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河川流域の生活文化(平成6年度)

(1)伊予生糸の歩み

 ア 伊予生糸作りの始まりと歩み

 平安時代の『続日本紀(しょくにほんぎ)』(『日本書紀』に続く勅撰(ちょくせん)歴史書、延暦(えんりゃく)16年〔797年〕成立(⑩))によれば、和銅(わどう)4年(711年)6月、元明(げんめい)天皇は「挑取師(あやとりのし)」(錦綾(にしきあや)を織ることをつかさどった職)を諸国に派遣して初めて錦綾の織法を教習させた。さらに、翌年7月には、伊予国など21力国に命じて初めて錦綾を織らせたことが記されている。また、『延喜式』(927年(①))にも、伊予国から朝廷に貢納した調の品目に「綾・帛・絹」などが記されており、千数百年前ころから伊予国で養蚕・製糸・絹織りが行われていたことがわかる。
 蚕糸業は、明治維新以降、日本の近代化を支える基幹産業として、国内のみならず世界を舞台に発展してきた。肱川流域を中心とする「伊予生糸」は、優れた品質によって昭和初期から皇室御用をはじめ伊勢神宮式年遷宮御用の拝命など、全国的に名声を博してきた。
 『えひめの蚕糸』(昭和46年〔1971年〕、愛媛県発行(⑪))によると、愛媛県の明治35年(1902年)の養蚕農家戸数は、15,846戸、桑園面積2,371ha、繭生産量575tであったが、昭和5年(1930年)には、養蚕農家戸数55,846戸、桑園面積14,729ha、繭生産量11,534tにのぼり、質量ともに西日本の雄となった。
 しかし、日中戦争から太平洋戦争中は、戦時体制と海外市場の空白、食料不足の影響によって養蚕、製糸業の減退をもたらした。
 第二次世界大戦後の昭和30年代になると、養蚕、製糸業は経済成長に伴って回復に転じ、養蚕技術の改善、合理化により昭和45年には、養蚕戸数6,232戸、桑園面積2,044ha、繭生産量1,246tにまで増加した。しかし、人造繊維の進出と衣服生活の変化、経済不況や貿易の自由化による経済構造の変化などにより、蚕糸業は衰退の一途をたどってきた(図表2-2-11参照)。
 平成6年3月から5月にかけて、愛媛県蚕糸農協連の3製糸工場(大洲・野村・広見工場)は、ついに閉鎖のやむなきにいたった。
 しかし、明治・大正から昭和・平成の今日にかけて、養蚕・製糸業が地域の経済発展や生活文化の営みに果たしてきた役割は、まことに大きいものがある。

 イ 大洲地方の先人たちの歩み

 明治維新後、士族授産と殖産興業政策のもと、蚕糸業を振興した大洲地方の先覚者の主な事績をあげると、次のとおりである(⑬⑭⑮より作成)。この年表からも明治時代における先人の苦労と努力の跡がうかがわれる。

  〇明治5年(1872年) 
    旧大洲藩では、近江国(滋賀県)から桑苗数万本を購入し、大洲城周辺の士族の邸や路傍に植えさせ、民間有志に無償
   配布して奨励する。

  〇明治6年(1873年)
    旧大洲藩士福井茂平は、二人の子女とともに京都府綾部(あやべ)において養蚕製糸を習い、帰郷後蚕を養い座繰製糸の
   業をおこす。

  〇明治7年(1874年)
    旧新谷(にいや)藩士松村正直、開盛社(蚕業団体)を興し養蚕・座繰製糸の業を起こす。

  〇明治10年(1877年)
    大洲地方の子女7名を募り、岡山県笠岡に派遣して器械製糸の技を修めさせる。

  〇明治12年(1879年)
    新谷町松田角太郎、15人繰りの器械を設置し、松陽館と名付ける。

  〇明治15年(1882年)
    郡長下井小太郎、養蚕伝習所を設置し、山梨県より坂本菊吉を招き育蚕法を伝習する。

  〇明治16年(1883年)
    大洲村若宮に模範桑園を設け、一般に観覧させる。喜多郡で耕地に桑を植栽した最初。

  〇明治17年(1884年)
    桑園16町9反(16.9ha)、収繭額146石(5,475kg)となる。

  〇明治21年(1888年)
    大洲町の河野忠太郎蚕業視察(福島・群馬・山梨・長野)、帰郷後、蚕糸業の発達に努める。
    喜多郡蚕業協会を組織、私立養蚕伝習所を開く。

  〇明治23年(1890年)
    大洲町河野喜太郎、程野(ほどの)茂三郎共同して大洲製糸場を設立する。

  〇明治25年(1892年)
    喜多郡内に蚕業講習会を開設する。

  〇明治29年(1896年)
    大洲町公会堂において県蚕糸業大会が開催され、蚕糸業組合の件が建議される。
    大洲町河野製糸工場の製品を初めてアメリカに輸出する。

  〇明治32年(1899年)
    大洲町河野真太郎外数名の発起により大洲繭売買所を開設する。

  〇明治44年(1911年)
    大洲町河野駒治郎ら有志発起で、株式会社大洲共同揚返場(あげかえしば)を設立する。

  〇明治45年(1912年)
    大洲繭売買所を改組し、株式会社大洲繭生糸屑物売買取引所として拡充する。原蚕種製造所を大洲村に設置する。

図表2-2-11 戦後養蚕業の推移

図表2-2-11 戦後養蚕業の推移

『えひめの蚕糸(⑪)』・『愛媛県蚕糸業統計書(⑫)』及び愛媛県農林水産部生産流通課資料より作成。