データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛の景観(平成8年度)

(1)野猿とともに②

 イ 西海の鹿島

 西海町の鹿島は、色とりどりのサンゴが群生する宇和海海中公園の中心として、また、キュウシュウジカとニホンザルが生息する島として、四国西南観光の一つの拠点になっている。その歴史や自然については、「西海の鹿島は周囲約6km、面積1.3平方km、最高点は230mで、かつては旧宇和島藩主伊達家の狩猟(しゅりょう)地であり、管理は内泊(うちどまり)の古百姓の一部が当たっており、一般人の立ち入りが禁止されていた。そのため動物、植物の保存がよく行われていた。特に7haに及ぶアオギリの自然林は見事であり、ほかにビロウ、ハマユウ(ハマオモト)などの植物が繁茂している。
 鹿島は、また漁場としても重要な位置を占めていた。
 伊達家の狩猟の最後は昭和2、3年(1927、8年)であったということであるが、狩猟の史料は昭和20年(1945年)の戦災で消失し、くわしいことはわからない。
 天保時代から明治の末ころまで、藩の許可を得て4戸の人が入植していた記録がある。明治の末ころ、4戸は家、畑、山林を伊達家に売却して島を離れた。
 昭和30年(1955年)4月、伊達家の所有から県有地となった。」と「西海町誌(③)」に記されている。

 (ア)鹿島と父の思い出

 **さん(南宇和郡西海町内泊 大正15年生まれ 70歳)
 **さん(南宇和郡西海町内泊 昭和6年生まれ 65歳)
 **さん、**さんは姉妹で、伊達家の狩猟地であった鹿島の島番を約30年間勤めた方の娘さんたちである。姉妹から鹿島や父親にまつわる思い出を聞いた。
 「父は島番をしていたころは、手押しの舟で鹿島へ行っていました。鹿島の瀬戸は潮の流れの速い所でしたが、潮の干満を上手に利用して往来していました。わたしたちも島へはよくついて行きました。父は『昔、殿様がこの島へ狩猟に来られたときの勢子(せこ)は内泊の人が来ていた。』と話していました。
 伊達家の所有だった鹿島を昭和30年(1955年)に県へ寄付した際、父がその橋渡しの役をしました。資産税がものすごくかかっていたそうです。その当時宇和島の城も寄付されたと聞いています(写真2-2-6参照)。
 わたしが女学校の2年生の時に、伊達家の御家族が鹿島に来られました。昭和22年(1947年)です。奥様とお子様4人でした。当時は食べ物が不足していた時代でしたから、米もなく、ムギ粉とサツマイモとヨモギで作った黒餅(もち)をわたしたち一家が鹿島へ届けました。召し上がるだろうかと母は心配していましたが、次男の方がおいしそうに食べられるので、『こんなに喜んでもらえて良かったね。』と母が言ったのをよく覚えています。
 鹿島には、島を管理するために建てた家が1軒ありました。囲炉裏のある部屋と6畳2間くらいでした。奥は畳の間で、手前は板の間でした。家の外には、井戸も二つありました。
 以前に、この島に入植していた人が植えたという大きな柿の木もありました。その前にはビロウ樹も10数本ありましたが、国民宿舎(西海荘)を建てるためになくなってしまいました。見事な大きな松の木があって、海水浴に行っても木陰で監視ができました。現在の鹿島とは比較にならないほどきれいで、浜にはずっと松並木があり奥へ20mくらい歩いていくとビロウ樹があり、本当に見事な景観でした。
 大成(おおなる)川(西海町)の人が入植しとった所にはお墓もあります。そこだけが私有地です。4戸が入植していた跡(段畑)だと思います。
 昭和の前半の鹿島は自然が豊かで、黒いニナ(巻き貝の一種)がいて月夜の晩には岩の上に出ていましたが、手でかき集められるくらい多く、気持ちが悪いほどでした。また、冬は、海辺の岩にメノリ(イワノリ)が、べったり黒くついていました。中泊や外泊の主婦たちは、グループになって、厳寒の海を、少しの間の凪(なぎ)を待って、伝馬船でメノリかきにいっていました。缶詰のふたなどを使って、布袋の中にカリ、カリと岩からメノリをかきとります。布袋の口の周りには、針金を縫い込んで、布袋の口がメノリを採集するときに、最も都合よく開口できるように、工夫されていました。主婦たちは、メノリかきの後濡れた着物を着替えて、父が鹿島で住んでいた家の囲炉裏のたきびで体を温めてから、帰って行ったそうです。メノリは、帰ってから板状に干しあげて、自家用に消費したり、親せきに送ったり、収入源として売ったりしていました。
 松の木を切った後、桜の木が植えられましたが、根付きませんでした。シカが若い芽を食べてしまったのです。何年か続けて植えられましたが、駄目でした。自生のヤマザクラはあります。
 最近は鹿島へ行くことはありませんが、県外に出ている姉妹が帰ってくると必ず行きます。父の思い出が残っていて、普通の人の想(おも)いとは違う島への想いがあります。父は島番の役を終えた後、84歳まで一本釣りをしました。漁が好きでした。鹿島の周辺が海中公園の指定をうけた時、父に『見に行ったら。』というと、『見に行かいでも隅から隅まで海の中は知っている。』と言っていました。父は沖縄まで行って漁獲法を習ってきました。どうして沖縄の漁法かと聞くと、『じっと魚が釣れるのを待つのはいやだし、父親(わたしたちの祖父)の借金を払うのに釣りだけでは払えないので習ったのだ。』と父は言っていました。父と兄が魚突きをしていました。父は年老いてから釣りに凝りました。舟の型も変わっていて、沖縄地方の舟のようにころころと左右にころばる(ころがる)、木をくりぬいた長い舟でした。舟の上から鏡(箱めがねのこと)でのぞいて魚を突くわけです。漁から帰ると、夜どんなに遅くても家中の者を起こして舟を陸へ上げていました。
 シカとサルの鹿島、海中公園の西海とずいぶん町の観光のためにはなっていますが、わたしたちにとっての鹿島は、そっとそっと昔のままにしておいてほしい心の故郷です。」

