙製造戸数、445戸、生産額89,054円(うち泉貨紙73,179円)であった。明治42年(1909年)には、宇和産紙同業組合を組織し、紙質の向上、販路の拡張に努めたので、明治43年には和紙製造戸数は、1,303戸、生産額262,500円(内泉貨紙250,000円、25,000丸(まる)〔1丸は5束、1束500枚〕)に達するまでになった。

 ウ 泉貨紙唯一の継承~高瀬川のほとりで

 **さん(東宇和郡野村町高瀬 大正15年生まれ 68歳)国指定無形文化財技術保持者、えひめ伝統工芸士
 **さん(東宇和郡野村町高瀬 昭和24年生まれ 45歳)
 **さんは、野村町中筋(なかすじ)地区富野川(とみのかわ)に生まれ、中筋尋常高等小学校を卒業後、農家の手伝いに2年間ほど従った。その後、宇和島の国鉄機関区に就職し、昭和19年(1944年)、19歳のとき母の叔母方にあたり、農業と紙漉きを営む家に養子として迎えられた。昭和20年6月、高知の新設部隊に入隊したが、2か月後には終戦となり、復員してふるさとへ帰った。復員後は、養父母とともに家業の農業(田畑7a)と副業の紙漉きに精を出し、昭和21年、結婚した。
 **さんは、「この地方は、昔から農業の合間(冬場と夏場の農閑期に)副業的に紙漉きをやっていました。私の子供のころも、夜おそくまでトントンタンタン、トントンタンタンとカジ(コウゾ)を打つ音でにぎやかなものでしたよ。このあたりから奥は、あまり人家がないので、高瀬川の純度が割合良いですらい。やはり、紙漉きは水が第一です。」と、昭和初期の紙漉きの様子や水質の良い高瀬川の恵みを強調している。
 **さん夫婦が紙漉きを専業としたのは、「長男が生まれた昭和24年(1949年)ころの野村には、紙漉き業者が十数軒、高瀬にも5、6軒ありましたが、昭和40年代には段々と転廃業していきました。わたしの場合は、転廃業する資金もないので、そのまま紙漉きに執着して続けたのですよ。そんなこともあって、昭和45年(1970年)ころ思い切って紙漉きを専業としたのです。」と、当時のいきさつを語っている。

 (ア)漉き方の改良~6枚漉きに

 泉貨紙の特色は、コウゾを原料とした厚く強靭な紙であり、重ね漉きによる独特の漉き方にある。**さんによると、泉貨紙の伝統的な漉き方は、次のとおりである。
 「昔は、泉貨紙と同じ大きさの竹ヒゴのスダレ(簀)、縦1尺2分(31cm)×横1尺4寸(42cm)で1枚ずつ漉いていました。まず、編み目の細い竹スダレ(簀)で漉き、この1枚をケタからはずして『簀もたせ』という置き台に立てかけて置きます。次に、茅(かや)の芯で編んだ粗目(あらめ)の笹桁で漉いた1枚の上に、『簀もたせ』に立てて置いた先の1枚をすばやく合わせるのです。この方法は、泉貨紙だけで他にありませんのよ。」
 このようにして出来た強靭な泉貨紙は、昔から油紙、帳簿の表紙、質屋・呉服屋のエブ札、反物(たんもの)の畳紙(たとうし)(包み紙)、紙の着物の紙子(かみこ)(紙衣)、神仏の経典、選挙用紙、サンドペーパー用紙、人造皮革など多種多様な用途があり、生活の各分野で重宝がられてきたのである。
 **さんは、昭和40年(1965年)ころ、1枚ずつ漉く昔からの非能率的な漉き方について改良を思い立った。
 「値段の安い泉貨紙を、一枚一枚漉いていたのでは引き合わない。なんとか数を増やせないかと考え、はじめは4枚漉きを試みました。しかし、『これではいかん、もっと増やせにやあならん』と、一度に6枚漉けるように工夫したのです。そしてスダレ(簀)を二つに折りたたんで重ねますから、6枚の泉貨紙ができるようになりました。それで簀桁は、できるやらできんやらわからんけれど、高知市の道具作りの大工さんに頼んで作ってもらいました。そんなことで6枚漉きができる縦4尺(1.2m)、横6尺(1.8m)の桁が作れたのですよ。
 6枚漉きの結果、それまで一日12時間働いて500枚しか漉けなかったのが、一日8時間働いて1,500枚漉けるようになりました。また、泉貨紙のでき具合もムラがなく品質が良くなりました。これでどうにか食えるようになったのですよ。」と、思い切った漉き方の改良による大きな成果を語っている。

