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河川流域の生活文化(平成6年度)

(1)元祖いもたき

 ア ルーツを尋ねて

 (ア)素朴な風習

 大洲のいもたきについては、「藩政時代から受けつがれて来たこの地方独得の秋の風物詩であり、300年の伝統の味である。この地方には春秋2回お籠(こも)りという地域住民の寄り合い行事があり、秋には肱川の河原に収穫の夏いもを持ち寄り、素朴な親睦(ぼく)融和の一刻を過ごした。(④)」が通説となっている。印南敏秀さんは、『日本の郷土料理10四国』の中で「大洲のいもたきは、春秋2回の地元農民の寄り合い行事のうち、秋のお籠りにつくられたハレの食事であった。(⑭)」とした上で、儀礼食物としてのさといも、さといもの収穫祭としての「芋(いも)名月」(旧暦8月15日の十五夜)等に触れ、「すでに収穫儀礼としての意義は失われているが、いもたきにいまなお郷愁を感じ、ことに仲秋の名月には月をめでながら食べるため多くの人びとが集まってくるのである。(⑭)」と述べ、「大洲のいもたきは、太古からの伝統のうえに、恵まれた気候風土を利して現代に適応した形に再生された日本の郷土料理といえる。(⑭)」と締めくくっている。すなわちいもたきを民俗的見地から考察している。黒川健一さんが『生きている民俗探訪 愛媛』で「洪水の恩恵によって里芋の名産地となった肱川付近の農民たちが肱川の川原に集まって芋を炊いて会食し、月を拝んで豊作を祝ったのが、大洲の芋炊きの起源であるという。(⑮)」と述べているのも同様である。いずれにしても大洲のいもたきは、地元の人々の素朴な風習であり、今も昔も肱川の河原に繰り広げられる秋の風物詩なのである。

 (イ)川田雄琴(ゆうきん)といもたき・5人組、7人組といもたき

 **さん(大洲市菅田町 大正8年生まれ 75歳)
 **さんは藩政時代のいもたきについて次のように語っている。
 「今から約250年ぐらい前、大洲藩内では陽明学が盛んで、江戸から陽明学者川田雄琴がやってきました(大洲藩五代藩主加藤泰温(やすあつ)のとき)。彼は陽明学の『致良知』『知行合一』などの教えを広め、人々の心をつくろうとして、藩内各地を巡講しました。陽明学を武士など特権階級だけではなく庶民にも普及しようとしました。雄琴は話が上手だったと言われていますが、各地では始め20人、30人、後には多いときには200人も集まったようです。その集まりの後、お茶を飲んだり、時にはいもをたいてみるかということになり、いもたきが集まりの一つの楽しみになってきました。」と川田雄琴の巡講の際にいもたきが行われたことを指摘している。この話によれば250年前にはいもたきが行われていたということになる。
 
 〔参考〕
      川田雄琴の藩内巡講
 雄琴の大洲赴任は1732年(享保17)、49歳の円熟期であった。雄琴は城中に伺候して、御前講義をおこない、御手廻(おてまわり)の勤務につく以外は、藩士への陽明学講釈に専心した。なお余暇には自宅において講席を開放するほか、町郷民のために近隣町郷に講席を設け、俗耳にも通ずるよう講釈した。伊予における社会教育の創始であろう。1738年(元文3)5月泰温は雄琴の町郷教化を賞した上、御手廻の当番勤務を免除し、いっそう努力するように命じた。雄琴は領内を巡講したが、「毎席男女僧俗百人二百人、入替り入替りして縁崩れゆり落とし、一巡(領内)の人数二、三万人に及びし時もありし」(『予州大洲好人録』)という盛況であった。
                          『大洲市誌(⑯)』P144より 

