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河川流域の生活文化(平成6年度)

(3)水位観測45年

 肱川の下流域では、昭和18年の洪水がどんな状況であったか。大和橋で、肱川の水位観測を半世紀にわたって続ける古老を訪ねてみた。
 **さん(喜多郡長浜町上老松(じょろまつ) 大正2年生まれ 81歳)

 ア 毎時観測から定時観測へ

 **さんは、昭和24年(1949年)2月23日付で水位観測の仕事を委嘱されている。
 「最初は、毎時観測ということで、朝の6時から晩6時まで、1時間ごとに12回ですかね、それはもう他の仕事もできませんし、そうかといって高給もらうわけでもありませんからな。」という1時間おきの観測が3か月ほど続いた。その後は、午前6時・午後6時の、2回の定時観測に切り替えられて現在に至っている。
 昭和59年に、叙勲が報道されて以来、マスコミの取材が度々あったようで、聞き取る内容も要を得て、とても81歳とは思えぬ頭のさえたおじいちゃんという印象であった。
 「朝晩2回ですが、時間はきちんと守るようにしている。5分と違ったら、潮の関係もあって正確さを欠ぐから。」という観測点は、家の前にある大和橋の右たもとにあった。2本の量水標(写真4-1-10参照)は、川の中のが低く護岸のは橋の高さに近い。「危険はあまり感じたことがない。場所は恵まれとるんですよ。下流の方では白滝・粟津・大津・長浜など、全部で18か所あるが、ここ大和橋が一番条件がいい。それが長続きしたことにつながると思います。」と。白滝に一人、長くやっている人があるが、他はみんな代わっている。
 肱川の水位観測点が設置された年代では、新谷の昭和22年(1947年)に始まり、大和の昭和24年は、長浜とともに6、7番目となる。昭和19年に、建設省大洲工事事務所が設置されてからの、水位観測点である。

 イ 橋の欄干がちらちら

 昭和18年の洪水について尋ねると、「そうですな、わたしらもここで80年、物心ついてからでも70年は住んでおりますが、あんなのはまあ初めてじゃったです。昭和18年の時はおった。昭和20年の時も復員しておったんですが、18年のがひどかったでしょうなぁ。ちょうどここ(部屋)で、胸の高さくらいまでは、中で片付けもんもできましたが、もう首あたりへ水がくるようになったら、からだが浮いて仕事になりませなんだなぁ。」と言う。**さんは身長170cmである。
 「前の道路の上を舟が通って、『隣のばあさんが危ない。』と言うので、舟へ降ろして裏の方へ避難さしたのを覚えとります。今の橋の欄干が、ちらちらとしか見えなんだ。後になって考えると、危険水位を越えて、7mくらいの水位になっていたと思う。当然、1階は浸水、家具類を次々に上げんと水につかってしまう。でも、首までつかると、危のうて中では仕事ができんのです。」と繰り返すのであった。
 有名な「川ノリ」が、大和橋で見られる。組合長さんがZ旗を振っているこの橋の、欄干まで及んだ濁流の、出水量が想像できる。また、この風景は、ノリを繁殖させるだけの海水が、ここまでは十分に上がってくることを示している。水位観測の時刻をきちょうめんに守る必要があるわけだ。

 ウ 君の本職は船員である

 話を聞くまでは、**さんは酒店(大正15年創業)を経営する傍ら、水位観測を続けたものと思い込んでいた。ところが、瀬戸内海はおろか、大連(ターリエン)まで出稼ぎに行くれっきとした海の男であった。
 小さい時から船が好きで外国航路を夢みたが、体が弱かった。「地方で国家試験がありましたので、講習を受け、小さな免許をもらって瀬戸内海を走っておりました。」という時期は、大阪と九州をターゲットに、海の上でくらしていた。独身時代である。しかしそれも一時で、「昭和16年(1941年)には、船で大連へ行っとりました。好きで。」と、一旗挙げる場所として大連を選んだようだ。28歳になっていた。「まあ船員も不足しとるし、言うなれば、自分の思うような外国との交際もしてみたいと。小さい船でしたけどね。で、その年の10月までおったんですが、内地からの徴用(*4)やトラック・馬とかがどんどん陸揚げされてきて、『これはただ事ではない。長くおったら生命はない。』と考えて。」内地へ引き揚げた。
 これを機会に職業も変え、「県の林務課へ入って、地方の林産物の検査をした」昭和17年に結婚。ところが、戦争中の人手不足、「特に船員が足りない時代でしたから、もう、いやおうなしにね、『君の本職は船員である。』と、国の方針で駆り出されたわけです。」となる。
 大連時代に外国人相手の商売をして、そのまま海軍の徴用となり、佐官級以上の待遇を受けて働いた**一等機関士は、船と共に、お国へ御奉公することになったのである。
 「もう5、6年になりますか、家内と台湾旅行しましてね。高雄(カオシュン)を見てきました。高雄が南方へ向かう最終基地でしてね。そこで船団を組んで出るわけですから、当然のことながら敵機の襲撃を受ける。F6という小さい戦闘機ですがな、あれに襲撃されてクモの子を散らすように逃げたんです。えぇ。まあ、無事でおるのが不思議じゃ。」と言う。左腕はその時に失った。積み込んでいた爆雷の破片を受けた負傷である。
 「今までに、全身麻酔が6回ある。」という手術で、満身創痍(まんしんそうい)(全身きずだらけ)と苦笑(にがわら)いをされる。でも、青々としたひげそり跡はみずみずしく、年齢を感じさせない。
 「野帳(やちょう)に付けて、月末までの水位を記録し、月初めに郵送するんです。」という大和橋の水位観測は、当分大丈夫だなと思ったのである。


*4:国が強制的に動員し、一定の業務につかせること。

写真4-1-10 大和橋の水位観測点

写真4-1-10 大和橋の水位観測点

大和橋より、下流に向かって。平成6年8月撮影