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愛媛の景観(平成8年度)

(2)伝説の里のたたずまい

 ア 切山(きりやま)のくらし

 **さん(川之江市金生町山田井 大正4年生まれ 81歳)
 **さん(川之江市金生町山田井 大正15年生まれ 70歳)
 **さん(川之江市金生町山田井 昭和10年生まれ 61歳)
 **さん(川之江市金生町山田井 昭和11年生まれ 60歳)
 **さん(川之江市金生町山田井 昭和16年生まれ 55歳)

 (ア)平家伝説の里

 川之江市金生(きんせい)町山田井の切山は、香川県との境にあり、徳島県にも近く、周囲を山に囲まれた小集落である。現在はJR川之江駅から車を利用すれば15分で行けるところであるが、ひと昔前までは交通の不便な山間の辺地であった。
 この切山には平家伝説が残っている。元暦(げんりゃく)元年(1184年)屋島の平氏は源氏の攻撃を恐れ、安徳天皇(数え年7歳)を阿波(あわ)の祖谷(いや)にうつしたが、源義経の軍が阿波に潜入したという風聞におびえ、さらに帝(みかど)を伊予の切山にうつし、帝は文治元年(1185年)正月まで半年間ここ切山に隠れておられたというのが伝説の骨子である。『田辺家系譜(*1)』には、「伊予国宇摩郡切明村江遷幸被遊(切山村へお移りになった。)其時守護之武士 田辺太郎平清国 真鍋次郎平清房参鍋三郎平清行 間部藤九郎平清重 伊藤清左衛門国久(②)」とあり、また系譜の末尾には「五家共代々伊予国二子孫連綿タリ(②)」と書かれている。彼等の子孫が代々この地に住みつき、切山開拓の人々となっていったという。現在でも切山の集落には、田辺、真鍋、参鍋、間部、伊藤という姓の家が29戸のうち25戸を占めている(図表3-2-2参照)。なお、この地域には「安徳の窪(くぼ)」(安徳天皇の行在所(あんざいしょ)跡)、「院の墓」(安徳天皇の御衣(おんぞ)と念持仏(*2)を埋めた仮の御陵)など平家伝説にまつわる数多くの遺跡が残っている。
 切山のくらしについては、上記5名の方に座談形式で話し合ってもらったので、その内容を以下(イ)~(オ)の4項目に分けてまとめた。