 「江戸時代農村では7人組、10人組、講組には念仏講などがあり、講の後、夏いものとれるころには夏いもを酒のさかなにして1杯飲む、7人組、10人組の寄り合いでも夏いもを食べることがありました。そのころ、洪水が多く、年に2~3度、大洪水は2~3年おき、幸いいもだけは大水が出ても被害がありません(根菜類だから、畑が根こそぎ流されない限り大丈夫。)。むしろタル土(細かい肥よくな土)が上にかぶさって、さらにおいしくなる。大洪水で米や麦が収穫できなくても、いもはとれました。いもは飢饉のときの重要な食糧です。農民たちは大飢饉のときでもいもを食べて頑張り、7人組、10人組で今後の対策を協議したのです。そのとき、いもたきが最も手っ取り早い食べものでした。鍋を囲んで話し合いが続きます。そのころ川田雄琴が人の心をつくるため巡講していたから、この地方では、比較的百姓一揆というような極端な騒動はありませんでした。内の子騒動(1749年冬~翌年1月)が起きたぐらいです。」と**さんは当時の苦しい農民の生活といもたきとのかかわりにも注目する。
 「町人にも10人衆をつくらせていたから、彼等もまた寄り合いのときなどに、百姓の持って来たいもでいもたきをするようになりました。菅田あたりの百姓は舟で農産物を城下へ運び、帰りには魚の干物など積んで帰る、いもを町家にやり、下肥(しもごえ)をもらって帰る、百姓と町人の交流が行われていました。いもたきは、まず百姓仲間で始まり、町に広まっていったものと思われます。町には宿屋も料亭もあるから人に食べさせるいもたきも行われるが、一方川筋の農村では、相変わらずいもはだれが掘ってくるか、なべはだれが持ってくるかという自分たち仲間のいもたきでした。そして、やがていもをたきながら、火をたきながら歓談するという風習が生まれてきたものと思われます。」

 イ いもたきいろいろ

 (ア)河原に咲く月見草-まちの人のいもたき-

 **さん(松山市道後町 明治44年生まれ 83歳)
 郷土料理研究家**さんは小さいころ大洲に住んでいたことがある。祖父(医者)の病いで父親(医者)が大洲で開業したからである。父親は軍医、森鷗外に直属の部下として仕えた人であった。ドイツに留学、衛生学を学んだ鷗外の影響を受けたのか、父親は食生活に関心があり、当時としてはハイカラなものを食べていたという。母親は料理の上手な人であった。しかし、まさか自分が料理研究の道を歩むことになろうとは思っていなかったと**さんは語る。**さんのいもたきの思い出は、雑誌「ジ・アース vol.11」の「遠い日の芋炊き(⑰)」と題材するエッセーにまとめられているが、以下そのエッセーも引用しながら紹介してみたい(『 』がエッセーの引用部分である。)。
 「6~8歳ぐらいのときの思い出です。いもたきの当日、夕方になると看護婦さんたちが、場所を決めに行きます。場所は臥龍(がりゅう)の淵(ふち)辺りでした。場所が決まると石を集めてくどをつくり、流木を集めます。『枯木を集めてくるのは、先着の子供達の仕事で、河原のあちこちを流木探しに、かけ回ったものだった。』家が志保町だったから近いので、料理は大体こしらえてから持って行きました。『お盆も過ぎた夕暮の河原は、肱川から吹く風はさすがに冷やりとしていて、時おり鮎が水面を蹴ってとび上がる。遠く近く河鹿(かじか)(カジカガエル)の鳴き声がホロホロと水音に混じって聞こえてきた。満月には間のある上弦の月がのぼると、近くの河原の月見草が、折からの川風に一茎(くき)ひとくき、ゆれながら、黄色い花を月に向かって咲かせていた。』本当に月見草が美しく咲いていました。河鹿の鳴き声によく似た音の出る笛を父がつくったことも覚えています。よく似ていました。河鹿の声なんて今聞くことができるのでしょうかね。なべの中は、夏いもと油揚げ、だんごは入れませんでした。鶏肉が入っていたかどうか、ちょっとはっきりしません。とにかく味と香りは最高でした。『あっさりしていて、まろやかで、滋味があり、いまも私の口中に残っているようである。』同じ日にいもたきをしていたのは5~6組ぐらいだったでしょうか。臥龍の淵には牛の背のような岩があり、そこでよくままごとをしたものです。」臥龍の淵の辺りは**さんにとっては子供のころの思い出につながる場所(写真3-3-22参照)なのであった。

