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愛媛の景観(平成8年度)

(1)山間の別天地

 **さん(西条市大浜  明治42年生まれ 87歳)
 **さん(西条市市之川 大正15年生まれ 70歳)
 **さん(西条市大師町 昭和5年生まれ 66歳)
 **さん(西条市市之川 大正12年生まれ 73歳)
 市之川鉱山は西条駅の南東約6kmの山あいにあり、アンチモン鉱(輝安鉱)を産出していた。市街地から自動車で約15分という近さに鉱山があるのはめずらしい。
 アンチモンはマッチの火程度の火力でも着火するので、かつては砲弾の材料として使われていた。従って、戦争が始まると需要が急増して価格が跳ね上がり、鉱山は非常な活況を呈したため、市之川鉱山は別名「戦争鉱山」と呼ばれていた。現在、アンチモンは蓄電池の電極や活字合金、半導体材料などに利用されている。
 市之川鉱山の第1の最盛期は明治時代の中期で、2度目が第一次世界大戦(1914年~1918年)の時であった。その後、市之川鉱山は次第に衰え、休業に至る。大正15年(1926年)に再開されはしたが、ほそぼそと採鉱する程度であった。昭和14年(1939年)から太平洋戦争終結までの間は、商工省(*1)からの増産命令と費用援助により事業が拡張され、3交代・24時間体制で掘り続けた。そして、昭和32年(1957年)に閉山。坑外の建物もすべて取り壊され、わずかに千荷坑口(せんがこうぐち)(写真4-1-1参照)と所々に残る石垣の景観に往時をしのぶのみとなった(②③)。

 ア 鉱石を求めて

 市之川鉱山の歴史の研究や資料収集に努めている**さんにも同席してもらい、太平洋戦争終結(昭和20年〔1945年〕)まで坑夫として働いていた**さんに坑内での労働の様子をうかがった。

 (ア)坑内で働く人々

 「わたしは、昭和18年(1943年)から市ノ川鉱業株式会社に籍を置いておりました。その時分は、多くの人が徴兵や徴用(*2)にとられていましたが、わたしの場合は、会社が、『この人間は、市之川鉱山にぜひとも必要な人間であります。』という内容の証明書を書いてくれたおかげで、ずっと坑夫として働くことができました。
 鉱山の現場監督が坑夫頭(こうふがしら)です。坑夫として初めて働く者は、坑夫頭に『どこぞ、ええところ、ないかいねえ。』と尋ねて、どの場所を掘ればいいかの指示をもらいます。指示された場所に行くと、岩壁に細い赤い筋が横にはっているんです。これがこの先に鉱脈があることを示しているんです。
 鉱山労働者としては、坑夫頭・坑夫のほかに手子(てご)がおりました。手子は坑夫の補助役で、地面に落ちた不要な石を箱丈連(はこじょうれん)(箱に綱を付けて引っ張る)に入れて運び、それをトロッコに積み換えて、軌道(きどう)の幅1mもないレールの上を転がして坑口まで運び出します。手子は賃金も安いです。どの坑夫の補助につくのかは、坑夫頭が指示します。この手子も、仕事に慣れてきたら坑夫に昇格できるんです。仕事をしている人はみんなほがらかで、『わしゃ、つろうてたまらん(わたしは、つらくて我慢できない)。』ということはなく、次のような歌を歌いながら作業をしたものです。

   石の固いのは、おててのからかよ。なんぼたたいても、さがりゃせぬ。
   わたしや、これから芸者をやめて、こうふさんの嫁になる。
   はら、おこちん、おこちん、おこちん。

