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河川流域の生活文化(平成6年度)

(3)谷筋の村並保存(喜多郡内子町旧満穂村)

 ア 旧満穂村の概要

 喜多郡内子町は、内子町・五城(ごじょう)村・大瀬(おおせ)村・立川(たちかわ)村・満穂村が、昭和30年に合併して成立した。旧満穂村は、麓川の流域沿いに形成された、論田(ろんでん)・河内(かわのうち)・袋口(ふくろ)・石畳(いしだたみ)の四つの集落より形成される、東西約4.5km、南北約10km、面積約22km²の村であった。現在は、内子町の西北部分を占め、北を双海(ふたみ)町、西を大洲市(旧柳沢村)、東を中山町及び旧立川村(内子町)に接する。麓川は、河川延長約13kmで中山川に合流し、現在は川沿いに、国道56号・内子町中心部に通ずる県道内子・双海線が整備されたが、内子中学校統合後、最上流の石畳地区の生徒は、冬期の積雪等のため季節寄宿舎を利用している。このような距離的関係から、鳥越(とりごえ)峠等の尾根を越えた双海町等との行き来は現在も多い(図表3-2-14参照)。南部の河内等については前述したので、ここでは石畳地区に焦点をしぼって、交通・交流・くらしぶりの変遷をまとめてみた。

 イ 石畳の昔のくらし

 **さん(喜多郡内子町石畳 大正5年生まれ 78歳)
 「この石畳は、昔は下灘(しもなだ)村(伊予郡)に属しておった(明治41年〔1908年〕満穂村に編入)関係で、下灘・上灘との関係が深いんです。わたしの家の隣にある弓削(ゆげ)神社は、現在も祭りの際には、石畳全部の神社の大氏神である、上灘の高岸(たかぎし)(現双海町)の三島神社からみこしを借りて、太夫(たゆう)さん(神主)も来てもろうて、やっております。石畳は、岡(おか)の成(なる)・竹(たけ)乃成(なる)・麓(ふもと)・東(ひがし)・中(なか)・古橋(ふるはし)・小狭(こはぎ)の6組ありますが、弓削神社の氏子は、この東組の者20戸(昔は30戸ほど)です。神社に渡る屋根付きの橋も、この氏子で20年ごとくらいに、屋根の杉皮のふき替えをやっております(写真3-2-14参照)。橋がいつごろからあったかは、はっきりしませんが、大師堂の記録から見ると、江戸時代からあったことは確かですな。30年ほど前に、橋脚をやりかえましたが、それまでの材木も相当古いものでした。戦時中は、旗を組内で順繰りに回して、旗を持つ者で毎日お参りをしておりましたが、そのおかげか、この東組の各戸で軍に召集されましたが、戦死者は無く、戦病死一人だけでした。
 この橋の前にある大師堂は、最近建て替えたものではありますが、江戸時代からの組の記録が残っております。ここは、中山に出る街道筋でもありますんで、以前はお接待もしておりましたが、今も行事として残っておるのは、8月24日に組の者が全員集まって、百八ある大数珠(だいじゅず)を繰って念仏を唱える行事だけですな。昔は、3月24日にもやっておりました。牛(うし)の峰地蔵(みねじぞう)堂は、山頂からの峰続きにありますが、以前は4月と8月の24日の縁日は、大変にぎわって、出店が一杯出ておりました。この石畳の岡の成の明光寺(みょうこうじ)から、御本尊の地蔵尊をかついで上がり、御開帳するわけですが、中山や下灘・上灘は言うにおよばず、対岸の山口県からも参拝者がありました。虫送りは、夕方に竹を割って束ねたものをタイマツとして、隣の岡の成組と同じ日にやりまして、両方の小川の出合(合流地点)のところで、タイマツを流しておりました。
 この東組は村境にあって、わたしらも何か買物といやあ中山へ出ておりました。中山までは2里半(約10km)です。麓組は、下灘の豊田(とよた)に行っておったようです。戦前の現金収入といえば木炭で、大正ころから盛んになったらしいですな。わたしも若いころは、仏堂(ぶつどう)峠を担うて越え、上灘まで持っていっておりました。材木は、牛馬で道まで出してから、木挽(こび)きで板にして、馬の背に乗る限りのものを、やはり上灘まで持っていきます。クリも作っておりましたが、これは中山が本場で値も高いことから、担(にな)いか専門の馬引きさんに頼んで、猪(い)の峠を越えて運んでおりました。戦前までは、内子の町には、お祭り以外はそれほど行きませなんだ。結婚も隣の立川村や中山の永木(ながき)との関係が多く、麓組は柳沢村(現大洲市)との関係が深かったようです。内子まで出るには、そこここで飛び石の石橋を渡らんといけませんでした。双海町への行き来が少なくなって、内子の町中や国道まで出るようになったのは、戦後、昭和30年代になって道路が良くなってからですな。
 この東組は、ごらんのように山の上にあるので、水利は溜池中心ですが、麓川沿いには、たくさん堰があります。また、戦前までは、水車小屋が小川沿いにあって、河内までで十ばかりありましたか。わたしらも精麦は水車でやっておりました。米は売るもので、麦やトウモロコシが主食でしたなあ。米を毎日食べるようになったのは、昭和も30年代に入ってからです。その水車を復活させて、若い人らが村おこしをしようとしておりますが、わたしらも何かできることがあれば協力していってやりたいですな。」