 (イ)峠を越えて

 切山は愛媛県の最東部に位置し、香川県と接する標高約300mの山あいの里で、県境には、金見山(596m)、大谷山(507m)など5、600mの山々が連なっていて(写真3-2-4参照)、田野々越え、切山越えなど香川県の大野原町、豊浜町と結ぶ山越えの道が通じている。
 「香川県への山越えの道は経済道路でした。昔は川之江、三島方面よりも香川とのつながりが強く、物流は主に香川県の大野原町や豊浜町との間にありました。切山で産するゴボウ、炭や薪などはほとんど香川の方へ出していました。当時は米の生産が中心でしたから、讃岐平野には裕福な家庭が多く、ゴボウにしても炭にしても需要があったのでしょう。切山の人たちは、みんな担いで山越えをしていました。山越えをすると案外近いのです。歩いて1時間半ぐらいで目的地に着くことができました。当時、汽車の乗り降りも香川県の箕浦(みのうら)駅を利用する人が多かったようです。川之江市内方面への道が整備されておらず、今のような車社会でもなく、徒歩ですから、道は険しくても箕浦に出る方がかえって近かったからです。こういうことも切山の産物が香川県の方へ運ばれた理由の一つでしょう。また、切山では、香川県の農家の手伝いに行く者がたくさんいました。いわゆる出稼ぎです。賃金もよく、いくらでも仕事口がありました。昔は香川の人と結婚する人がよくいたといいますが、このように出稼ぎに行って見初められて婿養子に入った例もあったのでしょう。ただし、この辺りでは『讃岐(さぬき)へ娘を嫁にやるな。』とよく言っていました。讃岐地方は万事派手なので、嫁の実家に負担がかかりすぎるからだということのようでした。そのほか、香川県の豊浜町が綿の産地だったので、その綿を買い取り、高知県や徳島県の方へ行商に行く人もおりました。
 今はもう峠を越えて香川県に行くことはありません。山越えをしなくなってもう30年は経(た)つでしょう。しかし間もなく切山を通って大野原町へ通じる県道大野原・川之江線が開通します。あと200mぐらいの区間の工事が済めば開通です。この道路の開設に尽力したのは、切山出身の真鍋安次さんです。この道路が開通すれば、切山の経済にまた住民の生活文化に大きな効果を及ぼすことになると思いますし、香川県との距離もぐっと縮まり、同県と切山との新しいつながりも生まれてくるものと期待しています。」
 この道路の峠あたりからの眺めは実にすばらしいということである。切山の人々と共に1日も早い開通を期待したい。
 切山と香川県とのかかわりでもう一つ注目したいのは、切山の集落の檀那(だんな)寺が香川県大野原町の法泉寺だということである。**さんの話によると29戸のうち27戸が法泉寺の壇家であるという。その理由について同寺では、切山は古い集落であり、東予地方に古くは浄土真宗の寺がなく、近くの浄土真宗の寺といえば法泉寺だったので、切山の浄土真宗を信仰する人たちが法泉寺の壇家になったのであろうと推測している。ともあれ、檀那寺が香川県にあるということは地理的に近い関係にあるとはいえ、切山と香川県との生活文化の長いつながりを象徴しているように思われる。
 民俗学を研究している森正康さんは「県境のムラである切山の場合、川之江の市街方面よりもむしろ香川県方面との関連性が強く感じ取られる。例えば、ムラの檀那寺は、大部分が同県大野原町の法泉寺である。……中略……またムラ内に病人が出ると、青年たちが金毘羅(こんぴら)さんへ代参し、護摩札(ごまふだ)を受けていた。あるいは、墓前にハナシバ(樒(しきみ))とともに作り花を立てるのも、こうした文化的結びつきの表れであろう。すなわち、ムラの開発に伴う平家伝説などからすれば、切山はひとまず徳島県山分との関連が想定さる。……中略……切山を取りまく生活文化の重層的な構造を考えてみるとき、古層に阿波型文化が見え隠れしながらも、その表面には讃岐型文化が伊予の文化と融合しつつ存在してきたように思われる。(④)」と述べている。

 (ウ)たくましかった子供たち

 切山に簡易水道ができたのは昭和50年(1975年)のことで(4月1日給水開始)、それまで水くみは子供たちの仕事であった。
 「水くみは大変でした。朝起きるとてんびん棒にばけつをつり下げて1km先の谷とか泉までくみに行きました。『家のため置きの水が無くなっていたらくんできとけよ。』と言って親は仕事に行きますので、学校から帰ってからもよく水くみに行きました。小学校の2、3年生の女の子でも水くみに行きました。うちの娘などは『お父ちゃんに水ばっかりくまされたけん(ので)背が伸びなんだ。お父ちゃんを恨まいなあ。』と言います。『そう言うなや。しようないわい。』と答えていますが、その娘が56歳になります。下の谷川まで降りて洗濯をするのも子供たちにとって大仕事でした。そのころ水くみと米(又は麦)つきが切山の子供たちの日課でした。
 子守りもよくやりました。小さい弟や妹を連れて子守をしながら学校に通う子供もいました。わたしの家でもわたしの一番上の子をわたしの一番下の妹に子守りをさせながら通学させていましたから、昭和30年代後半(1960年代前半)までそのようなことがあったということになります。通学といえば、わら草履(ぞうり)を履いて学校に通っていたころ、子供たちは皆自分の履く草履を自分で作っていました。1日に1足履きつぶしてしまいますから1週間に6足用意しておかないとはだしで通学しなければならない日が生じます。今の子供の生活と比べるとまさに月とすっぽん、隔世の感があります。
 切山小学校(昭和45年〔1970年〕廃校)には戦前から戦後にかけて毎年60人ぐらいの児童が通学していました。運動会のときは、両親はもちろんのこと家族全員が参加していました。廃校後も残されたグラウンド(写真3-2-5参照)では地域の人々の運動会が行われています。当日はよそに出た人も戻ってきて、にぎやかです。現在の児童数は10人未満、通学用マイクロバスで金生第二小学校に通っています。
 昭和22年(1947年)6・3制が実施され、新制中学校(現在の中学校)ができ、切山の生徒は金生中学校(現在の金生第一小学校のところにあった。)まで歩いて通いました。下校が遅くなると、山道に差し掛かったころにはもう真っ暗です。そんなとき、ホタルを捕まえ、紙に包んで帰ってきたことがありました。この話を孫にしたところ、『じいちゃん、ホタルがとれてよかったね。』と言われましたが、実は、暗くて怖かったので、その恐怖心を紛らわすためにホタルをとったのです。そのころわたしたち中学生が学校に通う近道を整備して表彰されたこともありました。その後自転車で通学するようになりましたが、毎朝行きがけに近所の農家からダイコンなどの野菜を預かり、自転車の後ろにつけた大きなかごに入れて、中学校の近くの市場まで運んでいました。持って行くと運搬料として50円くらいもらえました。通学の途中で小遣い稼ぎができたのです。たくさん荷を積むためにわざわざ太いタイヤをつけた者もいました。
 これも小遣い稼ぎになったのですが、雁皮(がんぴ)(樹皮を和紙の原料にする植物)をとりにも行きました。この辺りでは雁皮のことをヒヨと言いますが、夏休みや日曜日などには、『おい、ヒヨ引きに行くか。』と友達を誘ってよく山に行きました。雁皮の値は高く、当時1kg200円くらいで売れました。1日に4kgくらいとれば生活ができるので、雁皮をとるのを職業にしている人もあり、この切山に雁皮の仲買いをする人もいたころの話です。雁皮は群生しているのでとりやすく、いまでも捜せばまだまだあります。紙のまちとして有名な川之江の子供が紙の原料である雁皮を知らないというのではだめだということで、今度、『四国かわのえ紙まつり』のときに持って行って見せることにしています。
 終戦後、中学生も峠を越えて香川県の方へ炭を運んでいました。わたしらは体が小さかったので、買手はかわいそうに思って、他の人より先に取り引きをしてくれました。とにかく現代の子供たちにはちょっと想像ができないような毎日を送っていました。昭和30年代くらいまでの子供たちはたくましく生きていたように思います。」

