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河川流域の生活文化(平成6年度)

(1)芯(しん)なげと逆(さか)なげ

 **さん(大洲市中村 大正2年生まれ 81歳)
 **さんを知るきっかけは『ジ・アース(⑭)』の記事「水郷大洲のなげと源流の森」である。彫刻家として紹介されているように、八幡浜のアトリエに通う毎日である。残念だったのは、道路拡張工事のため、150年を越える**家の旧家が取り壊されて、「かつては、**氏の家・庭・なげ・肱川の流れの全てが一体であった。(⑭)」という渡場(わたしば)の風景が見られぬことである。
 「父親から聞きましたが、あのなげの基部に接してみられる緑色片岩の露頭は川の中へ伸びていて、それを芯にしてなげを造ったのでしんなげと言うのだそうです(写真4-1-29参照)。その延長線上に、対岸にも同じ緑色片岩の露頭があり、そこで水泳の飛び込みをしたものです。」と**さんは言う。
 「もし渡場のなげがなければ、臥龍の淵から大きく蛇行する水流が対岸(右岸)の河原を侵食し、その結果、城山直下の淵は大量の土砂によって埋め尽くされるだろうから、渡場の芯なげは水防とともに、大洲城の下の淵を深くし、肱川側からの攻撃に対して守りを固める、極めて重要な役割を果たした。」とも言う。『大洲市誌(③)』などによると、なげを築いたのは第2代大洲藩主加藤泰興(やすおき)の時代(1623年~1674年)、石垣施工の名人反田八郎兵衛であった。
 「現在の肱川橋は大正2年(1913年)9月に完成したんです。それまでは、13そうの船をつないだ浮亀橋(うききばし)が唯一、肱南と肱北を結ぶ橋だったわけです。対岸の白壁は油屋で、その左側に、当時にぎわった本町2丁目と3丁目の道が通じていました。浮亀橋を渡ると、渡場の二本松(枯死)から殿町へ通じていたんです。」
 肱川が増水すると、船と板を引き揚げ、水が治まると架けられたこの橋を往来した人々の姿を思い浮かべながら、国道197号を如法寺(にょほうじ)前へ出て、かつての御用やぶ(口絵参照)の中にムクロジの古木を見る。「これの黒い実が、羽子板の追い羽根に使われたんですが、実はこれが石けんの祖先でね、泡が出て物を洗えるんですよ。」と言う。
 菅田の逆なげ(写真4-1-31参照)へ着く。なるほど流れに逆らってなげが突き出ている。なぜこの方向かと頭をかしげるが、もみ殼を水に流して実験した築造のいきさつがあるので、ただうなるばかりである。
 菅田の肥よくな自然堤防には、野菜畑や桑園が広がり、それらを守るかのように竹やぶが続いている。「タケはホテイチクです。岸辺に背の低いタケを植えて、後方へはマダケも植えたようですが。」という御用やぶは、場所によってはマダケばかりの、逆なげ橋の両側はホテイチクばかりの群落になっている。「これの竹の子はうまいですよ。それとね、節間が詰まって、いろんな形をしとるでしょう。根元から切って曲げるといいステッキができる。」と教えてくれる。
 **さんの博識に驚き入るばかりの一日であったが、後日、熱心な郷土史家であることが分かった。地域の植物に精通しておられることも、「木を愛する会」を通して、当初(昭和32年発足)から、農学博士の植木秀幹氏(大洲市名誉市民第2号)に師事されたことでうなずけた。「木を愛する会」とともに歩んで37年の**さんには、植木先生との数々の思い出がある。「これからの治水は何といっても水源の森ですね。」と言われたことばが、胸に強く響くのであった。

写真4-1-29 渡場の芯なげ

写真4-1-29 渡場の芯なげ

対岸に旧油屋が見え、「緑の親水護岸」工事が続いている。渡場の弁才天から。平成6年8月撮影

写真4-1-31 菅田の逆なげとホテイチクの堤防

写真4-1-31 菅田の逆なげとホテイチクの堤防

平成6年8月撮影