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河川流域の生活文化(平成6年度)

(2)再現した川下り

 ア 小田川を守る大瀬(おおせ)川登の川祭り

 **さん(喜多郡内子町大瀬 昭和2年生まれ 67歳)
 大瀬は内子町の東部にあり、北は中山町・広田村、東は小田町、南は五十崎町・河辺村に接する。大瀬は50km²に近い広大な面積で、町全体の面積の5分の2に達する。域内は全域山地で平坦地が少なく、林業が盛んである。域内のほぼ中央を肱川支流小田川が流れそれに並走して国道379号が東西に横断している。広大な地域は三つの地域より成っている。国道沿いの街村が発達する地域と、小田川以北の山間地程内(ほどうち)地域と、南部の山間地江子(ごうじ)、村前(むらさき)・池田地域である。国道沿いには東端の上浮穴郡境より梅津(うめづ)・路木(ろぎ)・川登・乙成(おつなる)などの小集落が続き西寄りの成屋(なるや)に至る。
 「地域づくりの一環として考えられたことは、『環境からの村づくり』を基本にした小田川の環境整備と学習会の取り組みです。川ツツジが咲き誇る川を子供たちに残しておこう。そのためには地域のみんなで地域の川(小田川)を考えよう。川祭りはこのような素朴な思いから始まったのです。
 川の清掃(子供たちも参加)、ツツジの手入れ、記念講演、護岸の活用を続ける中で、川へのゴミ捨てがなくなり、住民一人一人の意識の高揚につながり、お陰で年々小田川も大変きれいになってきました。
 しかし、平成6年春全日空から、国際線の宣伝パンフレットに掲載する写真を撮影するために、外国人カメラマンが内子に来られました。小田川を案内してくれということで、わたしも一緒に参加しました。小田川を指定して来られたことを大変うれしく思っていましたが、しかし、現地にいっても一向にシャッターを切られないので、何か不満なのか心配でしたので、通訳の人に尋ねていただきました。答えはゴミがあるからダメと一発でした。わたしたち小田川を将来きれいな川にして残そうじゃないかと地域のみんなで頑張ってき、他の川よりはきれいな川になっているとある程度自信を持っていましたが、結果はまだまだで小田川はPR紙に載せる資格がないのかと大変残念でした。しかし、これにくじけずだれからもきれいな川として認められるよう頑張らなくてはいけないと思った。」と語る。

 イ 小田川と共に生きる

 **さん(喜多郡内子町大瀬 大正15年生まれ 68歳)
 小田町と広田村に源を発する小田川。谷あいの村々を一筋の帯のように曲がりくねって肱川の本流と出会い、長浜の開閉橋をくぐり瀬戸内海へ流れ出る。
 「小田川は、先祖の時代から人々のくらしを支えてくれています。明治からは筏が流れるようになり、小田深山の官木や民間のスギ、ヒノキ、マツを筏に組み、小田町突合を出港して長浜へ筏を流したのです。
 わたしも昭和16年(1941年)に15歳で筏流しの道に入りました。わたし以外の人は皆おじさんばかりでした。その中で小田川と共に仕事をしてきました。苦労もありました。でも負けたら自分が駄目だ。小田川に笑われると、歯をくいしばって習いました。時々乗せてもらうようになり、筏の流れ道と、ミザワの使い方やミザワを突くつぼを教わりながら流して行きました。内子へ出るまでは、急流があり、急カーブありでわたしは命懸けのことも度々ありました。でも乗せてもらうようになったことは、涙が流れるほどうれしかった。
 小田川と肱川は、木材運送の重要な役割を果たし、わたしたちの生計を支えてくれたのです。それも、昭和23年(1948年)中山川出合の下手に内子遠山製材所があって、そこへ乗り着けたのを最後に、明治から大正、昭和と長い筏の歴史は終わりました。今も水元と突合には筏専用の水溜堰の跡が残っており当時を思い出します。
 わたしたちの川登は、手すき和紙の里でもあります。川にはいつも紙素(かみそ)がつけてありました。玉石で土俵にしてその中にさらしてあり、皮をはいで白素(しらそ)にする人、紙を作る人、日中は広くて長い板に紙を張り付けて干している家は何軒もあった。また、へんろ道でもあったので、白い姿のおへんろさんが、ここは筏や紙の里じゃのうと言って鈴を鳴らして通っていた。今でも山に行けばミツマタが残っていて、春には黄色い花を咲かせで当時をしのぶことができる。小田川は子供たちの水泳の場所でもあり、高い岩から飛び込んだもので現在も楽しく泳いでおります。
 今わたしたち地区住民は、公民館が主体となって全員で小田川の清掃と群生する川ツツジを保護しています。川をきれいに、水をきれいに、昔のように手ですくって飲めるようにしたいものです。
 国道379号改良も自然に配慮した工事が進んでいます。ゴミの投げ捨てや生活排水にも気をつけて、自然と小田川の水を守り、立派なきれいな川を次の世代へ残してやりたいものです。」と語る。

