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河川流域の生活文化(平成6年度)

(1)盆飯

 ア 南予の盆習俗

 盆行事の一つに盆飯というのがある。ボンマンマ、カワメシ、ハマメシ、オナツメシなどとも言う。盆の14日から16日の間に、子供たちが河原や浜辺などに集まり、かまどを築き、煮炊きをして楽しむ行事である。地域によっては、小屋を作り、寝泊まりまでしたという。この行事は、祖先の精霊(しょうりょう)並びに無縁仏(むえんぼとけ)の供養にほかならない。ところで盆飯の行事が屋外の、しかも子供たちだけの行事であるというのはなぜだろうか。柳田国男は『こども風土記』の中で「濱名湖周囲の村々ではショウロメシ、瀬戸内海のある島では餓鬼(がき)飯とさへいふ通り、盆には目に見えぬ外精霊や無縁ぼとけが、数限りもなくうろつく時である故に、これに供養して悦(よろこ)ばせて返す必要があったと共に、家々の常の火常の竃(かま)を用ゐて、その食物をこしらへたくなかった。それが門・辻・川原等に、別に臨時の臺所(だいどころ)を特設した理由であり、子供は又觸穢(しょくえ)の忌に對して成人程に敏感でないと考へられて、特に接待掛りの任に當ったものと思はれる。(⑦)」と述べている。
 本県の盆飯は南予地域一帯に見られる盆習俗であるが、「愛媛県史民俗下(⑧)』によれば上浮穴郡小田町、伊予郡中山町や広田村などにも行われており、これが本県における盆飯習俗の限界であるという。このことは、南予民俗文化圏が上浮穴郡や伊予郡をも含んでいることの証左の一つになるであろう。また、興味深いことは、川之江市や伊予三島市にも盆飯の風習があったということである(燧灘(ひうちなだ)の魚島のテンコメシも盆飯の習俗と考えられる。)。この東予の盆飯の習俗について、『愛媛県史民俗上(⑨)』では、香川、徳島との関係、小豆島から塩飽(しわく)諸島を経て燧灘の魚島さらに芸予諸島をつなぐ「民俗の東西文化ルート」との関連を指摘している。いずれにしても東予民俗文化圏の中ではめずらしい民俗である。
 香川県の小豆島に盆飯の行事が行われていたことは、壷井栄の作品『餓鬼の飯』によって分かる。「お盆が来て餓鬼の飯を炊くことは、咲子たちの年、-10歳から14、5歳位までの少女にとって、年中行事のうちでもお正月や秋祭にもまして大きな楽しみでした。めいめいが持ち寄った材料で、此の日だけは大人から一切指図を受けないで煮たきをして食べる、さういふ風習が、ここ四国の小豆島には大昔からありました。(⑩)」という書き出しで始まる。

 イ お盆まんま

 大洲地方の河原の主な盆行事には、新仏の燈籠(とうろう)送り(とぼし上げ(*1)の8月30日)と盆飯とがあった。燈籠送りについて**さんの話を要約して紹介しておく。「昔は麦わらの舟で川に流していた。しかし、下流で漂着して人々が気味悪がる。夜、漁をする人も不愉快だと言う。洪水の後は畑に残がいが残る。行政の指導もあり、河原で焼くようになった。しかし、亡き人の霊を川から海へ、そして西方浄土へという気持ちには変わりない。」現在でもあちこちの河原でしめやかに行われている。
 盆飯のことを大洲地方では「お盆まんま」と言う。今ではほとんど行われていないようだが、**さんは盆飯の教育的意義について次のように語っている。「盆には悪霊もいて子供を川へ引き込む。河原で盆飯を炊くことによって、悪霊から守ってもらおう。そしてそのことを通して川の危険を教えようとしたのではなかろうか。もちろん先祖供養によって祖先を敬う心も育てられる。また盆飯は精進料理である(壷井栄の『餓鬼の飯』の中でも「あら、卵はお精進かしら?(⑩)」という会話が出てくる。)。精進料理に込められている粗食に耐えることを教える意味もあったと思う。」
 以下、菅田(すげた)の**さん、和田の**さんに盆飯について子供のころの思い出なども含めながら具体的に語ってもらおう。

