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河川流域の生活文化(平成6年度)

(3)鎮魂の広場と佐古谷神社の祭神

 **さん(温泉郡重信町上村 大正11年生まれ 72歳)
 拝志小学校の西方、拝志大橋に通ずる往還ばたに自然石の石柱や常夜灯が見える。**さんは、「わたしが(ここを)鎮魂の広場と名付けたんですが、まだ重信町の文化財に指定されていない。」と前置きして、「これまでの歴史が凝縮した場所」を語るのであった。

 ア 鎮魂の広場

 (ア)三界萬霊

 「一番は餓死萬霊供養塔(写真4-1-21参照)ですなぁ。これは痛切な思いをして、当時(享保17年〔1732年〕)の大飢饉の供養をしたものです。あちこちに建っとるようですが、義農作兵衛に匹敵するモニュメントです。松前のは義農とうたわれた作兵衛個人のものですが、ここのは民衆のものですからね。当時の民衆の力というか、水にかかわった民衆の生活という、地域の基本的なことを見逃してはいけませんね。」と語る。
 復興地蔵尊(写真4-1-22参照)は昭和39年(1964年)に建立されてまだ新しいものの、刻まれた文字は風化し始めている。「この辺り一帯の田んぼはきれいでしょ。終戦後に、耕地整理をしたんです。これは重労働じゃったんですが、その時に囚人さんがね。工事で3人亡くなられ、薪炭運搬していて亡くなられた方と一緒に4人を葬ったんです。身寄りもなくてね。」と言う。
 三界萬霊と刻まれた、台石の側面に〝跋(おくがき)〟があった。文字を指先でなぞらなければ、一部は読めない。ぽつりと一言、「哀れでね。」と言った**さんの優しさが指先まで伝わり、判読しながら、風化させてはならぬものを心に強く感じた。
 宮の段の農道沿いに、水害当時の愛媛県知事相川勝六氏の筆になる復興記念碑が建っている。これは地蔵尊建立から10年経った昭和49年(1974年)のものであるが、ここにも詳しく説明があり、松山刑務所に要請して常時120名前後の派遣があったことや、最大の難事とされた表土搬入の全部を受刑者で受け持ったことが刻まれている。
 前述のとおり、度重なる水害によって重信川両岸の拝志村及び荏原村は「疲弊困憊(ひへいこんぱい)の極(きわみ)(苦しみ疲れはてて極限の状態)」だった。陳情に次ぐ陳情でやっと、300町歩(300ha)以上を補助対象として認可された復旧工事も、戦後の人手不足に喘(あえ)いでいたと記されている。受刑者の、泊まり込みの作業は地元民の大きい支えになったのである。毎年、7月23日(氾濫した日)に、下林土地改良区と松山刑務所との合同で供養をしている。

 (イ)金毘羅大門より28里

 鎮魂の広場は石材建造物の集合場所であろうか。金毘羅街道の道標(どうひょう)や古めかしい常夜灯もあり、さらにはコンクリート張りの水路も走っている。
 **さんは、「道標(みちしるべ)(写真4-1-23参照)があるというのは、村の中心というか、大事な所であって、交通の要衝であり、水路の分岐点でもある。郡中港から川内へ通じる金毘羅街道の道標でもあるこの常夜灯(写真4-1-24参照)も、重信町に二つしかない古いもので、幕末のものでしょう。大川に水が出た時、夜道を帰る人の道案内をしたものです。だから灯台みたいなものだったでしょうね。」と解説する。長い道のりを歩いて城下(松山市内)へ買い物に行き、夜道を、常夜灯の明かりを頼りに川を渡る、そんな光景を想像してみた。