 ウ 筏流し川登で実現

 **さん(喜多郡内子町大瀬 昭和24年生まれ 45歳)
 平成5年4月18日「筏師の里」といわれた喜多郡内子町大瀬川登地区を流れる小田川で45年ぶりに勇壮な筏流しが復活した。
 「この筏流しは、筏流しの復活がねらいではなく、小田川を守ろうとする地域の活動の中から再燃したのです。」と語る。
 「平成4年秋、筏師の経験者らが小田川を守るためにも復活をと地区の人たちに呼び掛けて、『筏流し実行委員会』を発足し、平成5年春一連の筏(12棚、長さ約40m)を作り、蓑(みの)に菅笠(すげがさ)姿の筏師らが往年の光景を再現し見物客を楽しませた。
 平成6年も4月24日に、3~4mのスギやヒノキの間伐材を16本前後組み合わせ、12棚と16棚(約60m)の筏を用意し、地元の約400人が参加して川を掃除した後『小田川流し唄(うた)』に合わせて婦人会員が踊りを披露する中、一連に約20名が乗り込み、会長らの見事なサオさばきで優雅な川下りが始まった。コースは路木地区の河原から、1km下流の柳瀬橋までの新緑に映えるコースで約20分足らずで無事下りきった。
 先を競って飛び乗ったのは子供たちでおぼつかない足元に大騒ぎ。そして筏師、筏を組んだ人たち、木出しで皮はぎを担った人たち、公民館の人たちみんな大仕事をやり上げた後の満足な顔、顔、顔でした。
 しかし、〝言うは易し、行うは難し〟とは良くいったもので、実現することの大変さを教えられました。材木の提供者に始まり、運搬、乾燥のための皮はぎ、筏組み、川の掃除、そして川祭行事を取り仕切る役員さん、裏方で柳瀬うどんを作るお母さんたち、後片付けした人たちなど。みなさんそれぞれ仕事を持っていますので、馬鹿にならなければできないと言って、やってもらいました。」と語る。
  「小田川流し唄」
    冬はナー              春はナー
      凍る筏に身を乗せながら       岸辺に咲いた川つつじ
         わらじ姿の筏乗り          写す筏の水鏡
    夏はナー              秋はナー
      河鹿(かじか)唄えばホタルが踊る   柿が色づきや稲穂がなびく
         走る筏に鮎(あゆ)が舞う       祭太鼓が 筏に響く

筏流しに合った悠長な節回しと、筏乗りの経験なくしては分からない筏と筏乗り、川の風情が描写された詩で、この日のために作られたオリジナルである。
 作詞、節付けと唄、尺八、みなさんも筏流しの復活に駆けつけたボランティアである。
 『広報うちこ(⑥)』のなかで実行委員会の副会長であり、筏師でもあった**さんは筏流しの再現について「この筏流しは、過疎化した地域活性化への起爆剤。単に郷愁をそそるイベントではなく、筏流しを通じて小田川流域全体の環境と自然を考える運動に発展させたい。そして、川登から発信して近隣の町村と連携を保つためにも、シンポジウムを開催し、学習を積んでいきたい。」さらに「地域の活性化が、これまでモノと金で考えられてきたが、これからは森や川など自然環境が豊かに整備されている地域が重要であり、このような環境の中にあってこそ、新しい川登の未来があると思う。」と語っている。
 「内子町では平成5年から『エコロジータウンうちこ』として自然と人が共生する町づくりを進めており、この川登地区でもぜひ、小田川をいつまでもきれいにしようという地元の人たちの願いを大切にして、地元の人たちが主役になって長く続く活動としていかなければならない。」と**さんは熱っぽく語る。