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河川流域の生活文化(平成6年度)

(2)お蚕さんと共に~愛育の心に徹して

 ア お蚕さん一筋の養蚕農家

 **さん(大洲市菅田町大竹 明治45年生まれ 82歳)
 **さんは、昭和21年(1946年)から平成5年(1993年)までの48年間にわたり、地域の人々とともに養蚕一筋に生きてきた人である。**さんは、明治45年(1912年)、喜多郡菅田村大字大竹(上本郷)の養蚕農家に生まれた。菅田尋常高等小学校から旧制大洲中学校(現大洲高等学校)に進学し、昭和2年(1927年)、大洲中学校を卒業後、新居浜の人絹工場に就職した。昭和9年(1934年)には、徴兵検査で松山22連隊に入隊したが、除隊後は大阪府の警察官となった。昭和14年(1939年)、再度の召集を受け、北満州(中国東北地方)や内地で軍隊生活を送った後、終戦により昭和21年(1946年)、無事故郷の菅田に復員した。しかし、復員して間もなく、お父さんが63歳で死去されたので、**さんが後を継ぎ養蚕業を営むようになった(図表2-2-13参照)。

 (ア)戦前の養蚕生活~父の代の思い出

  a 肱川の氾濫(はんらん)とタル土の恵み

 大洲地方に養蚕が発達したことについて、**さんは、「やはり、大洲地方の先覚者の苦労と肱川のお陰です。肱川の岸は、度々の氾濫の繰り返しで大変良く肥えとります。良く肥えている『タル土』は、桑畑に最適です。しかし再々の肱川の水害には、みんな大弱りでした。昭和20年(1945年)の水害では、わたしとこの母屋の鴨居(かもい)まで水につかり、今でもその時の跡が残っとります。でも、鹿野川ダムができてからは、肱川の堤防を越すような大水はなくなりましたが。」と、肱川の氾濫による水害とタル土の恵みについて語っている(写真2-2-24参照)。

  b 父の代の「お蚕さん」

 **さんの父親は、田畑1.5haを経営する自作農家であった。**さんは、父親の代における養蚕生活について、「わたしらの子供のころは、何事も『お蚕さん』第一でした。8畳の座敷には、12段の棚の蚕座にサンパク(蚕箔(さんぱく)、竹・木・ワラで作った飼育の容器)を置いて飼っていましたから、わたしら子供は、ノミの多い奥の部屋の隅に押し込められて寝ました。
 父のころの養蚕は、種屋(川之石の愛媛蚕種)から蚕の種を買い、掃(は)き立(たて)て(孵(ふ)化した3ミリほどの毛蚕(けご)を、鳥の羽根で産卵紙からサンザ〔蚕座(さんざ)〕紙に移して育てること)から始めていましたから大変でした。わたしらも苦労をしましたが、父の代は、わたしらより、はるかに苦労したと思います。人手もいるので、毎年、蚕の忙しい時期には、伊方村(西宇和郡)から2、3人の農家の人が泊まり込みで手伝いにきていました。まだ、ミカンが普及していない戦前から戦時中のことでしたが。
 繭の出荷は、繭を繭袋に詰め大かごに入れ、川舟に積んで大洲まで運んでいました。昔は大洲の繭売買所で仲買人がセリにかけ、繭の取り引きをしていましたので繭の価格が不安定であったようです。しかしわたしが大洲中学校に進学できたのも(当時、旧制中学校に進学できたものは、村に2、3人という)父が飼ってくれた『お蚕さん』のお陰です。当時の授業料は、4円50銭(当時の米1石が約3円余)という大金でしたから。」と、少年時代の思い出と養蚕業の意義を語っている。

