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河川流域の生活文化(平成6年度)

(2)県境の橋を越えて通学する

 南宇和郡一本松(いっぽんまつ)町正木(まさき)は、町の東端にあり、高知県(宿毛(すくも)市)と県境を接している。正木にある篠山(ささやま)小中学校は、正式校名を「高知県宿毛市、愛媛県南宇和郡一本松町篠山小中学校組合立、篠山小学校・篠山中学校」と言い、日本一長い校名の学校として知られている(口絵参照)。これは、宿毛市山北(やまきた)地区と正木地区が、県境の篠川(ささがわ)をはさみながらも一体となった集落を形成し、宿毛市・一本松町の中心部から離れた位置にあることによる。篠山に発する篠川は、水量豊かで、戦前まで筏流しが行われた。
 この地区にある、標高1,065mの篠山は霊山として山岳信仰が盛んであり、山頂に篠山神社が祀られ、本県南予・高知一円で崇敬されてきた。修験の場として山伏の活動が活発で、仏教との習合が早くから進み、篠山権現(ごんげん)と言われた。神仏分離令で明治2年(1869年)に廃寺となるまで、神社下に観世音寺(かんぜおんじ)があり、御荘(みしょう)町にある四十番札所の観自在寺(かんじざいじ)の奥之院(おくのいん)として、遍路の参拝が非常に多かった。また、一本松町の正木や増田の「花取り踊り」は、南予・高知各地の他の花取り踊り・花踊りと比較すると、真剣の使用や歌詞の内容など、修験者(山伏)による行事の性格が強い(⑩⑪⑫⑬)。
 この項では、篠川の橋を県境を越えて通学する小中学生に象徴される、篠川・篠山とくらしとのかかわり、及び川をはさんだ正木・山北地区のむすびつきをまとめてみた。

 ア 篠山小中学校設立の背景

 **さん(南宇和郡一本松町正木 大正2年生まれ 81歳)
 **さん(南宇和郡一本松町正木 大正11年生まれ 72歳)
 **さん(南宇和郡一本松町正木 大正12年生まれ 71歳)
 「わたしらが子供のころは、正木と山北、それぞれに学校がありましたが、小学校2年の時(昭和7年〔1932年〕)に、篠山の尋常小学校ができました。当時は、このちょっと下流の小川(こがわ)と草木藪(くさぎやぶ)(現在の宿毛市)も校区に入っておりました。わたしらは小さかったんで、経緯はようわかりませんが、両方とも小さい集落ですんで、学校を維持する負担を少しでも軽うしようということじゃなかったかと思います。高等科には、楠山(くすやま)(松田川上流)からも、百日坂(ひゃくにちざか)を越えて通ってきておりました。最初こそ緊張しましたが、山北の人らと対抗意識を燃やしてけんかするようなこともなかったです。何と言っても、篠川沿いに、現在は橋が7つも架かって、昔から結婚も行たり来たりで、兄弟みたいなもんですけんなし。学校ができた当時は、飛び石を渡る石橋がほとんどでしたが、学校の横には、吊橋が架かっておりました。
 それよりは、青年団の競技大会でも、この正木、山北、小川、草本藪が団を作って、宿毛の大会にはわたしらも加勢するし、一本松の大会では山北から選手も出てもらうということで、この4地区がまとまっておりました。昭和17年(1942年)についた電気も、その後、テレビ塔を建てるのも、山北の人と一緒に、高知県議会や宿毛市に陳情に行きました。また、昭和10年ころやったですか、山北の八坂(やさか)神社の石鳥居が、満倉(みちくら)(一本松町唯一の港)から増田まで来たが、増田から茶堂までの坂を、山北の者だけではよう越さんので、正木でも小学校3年以上のものは全員引っ張りに行ったことを覚えとります。
 昭和22年に、新制の中学校ができた時には、校舎や施設は町や県から出してもらいましたが、土地は正木・山北の者が出し合って買いました。学校の井戸掘も整地も、両地区のみんなが出てやったように思います。生活がとにかく学校中心に回っておりまして、教育以外のことでも両地区で何ぞ話し合う必要があれば、学校に集まることも多いですな。子供の数が少のうなって、運動会などは、子供のもんじゃなくて、保護者の運動会みたいになっておりますが。」
 **さん(南宇和郡御荘町平城 昭和13年生まれ 56歳)篠山中学校校長
 「学校の生徒数は、昭和24年(1949年)で118名在学で、卒業生33名の内、山北地区出身が15名です。昭和30年代は、生徒数は130名前後で、山北から来る生徒は3分の1を越える程度の時期が長かったようです。現在(平成6年度)は、生徒数19名で、山北からは2名通学しております。宿毛市と一本松町の組合立で、町の教育委員会に事務局があり、予算も分担しておりますが、人事権や教育方針等の決定権は愛媛県が持っております。昨年度の卒業生は、南宇和高校に5名、宿毛の高校に3名進学しました。
 生活圏としては、宿毛の方とのつながりが強いようです。言葉遣いも土佐の影響が強く、気質も前任校(北宇和郡)と比べ、同じ山間地でありながらも大きく違い、鬼北の細かさに対し、おおらかで、ややおおざっぱな所があるように思います。篠山があることから、緑の少年団の活動を熱心に進めております。しかしながら、生徒数が非常に少ないことから、日常の清掃活動もそうですが、活動の制約も多く、機械力や保護者の支援を受けて、何とかやっております。
 私は、御荘の出身ですが、以前は篠山に来るとなると、ズックか登山靴で登山用の身支度をし、自然が原始のまま残っているような神秘性を感じておりました。今も自然はよく残されておりますが、山頂近くまで道路が開通し、交通も便利になって、その点では、大きく様変わりしてきたのではないかと思います。」