 (エ)夢のような話

 切山は山に囲まれた集落であるが、昔から林業の盛んな地域ではなかったようだ。現在でも林業関係の主な仕事といえば、保護組合という組織をつくり、香川県との境の金見山にある200haの市有林(もと国有林)の管理を請け負って、森林資源の育成、自然景観の保持に努めている程度ではなかろうか。真鍋安次さんもこの地域について「地質的には和泉砂岩の系統で松が多く、林業にも大して希望の持てる地域ではなかった。(⑤)」と述べている。ところがこのマツが切山の人々に思わぬ恩恵を与えたのである。
 「今は松枯れとスギ、ヒノキの植林によって山の様子が変わりましたが、以前、この辺りの山にはマツが多く、マツタケがよくとれました。切山の人たちは三つか四つのグループに分かれ、入札をしてとっていました。昭和30年(1955年)ころの話ですが、とれたマツタケをバナナかごという大きなかごに入れ(1日で、かご10個分くらいとれたという。)、国鉄(現JR)川之江駅からチッキ(乗車券を使って送る手荷物)で毎日のように松山の青果市場へ運んでいました。終列車に乗り、翌朝4時ころ松山駅に着きます。到着すると駅近くの屋台でうどんをかきこみ市場へ向かうのですが、青果市場からオート三輪で迎えに来てくれました。マツタケの値が1貫(3.75kg)千円くらいのころであったが、当時としては高価で口銭(こうせん)(手数料)も多いので、市場ではマツタケ業者を丁重に扱ってくれました。その日のうちに現金をもらい、空のかごとともにまた駅まで送ってもらいました。マツタケは農協を通さず直接市場に出していました。新居浜の青果市場へも出すことがありました。あまり多くとれすぎて大阪まで持って行ったこともありました。大量ですから大きな消費地でないとはけません。現在、あのころのようにとれたら、マツタケだけで切山の人は1年中くらせるし、大きな蔵が建つことでしょう。今思えば夢のような話です。
 昔は、かごいっぱいにとれたマツタケをその場で焼き、裂いて塩を振りかけて食べたものです。よそからマツタケ狩りにくる人もあり、その人たちにはカヤで作ったスボ(*3)にマツタケを入れて持って帰ってもらいました。このカヤスボは風情もあり、大変喜ばれました。
 マツタケは昭和40年(1965年)ころから減り始め、ほとんどとれなくなってから20年余りになります。今では切山の人でもなかなか口に入りません。」