 (イ)「お蚕さん」の愛育~わが子のように

 **さんは、終戦後、養蚕を受け継いでからの48年間を振り返り、飼育方法の改良による養蚕農家の生活の変化について、次のように語ってくれた。

  a 稚蚕飼育の共同作業

 「父の代は、蚕の種を買い、蚕の種掃(たねは)きからやっていましたが、戦後始めたわたしらのころは、菅田の稚蚕(ちさん)共同飼育所で2齢(掃き立てから約1週間ほど育った蚕)まで育てた稚蚕を配ってもらい(配蚕(はいさん))、わが家の蚕室で飼育しました。蚕は2齢までの飼育が大切です。共同飼育所には、各農家から割り当てられた者が出て、蚕業指導員の指導のもと、1週間くらい泊まり込みで蚕の世話をしたものです(現在は、養蚕農協の稚蚕飼育所から各地区の組合に配蚕されている。)。
 また、共同飼育のための共同桑園で桑を作りましたのよ。ここ本郷地区にも2反(20a)の共同桑園がありましたが、今は人工飼料になりましたので、最近、処分して地区組合員に分配しました(今岡製糸と出荷納入を契約した代償として桑園代を今岡製糸が負担した。)。」

  b 蚕室の改良~蚕棚から平飼(ひらがい)へ

 「蚕は父の代から母屋の座敷で飼っていましたが、わたしら小さいときから見よう見まねで、桑摘みから何もかも手伝っていましたので、戦後、養蚕の後継ぎをすることに、何の抵抗もなかったですよ。母屋の蚕室は座敷は8畳で、12段の棚を8列に並べ踏み台で作業をしました。この家は、昭和29年(1954年)に母屋と別に建てたものですが、2階の8畳2室が蚕室で、地下室は貯桑場にしていました。
 その後、上簇(じょうぞく)(蚕が十分発育した時、繭を造らせるため簇(まぶし)とも呼ばれる用具にいれること)の方法が変わってきて広い部屋が必要となりましたので、昭和40年(1965年)に鉄骨平屋(約99m²)を建て、一段の平飼(ひらがい)(平らな架台で蚕を飼うこと)となり飼いやすくなりました。わたしとこは、年間700kgくらいの生産量で、シーズン中は、10人前後の人を雇っていました。」

  c 製糸工場と一心同体

 「養蚕業と製糸業は一心同体ですから連携が大切です。初めは桝田製糸に繭を出荷していましたが、後には今岡製糸と特約して納入するようになりました。まだトラックのないころで、リヤカーで運んだものですが、出荷すると当時貴重な焼酎(しょうちゅう)をサービスしてくれ、組合員は大喜びでごちそうになりました。また、当時珍しいテレビを社長室で見せてもらったりしました。」

  d 蚕は生きもの~愛育の心が大切

 「蚕は小動物ですから飼うのに大変気を使います。父のころは、蚕が病気になり、稚蚕をよく腐らせていましたよ(病気で腐った蚕をビショという)。昔は川に流してもよかったから、ビショを涙流して捨てたものです。だから蚕のカビ病などの病気の予防対策が大事になります。かつては、ホルマリンを噴霧器でやっていましたが、粉末(カビノラン)になって消毒しやすくなりましたし、薬品も良くなり助かりました。」
 「蚕の飼育は、わたしら年3回(春蚕(はるさん)、初秋蚕(しょしゅうさん)、晩秋蚕(ばんしゅうさん))の飼育を基本としてきましたが、病気の予防とともに、飼育の温度と乾燥に大変気を使いました。かつては木炭の暖炉を使ったものですが、やはり一定の温度に保つ管理が大切です(飼育温度は24.5℃が適温で、人間にとっても好適と思う環境条件が一番良いとされる。)。」
 「養蚕の仕事は、現金収入にはなりましたがこのような生きもの相手に気を遣うし、労働時間が長いので苦労の連続でした。大抵朝5時には起き、露のあるうちに桑を取って、桑がしなびないうちに家に持って帰り蚕にやる(1日3回桑を与える。)、という具合に大変でした。今は条桑育(じょうそういく)(桑を枝のままで蚕にあたえて飼育、昭和34、5年〔1959、60年〕ころより)となり、楽になってきましたが、昔は桑の葉を一枚一枚摘み、細かく刻んだ桑を竹龍(かご)の蚕に満遍にムラなく与えました。
 養蚕農家では、やはり嫁の役割が大事です。特に、温度の管理とか桑やりなど女の細かい手先と気配りがモノをいいます。嫁が元気で『しゃん』としていることが大切です。なんといっても、『お蚕さん』を飼う上で大切なことは、愛情を持ってわが子を育てるように丁寧に育てることです。愛情を持って育てれば蚕はすぐにこたえてくれます。まこと『愛育』の精神に尽きましょう。」
 肱川のほとりにおいて、戦後、48年間一貫して「お蚕さん」の「愛育」に徹してきた**さんの言葉は、まことに力強く、温かい愛情にあふれていた。
 また、養蚕農家の将来については、「今年は生糸相場が7千円台に暴落してしまって、状況が大変悪いですな。繭価も下がって養蚕農家は立つ瀬がないですよ。昭和50年代は良かったのですが。このままでは養蚕農家は大変です。」と、養蚕業の将来に心を痛めている**さんである(図表2-2-15参照)。