 イ 篠山と篠川

 **さん(南宇和郡一本松町正木 大正2年生まれ 81歳)
 **さん(南宇和郡一本松町正木 大正11年生まれ 72歳)
 **さん(南宇和郡一本松町正木 大正12年生まれ 71歳)
 「宣伝が少のうて知られてはおりませんが、篠川は、四万十川以上にきれいな川じゃと思っております。夏になると、あちこちからこの川に泳ぎに来ております。昭和に入るまでは、竹がええ値で売れよったので、いかだに組んで、宿毛に出しよりました。朝出て昼過ぎに宿毛につき、日暮れに赤松坂(あかまつざか)を越して戻りよりました。縦向きに瀬につけてしもうたら、動かすのが骨折りなので、慣れた人と一緒に、2~3人で組んで流しておりました。木材はバラ流しで、こちらは戦前までやっておりました。材木が井堰(いせき)をつきあげて壊さないように通すのがめんどうで、警察に井堰の頭に立たれて、何べんかきつくしかられました。井堰のところには、木を組んでロープを張ってアバと言う材木の流れる道を作り、ミヨ(堰の中央の水の流れるところ)に流しておりました。おおむね、宿毛の木材業者が山を買って木を切り出し、わたしらは日雇いで、流す日に井堰の両側に二人ついて、その仕事をしておりました。
 今の国道56号になる道ができたんは、昭和6、7年ころじゃなかったかと思いますが、昭和2年(1927年)ころまでは、県界(けんかい)(篠川橋)のところから、川舟が宿毛まで出ておりました。倉庫が、今の橋のたもとにあったのを覚えております。ここらあたりは、炭焼きが主な仕事の一つでしたが、わたしらより一世代前の人は、炭は満倉に運んでおったようですが、炭については、わたしらは、ほとんど宿毛まで馬で持って出よりました。8貫俵を6俵積んで宿毛まで持っていくと、ええ日役(ひやく)(日当)になりよりました。昭和に入ると今の道よりやや狭い道ができまして、リヤカーや馬車を使うことも多かったですなし。県界を渡す川舟もあったんですが、わたしらが高等科2年の時(昭和10年〔1935年〕)に、現在の橋が架かりまして、見物に行ったのを覚えております。その時に (橋の基礎を掘る時)、潜水服を初めて見ました。」
 「以前は、旧暦3月18日と10月18日のお篠(ささ)祭りには、山頂近くの観世音寺の跡の宿泊所には、100人近く泊まりよりました。魚や斗樽をなんちょうか担(にの)うては上げよったのを覚えております。篠山道(ささやまどう)(麓の御在所(ございしょ)から神社までの6kmほどの参道、写真3-2-9参照。)の出発点の権現町には、宿毛から商売人がいっぱい出店を出して、よその人ばかりで人が通れんくらい、混雑しておりました。今は、お祭りよりも、春のアケボノツツジの花見や、樹氷を見に来られる人が多うて、年間ずっと観光客がありますな。昔と違うて道がようなりましたけん、ハイヒールでも神社の近くまで行けますけんな。
 御在所から篠山道へは、篠川を渡るんですが、ここの橋は毎年2~3回は流れるので、その度に、正木の者で橋を架け直しておりました。水がように引いてしまわず水量があるうちに、太い松をちょっと上から流して、ちょうど都合良くまん中にある大岩に、向こうとこっちで引っ掛けて、橋にしておりました。また、篠山道は、春秋に正木の者が15人ほど出て、崩れたところを直したり、倒木を除けたり、溝よけ(雨水の水路)も切ったりして、現在も道の手入れをしております。神社の石段や玉垣も、昔のこの地区の者がやったんでしょうが、人の背だけでようあんなところまで運び上げたもんじゃと思います。
 花取り踊りは、旧暦10月18日の祭りの日に、権現堂、歓喜光寺境内、旧庄屋蕨岡(わらびおか)家の庭と3か所でやります。昔は、9月18日に、篠山神社に参拝してから、5か所でやっておりました。真剣を使って、狭いところで12人が踊るんですけん、けがをしたということは何度かあり、神前のこともあって、踊りの前は1週間魚を絶って、当日の朝に篠川で水ゴリして清めてから、やっておりました。踊るのは成人で、太鼓たたきを小中学生がやっております。4~5年前に模造刀をそろえ、今でも塩を持って清めには行っておるようですが、水ゴリはやってないようです。蕨岡家が没落して文書が残ってないんで、指定にはなっておりませんが、県無形文化財に指定されておる増田の花取り踊り(一本松町)と同じくらい古いと思います。踊りについては、地区全体で費用を出し、後継者も育っておりますので、なくなることはないと安心しとります。」

 ウ 県境を越えた健在なむすびつき

 一本松町正木地区と宿毛市山北地区をあわせて、篠南(ささな)地区と言うが、この篠南の青壮年で、昭和50年に地域おこしを目的として、篠山クラブが結成された。クラブでは、伝統行事・スポーツ等の様々な活動の中心になるとともに、地域を活性化するイベントを目指し、試行錯誤の末、平成3年より始めた「県境篠山騒動どろんこサッカー大会」は大成功をおさめた。現在では2,000人近い参加者を誇り、全国放送のテレビ取材を受けるようになった。篠山クラブを中心とした篠南地区の人々の団結とパワーは、現在もまた将来にわたって健在と言えよう。

写真3-2-9 現在の篠山道

写真3-2-9 現在の篠山道

平成6年8月撮影