 (オ)ふるさと振興

 切山にはかつて単独の農業協同組合もあり、その歴史も古い。大正3年(1914年)切山信用購買販売利用組合が設立され、これが昭和19年(1944年)には金生村農業会切山支所となり、昭和23年(1948年)に切山農業協同組合(現在は川之江市農業協同組合切山支所となっている。)となった。
 以前はゴボウなどの野菜、タバコ、除虫菊などの栽培が行われ、一時はミカンも栽培されていた。特にタバコの生産が盛んで、徳島県にある専売公社(現在の日本たばこ産業株式会社)の池田工場へ納入していたという。切山の人はタバコづくりで生活していると言ってもよい時期があった。除虫菊の栽培が盛んに行われたときもあり、切山の畑が除虫菊の花で彩られたこともあったという。タバコがつくられなくなって約10年、今では除虫菊の花も見ることはない。現在ではほとんどが兼業農家で、それもお年寄りが健康のために農作物をつくっているという程度である。ただ養豚業3戸、養鶏業1戸が専業農家として頑張っているのみである(写真3-2-6参照)。
 またこの地域では、昔は木炭の生産が行われていた。この一昔前の主要な産業であった木炭づくりを復興し、それを通して地域の活性化を図ろうとしたのが「ふるさと振興会」という組織である。
 「『ふるさと振興会』の活動の中心は炭焼きです。昔、この地域は炭焼きで生計を立てていたのですが、高度成長期に入り、炭焼きは行われなくなりました。しかし、最近木炭のよさが見直されるようになり、もう一度炭を焼いてみようではないかということになってつくったグループの名称を『ふるさと振興会』としたのです。出資金一人5,000円、共同で炭焼きの窯をつくりました。実際に炭焼きを始めたのは平成元年ころだったと思います。最初のころは、焼いた炭を真鍋家住宅の見学者にあげたりもしていました。去年は竹も焼いてみました。竹の炭で置き物をつくったり、磨いてコップにして酒を飲んでみたり、楽しみながらやりました。また炭を焼くときにできる木酢液(もくさくえき)の利用についても考えました。木酢液は連作障害の防止に役立つなど、いろいろ用途がありますが、水虫の治療にも効果を発揮するということが分かり、木酢液を染み込ませた靴下を考案(平成8年現在特許申請中)し、商品化しました。現在販路も広がりつつありますが、製品は伊予三島市の工場でつくっているので、今のところ切山の人々には直接恩恵がありません。しかし、もともと『ふるさと振興会』の炭焼きから生まれたものなのだから、この切山の地域で製品づくりができるようにしたいと思っています。」
 切山の里には、この「ふるさと振興会」をはじめ、先に述べた「保護組合」、「切山平家遺跡保存会」、「婦人会」、「農協婦人部」、「老人会」、「青年団」などの組織があり、それぞれ活発に活動している。その上、古くからあった「頼母子講(たのもしこう)」も続いている。
 「昔はテマガイ(てまがえ)といって、何をするにも助け合い、共同で作業をしていました。そのころは、わざわざ組織などつくる必要もありませんでした。しかし時代が変わり、家庭中心の都会的生活が定着し、一方、共同作業の場もなくなり、昔からの地域のよさが失われかけていました。そうした中で人々の交流を促す組織づくりの意義は大きいと思います。これらの組織の活動によって切山のよさが保たれているのです。」この組織の活動によって育まれる共同意識が切山の明日(あす)へ向かう力となっているのである。