 (イ)養蚕家の農閑期-菅田のいもたき-

 **さん(大洲市菅田町 大正13年生まれ 70歳)
 かって養蚕が盛んであった菅田では、土用蚕の飼育が終わり、次の秋蚕の飼育が始まるまでのわずか10日間程(8月24日ぐらいから9月5日ぐらい)の聞に河原で行う「布団の仕立直し(布団の側を洗って乾す仕事)」と「苧(お)こぎ(*3)」の作業のときにいもたきが行われた。
 「わたしの子供のころ(昭和7~8年〔1932~1933年〕)は養蚕の最盛期からどん底に落ちたころで、それ以前には年に5回も6回も蚕を飼おうかという人もいましたが、普通、蚕は年4回(春蚕、土用蚕、秋蚕、晩秋蚕)飼います。とにかく年中忙しいのです。一方、昔から夏に布団の仕立て直しをすることになっていました。そこで養蚕農家では、土用蚕の飼育が一段落し、次の秋蚕の飼育が始まるまでの間にそれを行ったのです。一人に3枚布団が要るとして8人家族で24枚(わたしの家が8人家族だった。)、予備も加えて約30枚、一度に布団の側を洗濯します。しかも菅田は養蚕農家が多いので、各農家がほとんど一斉にこの期間中に行います。荒洗いは家でして、河原(写真3-3-23参照)へ持って行き、よくすすいで熱い河原の石の上で1日乾すのです。
 また、当時の農家では苧を栽培していました(1畝〔1a〕ぐらい)。刈り取った苧を小さな池や大きな溝に漬けておき、皮の繊維以外のものを腐らせ、同じ期間中に皮をはがし、荷かごに入れ、リヤカーで河原まで運び、肱川の大量の水で苧の繊維が白くなるまでしごき(苧こぎ)、河原で乾しました。
 以上二つの大仕事をするとき、家に帰る暇がないので、なべかま持参で河原で炊事をする、そのときいもたきをしたのです。何軒かが共同でやりました。魚をとる、そのとったアユ、ハヤなどをだしにしていもをたく、鶏肉も使うが、鶏肉にはめったにお目にかかれない、セノボリカジカ(下流から上がってくる1~2cmの小さなカジカ)もよくとったが、それもだしにしました。いもは必ず夏いも、ちょうど初物でした。松山揚げ、麩(ふ)、カボチャ、ナスなどを入れて炊きます。そのほか、そうめんや雑炊もつくりました。それを昼に食べ、残れば夕方も食べました。現在のようなぜいたくないもたきではないが、楽しい一時でした。特にわたしら子供にとってうれしかったのは、河原で親といっしょに遊べることでした。ふだんは忙しくてかまってくれないが、この時だけは作業の合い間に泳ぎを教えてくれたり、一緒に魚をとったりしてくれました。年中農作業に追い回され、ちりちり舞い(てんてこ舞い)の農民にとって、ゆったりとした気分になり、ほっと一息つけるのがいもたきでした。もちろん、二つの作業との並行ですから、ゆったりとした中でもちりちり舞いなのですが。当時の農村では10人中8人までがちりちり舞い、そのちりちり舞いの人間の楽しみがいもたきだったのです。」菅田のいもたきは、農家の人々の労働と結びつき、彼らに一時の慰安と親睦の場を提供していたのである。

 (ウ)組の親睦-五郎のいもたき-

 **さん(大洲市五郎 昭和6年生まれ 63歳)
 組(組合)というのは、行政区の下に置かれている自治的組織であり、地域ごとにおよそ10~20軒ぐらいで構成されている。ちなみに**さんの住んでいる地域を岡組という。
 「五郎には組が26組ぐらいありますが、ほとんど組ごとにいもたきをしています。以前は念仏講など講の寄り合いでやっていました。わたしも石鎚講で何回かいもたきをした経験があります。組合でいもたきが始まったのは昭和30年代ぐらいからだったでしょう。農村の生活にゆとりが生まれたころだと思います。いもたきは家族ぐるみ、場所は集会所が多いが、河原でもやります。わたしどもは戸外でちょうちんをつるし雰囲気にも気を配っています。かつて五郎は養蚕地帯で桑畑がたくさんあり、その桑畑の中でいもを作ったのです。五郎でいもたきが盛んに行われるようになった理由はこんなところにもあるのかもしれません。早生(わせ)系統のいもはいもたきの時期に十分間に合います(これが普通「夏いも」と呼ばれるいもであろう。)。」昔はいもをよく肱川で洗っていたらしい。
 **さんたちは、今、五郎の河川敷でコスモス、菜の花づくりに取り組んでいる。10月15、16日「コスモス祭り」を開き大好評だったという。来年はこの祭りでもいもたきをやろうかと考えているとのこと。**さんたちの会の名称は「花咲くおやじの会」。公には「花を愛する会」。**さんは地域社会のリーダーとしてその発展に力を尽くしている。