 (イ)鹿島のシカとサルの餌つけ

 **さん(南宇和郡西海町中泊 大正13年生まれ 72歳)
 **さん(南宇和郡西海町外泊 明治43年生まれ 86歳)
 **さん(南宇和郡西海町中泊 昭和8年生まれ 63歳)
 **さんは西海荘(町営国民宿舎)の元支配人、**さんは元飼育係、**さんは現在の飼育係である。
 3人は、勤めた時代の経験をそれぞれの立場で語ってくれた。まず、**さんは、
 「わたしが支配人をしていたのは、昭和41年(1966年)8月から昭和54年(1979年)6月の13年間でしたが、サルには本当に苦労しました。鹿島のシカ、サルの餌づけは、観光事業に町が力を入れることになり、自然の島の中にシカとサルが仲良く生活している状態が非常に珍しかったので、これを餌づけして観光客に見てもらおうという案が出て始まりました。
 昭和30年(1955年)ころから餌づけは始められたそうで、わたしが支配人になった時には、すでに餌づけされていました。当時餌をやっていたのが**さんです。毎朝夕、この人が『ベ口来い』と独特な声で呼ぶとシカやサルが群をなして山から降りてきました。餌をばらまくとその餌の取り合いがこっけいでした。観光客が見ていても飛びかかって取るものもいれば、取って逃げるものもいるし、まあ愉快な光景でした。
 しかし、用心していないと時々サルが、餌をやる人には飛びかかりませんが、他の人には飛びかかったりしました。そして餌を食べてしまうと山へ逃げてしまいました。シカは人になつきましたが、サルだけは絶対になつきませんでした。観光客が日に3、4人もサルに腕をかまれたと苦情を言って来て困りました。特船(チャーターした船)で医者へ連れていって、見舞金も町の方から出してもらうといったようなことがあり、サルだけは鹿島から全部除いてしまおうかということまで考えました。手のほどこしようがないので、夏の最盛期の間だけアルバイトでサルの監視人をおき、棒を持って島内を巡視させました。聞くところでは、現在も同じような状況らしいです。」
 記憶をたどりながら、**さんは飼育係の時代の話をしてくれた。
 「わたしが西海荘に勤めたのは昭和40年(1965年)ころからで、定年後もずっと続いて働きました。シカやサルの餌づけをしていたのは**さんです。そして、続いてその息子さんがやっていましたが、西海荘の板場の仕事が本業だったので、一本釣りをしていたわたしに話が来て、飼育係をやることになりました。餌は『きりぼし』というサツマイモを切って干したものでした。ムギも与えていました。朝夕が普通で、観光客が多いと『べ口来い』と叫んで、呼び出していました。べロというのはシカを呼ぶ言葉だったらしいが、先輩からの言い伝えで意味は分かりません。声の届く範囲のシカやサルが飛び出して来ました。シカが150頭、サルが300匹くらいいたように思います。」
 この**さんの話に関連して、**さんは、シカとサルの餌づけが始まったいきさつについて、話してくれた。
 「鹿島のシカとサルの餌づけは、父が始めました。家で作ったムギや、サツマイモのきりぼしを鹿島の建物の周りにまいたのです。『ベ口来い』と呼ぶのは、シカは食べる前に、舌で食物をぺ口っとなめるようにして口の中にいれるので、父が『ベロ来い』と呼んでいたのです。シカはおとなしくやってきて、食べるのはおどおどして遅いのです。それに比べてサルはすばしっこくて早く食べてしまうので、父はシカをかわいそうに思って、シカを先に呼び寄せてから餌を与えていました。『ベ口』というのは、父がシカたちにつけたあだ名です。
 父のあとを**さんが引き継いだようなかっこうで、シカとサルの餌づけが今に続いているのです。」