 イ 民家を守る

 **さん(奈良県橿原市菖蒲町 昭和16年生まれ 55歳)

 (ア)真鍋家住宅

 切山には国指定重要文化財真鍋家住宅がある。指定されたのは昭和45年(1970年)6月17日である。「寄棟造(よせむねづくり)(*4)、平屋建(ひらやだて)、茅葺(かやぶき)、平面積58.59m²で、間取(まど)りはいわゆる『中ねま三間取(みまど)り』、つまり土間(ニワ)に添って2室(マエとオク)、その奥に8畳のザシキを取る三間取りの型である。建築は江戸時代中期(17世紀中ごろ)のものとされ、民家としては愛媛県はもちろん、全国的に見ても非常に古い遺構である。しかも、妻側(両側面)と裏側は総(すべ)て土壁塗り籠(ご)めとした閉鎖匪の強い形式で、この型は四国では東予を中心とする地方の民家の祖型として重要である(⑥)」(写真3-2-7参照)。平成8年8月、お盆に帰省していた**さんに話をうかがうことができた。**さんは両親のことや家の管理のこともあって、たびたび帰省しているということである。
 「この真鍋家住宅は平家伝説の里切山のシンボル的存在となっています。わたしの子供のころにはほかにも古い家がありましたが、風(南風が強い地域だという。)でやられたり、持ち主が切山を離れたり、また経済的に豊かになって家を建て替えたりしてなくなってしまいました。そんなことを考えるとわたしの家が残ったのは、家族が多くて経済的余裕がなかったこと、家の背後(南側)にようがい(防風林)があったこと、そして何よりも先祖から受け継いだ家を守っていこうとする気持ちが強かったからでしょう。でもこんな古い家を残しておいては真鍋家の恥になるとまで言われたこともあり、重要文化財として指定されなければ、どうなっていたか分かりません。
 この家は今はかやぶきですが、昭和53年(1978年)の解体復元工事開始まではトタンをかぶせていました。それまでは実際住んでいましたので、住みやすいように内部を改造しておりました。例えば囲炉裏を取り除き、かまどの位置も異なり、天井も張っていました。復元のとき、すべて昔どおりにしたのです。ただし、座敷の畳だけは見学者のことも考えてとりあえず残してもらいました。この家は一般の民家に畳が普及する以前の建物ですから、座敷も今の囲炉裏のある部屋(マエ)と同じように竹のすのこの床(ゆか)の上にむしろを敷いていたものと思われます。復元後両親は管理棟で生活するようになったのですが、元気なころは毎日囲炉裏で火をたき、お茶のサービスをしながら見学者に説明していました。囲炉裏の火が燃えているだけでも昔の生活が実感できます。両親はよくやっていたと思います。わたしもやりたいのですが、現在は無理です。しかし、わたしはこの家をただ管理するのではなく積極的に活用してもらいたいと考え、今年(平成8年)の正月、地域の人たちに開放しました。酒さかな持参で大勢やって来ました。そこに見学者も加わり、囲炉裏には鍋をかけ、これが平家鍋だとか言いながら夜中まで宴(うたげ)が続きました。これを正月の年中行事にしようと思っています。こういうことをするのが本当の意味で文化財を活用することになるのだと思っています。ただ見学してもらうだけが文化財の活用ではないというのがわたしの考えです。」

 (イ)夢は広がる

   a 公園とソバ畑

 今年(平成8年)4月、真鍋家住宅が見下ろせる県道(大野原・川之江線)沿いに一つの公園が完成した。
 「この公園は切山の皆さんの協力でできたものです。約2,000万円の寄付(内500万円は切山の人々の寄付)を集め、工事も自分たちで行った言わば手作りの公園です。わたしも帰省したとき手伝いましたが、たいへんな仕事でした。この公園に込められている地元の人々や切山を思う人々の気持ちには頭が下がります。公園には真鍋安次(**さんの祖父の弟)の胸像も建てられました。またわたしが提案して、夭折(ようせつ)した切山の俳人真鍋良章の句碑も建てました(写真3-2-9参照)。この句碑を皮切りにして切山に句碑や歌碑などをたくさん建立することができればどんなにすばらしいことでしょう。
 また、地域の人たちは、公園完成を機会に切山の里をもっと平家の里らしくしたいと考え、公園の真下にあるわたしの家の土地をソバ畑にしたいと言ってきました。それはよいことだと思って提供することにしました。現在準備に取り掛かっています。平家伝説の里にはソバがよく似合います。切山の玄関先に公園があり、眼下にソバの花が咲いている。その向こうに真鍋家住宅のかやぶきの屋根が見える。それは平家伝説の里にふさわしい景観と言えるでしょう。」