 ウ いもたき交流

 (ア)如法寺(にょほうじ)河原で

 藩政時代から受け継がれてきた大洲地方のいもたきが観光行事として取り入れられたのは昭和41年(1966年)である。大洲の「観光いもたき」について**さんは「最初NHK、南海放送を招いたとき、『これはすばらしい。こんな素朴な味は都会の人にはたまらんでしょう。きっと成功しますよ。』と放送局の人に折り紙をつけられました。とにかくすばらしい人気でした。県下各地から集まって来ます。土、日には7~8台の観光バスがやって来ました。料理代は安くて、うまいいもが腹一杯食べられ、酢の物が出て、御飯、香の物がつく。美しい月を眺め、きれいな空気を吸いながらの宴(うたげ)、昭和41年から10年間ぐらいは多くの客がやって来ました。伊予鉄、国鉄(現JR)などが大洲いもたき観光団を募集していました。そのころは、城が見える、町の灯が見える、水郷の情緒が味わえるあちこちの河原が会場でした。城が見える中村河原がよい、昔殿様が宴を催したという臥龍の高河原がよいなど客の希望に従ったのです。会場の真ん中で廃材を燃やし、明かりとしました。国鉄の職員が廃材となったまくら木を50本ぐらい積み上げて火をつけ、200人ぐらいがそれを囲んでいもたきをしたこともあります。また各会場に観光協会がかがり火を用意したが、これは大変手間がかかりました。当時は申込みの団体が5人でも10人でも、その希望する場所に席を用意していたので、とうとう業者が音を上げました。人手は要る、時間はかかる、とうとういもたき登録店が協議して、会場は如法寺河原1か所と決めたのです。昭和50年ごろでした。その後現在まで如法寺河原(写真3-3-25、3-3-26参照)がいもたき会場になっています。今は、明かりは電球入りのちょうちん、昔の情緒は薄れたように思うが、万事が能率的になりました。各グループが互いに刺激しあって、会場はいやが上にも盛り上がります。
 最近は県下各地でいもたきが行われています。広島県の三次(みよし)市でも始めました。おらが町にも川がある、料理は簡単、いもさえあればすぐできる、あちこちで観光いもたきが生まれました。それぞれ大洲に負けないようにと特色を出し、趣向を凝らしているようですが、元祖大洲も負けてはいられません。大洲の観光の中心は、『う飼い』『いもたき』そして『自然』です。いもたきもすばらしい自然の中で行われるからこそ、その味も倍加するのです。」と語っている。