 再び、**さんの話。
 「餌づけをするまでは、自然の中でシカは木の芽を食べて生活していました。木が大きくなると、5年に1回か3年に1回か木を切りよりました。木の芽を出させるために5間(1間は約1.8m)から10間幅に木を切っていました。切った木は搬出し、その後に生えた木の芽をシカは食べていました。
 シカも春になって角が落ちて、それが伸びるまではおとなしいが、角がのびて強くなると、結構乱暴になり、つっかかってきたりしていました。わたしも棒を持って対応しました。餌をやって、観光客に見てもらおうという思いが、慣れるにしたがって苦労に変わりました。数が増えて、シカやサルは地方(じがた)へ泳いで渡りました。4馬力の船がスローで進むスピードくらいで泳ぎます。」
 現在の飼育係の**さんは、先輩の話に次のようにつけ加えてくれた。
 「現在はわたしが朝1回だけ、大麦(押麦にしたもの)を与えています。『ベロ来い』と呼びかけますと、シカとサルが出てきます。
 サルは飼料保管室の戸を開けて餌をとったりもするので、サッシュの戸に板を差し込むような穴を作り、その差し込んだ板をロープで厳重に縛っています。普通の錠前ではだめです。ゴミ収集場の金網のふたも、ロープで半開きにしかならないように工夫しています。従業員がサルのいたずらをとがめると、観光客があまりしからないようにせよと言うし、なかなか苦労します。」
 **さんは在職当時の苦労話や、今でも時々訪れるという鹿島の状況について、話を付け加えてくれた。
 「支配人のころ最も困ったのは、サルが西海荘へ泊まった客の部屋へ入ることを覚えて、泊まり客が食堂で食事をして部屋へ帰ってみたら、部屋中荒らされていたことでした。泊まり客が泥棒が入っているといってフロントへ駆け込んできました。こんなことが年に何回となくありました。売店の売り上げの利益が弁償のために消えてしまうような状態でした。現在は各部屋の入り口にかぎをかけ、窓には網戸を入れています。また、現在は電気も通じ、クーラーもはいっていますが、わたしのころは自家発電でクーラーもなく、暑くても窓を閉めていました。やがて旧館などは窓へ鉄格子を入れて檻(おり)のようにしてしまいました。人が檻の中にいて、サルの方が外から眺めている格好で、お客さんがこれはまるで監獄に入っているようなものだと言っていました。
 西海荘は現在は町の観光課の直轄で、人事、施設その他すべて責任を持ってやってくれています。当時も町営国民宿舎でしたが、西海荘の支配人が全責任を持っておりました。西海荘の宿泊営業は、昭和38年(1963年)から平成6年までは年中やっていましたが、それ以降は休止しています。現在は観光客の多い時だけ休憩できる程度の営業をしているだけです。施設の老朽化と観光客の減少が原因です。
 今は、海中公園がメインとなり、鹿島は付属でごく少数の人しか立ち寄りません。それは、船越からグラスボートが発着し、1時間で海中公園の観光はできるからです。これは観光業者の強い要請であって、やむを得ない処置です。
 今も、鹿島で終日遊ぶ人(例えば水泳やキャンプをする人)もいないわけではありませんが、その人たちが夕方帰るころをねらってサルがバッグを取りに出たりするそうです。帰り支度で忙しい時をねらい撃ちしている感じですね。人が取り戻す行動をすると腕をかまれたり、ひっかかれたりすることがあるようです。
 昔は鹿島にはシカだけでサルはいなかったような話も聞いておりました。わたしが子供のころ、鹿島ヘキャンプにいったことがありますが、サルは出なかったように思います。サルは誰かが『陸(おか)』の方から持ってきたのではないかという話を聞いています(写真2-2-9参照)。」