 (ア)菅田の盆飯

 **さん(大洲市菅田町 大正12年生まれ 71歳)
 **さんは5人姉妹の長女、養子を迎えて家を継いだ。菅田生まれの菅田育ち、今も菅田に住む根っからの菅田の人である。
 「子供のころ肱川でよく水浴びをしました。筏(いかだ)を見かけると、その筏に乗っては飛び込んだものです。水浴びに行くときは洗濯物を持って行き、洗って帰ったものです。男の子たちは「ビンヅケ(オケヅケとも言う)」で魚をとるのが楽しみのようでした。そのころ洋服姿の子供はほとんどなく、先般同窓会で卒業式の写真を見ると、縞(しま)の着物を着ている者がほとんど、洋服姿で写っているのはわずか、着物姿で写っている人が『あんたらは洋服じゃけんのう。』とお言いるので一同大笑いをしました。小学校を卒業し、当時の大洲の農学校に通いました。男子が階下、女子が2階、校舎が古く、男子は勢いがよかったからでしょう。学校で始めて『もんぺ』を作ってはきました。格好が悪く、恥ずかしい思いをしました。」
 「お盆まんまは本当に楽しみでなあ。」という言葉から**さんの盆飯の話が始まる「家の裏に石でくどをついて、2、3日前から準備をしていました。わたしたちは河原ではしませんでした。友達の家を順番に回りました(「一昨年の餓鬼の飯は咲子の家で炊き、去年は正子の家であったので、今年は杉子のところへ順番が回ったのです。(⑩)」これは『餓鬼の飯』の一節、友人の家を順に回るというところが共通している。)。材料は持ち寄り、各自茶わんと皿を持参、外で炊いて外で食べます。男女一緒でした。出来上がるとカキの葉に盛って、まず各自が仏前に供えました。盆飯は、子供が自由にできる行事でした。小学校5、6年生が指図をします。そして小学校6年卒業後、たいていの人は働きに出ました。昔はほかにあまり楽しみもないので、お盆まんまの楽しみは格別でした。現在この辺りではしていないようです。最近はぜいたくになりました。こんな世の中ではお盆まんまを炊こうなどという気は起きないでしょう。昔はお盆かお正月でなければ米の飯は炊いてもらえません。正月3日には早くも麦飯、麦も丸麦でした。祖父がしゃぎ麦は腹が減りやすいとよく言っていました。お盆まんまは白米です。この『チンチマンマ』(白米の御飯)が食べられるというのも楽しみの一つだったのかもしれません。」

