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愛媛の景観(平成8年度)

(1)海に目を向けはじめた女たち

 **さん(宇和島市遊子魚泊   昭和18年生まれ 53歳)
 **さん(宇和島市遊子魚泊   昭和21年生まれ 50歳)
 **さん(宇和島市遊子魚泊   昭和21年生まれ 50歳)
 **さん(宇和島市遊子小矢野浦 昭和4年生まれ 67歳)
 遊子は宇和島市の南端に位置し、宇和海に細長く突き出た三浦半島の北側沿岸一帯である。半島の基部から明越(あけごえ)、矢野浦、小矢野浦(こやのうら)、甘崎(あまざき)、番匠(ばんじょう)、魚泊(うおどまり)、水荷浦(みずがうら)、津野浦と呼ばれる遊子8浦に集落が点在する。人口1,598人、316世帯の漁家がハマチなどの魚類、真珠母貝、真珠の養殖漁業を営み年間80億円の水揚げがある(平成8年3月末現在)。

 ア 海をきれいにする運動・焼却炉設置

 昭和45年(1970年)4月から始まった「海をきれいにする運動」を、婦人部長をしていた脇坂ナカオさんは、昭和60年の愛媛県漁業婦入部連合会創立30周年記念大会で、思い出として次のように述べている(漁婦連創立30周年記念大会発表資料より)。
 「『海をきれいに』の運動を始めて、今年(昭和60年)で満15年になります。定着した今日では、毎月20日を清掃日として、各戸から1名ずつ出て、ごみを拾い焼くことをしております。取り組んだばかりの実践活動は、昭和46年4月29日に、県漁婦連大会で発表させていただきました。『海は生活の場であり漁家の生命(いのち)です。どうか海へごみを捨てないで海を守ってください。』と訴えましたら大変な反響で、大会決議の中へ入れていただき、感激して帰ったことを思い出します。……わたしは、話し合いと実践活動でコミュニケーションができたと思っております。最初に交わした条件が、①ごみは海に捨てない、②化学製品は必ず焼く、③土に埋める、④堆肥(たいひ)にするでございました。一斗缶(いっとかん)で焼いたり、風呂場でも焼きましたが、漁協からドストル(鋳物の底板)を付けたドラム缶を配ってもらった時は、本当に嬉しく、沢山のごみが焼けて喜びました。でも、長雨が降る梅雨どきはごみが焼けないし、風の強い日も危険で焼けません。台風の後の海はナイロンで埋まりました。『拾ったごみを地域内で始末できないから、手伝ってください。』と村役場(*12)まで、トラック何台かに積んで持って行ったりしました。役場では何日もかかって、煙にむせながら、わたしたちと同じように、ごみ焼きを体験してくださった様子です。ごみ処理を始めて、わたしたちは、行政とのかかわりあいの大切さを知りました。
 昭和45年度に焼却炉を一基作ってくださいました。でも、半額の7万円の負担金を出すようにと言われて立ちすくみました。相談の結果、『いくら欲しくても7万円の負担金を出す余裕はない。』との結論になり、『どうか焼却炉の無償設置をしてください。』と大掛かりな署名運動を起こしたのです。この運動は地域の婦人会、青年団、老人クラブ、農協、漁協婦人部が一体となって行政に訴えたのです。それは、地域の将来の発展につながる問題として受け止めるべきだと思ったからです。3年目の47年に、全地域に焼却炉の無償設置が出来上がりました。本当に嬉しゅうございました。今でも破損箇所を修理して使っております。」
 「あの時の婦人部の力はすごかったね。わたしらも海へ捨てられんで、ごみを全部持ち帰った。拾うて帰りよった。」と言う**さんは、そのころは漁協の専務として、一度つぶれた(*13)遊子漁協の混乱収拾期・基盤整備期・第一次再建計画期を乗り切り、第二次再建計画期のまっただ中にあって、婦人部を支えた。
 遊子出身の古谷直康さんは、『郷土に生きた人びと(⑭)』の中で、「海を守る婦人たち」と題して遊子漁協婦入部の取り組みを詳細に述べ、漁民の声を生々しく伝えている。一部を引用する。
 「自分の家のゴミを捨てない。海岸のゴミは拾って焼く婦人の運動が、ゴミを見たら親の敵に会ったように、しつように続けられた。やがて、漁業後継者の若者たちが加わり、老人クラブが助け、夫たちも参加するようになった。海をゴミ捨て場とみていた遊子の漁民が、海の汚れを我が身の汚れと感じるようになり、海をきれいにする運動が展開する時期は、ちょうど真珠やハマチの養殖漁業が盛んになる時期と一致している。『今まで、海の汚れなんか考えたことなかったけど、養殖するようになって、海が畑のように見えてきだした。』と漁民たちは言う。……きれいな海にゴミを捨てる者はいなくなった。小・中学校に呼びかけ、子供の描いた『海をきれいに』のポスターを一戸一戸に配った。記念のマッチも子供の絵をデザインして作られた。新聞やテレビが度々取り上げて報道した。」