 ウ 水車小屋の復活と村並保存

 **さん(喜多郡内子町石畳 昭和22年生まれ 47歳)
 「わたしどもの『石畳を思う会』は、昭和63年に結成しましたが、設立当初は12名で、30~40歳前後の者が主でした。当時は、石畳のような辺ぴな所は、やがて尻すぼみで人がおらんなって、無くなってしまうんじゃという考え方が、年配者に多かったんですが、これじゃいかん、何かをしなければということで、会を結成したわけです。とは言っても、暗中模索の状態でしたが、全国の村おこし活動を見ていった中で、新しいイベントや建物ばかりじゃなくて、古い道具やくらしの農村文化を復元し大事に残していくのも、村おこしの核になるんじゃと気づかされまして、行政や寄付等に頼るのでなく、まず自分たちの労力とお金でやれるものをというので始めたのが、水車小屋作りでした。
 昔は、水車が石畳で30基近くあったらしく、また地元の大工さんで水車を作ったことのある人がおられて、作ってやるということで、材料と整地は会員が担当して、平成元年に第1号基が完成しました。作った当初は、石畳の中でも『古くさい、使用しなくなったものを復活して何になる』という意見が強く、あまり評価はされなかったんですが、マスコミで取り上げられて見学者が増えるにつれて、石畳外の人が来てくれて、活性化の糸口になるのならと、会員以外でも協力していただける方がだんだん増えました。町の理解と援助もあって、『清流園』の名称でまとまった公園を整備しようということになり、平成5年に3号基ができて、毎年11月3日に水車祭りをやっております(写真3-2-15参照)。現在も、水車は会員の手作りで、活動資金も会員が内の子市で直売所を出すなどして、できるだけ自弁でやっております。
 この石畳地区は、ごらんのような山村で、圃場(ほじょう)(農地)整備も道路建設も進んでいなかったため、逆に棚田(たなだ)などの昔ながらの農村景観と、麓川の美しい水が残されております。便利さや快適さを売り物にしても勝ち目はないぞよということで、農村景観の魅力を残した『村並保存』を進め、都会の人に昔ながらの田舎の生活を体験してもらう交流の場、憩いの場になればと考えております。町の施策としても、この『村並保存』の考えに立って、昔の草葺(くさぶ)き民家を復元した『旧農家生活伝習施設』を作っていただき、また今年度(平成6年度)、宿泊施設として『石畳の宿』ができまして、かなりお客さんも来ていただいております(写真3-2-16参照)。わたしらの例会も、以前は公民館でやっておったのですが、今はこの復元民家で月一度やっております。やはりここで囲炉裏(いろり)を囲んでやった方が、話がはずむんですなあ。囲炉裏は、以前は全戸にあったんですが、今は全くなくなっております。もっとも、この囲炉裏のたきものさえ、わたしらが使う分を自分で山から集めてくるのに苦労するくらいですから、当然ではあるんですが。
 しかし、山際の不便な棚田から休耕田も広がってきており、道路開発も避けては通れないことから、この景観の保全と地域開発のバランスをどうとっていくかが、これからの課題です。また、後継者に残ってもらうために、生活基盤をどのように安定させるかも、なかなか難しい問題ではあります。しかし、よそでは農村の嫁飢饉(ききん)と言われながら、石畳では後継者も案外残り、若い人の結婚も多く、守る会の会員にも20歳代の人が何人かおります。昔ながらの生活の良さを受け継ぎながら、これからも会として様々なことに取り組んでいきたいと思います。」