 イ 佐古谷神社の祭神

 佐古谷池が平成9年に佐古ダムに生まれ変わる。上村・下林を中心に、重信川沿いの水の歴史を研究してきた**さんにとっては、一大事というよりも、情熱を傾ける大仕事ができたのである。やがて姿を消してゆく佐古谷池に立って、役目を終えようとするこの池の今昔を語る**さんの姿に圧倒されながら、「佐古谷神社の神祭」としてあがめられる先駆者の偉業をしのぶのであった。
 佐古谷池は堤長90m、堤高15m、堤の幅12m、貯水量30.9万tの、県下で最大級の溜池(ためいけ)である。しかも、この池の築造は、重信川を挟む両岸の人々のくらしと密接につながっていた。

 (ア)石樋(せきひ)と余水吐(よすいはけ)

 重信町の広報紙『町内見てある記』で、**さんが下林を取り上げた記事の中に佐古谷池の歴史と今後の課題が述べられており、残したい文化遺産として「石造りの樋」と「余水吐」を挙げている。
 「下林下、上村の95haを潤し、さらに津吉、中野へと恩恵を及ぼした佐古谷池は、今から約150年前の弘化2年(1845年)に完成した。池造りさえ珍しかった元禄の頃に石造りの樋が作られているのには驚かされる。」と文化遺産としての価値を述べ、さらに、「今の余水吐と本体の解体によって新しく出てくるかも知れない余水吐(300年ほど前-元禄7年〔1694年〕-林源太兵衛(はやしげんたべえ)が池造りを始め、中断した。)については、原形のまま残してもらいたい。」と訴えている。ここに大池があったことの、何よりの証明になるからと。
 「紐(ひも)持って中へ入って、測ってみようと思うとるんです、どうなっとるかね。ハメ(マムシ)がひょっとして居(お)ったらいかんけんね。まあ一酸化炭素は無かろうと思うんじゃが。」と言う**さん、限りないロマンを抱きながらも、まだ石樋の奥までは踏み込んでいない。
 「伽藍に役場があって、この辺りの中心、右側に佐の瀬川があったものだから、左(ひだり)川としたんですね。ところが、ここは人が奥へ奥へと分け入って、地名を佐古(さこ)と言っていた。役場中心にものを考えたんでしょう、左川をサコと読めということになって、左が佐に変わり、今は佐川川(さこがわ)と呼ぶんです。水源は御岳(みたき)山で、そこからの流水なんです。」と地名・川名の由来を説明する。
 「普通の池なら、土手の幅は4~5mのもんでしょ。ここは10mありますけんね。」という堤頂を歩くこと90m、突き出た山(岩盤)との境目に余水吐がある。
 「あの岩が続いとるんです。だから、相当深い所まで尾根が入り込んどるんですね。それとの整合(二つ以上の地層が平行してたい積している状態)しとるというか、そこへ水が浸み込んでね、それが出てくるんじゃと思うんですが。」と、澄んだ水が出ていることに及んだ。「濁っとると危険なんですね、アリの一穴と言うか、堤防が崩れる心配があるわけです。」と。
 今はコンクリートで固められている10mの余水吐を見て、これなら30万tの貯水量をもつ佐古谷池が増水しても、水量調節は可能だと思った。**さんは、「昔は岩盤を掘削した表面にかます(わらむしろの袋)を2段に重ねてね。田植えどきには1段ずつ除(の)けてね。それも、仕舞がた(田植準備の終わりころ)に、かます除けるとダーッと大水が出て、60町歩の田が植えられた。」と言う。梅雨前に見るその光景は今でも変わらぬらしい。
 ウグイスの声がしきりに聞こえる。**さんは、なおも語り続けるのである。

 (イ)佐古谷池は郡普請(こおりぶしん)