 (イ)販路開拓の苦労

 **さんは、紙漉きの能率向上にともない、農家の女性を5、6人雇って生産を増やし、昭和40~50年代には、泉貨紙を含め年間6、7,000 kgくらいの和紙が作れるようになった。
 「生産量は従来の3倍くらい増えましたが、しかし、問題は、販路でした。本当に販路の開拓には大変難儀しました。『当たって砕けろ』と直接、大阪や京都の老舗の問屋を訪ね売り込みをはかりました。苦労に苦労を重ねたお陰で、だんだん信用ができ、横浜、東京方面とも取り引きができるようになり、昭和45、6年ころにはピークに達しました。やはり、何事も信用第一です。」と、販路開拓の苦労を振り返っている。
 現在、菊地製紙所が生産している和紙は、泉貨紙が4割、他の和紙(文庫紙、畳紙、問屋銘柄の巳之吉(みのきち)、雲井(くもい))が6割であり、月生産額は約100万円である。主な取引先は、次のとおりである。
   清水治商店、丸十商店(大阪)、森田和紙(京都)、森木商店(横浜)、
   妣田(ひた)圭子さん(東京、ちぎり絵の美術工芸家)、民芸「藍」(松山)
 東大寺二月堂の名高い「お水取り」(*4)の行事に着用される紙子は、**さんから大阪の清水治商店へ納入した泉貨紙を材料としている。

 (ウ)親子一体で泉貨紙を守る~国指定無形文化財の技

 昭和47年(1972年)1月、愛媛新聞社から、野村町でただ一人、ひたむきに泉貨紙の伝統技術を守り継ぐ**さんに対し、愛媛新聞社賞が贈られた。野村町でも同年12月、**さんの泉貨紙技術を町の無形文化財に指定した。
 **さんの長男**さんは、昭和43年3月、地元の野村高校を卒業後大阪へ就職した。その後、父の愛媛新聞社賞受賞を聞いた**さんは、「父の後を継ごう。泉貨紙の後継者になろう。」と決心し、昭和50年(1975年)、野村に帰郷した。**さんは、「家で小さいときから手漉きを手伝っていたから、Uターンには抵抗なく手伝う気になれた。時期的にも手漉き和紙の調子が良いころであり、手漉きを身に付けるのにやり甲斐がありました。」と、帰郷当時を振り返っている。
 **さんの泉貨紙は、昭和52年、五十崎町の大洲和紙とともに、通産省の伝統的工芸品に認定された。さらに、昭和55年には、文化庁から国の無形文化財(国・記録作成等の措置を講ずべき無形の文化財)に選択され、全国的にも脚光を浴びることとなったのである。