 イ お蚕さん大好きの熱中農家

 (ア)酪農から養蚕農家へ

 **さん(大洲市菅田町大竹 昭和17年生まれ 52歳)
 **さん(大洲市菅田町大竹 昭和23年生まれ 46歳)
 **さんの紹介で、年8回育に取り組んでいる養蚕農家を訪れ、その熱中ぶりをうかがった。
 **さん方は、**さんの近所で、両親(健在)の時代から養蚕を営んできた農家である。
 長男である**さんは、昭和36年(1961年)、大洲農業高等学校を卒業後、農業後継者としての道を選んだ。当時は、大洲農業高等学校卒業者の7割が農業後継者となった時代であった。
 初めは、乳牛5、6頭を飼育していたが、思わしくないので、養蚕に切り替えた。昭和43年(1968年)、**さんと結婚し、お蚕さん飼育の二人三脚が始まったのである。
 高校卒業当時は、桑畑1ha、田80aであったが、漸次、畑を購入して現在は、桑畑5ha、田50aである。桑畑5haのうち3haは、国営パイロットのマクビリ団地を借地している。マクビリ団地では、大洲市の方と共同で9haを借地している。
 **さんは、マクビリ団地の経営について、「12年前に借地料10aあたり2万円、10年契約で借りましたが、今回、借地料1万7千円(繭価が下がったので)、5年契約で再契約しました。今年は団地の桑園も干ばつのため桑の葉が成育せず、秋口には葉のシンまで落ちてしまって秋蚕以降は大変弱りましたよ。
 昨年も長雨で桑の成長が悪かったのですが、今年(平成6年〔1994年〕)は昨年以上に悪かったですよ。そのため急きょ近所の遊休桑園から買取りました。」と、今年のきびしい干ばつの影響についても語っている。

 (イ)養蚕8回育の取組み

 **さんが父親とともに養蚕を始めたころは、3回育で、産繭量500~600kgくらいであったが、4回育、5回育と漸次、飼育回数を増やし、収量も2t、3tと増やしてきた。昭和47、8年(1972、73年)ころから8回育に取り組み、飼育と経営の合理化によって収量約5tに達する愛媛県下有数の養蚕農家になったのである。したがって、**さんの8回育は20年のキャリアに支えられている。
 平成6年度における**さんの8回育の経営状況と日課(夏季のスケジュール)は、図表2-2-16のとおりである(口絵、写真2-2-27・28 参照)。
 最初の掃き立てから2齢までは、稚蚕共同飼育所で飼育(人工飼料で9日間、条桑育で7日間)し、各農家に配蚕される。その後、**さんが3、4齢(7、8日ほど)までの飼育を担当(カスのけ、フンのけ、消毒は**さんが担当)し、5齢(夏で7日、春秋で8、9日ほど)からは二人で作業する。
 10月になると温度が下がってくるので一日3回の給桑となり、夕方の帰宅も17時半くらいになる。夕方の桑やりは、**さんの二人の娘さん(会社勤務後)が手伝うなど、一家を挙げて取り組んでいる。
 **さんは、「養蚕農家は、日課のスケジュールが大切です。蚕を飼う段取りがしっかりしないとうまくいけませんのよ。」と、計画的な飼育を強調している。**さんの日課は、まさしく「超人的」であるが、奥さんと二人三脚、家族一体となって歩んでいる。