 エ 石積みの堰の景観

 現在、内子町では「村並保存」という考え方に立って、開発が遅れたために昔ながらの美しい農村景観と自然環境が残されている、麓川流域の景観保全・環境保全を進めている。この優れた景観・環境を地域資源ととらえ、地域の誇りとして住民主導の活動の核としてもらい、また都市住民との交流・憩いの場にしていこうという考え方である。河内・論田地区を中心とした「麓川を美しくする会」は、麓川の清掃や広葉樹の植樹、鯉の放流などの活動を行い、前述の「石畳を思う会」とともに、地域住民が中心となった新しい地域おこしを目指している。
 また、麓川流域に明治以前からと思われる石積みの堰堤(えんてい)が現在も多く残っていることから、内子町では、これらの堰堤を歴史的価値を持ち、地域の文化景観・親水景観を支えるものとしてとらえ、その保存整備を町として進めようとしている。その一環として『麓川堰堤周辺整備計画策定委託業務報告書(⑲)』が、平成4年2月に町企画調整課によりまとめられている。図表3-2-15は、堰堤に関してのデータを報告書から抜粋したものである。
 このような石積みの堰は、かつての谷筋の村々のほとんどに見られたものであろう。しかし、現在においては、この調査に見るような文化遺産的価値を既に持つようになっている。山間の厳しい自然条件を克服し、堰の石をひとつひとつ積んでいった名もなき先人の労苦と生活文化を記録し、また、その成果を今後の地域の発展につなげる、すばらしい地域おこしになっているように思われる。

 「2 谷筋にかかる橋」「3 谷筋がむすぶくらし」、及び平成5年度報告書における城川町の調査により、川筋・谷筋の旧村の生活文化について、いくつか共通点が浮かび上がってきた。一つは、リレー式に川沿いの各集落に伝えていく実盛送り・虫送りや、堰・井出の水の管理に象徴される、川筋・谷筋のむすびつきの強さである。しかし一方では、山間地として各集落の独自性も強かったようで、学校統合や共有地統一等による対立を、多かれ少なかれ経験している(あるいは戦後の町制施行、合併の際の旧村開の対立もあった。)。各集落の生活文化の独自性は、旧渓筋村の長谷(長谷川)や旧愛治村の畔屋(畔屋川)等の、各川筋のさらに支流である地域に、特に顕著であるように思われる。二つめに、尾根・峠を越えた行き来の活発さと、文化交流の深さ(愛治村の茶堂等)も大変特徴的であった。三つめに、各谷筋、または各集落ごとに独自の生活文化を育む一方で、流域全体における広範囲の視野で見ると、離れた地域に共通した生活文化が存在することである(中筋村の茶堂の行事や花取り踊りの風俗が、隣接する渓筋村にはあまりないこと。河辺村では、北平地区に集中的に屋根付き橋が分布し、一方で距離の離れた満穂村に屋根付き橋が存在することなどが、具体例としてあげられる。)。堰等の水利や民俗行事等については、今回は、十分踏み込んだ内容ではないが、肱川・四万十川の各支流域の山間地の生活文化について、今後の調査研究の参考になれば幸いである。

図表3-2-14 旧満穂村の現在

図表3-2-14 旧満穂村の現在


写真3-2-14 弓削神社(石畳東組)の屋根付き橋

写真3-2-14 弓削神社(石畳東組)の屋根付き橋

平成6年10月撮影

写真3-2-15 「石畳を思う会」が建てた水車小屋

写真3-2-15 「石畳を思う会」が建てた水車小屋

平成6年11月撮影

写真3-2-16 「石畳の宿」(手前)と「旧農家生活伝習施設」(奥)

写真3-2-16 「石畳の宿」(手前)と「旧農家生活伝習施設」(奥)

平成6年11月撮影

図表3-2-15 麓川の堰一覧(堰の番号は図表3-2-14に対応)

図表3-2-15 麓川の堰一覧(堰の番号は図表3-2-14に対応)

『麓川堰堤周辺整備計画策定委託業務報告書(⑲)』より作成。