 (ウ)外泊(そとどまり)と鹿島の今昔

 **さん(南宇和郡西海町外泊 大正13年生まれ 72歳)
 西海町で、鹿島に最も近い集落の外泊は、防風石垣の集落として有名で、昭和51年(1976年)県から「石垣の家文化の里」の指定を受けている。
 防風石垣による家並みで脚光を浴びている外泊のくらしや、鹿島とのかかわりについて**さんに聞いた。
 「外泊の集落は、元禄9年(1696年)に開墾を許されて中泊を開いた者の子孫たちのうち、跡継ぎ以外の男たちが人口増加を解消するため、今から約130年くらい前(明治維新ころ)に移り住みました。
 外泊を開くにあたっては、まず、飲料水の確保や川の治水を行い、川を中心にして屋敷、畑を造って、左右に家を建てていったわけです。現在の戸数は40戸ですが、最初は47戸あったようです(写真2-2-10参照)。
 入植した当時は半農半漁で生計を立てていたようです。漁業はイワシ巻きあげ巾着(きんちゃく)網でした。集落の大半の男性はこれに従事していたようです。女はめざしを作ったり、いりこをたいたりして、夏前になるとテングサもとっていたようです。
 天にいたる段畑は長い年月をかけて開墾したものでした。主食のムギとサツマイモを作っていました。昔は、草取りといって針金の先を一寸曲げたもので、石垣の間の草を一本一本取り除いていました。栽培していた作物の間の草だけでなく、石垣の間の草を取り除いていたのです。石垣の間に草があるとその家の嫁はあまり仕事をしていないといわれました。真珠や、魚の養殖に従事しはじめ、農業以外の働き場所ができてきた昭和42年(1967年)ころから、段畑を放棄して耕作しなくなりました。一度荒れた畑は放置されたままです。今はこのような苦しい作業をともなう段畑の復元はできないだろうと思います。
 段畑でムギやサツマイモを盛んに作っていた昭和27年(1952年)ころ、佐太郎さんというおじいさんが、この岬の先端に近く、鹿島の対岸(陸(おか))にある白浜に住んでいて、野猿に餌づけをしました。サルは昭和34年(1959年)ころになって、岬の先端から外泊へやってきました。このサルたちは人に慣れていたので、追っ払っても逃げません。それどころか外泊の男は出稼ぎに出て留守で、子供や年寄りばかりが残っていましたので、追っ払いに出ていくと、逆にやられるような状態でした。
 サルが来るとムギでもサツマイモでも全て取られてしまいます。サルの出没はそれ以来ずっと続いていて、野菜を作りたい人は、網をはって防御して農業をしている状態です。
 それから後、畑が荒れて原野になったので、イノシシが出るようになりました。昔に戻ってイノシシが荒らしまわります。2、3年前には狩猟のために、鉄砲を持った人が来ていましたが、今は来ていません。サルを撃つのはみんなが嫌がります。
 このころサル、イノシシ、アナグマ、タヌキなどがものすごく増えました。夜行性の動物は、人の目に触れにくいけれども被害の状況から想像すると数は多いと思います。
 鹿島を中心とした海中公園の指定は昭和45年(1970年)7月1日ですが、鹿島にはそれ以前から観光客は来ていました。わたしが鹿島で本格的に食堂売店を始めたのは、昭和49年(1974年)4月9日でした。観光客は鹿島へまずやって来て、鹿島を拠点として観光していました。宇和島市からの定期船もありました。鹿島で食堂売店を利用するために1度降りてもらって、それから海中公園を見に行く船に乗り換えるという仕組みでした。島にはシカとサルがいるということが目玉の一つでしたが、サルが悪さをしていました。わたしは平素からサルに厳しく接していましたから、わたしが通ると道をあけていました。サルはよく人を見分けるものだと思いました。わたしは食堂売店を12、3年やってやめまして、その後は真珠稚母貝(ちぼがい)養殖をやっています。
 外泊の民宿は昭和42年(1967年)に始まりました。民宿を利用する人としては、釣り客が土曜日、日曜日には来ますが、以前に比べて宿泊する人は少なくなりました。自動車で来て観光してすぐ帰っていく具合です。今は宿泊しないで磯釣りしたり、観光したらすぐ帰っていく客が多いです。
 中泊の集落をうかいして、山側にバイパスが平成6年に貫通してからは、7、8月は観光客はかなり外泊へ来るようになりました。外泊の石垣の風景をわざわざ見に来る人たちです。『石垣の家文化の里』の保存についての制約は格別ありません。以前は2階建てはなかったのですが、今は8軒もあります。普通の石垣の石に比べて小さいのは、この土地にあった石を割っては使ったからだそうです。
 長い歴史のある文化財は、大切に守り続けていきたいと考えています。」

写真2-2-6 西海の鹿島

写真2-2-6 西海の鹿島

船越より鹿島をのぞむ。左手は手前から、女呂岬、道越鼻、耳毛の山々。平成9年1月撮影

写真2-2-9 鹿島の西海荘付近

写真2-2-9 鹿島の西海荘付近

海水浴客やキャンプをする人々の利用する西海荘(右)レストハウス(左)付近の風景。平成9年1月撮影

写真2-2-10 石垣の里・外泊

写真2-2-10 石垣の里・外泊

川の両側に石垣を築き住宅が建てられている。石垣上には防獣網で囲まれた畑もある。平成8年8月撮影