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臨海都市圏の生活文化(平成7年度)

(2)平和運行の願いを込めて

 今年(平成7年)は、川西地区の太鼓台8台が、すべて運行を自粛した。昨年、大鼓台のけんかで死亡者を出したことを重く見た結果である。

 ア けんか太鼓

 **さんの話。
 「新居浜の子供は、ほとんどの者が、物心がつくころから太鼓とかかわりをもち始める。わたしも子供のころから太鼓について歩き、高校生ころからは、太鼓をかくようになった。
 太鼓には、役がいくつかある。たとえば、棒頭(ぼうがしら)(棒の先端で、太鼓の移動を担当)、防止委員(けんか防止)、指揮者(4人)、太鼓をたたく者(2人)、重(じゅう)に乗る者(4人)。指揮者は前後それぞれ2人ずつで、前の2人が正指揮者、後ろの2人が副指揮者となる。太鼓の重さは約2t。それを150人くらいの者がかく。わたしが初めて太鼓をかいたころは、今よりも一回り小さく、かき棒も細かったように思う(*4)。『けんか太鼓』になるにつれて、少しずつ大きくなり、かき棒も長くなってきた。まさに軍備拡大競争である。
 勇壮豪華な太鼓を、一層、映えさせるのが、そのかき方である。
 チョーサジャ、チョーサジャ、ドンデンドンのリズムで、太鼓台をゆさぶりながら、ゆっくり進み、ソーリャ、ソーリャ、ドンデンドンのリズムで早足で進む。そして、止まって、両手で高く太鼓台をさし上げて、その状態のまま、回転したり、呼吸を合わせて天高くほうり上げ、それを受けとめて、また、ほうり上げる。昔は、慣れたかき夫ばかりで、よく統制がとれて見事だったが、最近のように初めての人が多いと、けがをさせてはいけないので、役員は気を遣う。
 わたしらの若いころは、まだ『平和運行』という意識はなく、『太鼓にけんかはつきもの』というような雰囲気があった。中須賀と大江がよくけんかをするので、昔は、大江から中須賀へ嫁に来た人や中須賀から大江へ嫁に行った人は、祭りの間は実家へ帰す、とさえ言われていた。」
 **さんの話にもあるように、太鼓台のけんかによる死傷者が毎年のように出たため、市民から太鼓祭りのあり方に疑問が起こり、「平和運行」を求める声が強まった結果、次に示すようなさまざまな対策(①)が考えられたが、その後もけんかは絶えなかった。

  昭和26年(1951年) 新居浜市太鼓台運営協議会発足
  昭和29年(1954年) 新居浜市連合青年団に太鼓台運営委員会を設置
  昭和33年(1958年) 新居浜地方祭改善委員会が平和運行賞を設立
  昭和47年(1972年) 平和運行に確約書を提出
  昭和49年(1974年) 新居浜太鼓台保存会発足・平和祭典達成決起大会

 「『平和運行』ということは、みんなわかっていても、結局、けんかになってしまう。昨年(平成6年)も防止委員として現場にいて、これはけんかになると感じたので止めようとしたが、みんながワーツと走り始めると、もうどうにもならなかった。周囲の観客の声で、ついカーッとなってしまう。それは、中須賀だけでなく、どこの太鼓でも同じだ。そこらが太鼓の魔力なのかもしれない。けんかのときの太鼓のスピードの速いこと、あんな大きな太鼓をあれだけ走らすのだから、ものすごいエネルギーだと思う。これが、新居浜っ子のエネルギーかもしれないが、しかし……、困ったものだ。今年は、覚悟はしていたが、やはり、祭りに太鼓が出ないのは寂しい。」

 イ 太鼓祭り存続のために

 **さんは、太鼓祭りの運営にたずさわる一方、太鼓台の県外派遣にもかかわってきた。
 「太鼓台が、初めて県外に派遣されたのは、昭和45年(1970年)の大阪万国博覧会で、江口と大江の太鼓が、お祭り広場を埋めた観客に新居浜を強烈に印象づけた。これを機に、県外各地の行事に参加するようになった。61年(1986年)には東京都世田谷区の『第9回ふるさと区民まつり』に新田、松神子、北内(きたうち)の太鼓が参加したり、平成元年の第2回全国スポーツ・レクレーション祭『スポレク愛媛❜89』や、翌年の国民文化祭にも参加した。一昨年(平成5年)は久保田の太鼓がシンガポールのチンゲイパレードに参加し、オーチャードロードをパレードしたが、それは見事でシンガポールの人々もびっくりしていた(この太鼓は、東宇和郡宇和町の愛媛県歴史文化博物館に展示されている。)。」
 その**さんも、立場上太鼓台のけんかには人一倍頭を痛めてきた。
 「『平和運行』を実現するためには、青年団がしっかりして、秩序ある指揮をすることが大切だと思う。外来の者を排除すれば『平和運行』ができるのではないか、ということは否定しないが、みんなが、取り決めたことは絶対に守るという気持ちで指揮者の指図に従えば、それほどけんかは起こらないのではないかと思う。そういう意味でも、厳しいことを言うようだが、青年団にはしっかりしてもらいたい。
 今のような状況が続くと、太鼓を持つ地区の自治会長は、引き受け手がなくなるのではないかと心配である。太鼓祭りを将来も続けていくために、責任者に苦労をさせない祭りのあり方を、みんなが真剣に考えなければならない時期に来ていると思う。」
 同じような危惧(きぐ)は、**さんも感じている。
 「『平和運行』をしなければならないということは、みんなわかっているのに、それでもけんかが起こるとなると、これから先どうしたらいいのだろうか。責任者は、祭りのあとはその後始末が大変で仕事にもならなくなる。このような状況が続くと、指揮者をやろうという者はいなくなるだろう。下で太鼓をかいている方がはるかに気が楽だ。」
 新居浜市の、そして、愛媛県の文化的な財産である新居浜の太鼓台が、今後も長く受け継がれていくためには、「平和運行」が実現されなければならないことはいうまでもない。平成7年10月19日付けの『愛媛新聞』には、「今回の祭りは、太鼓台同士の鉢合わせもなく平和に運行、新居浜署によると三日間でけが人はなかった。」とある。来年も、さ来年もこのような祭りが続くことを望んでいるのは、**さんや**さんだけではないはずである。「平和運行」が、これからも長く続くことを願ってやまない。


*4:明治前期と現在の江口の太鼓台を比較すると、かき棒の長さは、7.6mから10.8mに、高さは、2.9mから5mに、それ
  ぞれ大型化している(①)。