 イ 赤潮の発生・石けん運動

 昭和48年(1973年)8月10日、遊子の海に赤潮が発生した。一人の漁民が朝早く漁協へ駆け込んで、「ハマチが真っ白になって死んどる。早う来てくれ。」と言う。それを口火に次から次へ死んだハマチを満載した船が入る。個人では処理できず、パワーショベルで漁協広場に大きな穴を掘り、涙ながらに埋めたと、『新しい出発(たびだち)第2号(⑮)』で**さんはその日の様子を述べている。
 「ええと、10万匹死んだんかな、2年魚が。モジャコ(稚魚)も20万匹くらい死んどったんよな。その時に、婦人部の怒りが爆発したんよね。」と**さんは話を続ける。
 「こんなにきれいにしとる海に、何で赤潮が発生するんぞと。わたしらも思うたですよ。こんだけ一生懸命に、きれいな海づくりやっとんのに何で起こるんやろねぇと。」早速専門家に調査してもらい、地元で学習会を重ねた。「海の富栄養化(ふえいようか)(*14)だと。トリポリリン酸が引き金だと分かり、それは合成洗剤だと。だから合成洗剤はやめないけんと。こうなったわけなんです。そのころ全漁連は石けんの使用を推進しておったんですが、わたしのとこは、赤潮についての学習の結果として始まったんです。」
 石けん井戸(写真1-2-25参照)は、合成洗剤追放、粉石けんとの強制交換の中から生まれた。「女衆(おなごし)が何ぞやりよるが。」、「海をきれいにするのは、漁師がやったらよかろうが。」などの声を耳にしながら、女たちの情熱は燃え続けた。
 **さんは話を続ける。
 「石けんもね。そうです、わたし魚泊へ行ったんですよ。推進運動でね。そしたら、『専務さんよー、あんたは石けん使う使う言いよりなはるけんど、この塩水飲んでみよ。この水辛いやろが。この塩水で何で石けんが使えるんぞ。』と。**という男もそれでは引っ込まんけんな。『そしたら、真水作ったらよかろうが、お母はんよ。ようそんな水、辛抱して使いよんなはらいの。よう飲みよらいの。そんなん飲みよるけん、色黒うなるんやろが。えぇか、お母はんよ、今晩父ちゃんに言え。父ちゃんがじーっとにじり寄って来た時に言え。』とやったんですよ。『ほんなら父ちゃんに言うてみる。』となって、正月の計画にね。あれは11月ごろの座談会じゃったけんねー。みんな言うとるわけよ。『おー。水を作らないけまいが。』、『おー、おらとこの母ちゃんも言うたわや。』、『おらとこも。』ということでね。」と正月の総会で年間計画に盛り込まれた。**さんは続ける。
 「そしたら、『どがいしたらえぇのぞ。』となったんです。『村長に言うか。』、『村長に言うたていけらへん。井戸を掘ろじゃないか、井戸を。』と魚泊が、集落全体の仕事にしたんです。村じゅうが掘った井戸、石けん井戸が漁協の前に今もありますらい。」
 「今もその井戸使いよるよ。」と女性から声が出る。3人とも魚泊である。「うちら(魚泊の者は)お墓に水がなかったから。バケツに水を入れて毎日ね、ばあちゃんらが段坂を上るけん。」と**さんが代表して、ばあちゃんたちの墓水の負担を軽減して、石けん井戸の水が今も役立っていると補足する。水が減って個人の生活用水が切れても、墓水だけは切らさない。
 「婦人が言うたことを、わたしらが伝えたら、すぐやってくれるんですよ、魚泊は。」と**さんは言う。