 1か月間で鉱石を30貫(1貫は3.75kg)掘り出すのが仕事の最低基準で、それから量が増すごとに、1貫いくらという割合で賃金が増えていきました。」

 (イ)鉱石を掘る

 **さんの話が続く。
 「作業開始が朝8時からの場合ですと、まず午前中は、岩壁に穴を開けそこに黒色火薬(*3)を仕掛けます。60cmくらいの導火線に火を付けると、急いで走って坑口から外へ脱出します。その後爆発が起こり、その時点で昼休みとなります。
 昼飯は、行李(こうり)(タケまたはヤナギで編んだもの)の弁当箱に入れて持ってきていました。麦にお米が半分混ざった飯に、おかずは梅干しと漬物といりこが3匹から5匹くらい入っている程度のものです。
 食べ終わっても、急いで坑内に入ってはいけません。爆発から1時間たったくらいでは、爆発時の煙とガラスの細かい破片のような石の粉とで、坑内はまだもうもうとしているんです。その中へ入って破片を吸いこむと、それが肺に突き刺さります。40歳くらいまでで亡くなる坑夫が多かったのはそのためなんです。
 2時間くらいたてば、坑内の様子はだいたい落ち着きます。そこで、『どんなになっとうろか。鉱石がどんなにようけあろか(どれほどたくさんあるだろうか)。』と、わくわくしながら坑内に入っていくわけです。このときの姿勢は、立っているよりも、かがむ方がいいんです。どうしてかというと、坑内は天井が暖かいですから、粉塵(ふんじん)は舞い上がって天井をはっていて、きれいな空気は地面の方にたまっているからです。それを吸いながら進んでいくというのが仕事の上での要領の善し悪しなんです。こうするかどうかで寿命の長さが違ってくるんですよ。『石は割れとるけんど、鉱石は一つも見当たらん。』となると、また壁の赤い筋の様子を見て、爆破していきます。こうして、1日に2mくらいずつ掘り進み、それが4、5日続いたら、ほんの少しだけ鉱石が姿を現すんです。それからまた2曰くらい爆破する作業を続けていくと、坑夫の間から『あ、あった。一本ぶせがあった。』という声が揚がります。『一本ぶせ』というのは『指一本の幅』という意味で、その幅の鉱石があることを意味します。それから2、3日のうちに、『二本ぶせになった。』、『三本ぶせになった。』というように、鉱石の幅がしだいに広くなっていきます。『三本ぶせ』ならば、1か月掘り続けられるくらいの量の鉱石が埋まっています。大きな鉱脈に当たるか、あるいは全然はずれてしまうかは、坑夫それぞれの運です。1か月間に、通常の3、4倍も鉱石がとれるほどの鉱脈に当たる運のいい坑夫もおりましたよ。
 このように坑内では火薬を使いますから、坑内で使うはしごは、二本の柱の間に足場の木を渡している、普通一般的に見かける形とはぜんぜん違い、木の丸太に階段状に切り込みを入れたものです。これを『がんぎ』といいました。普通のはしごだと、坑内で爆破が起こったとき、運悪く岩石がはしごに当たれば簡単に壊れてしまいます。しかし、がんぎだと、岩石が当たっても壊れません。
 こうして掘っていると、時に岩壁にぽっかりと空洞が開くことがあります。これを「ガマ(晶洞)が開く」といいます。このガマの中にはマテ(結晶)があるんです。開く時に、マテを取り巻いていた泥が流れ出します。四方八方に伸びているマテを引っ張ってみると、手触りは細いダイコンのようで、柔らかくて折れません。それが、泥が無くなってしばらく空気に触れていると、ぴんと固くなるんです。マテの周りを泥が取り巻いていないカラガマという晶洞もあるのですが、それには、いいマテができていません。
 坑夫専用の風呂がありましたね。この風呂が少し変わっとりまして、こちら側に一つと、1mくらいの段差がついて向こう側に一つ、合計二つ浴槽があるんです。まず手前で体の泥などを洗った後、向こう側の浴槽へ移ります。風呂は、男も女も一緒に入っていました。体裁が悪いじゃのいうことはなく、それはおおらかなものでした。」

 (ウ)「鉑揺(はくゆ)り」(選鉱作業)