 「昔、池を築く場合に、御定法(ごじょうほう)普請と郡普請と二つあったんです。林源太兵衛が上村(源平谷池(げんぺいだにいけ))をリーダーでやったのは御定法普請になるわけですな。」と言う池造りは、**さんが『中野村定法』を読まれて、当時浮穴郡の代官であった林源太兵衛が源平谷池を完成させ、元禄7年には直ちに佐古谷池に取りかかったのではないかと推理する「幻の佐古谷池」につながる話である。堤の作りが大変似ているらしい。しかし、林源太兵衛はやがて罷免され、工事も中断して140年を経過していると言う。
 「ここをやる時は、松山藩の財政がひっ迫(ゆきづまり)して、『金はえぇ出さん。重信川の堤防を護らないかん。そのためにも金が要(い)るのに、池まではえぇせん。』と。だから『お前たちでやるならやれ。』ということで郡普請になった。代官普請になったわけです。ところが、代官は名のみで、実際にやったのは小山庄屋(小山九佐衛門朝真(ともまさ))ですけんな。計画からすべて、苦労したのは小山庄屋だった。こんな小さい集落にとっては大事業ですから。」
 庄屋小山九佐衛門が神と祭られる偉業はここから始まるのであった。

 (ウ)小山庄屋の手腕

 「これだけの池ですから、労力も相当なもので庄屋は16万人とみていた。実際には14万人要(い)っとるんですね。」と起算の仕方を説明して、**さんは小山庄屋が偉かった話を二つ紹介してくれた。
 一つは、人夫の動員である。「ここ(別府)が150軒くらい、今は300軒ほどありますが。恩恵を受ける下林の下(しも)が200軒ほど、上村が100軒ほど、津吉・中野を合わせてもね、軒数が分かるでしょ。一軒に2人働けるとしても、14万人はとてもできん。小山庄屋は川向こうから人夫を獲得したんです。」このことを「広報紙」には次のように書いている。「延べ10万余人に及ぶ佐古谷池の築造は、人口の多い対岸の村々の協力なしには実現しない。重信川の取水権の譲渡というカードを上手に用いて、目的を達している。」と。
 昔から、この地域は重信川の取水をめぐって、川南四か村(下林、上村、津吉、中野)と対岸の三か村(田窪、牛淵、野田)の間で毎年のように争いが続き、流血に及ぶこともしばしばで、そのために両岸の代官が罷免追放されたいきさつもある。**さんの記事からは、大池の築造もさることながら、血の雨が降る紛争の禍根を取り払い、両岸の村々に平和をもたらした手腕への評価が高い。
 今一つは、「佐古谷池が、もし決壊でもしたら、田畑や家屋も流失する。」ことを理由に、村人の間から、当初反対の声が上がった。「その時小山庄屋は、山すその小高い邸宅から最も危険視される、大池の下手に当たる川口へ移り住んだんです。これには村人も胸を打たれたんでしょうな。『よし!庄屋について行く。』と、賛成に回ったようです。」と。

 (エ)三柱の祭神

 「小山庄屋を補佐し、現場工事の責任者として手腕を振ったのが野中三太夫源次です。源次は緻密(ちみつ)で数理的な計算ができる、今で言うなら土木工学博士でしょうか。その上、人使いの上手な親分肌の人で、池造りの名人と呼ばれていた。」と言う。牛馬も使って効率をあげ、安全で画期的な余水吐や石造りの巨大な樋も完成させた。
 当所、この二柱の神を祭っていたが、近年になって、先述の中野村定法から、先駆者の、代官林源太兵衛が上村に三つの池を造り、佐古谷池を築き始めていたことが判明し、大池を完成した二祭神とともに、三柱の神として祭られることになった。毎年5月1日、下林宮の段の築島神社の境内にある佐古谷神社で祭礼が執り行われている。

写真4-1-21 餓死萬霊供養塔

写真4-1-21 餓死萬霊供養塔

平成6年7月撮影

写真4-1-22 復興地蔵尊

写真4-1-22 復興地蔵尊

平成6年7月撮影

写真4-1-23 金毘羅街道の道標

写真4-1-23 金毘羅街道の道標

平成6年7月撮影

写真4-1-24 幕末の頃の常夜灯

写真4-1-24 幕末の頃の常夜灯

平成6年7月撮影