 ウ 生きている共同体の精神

 昭和45年(1970年)からハマチ養殖を始めた**さんは、結婚してからの10年を振り返って、次のように述べている(⑮)。
 「凪(なぎ)の時は沖に出るので、結婚したいうても、主人の顔を見るだけの日が多かったです。漁ができない満月の前後でも、機関長をしていた主人は、船のドック入りのため宇和島泊まりです。主人が家でゆっくりできるのは時化(しけ)の時だけでした。イワシは煮干(にぼし)にも製造していましたが、製造場が家から遠いもんで、子供を寝かせて行くんですが、帰ってみたら、耳の中まで涙がたまっているんです。わたしも泣いて乳を飲まし、また、後ろ髪をひかれる思いで仕事に出かけたもんです。ハマチ養殖(写真1-2-26参照)を始めてやっと、主人と一緒に仕事して、一緒にやすめるようになりました。わたしら、ようやく人間らしくなったと思うんです。」
 「宇和海に遊子船団あり。向かうところ不漁なし。」とまで言われたイワシ巻網漁の船団は統制のとれた一家をなし、留守を守る女たちも、「周りを見れば、みな一緒。」と、涙をこらえて頑張ってきた。網一統に従事する30余りの世帯は、男たちも運命を共にし、女たちも共同体として生きてきた。
 **さんの家は、昔から網主として小矢野浦にあり、段畑の農作業は先代夫婦と奥さんの仕事であった。こんな話をして笑わせた。
 「両親の後を、家内がムギの小さい束を背中にかろて山からもんて来た。なかなか台所へ来んがと思うたら、納屋の隅で泣きよる。『わたしは、あなたとならばどこまでも辛抱できるけど、じいちゃんばあちゃんとは辛抱できん。』と泣いとるんです。わたしらの一日は、イワシ網の時代はすれ違いですけん、話す間もない。手紙を書いて置いておくと、女房はその返事を書いて置いてある。会話のない生活でね。女房は、その手紙を全部置いとるそうです。」「わたしら手紙どころか、目と目を合わすだけで、すぐ沖へ出るんですから。」と**さん。「わたしは、おかか大明神と奉っとるんです。遊子は、どこでも奥さんが偉い。」と**さんは、女性たちを持ち上げるのであった。

 (ア)婦人の言うことが通る

 婦人部からの提案をあれこれ思い出しながら、**さんは口を開いた。「一番初めはな、網がもんてきたら、潮水でそこらじゅう泥だらけになるんよなあ。『専務さんも来てみなはい。泥だらけでイワシを運んじゃーイリコを製造すんのよ。』と。まことわたしも知っとりますけん。『うん。コンクリ塗ったらええじゃないか。』と返事して、区長さんに『婦人部がコンクリ塗ってくれと言いよるぜ。』とやったんよ。そしたら区長さんから村役場へ『コンクリ塗ってくれ。』となった。『セメントだけ出してやるから、砂は自分らが取ってきてやれ。』となって、婦人部の発案で、魚泊という集落にはじめて舗装道路ができたというわけです。」
 「魚泊というところは、だれかが言い出すと、それをみんなで支持するという精神があるのよね、わりかし。」と言うのは、婦人部事務局を担当した**さんである。「そこなんです。『自分の畑を提供してもかんまん。どうせやるなら、リヤカーが通れるようにしようじゃないか。』と、婦人部の提案を魚泊が活用したけんな。」と、支え合う共同体の精神を**さんは指摘する。
 遊子漁協婦人部の歴史は、道路舗装に始まって、家計簿記帳、焼却炉無償設置、合成洗剤追放、公休日の設定、健康体操、ジャンボ貯蓄、進水式改善と続き、若妻たちの手によって今日まで実践活動が継続している。ここには、提案のよさもさることながら、それを受け止めてさらに発展させる受け皿のよさがある。前出の、県漁婦連30周年記念大会で、脇坂ナカオさんが「遊子漁協には素晴らしくよい事務局があって、献身的に企画を立てて資料集めをしてくださいます。」と発表しているように、親組合の指導力と事務局のよさが婦人部を支えてきた。