 さらに、**さんの話が続く。
 「掘り出した石はたたき割られ、アンチモン鉱と土石とに選(よ)り分けられます。これを砕鉱(さいこう)(別名カナメタタキ)といい、主に女性の仕事でした。分けたものはさらに細かく砕かれて、土石を取り除き選鉱場に送られます。選鉱場内には、広さが畳半畳くらい、深さが約40cmの水槽がいくつも備えてあり、川から樋(とい)で引かれた水が、水槽の七、八分目に入っています。水槽の中には大きなたらいを沈めて石で押さえています。竹で編んだ直径が50cmくらいの揺(ゆり)ざるに砕鉱された鉱石を入れ、水槽の中で揺するんです。そうすると、きらきら光る精鉱とくず石とがはっきり区別でき、くず石をのけてはまた揺する。これを数回繰り返すと、くず石の大部分は除かれます。ざるの目から漏れてたらいの底にたまった粉鉱は、円盤状で中央に少しだけくぼみのある揺板(ゆりいた)に水と一緒に入れ、それを傾けながら回して水を落としながらくず石と選り分けていきます。ここまでやっても、落とした水の中にまだ粉鉱が残ります。これを取るためには、2m³くらいの容器に水と一緒に集め、その底に泥のようになってたまるのを待ちます。こうしてたまったものは、マッチ箱のマッチ棒を擦りつける部分(側薬(そくやく))の原料として、東京や大阪のマッチ工場へ出荷していました。揺する時は、こんな歌も歌いよりました。

   チントはよいところと、だれがいうた。うしろはげ山、まえは海。
                           (「チント節(*4)」)
   伊予の西条の名物は、武丈のサクラに観音堂。いこうか、やめようか、
   たの屋の二階。かどのかが屋の名物は、うどんに、そばに、五目めし。
   ちょいと、市之川。(「西条の名物」)

 イ 市之川のくらし

 次に、鉱山が繁栄していたころの市之川地区のくらしぶりを探ることにする。
 昭和10年代の様子について、まず、**さん、**さんにうかがった。

 (ア)日常の一こま

 「人口は、今と比べたら多かったですよ。当時は、市之川地区は西と東の2組に分かれて、合わせて60戸余りありました。ここから歩いて2時間ほど山手へ上った保野にも約40戸ありました。千荷坑のすぐ下の『クシベ谷』にも家がたくさんありました(図表4-1-2参照)。
 まだ自給自足の生活でしたから、自分の家で食べるだけの麦、アワ、ヒエ、ソバ、トウキビ、大豆、サツマイモ、キュウリなどを作っていました。夕方に鉱山の仕事から帰ってきて、夕飯を食べ、それからまた農作業をしに出掛けていました。特にサツマイモはたくさん作っておりました。広さが3畳くらいで深さが約2mの穴(カライモツボという)を家の床下の地面に掘って、その中にサツマイモをモミガラと一緒にいっぱい保存しておくんです。また、しょう油もみそも作っていました。市之川は集落が川よりも上にあるため、水を引くことができず、田んぼがありません。ですから、お米はこの集落の店で買いよったです。その店は、日用雑貨から駄菓子、肥料などいろんなものを売っていました。朝日屋という雑貨屋もあって、そこもいろんなものを扱っていました。今は店はもうありません。
 1世帯に子供は8人前後はおりました。そしてほとんどの家は、父親は坑夫、母親は砕鉱の仕事をするという共働きでしたから、家事は、おばあちゃんと子供たちが分担してやりよりました。子守は、年齢が上の子の仕事でした。弟や妹を背負って学校に通って来る子もいました。兄弟の数が少ない子供は、友達から『あんたはええね。』とうらやましがられたものです。子守をしながら、ガラス越しに教室の中をのぞき、背負っている子供が寝付いたら教室に入ってくるという調子です。家の手伝いなどで、半年以上学校を休む者もいました。そうなると、かわいそうですが、進級できませんでした。また、農作業も子供たちが手伝います。子供といえども、立派な働き手でした。大家族全員が協力しあわないと生活できない時代でした。」