   b 平家の里の夢とロマン

 昭和52年(1977年)、「切山平家遺跡保存会」が結成された。
 「この会には切山の全戸が加入していますが、切山の出身者はもちろん、切山の平家遺跡に関心がある人であればだれでも入会できます。現在、会員は150人くらい、年1回総会を開いています。活動としては、遺跡の修復、遺跡へ行く道の改修などを行っています。お陰で遺跡は次第に整備されてきました。保存会がなかったら遺跡の保存はできなかったと思います。
 切山には平家伝説にまつわる遺跡がたくさんあります。切山に下谷(しもたに)というところがあるのですが、その下谷の方へ行くと安徳の窪という安徳天皇の行在所跡だと言い伝えられている場所があります。この辺りはかくれ里として最適地だったと思われ、今落ち武者がいても不思議ではないようなところです。平家伝説はまんざらうそではないというような気分になります。しかし証明するものがありません。安徳の窪から安徳天皇の遺物でも出土すればよいのですが、あいにくこの地は、昔から掘るとたたりがあると言われているところです。平家伝説を伝説として終わらせずに歴史的に実証しようとする試みも重要ですが、わたしは、伝説の持つ魅力も大切にしたいと思っているのです。伝説は人に夢を与えてくれます。ロマンがあります。何もかも分かったら夢もロマンもなくなります。
 『切山平家遺跡保存会』では、安徳の窪に『安徳天皇行在所』という碑を建て、また『安徳宮』という祠(ほこら)もつくりました。その宮の近くに美しい淵(ふち)があり、さらに少し行くと高さ7mの滝があります。わたしはそれらを『安徳の淵』『安徳の滝』と名付けてはどうかと言っています。この淵で安徳天皇が水浴びをされたとか、水をくまれたとか想像してみるのもいいじゃないですか。あまり史実、史実と言うこともないでしょう。わたしは切山の里で平家伝説のロマンを求め、夢を広げていきたいと思っています。」

   c 文化の里づくり

 「切山平家遺跡保存会」が作成したパンフレット『平家伝説の里・切山(①)』の表紙には真鍋霧中(本名安正)という日本画家の絵が載っている。
 「真鍋霧中は真鍋安次の息子です。切山の出身で、一時切山に住んでいたこともあります。彼の死後、昭和61年(1986年)、川之江市文化センターで真鍋霧中展が開かれ、わたしも観(み)に帰り、すばらしい作品を観賞することができました。この霧中の作品館をこの切山の地にぜひ建設したいものです。実現すれば、川之江市の文化施設の一つになります。霧中はわたしの家の出でもありますので、できれば真鍋家住宅に隣接して建てることができればどんなにすばらしいことでしょう。これはわたしの大きな夢の一つです。
 実はもう一つやりたいことがあるのです。それは真鍋家住宅に関する資料館をつくることです。建物だけを見学しても説明がないと理解できないところがあります。まず資料館で一応理解してから建物を見学してもらうようにしたいのです。真鍋家住宅はもちろん、四国の民家のこと、平家伝説とその遺跡に関しても分かるような資料館にしたい。『田辺家系譜』『検地関係の文書』など古文書類をはじめ、『古備前の大壷(つぼ)』丸亀藩主から拝領したと伝えられている『銚子(ちょうし)』『盃(さかずき)』、さらには、昔使われていた民具類なども展示したいと考えています。しかし個人の力は微力で限界があり、皆様の御協力や公的支援を仰がなければ実現しないと思います。とにかく今できることは、真鍋家住宅の裏山(ようがい〔防風林〕)の森づくりと住宅周辺の環境美化です。四季折々の花づくりやハーブづくりに取り組み、訪れた方々に喜んでもらいたいと思っています。さらに資料館づくりの実現に向けて構想を練ってみたいと考えています。」と熱っぽく語る**さんは、文化の里づくりにも意欲を燃やしている。


*1:真鍋家住宅(国指定重要文化財)を所有している真鍋家の所蔵。
*2:平生身につけたり、私室に安置したりして信仰する仏像。
*3:苞(つと)のこと。わらなどを束ね、中に山芋などを入れて包みとしたもの。
*4:屋根の形式。棟から四方にふきおろした屋根。

図表3-2-2 切山の戸数と姓

図表3-2-2 切山の戸数と姓

『愛媛県の地域調査報告集(Ⅱ)(③)』P90及び平成8年7月の聞き取り調査により作成。

写真3-2-4 県境の山々を望む

写真3-2-4 県境の山々を望む

平成8年7月撮影

写真3-2-5 残されたグラウンド(切山小学校跡)

写真3-2-5 残されたグラウンド(切山小学校跡)

現在はキャンプ場になっている。平成8年6月撮影

写真3-2-6 山腹に見える養豚場

写真3-2-6 山腹に見える養豚場

平成8年6月撮影

写真3-2-7 解体復元後の真鍋家住宅

写真3-2-7 解体復元後の真鍋家住宅

平成8年6月撮影

写真3-2-9 手作りの公園

写真3-2-9 手作りの公園

真鍋安次(初代川之江市長、川之江市名誉市民)の胸像。真鍋良章の句碑「ここからは平家部落やなしの花」。平成8年6月撮影