 (イ)春賀の和田の盆飯

 **さん(大洲市春賀 昭和5年生まれ 64歳)
 元教員の**さんも春賀の和田生まれの和田育ち、こよなく和田を愛している人である。和田の集落の中を流れる和田川は、河川改修で川床を深くし、川幅を狭くして両岸をコンクリートで固めたため、現在では水路のようになっている(写真3-3-16参照)。一見、この川の州で盆飯の行事が行われていたとは想像できにくいが、以前は、川床も浅く、川幅も広かったという(当然川沿いの道幅は狭かった。)。川端には、ナツメ、イチジク、ビワ、カキなどの木があり、大変風情のある川で、水量も豊富、エビ、ハヤ、カニなどもたくさんいたし、泳ぐこともできたと**さんは言う。和田川には随所に「くみじ」というものがあった。生活用水に利用するために設けられた場所である。現在、川に降りられるように各所に階段が設けられているのは、その名残りであるらしい。この「くみじ」を中心に盆飯を炊く場所が決められていたようである。
 「盆飯を炊く場所は和田川の州でした。2か月も前に州の取り合いです。州が決まると、大きな石を集め、山から赤土を運んできてくど造りです。赤土に石灰などを入れ、足で踏み、手でなでなで一生懸命でした(どろんこですらい。)。たまにせっかく造ったくどが壊されることがあると仕返しにも行きました。一方、各グループのリーダーは、米・野菜から調味料に至るまで、何がどのくらい必要か、だれに割り当てるか、だれが集めるか、綿密な計画を立てます。イリコの袋を持たされて米を集めました。瓶を下げて調味料を集め、途中でこぼして自分の家から持って行ったこともありました。でも、集めさせてもらうのも楽しみでした。『おばちゃん来たよ。』『よう来ておくれた。』グループの家々を回りました。当時グループは7組ぐらいでした。年上、年下の序列は厳しく、言うことを聞かないと参加させてもらえません。我慢すること、約束を守ることを学びました。」そんな中で仲間意識が育てられたのである。
 和田の盆飯の行事は8月14日であった。棚経(たなぎょう)(*2)に間に間に合うように盆飯をつくった。①すし、②煮物(カボチャ・ナス・ハスイモ)、③酢の物(キュウリ、ウリ、ハスイモ・揚げ〔乾燥揚げ…通称松山揚げ〕)、出来上がるとカキの葉に盛る(写真3-3-17参照)。すしはテンコ盛り(山盛り)。仏に供えるために、参加した子供が自分たちの家へ運ぶ。年齢順、上記①②③の順に並んで運ぶのがしきたりだったという。「たきものをくべ、火吹き竹、うちわ、火ばさみを使い、涙ふきふき火の番です。道行く大人が、『あれ、お盆まんまかえ。』『ありゃりゃ、焦げよりゃへんか。』『ちょっとおばちゃんにも見せて。』木のしゃもじですくってなめてみて、『少しからいことないかえ。』といろいろ世話をやいてくれることもありました。そんな時、わたしたちは『おばちゃんのいやしんぼ。』とよく言ったものです。仏に供えるまでは味もみさせてくれません。味をみるのは一番年上の子供です。盆飯を各家に持っていくと、『トリツケ』というあんをまぶしたもちをもらいました。帰ってきて、やっと盆飯にありつけます。カキの葉に盛って食べました。盆飯を食べると夏病みをしないと言われていました。自分たちでつくったお盆まんまは、どんな食べ物よりおいしいと思いました。今でも味を覚えています。」自分たち子供だけで、水加減、火加減を考えながら大人と同じように飯を炊く。上手に炊けた時は、自動炊飯器で炊く現在では味わえないような感動を覚えたことであろう。盆飯を炊くことで、飯を炊くときの水加減には手を使うこと、煮えにくいものから鍋に入れること、煮物は汁をしみ込ませると煮くずれしないことなど生活の知恵も学んだと**さんは語っている。
 本来、精霊供養だった盆飯の行事も戦後様変わりし、やがてその姿を消していく。「戦後は、水の汚れが原因で、和田川ではやらなくなりました。井戸水を使うので、井戸の近くで炊くようになりました。わたしのおい(現在40歳後半)などは、男の子だけで肱川の河原に出かけ、タケを切って立て、蚊帳をつって寝泊まりまでしたようです。盆飯にカレーライスも登場してきました。ただし、肉なし、てんぷら入りのカレーライスです。今は昔のような盆飯の行事はなくなり、子供たちは、愛護班やスポーツ少年団の飯ごう炊さんを楽しみにしているようです。わたしの『心のカメラ』には、谷川の情景やお盆まんまの思い出がいっぱい収められています。先人から伝えられたものは伝えておかねばなりません。自分の子供までは譲りました。」終戦の年まで盆飯を炊き続けたという**さんは、両親の「伝えられたものは伝えんといかんのじゃけん。自分の子供まで譲っておかにゃいけん。」という言葉どおり、子供に盆飯の行事をやらせた。また、帰省する孫にも炊かせながら、伝統行事の継承を願っている。


*1:新仏の燈籠は、8月1日に灯を入れ、8月30日までその灯を消さない習わしになっている。その最後の日を「とぼし上
  げ」という。
*2:于蘭盆会(うらぼんえ)に精霊棚(しょうりょうだな)の前で僧が経を読むこと。

写真3-3-16 現在の和田川

写真3-3-16 現在の和田川

平成6年10月撮影

写真3-3-17 **さんにこしらえてもらった昔どおりの盆飯

写真3-3-17 **さんにこしらえてもらった昔どおりの盆飯

①すし、②煮物、③酢の物。平成6年10月撮影