 (イ)お山神さんの祭り

 **さんに、祭りの様子をうかがった。
 「大正時代の話ですが、毎月、鉱山での収入の何分の一かは、ここの『お山神(さんじん)(白目山(しろめやま)神社(*5))さんの祭り』の費用として貯蓄していました。祭の日は、10月11日でした。西条の『おいづみさん(飯積神社)』の管轄でしたので、当日は飯積神社の宮司さんが歩いて来ていました。
 お祭りはにぎやかでしたよ。小松(周桑郡小松町)の方からも人が来ていました。『のぞき』やなにわ節の興行がありました。『のぞき』というのは、幅約1mの屋台の前面に、レンズがはめられたのぞき穴が5つから6つあり、この穴からのぞくと箱の中の絵(1畳くらいの広さ)が拡大されて見え、その絵を一枚ずつひもで上へ引き上げて入れ替えては一編の物語を見せるという仕掛けです。わたしが覚えている『のぞき』は、屋台を挟んで両側にいる奥さんとおばあちゃんが、にぎやかに板をたたいて調子をとり、それに合わせて屋台の主人が『三府の一の東京で、世にも名高きますらおが、はかなき恋にさまよいし、……』という七五調の物語を語りながらひもを引っ張って物語の筋を展開していたものです。
 また、坑夫は10人一組で『穴くり競争』をしました。この競争は、まず谷で大きな岩を選びます。セット(金づち状の坑内用具)とのみを使って30分間ほどかけて全力で穴を掘ります。一番深く穴を掘った者には、賞金が出たりお米や酒、しょう油が渡されたりしました。運のいい人は、外側が固くて内側が軟らかい岩に当たりよりました。この当時のお酒はなかなか高価で1升(1.8ℓ)が60銭していました。ちなみに国鉄(現在のJR)の西条・土居間が大正10年(1921年)に開業しましたが、その工事に従事した人の1日当たりの賃金が、男が70銭、女が35銭から40銭でしたからね。」

 (ウ)市之川小学校の思い出

 同じく**さんに、小学校時代の思い出を話してもらった。
 「わたしは、大正5年(1916年)から大正10年まで6年間市之川小学校へ通いました。そのころの学校は、全校生徒が約160人で、1年生と2年生、3年生と4年生、5年生と6年生という複式学級を3人の先生が1学級ずつ受け持って授業が行われていました。
 小学校時代に習った歌で今でも覚えているのが、この歌です。

   障子が明るくなりました。スズメがちゅんちゅん鳴いている。早く起きねば遅くなる。寝床をかたづけ髪をとき。
   朝もとおから、起きいでて。着物を着替え帯を締め。お顔はきれいに洗いましょ。目上の方には、おはようと。
   静かに御飯をいただいて、ごちそうさまと言いましょう。本や石板、風呂敷に。手ぬぐい腰にはせましょう。
   いってきます、と父母に。道草なんかせぬように。お友だちにも、おはようと。お友だちには仲ようと。
   馬や車を先通し、先生おはよう言いましょう。先生の言うことよく聞いて、静かに勉強いたしましょう。
   帰る時には、さよならと。帰ってきたなら父母に、ただいま帰ってきましたと。親に孝行いたしましょう。親には孝行い
  たしましょう。

 この歌を教えていただいた先生が、『親に孝行しましょうというのは、みなさんが学校から帰ったときに、学校であったことを、顔をしかめないでにこにこしながらお父さんやお母さんに話をすることです。これが本当の親孝行ですよ。みなさんこれを忘れられんよ。』と話されていたことを、80年近くたった今でもよく覚えています。」


*1:内閣各省の一つ。商・工・鉱山・地質並びに度量衡及び計画・交易に関する事務を管理し、商工大臣を長官とした中央官
  庁。1943年農商省・軍需省に改変、45年復活、49年通商産業省に改組。
*2:国家権力により国民を強制的に動員し、一定の業務に従事させること。
*3:硝石約70%、硫黄及び木炭末を各15%ずつ混合した火薬。火薬のうち最も早く発明されたものだが、一般には爆発力が
  弱く煙が多いので、花火などのほかは用いなくなった。
*4:現在の中国山東省チンタオ(青島)のこと。明治31年(1898年)ドイツの租借地となり、第一次世界大戦時に日本が占
  領し、大正11年(1922年)中国に返還された。
*5:「白目」とはアンチモンを指す。白目山神社は市之川鉱山の繁栄のために祀られたが、創立年は未詳。祭神は鉱山をつか
  さどる神である金山彦命(③)。

写真4-1-1 千荷坑口

写真4-1-1 千荷坑口

高さ約2.6m、幅約1.9m。正面右側には「市之共仝(きょうどう)鉱山」、左側には「明治二十三年一月」の文字が刻まれている。平成8年7月撮影