 (イ)大洲の「いもたき」と山形の「いも煮」

 **さん(大洲市東大洲 昭和22年生まれ 47歳)
 大洲商工会議所青年部の会長であった**さんは平成3年初めて山形のいも煮会に参加した。
 「大洲が商工会議所青年部全国理事のとき山形のいも煮会に招かれ、今の青年部の会長さんたちと3人で、大洲のいもたきの材料を準備し、下ごしらえをして、山形で大洲のいもたきを披露しました(山形の会場には、郷土の自慢料理を披露するコーナーが設けられていた。)。平成3年『第三回日本一いも煮会フェスティバル』のときで、これがいもたき交流のきっかけとなりました。翌年は山形で青年部の全国大会、平成5年に招待されたときは、妻と二人で手伝いも兼ねて参加しました。今年(平成6年)も是非ということでしたが、仕事の都合で残念ながら出席できませんでした。すると、山形から新聞の切り抜きを送ってくれました。山形のいも煮会の会場は山形市の馬見ケ崎川の河原、大なべを使いクレーンで釣り上げ、クレーンを使って中身をかきまぜます。ですから青年部はかなり研究をしています。食べ物を扱う関係上、機械のグリスもバターを使うそうだが、そのノウハウについては門外不出とのことです。今年で第6回。かなりのイベントになっています。
 山形のいも煮の会は年1回、昼間行われます。あらかじめ券を購入し、なべ持参で入れてもらうのです(材料は、里いも、牛肉、こんにゃく、ネギで、しょう油、砂糖、酒で味をつける。)。普段は、家族やグループ、会社の仲間などが、材料を持ち寄り、河原にくどをつくり、昔の大洲のようにいも煮をしているそうです。
 この山形のいも煮会は青年部が中心となって行われています。大なべの発想も青年部から生まれたもの、すごいと思います。山形特産の『いも』『牛肉(山形牛)』を使用し、さらに『北前船(きたまえぶね)』で伝わったといわれる伝統ある風習を踏まえて始めた伝統文化の香りただよういも煮会です。山形の青年部は、いも煮会をやるに当たり、いろいろ調べたそうです。その中に大洲のいもたきも出てきたということです。大洲のいもたきが古いということも分かったそうです。そこらあたりの歴史や文化を徹底的に研究していも煮会を始めたのです。だから、上っ面だけのイベントではない、思いつきではない、伝統文化に根ざしている。そこに彼等の偉さがあると思います。」
 山形のいも煮会のすばらしさを知った**さんは、地元大洲のいもたきの活性化について次のように語っている。「山形のいも煮会に刺激され、もっと若い者たちで考えなくてはならないということで一昨年(平成4年)大洲商工会議所青年部の観光委員会が中心となって『芋炊きを考える会』で『芋炊き談義』を開きました。そのときは、農協に直接お願いして、朝掘りのいもを仕入れてみんなに食べてもらった。うまい、うまいと言ってくれました(朝掘りのいもは漂白剤を使わない。前日掘って洗ったいもは色が変わるのでどうしても漂白剤を使うことになる。)。先日(平成6年8月24日)の「初煮会」では、青年部の用意したいもはすべて地元のいも、農協に話し予約したいもを使いましたが、やはりおいしいいもで、一味違っていました。伝統ある大洲のいもたきも現在は衰退気味です。各地で同じようないもたきが行われており、わざわざ大洲まではということでしょう。しかし、いもの味さえよければ人は来てくれるはずです。大洲のいもをもっと大事にしたい。大事にしなかったことが大洲のいもたき衰退の一因ではないかと思います。地元産ということを前面に打ち出して、このいもはうまいのだということをもっとアピールしなければならない。よそで食べ、大洲で食べて比較してもらえばわかると思います。味付けは店によって多少の違いはあるでしょうが、要はいものうまさで勝負すべきです。大洲はいもの生産に適した土地であり、それは肱川のおかげです。川のおかげで育ったいもをその河原で食べる。これが大洲のいもたきです。そしてこれも一つの文化でしょう。この文化を味わうという気持ちで客に来てもらいたいと思っています。最近はどこの観光でも、その土地の文化が前面に押し出されています。
 青年部ではいもたきを含め大洲の観光全体の活性化を考えています。最近ある人を『う飼い』に招待したが、その人の感想は『河原を夜だけ使うのはもったいない。昼も利用できないか。』ということでした。確かに夜だけでは景観を十分楽しむことができない。臥龍山荘も真っ暗で見えない。そこで青年部でライトアップを考え、市にお願いして、予算化してもらい、現在行っています。伝統に甘えてばかりではいけない。それが衰退の原因にもなります。従来のやり方だけでは観光事業は発展しません。今までこれで行けたのだから、これからもこれで行けるという考えは甘い。気がついたときは遅かったではだめです。もちろん青年部では、観光に力を入れてたくさんの人に来てもらうというだけでなく、観光を考える中で、そして行動する中で、郷土に根ざした人づくりをするということを最終の目標にしています。山形の仲間も同じです。交流することは大切だと思っています。同じ世代の人間が何を考え、何をしているか。わたしたちはお互いにそこから何かを学ぼうと思っています。青年部としては山形との交流を今後も続けていくことになっています。そのことは次の会長に引き継いでいます。ただし、わたしたちと一緒に行動した青年部の連中が一番燃えているので、彼らが皆退いたらどうなるか。しかし、きっとやってくれると信じています。」若い人たちの力によって大洲の観光事業がより活性化することを期待したい。

 (ウ)「炊く」と「煮る」

 本県では「いもを炊く」と言い、山形県では「いもを煮る」と言う。一方御飯については、山形でも「炊ぐ(炊く)であり、愛媛でも「炊く」である。炊くと煮るという言葉の使い方について全国的にみると三つに分類できるとされている。同じような料理を山形では「いも煮」と言い、愛媛では「いもたき」と言うのは、地域による言葉の使い方によるものであろう。
 「蒸す」と「ふかす」にも地域差が認められるようである。印南敏秀さんは『民具の世相史』の中で「『蒸す』というのは、もとは関西系の言葉であった。明治19年(1886年)の『東西言葉合せ』にも『東京語 ふかしいも 上方語 むしいも』とあり、関西方言の『蒸す』と関東方言の『ふかす』は歴史的に地域差があったが、次第に蒸すが標準語に採用されていったのである。(⑳)」と述べている。ちなみに愛媛では、普通「いもを蒸す」と言うようである。


*3:水で苧の繊維が白くなるまでしごくこと。苧は麻の古名。

写真3-3-22 **さんの思い出に残る臥龍の淵

写真3-3-22 **さんの思い出に残る臥龍の淵

平成6年10月撮影

写真3-3-23 菅田の河原

写真3-3-23 菅田の河原

平成6年7月撮影

写真3-3-25 現在のいもたき会場

写真3-3-25 現在のいもたき会場

如法寺河原。平成6年10月撮影

写真3-3-26 松根東洋城の句碑

写真3-3-26 松根東洋城の句碑

芋鍋の煮ゆるや秋の音しづか 東洋城。この句碑は大洲史談会が松根東洋城大洲小学校卒業百周年を記念して平成5年3月に建てたものである。如法寺河原。平成6年8月撮影