 (エ)原料改良の苦労~輸入コウゾの問題

 **さん親子による泉貨紙継承は、愛媛新聞社賞受賞により一段と熱が入ったが、原料の輸入コウゾの処理と漉き方については大変苦労した。泉貨紙はコウゾ(カジ)を基本原料とするが、漸次国内産のコウゾが不足してきた。**さんは、「かつては、この地方で自生しているコウゾを買い集め蒸していました。わたしもトラックに乗ってコウゾを集めたものです。昭和44、5年ころまでコウゾを蒸(カジ蒸)していましたよ。しかし、コウゾを蒸すところからやっていたのでは、採算が取れないので紙漉き専門になったのです。ところが、この地方でも酪農が広まり、コウゾをエサにしたため、コウゾが減ってしまいました。」
 「全国的にコウゾが不足し、国内産のコウゾ価格が上昇したため、昭和50年代には原料輸入が始まり、最初は韓国から輸入していました。しかし、韓国の輸出規制により10年くらい前からタイ国産のコウゾが輸入されるようになったのです(高知県産のコウゾ価格は輸入物の3倍もする。)。暑い土地で育ったコウゾは樹脂が多く、脂の塊のため漉いた紙に穴があいたりして、技術的に大変弱りましたよ。製紙試験場とも相談し、指導助言を受けました。最近は樹脂分もかなり減ってきましたが。」と、輸入物の原料処理の苦労を語っている(現在、菊地製紙所のコウゾの年間使用量は約10tである。)。
 このように昭和50年代には、親子が協力して原料製造工程(原料の煮熟、漂白)と紙漉きの技術改良について様々な努力を重ねた結果、紙質が向上し、生産量も上がってきたのである。

 (オ)今後の課題

 **さんは、今後の問題点について、「まず、販路の問題が一番です。問屋卸で納入単価を低く抑えられ苦労します。薄利多売にならざるをえないので楽ではありません。今まで、調子の良い時は、1か月、150万円ほどの水揚げがありましたが、今は不況の影響で注文が減り、月100万円を切るようになって、こたえていますよ。
 次の問題点は人手不足です。最近まで紙の乾燥をやってもらっていた女性が辞めました。かつて多い時には、5、6人の農家の女性に手伝ってもらっていたのですが、この仕事は水仕事だし、縫製の方が仕事がきれいだから紙漉きの手伝いに来んようになりました。」と、経営上の悩みを語っている。
 さらに、今、直面している問題は、菊地製紙所横の県道44号(大洲・野村線)の拡張に伴い、紙漉き場、原料処理場と住宅を全面的に移転しなければならないことである。平成7年中に予定されている移転工事の間、紙漉きを中止せざるをえないので、**さんは、その間における紙生産の遅れと、問屋取り引きのブランクを心配している。
 しかし、**さんは、「わたしより、もう息子の方が技術的に、はるかに上ですよ。」と**さんに大きな期待をかけている。**さんも「ふるさとに帰って後継ぎとなった以上、見通しは決して明るくないけれど、わたしのできる限り頑張りたい。」と、泉貨紙継承の思いを語る。400年間続いてきた泉貨紙の伝統の技を担う**さん親子に、ますますの期待が寄せられている。


*2:兵頭太郎右衛門を太郎左衛門とする文献もあるが、村上節太郎氏の研究により右衛門とする(⑨)。
*3:吉田藩の紙専売制の強化と暴利を収める特権商人(法華津(ほけづ)屋)に対し、藩領83か村中、80か村の9,600人に及
  ぶ農民が集団で宇和島藩へ訴え出た。吉田藩は、宇和島藩の仲介で、紙方役所の廃止とコウゾ・紙に関する専売制廃止など
  の農民の要求を受け入れたが、首謀者(伝承上)の武左衛門は斬罪となった。
*4:奈良時代(天平勝宝(てんぴょうしょうほう)4年〔752年〕)から毎年3月(旧暦2月)に行われる修二会(しゅにえ)
  (国家の隆昌を祈る法会(ほうえ))の行事で、修行憎が紙子を着用し、和紙で作った白椿の花を仏前に供える。

写真2-2-19 泉貨居土の墓(愛媛県指定史跡)(左側)、右側は息子の墓

写真2-2-19 泉貨居土の墓(愛媛県指定史跡)(左側)、右側は息子の墓

野村町安楽寺。平成6年11月撮影

写真2-2-20 泉貨居土頌功碑(昭和8年建立)

写真2-2-20 泉貨居土頌功碑(昭和8年建立)

野村町安楽寺。平成6年11月撮影