 (イ)心の絆『新しい出発(たびたち)』

 **さんは、結婚と同時に遊子漁協へ勤めに出て、漁協婦人部の事務局の仕事も担当した。昭和42年(1967年)から漁協の仕事に携わる中で、歴代婦人部長さんと行動を共にし、婦人部の活動を支えてきた。
 漁協婦人部の機関紙『新しい出発』(2年に1回発行)は、昭和52年の創刊号から第11号まで、途中で息切れすることなく、20年にわたる漁協婦人部の歩みを刻んでいる。特に、創刊号の「遊子に嫁いで」、第2号の「姑(はは)から嫁へ」には、機関紙『新しい出発』が、漁協婦人部の中で、世代間をつなぐ心の絆となったばかりか、心の輪を周辺に広げて、遊子のくらしそのものの新しい出発をもたらしたことが記録されている。
 創刊号は、遊子に嫁いで、まだ子供が小学生にならない若妻の声でつづられるが、**さんの発刊の言葉が、婦人部に一石を投じたと思われる。
 「愛する人をただ一つの頼りに、まだ、この地に純な心を染め切れず、一人小さな胸を痛めているのではないだろうか?」と若妻を思いやり、後段では、「明治・大正・昭和一けたという方々(おばあちゃんやお姑(しゅうとめ)さん)が、少しでも地域を良くし、少しでも豊かな生活をと、いかなる忍従(にんじゅう)や貧困にも耐えた姿をわたしどもは知らねばならないと考えます。それはちょうど、山の頂まで積み上げた段畑の石垣のように、語りかけはしないけれども、深く刻み込まれたお顔のシワや節太(ふしぶと)の手から感じとらねばならないのではないでしょうか。」と、若妻たちに問いかけてもいる。
 当時33歳の**部長さんや30歳の事務局担当の**さんたちからみれば、村内結婚が多かった自分たちのころと違って、その後の遊子は、**さんの言う「ビルの町から、山間(やまあい)の里から、遠い海辺の浜から」のお嫁さんである。遊子の村がそれまで引きずってきたもろもろの慣習の中で、「何度この地から出ようと思ったか知れぬ」若妻たちを思いやる温かさと広い心が、婦人部の若い役員さんたちの胸にあった。
 こうして『新しい出発』は回を重ねて第11号まで、婦人部の記録の中に、部員たちの率直な意見をはじめ、夫の考えも子供の声も、そして昇華(しょうか)されたおじいちゃんおばあちゃんの思いも刻んでいった。遊子の良いところに胸を張り、欠点を一つ一つ取り除いていく姿をかいま見るとき、『新しい出発』が人々の心の懸け橋となって、巨大なエネルギーを生んだことが分かる。


*12:昭和49年(1974年)に宇和島と合併するまでは宇和海村に属した。
*13:昭和35年(1960年)ころ、イワシ網で一世を風蘼した遊子漁協が、イワシの価格低迷と設備投資の悪循環によって崩壊
  した。
*14:栄養分を含む排水が流れ込むことによって起こり、プランクトンが増殖して水質を汚濁させる。

写真1-2-25 石けん井戸

写真1-2-25 石けん井戸

遊子で一番大きい共同井戸。漁協の近くにある。平成8年7月撮影

写真1-2-26 遊子のハマチ養殖漁場

写真1-2-26 遊子のハマチ養殖漁場

魚見の丘(遊子)より望む。リアス式海岸と養殖いかだは宇和海の代表的な景観である。平成8年7月撮影