 (ウ)施設の改善、合理化

 **さんの父親の代は、**さんと同様、座敷で12段の棚飼という飼育方法であったが、**さんが始めたころはテントやハウスにおける二段育となっており、やがて、一段育の平飼になり、飼育が能率化、多量化した。**さんは、さらに稚蚕室(3、4齢の蚕を飼育、約231m²)、壮蚕室(5齢の蚕を飼育、約330m²)、上簇室(蚕を回転マブシに入れて繭を作る、2階建延約165m²)と養蚕施設を別個に建設して8回育経営の舞台とした(写真2-2-27・28参照)。**さんは、養蚕施設の改善について、「施設を改善したいのですが、土地が狭いので、もうこれが限界です。もっと広い土地で、施設を集中し、わたしらが通勤しながら蚕を飼うのが理想ですが。」と、現状の施設の限界を語っている。

 (エ)養蚕の現状と課題

 養蚕農家にとって一番の問題は、繭の価格の状況である。
 **さんは、「春の繭価は1,750円くらい、あとは1,600円くらいでしたが、繭価の低迷は痛いことです。わたしらとこで昭和50年代後半には、粗収入が1,400万円くらいありましたが、今は1,000万円を切っておりますのよ。良い時には、1反(10a)ずつくらい田を購入できたのですが。もう1,000万円を切りますとやっていけません。わたしも、冬場の農閑期には2力月ほど土木工事の日雇仕事をやっていますのよ。このままでは、養蚕農家の後継者がでなくなりますよ。」と、養蚕農家の将来を案じている(図表2-2-15参照)。
 しかし、「わたしらは、蚕が好きで好きでたまりません。やはり、好きな蚕とともに頑張れるかぎり頑張りたい。」と、繭生産量5t、年間8回育に徹する、ひたむきな**さんの言葉が返ってきた。

図表2-2-13 大洲市の養蚕業の変遷

図表2-2-13 大洲市の養蚕業の変遷

『愛媛県蚕糸業統計書(⑫)』及び愛媛県農林水産部生産流通課より作成。

写真2-2-24 肱川沿いのタル土に栽培された桑畑(大洲市菅田町大竹・上本郷)

写真2-2-24 肱川沿いのタル土に栽培された桑畑(大洲市菅田町大竹・上本郷)

後方が肱川。平成6年9月撮影

図表2-2-15 最近の生糸相場、繭価格の推移

図表2-2-15 最近の生糸相場、繭価格の推移

愛媛県農林水産部生産流通課資料より作成。

写真2-2-27 5歳に成育し上簇前の晩々秋蚕

写真2-2-27 5歳に成育し上簇前の晩々秋蚕

**さんの壮蚕室(桑葉を枝つきのまま与える条桑育)。平成6年10月撮影

図表2-2-16 平成6年度の8回育の実施状況

図表2-2-16 平成6年度の8回育の実施状況

**さんの聞き取りにより作成。

養蚕の日課~夏季の一日スケジュール例

養蚕の日課~夏季の一日スケジュール例


写真2-2-28 回転マブシで繭を作るお蚕さん

写真2-2-28 回転マブシで繭を作るお蚕さん

蚕が上に登る習性を利用した回転マブシ。**さんの上蔟室内。平成6年9月