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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅳ-久万高原町-(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 菅生の地名を調べる

(1)地名研究の重要性

 久万地域の歴史や文化に詳しい和田正氏は、昭和53年(1978年)に発行された「ふるさと久万」18号に、「久万町小字名集録(一)菅生宮之前(みやのまえ)」を発表している。その中で和田氏は、土地台帳から小字が消えることを憂(うれ)い、「小字は集落と家族間の符号のようなもので、農山村ごとに農林業経営にとっては非常に大切なものです。作業や案内の指標となり、狩猟・山菜とりの教示、地味の制定に便利です。廃されても通称名として残るかもしれませんが、従来の通称名とゴッチャになり、また語り継ぐべき後継者が少ない現在、伝承の消えゆく事を心配します。」と述べている。
 和田氏は、旧久万町で最後の国土調査となった菅生地区の調査に参加して、「地名のもつ重み、すなわち地名の意味や先人の知恵というものをつくづくと感じさせられました。そして現在も残っている小字名(ホノギ)や、通称名(台帳にはないがその地区の呼び名)が、あまりにもその土地にふさわしく名づけられているのをみて感歎(かんたん)したり、またそれにあわせて地名や語源の勉強をするうちに、今まで以上にその重要さを痛切に感じた次第です。」とも述べている。そして「ホノギは、郷土研究の立場から云っても非常に大切なもの」で、東明神(ひがしみょうじん)の小字名「山神」が古代祭祀に関連することを示唆し、また有枝(ありえだ)の高森城について、「大門(だいもん)」という小字名や、地元に伝承された「城ノ台」という通称名から所在地を確認できたと述べている。また、菅生宮之前組の、和田氏の往まいがある場所の小字名は「土居表(どいおもて)」といい、河岸段丘上に館(やかた)が構えられていたとされている。
 そして、宮之前組の小字名73件、通称名49件を集録した和田氏は、「地名ことにホノギは郷土史の生きた資料であり、神社・仏閣と共に郷土の歴史が息づいている」ので、「合理性・機能性を追うあまり、先祖のくらし方、由緒・風土との結びつきが探究できる場、すなわちホノギをあっさり捨て去ることを厳につゝしみたいと思います。」と述べている。そして、この論考が菅生地区の一部の小字調べにとどまっており、「でき得れば菅生地区だけではなく久万町全域の集録にまでひろげてゆきたい」と提案し、「これ等の集録は、国土地理院の、五万分の一の地形図から採録できる集落名などの地名考とは違って、地名研究の最先端すなわち地名の根っ子とでも云うべき細かくて根気と時を要する作業です。その為には各地区の人たちの御理解なくしては出来ない事ですから、御協力を賜りたいと思っています。」と呼びかけている。

(2)小字地図を作る

 菅生地区の小字地名を集録し、それぞれの地名の範囲を地図に示すため、Aさん(昭和13年生まれ)、Bさん(昭和14年生まれ)、Cさん(昭和26年生まれ)、Dさん(昭和34年年まれ)、Eさん(昭和34年生まれ)、Fさん(昭和51年生まれ)と一緒に調査を行った。
 調査の第一歩は、土地台帳と地籍図を照合して、土地一筆ごとの小字を調べて図示することである。まず、土地台帳を調べた。明治10年(1877年)前後に県内で実施された地租改正(ちそかいせい)に際して、地所取調(土地一筆ごとの現地調査)が行われ、一筆ごとの地番、小字、地目(田か畑か宅地か等の別)、面積、所有者等を記した土地台帳「段別畝順帳(たんべつせじゅんちょう)」が、当時の村ごとに作成されている。「段別畝順帳」の一部は愛媛県立図書館に収められており、県立図書館のホームページで所蔵分の目録を閲覧することができる。幸い、明治9年(1876年)に作成された菅生村の「段別畝順帳」3冊が所蔵されており、この「段別畝順帳」から、菅生中通、菅生中組、菅生北村の小字と地番の情報を一覧表にまとめる作業を分担して行った(図表1-3-1参照)。
 次に、現行の地籍図を取り寄せたが、国土調査や圃場(ほじょう)整備に伴う交換分合等によって地番や土地の形状が変更された箇所があり、小字地名を現行の地籍図の地番を手がかりに表示するのは難しいことがわかった。そこで、「段別畝順帳」と同時期か、少し遅れても明治時代作成と考えられる地籍図を法務局で閲覧した。この地籍図は地目ごとに彩色され、「段別畝順帳」と同じ地番が一筆ごとに記されている。ただし明治時代の地籍図は、当時の測量技術の未熟さから、形状や面積の精度(正確さ)が十分でない。古い地籍図の写真と比較しながら、現行地籍図から土地境界をトレースして(わかりにくい箇所は推定)、旧地番(明治時代の地番)を書き込んだ地図を新たに作成した。
 この旧地番入り地図と、「段別畝順帳」から作成した小字と地番の一覧表とを照合して小字地図を菅生中通で3枚、菅生中組で2枚、菅生北村で2枚、それぞれ作成した(図表1-3-2参照)。そして、その小字地図計7枚を集成し、1万分の1弱の大縮尺地形図をベースにして、菅生中通・菅生中組・菅生北村を合わせた小字集成図(部分図)を作成した(図表1-3-3参照)。
 小字地図を作成したのち、通称名(土地台帳には記録されていないが、住民が呼びならわしてきた口承地名)を小字地図に書き込んだ。通称名は、菅生在住の方が情報を収集して書き入れたものである(図表1-3-2参照)。
 これらの表や図から、四国遍路の札所である大宝寺に関連する地名をみてみよう。大宝寺のある場所は「寺」という小字で、寺の東側に「寺ノ東」、南の谷川を渡った山手に「古寺(ふるてら)」の地名がある。また、中組に「中之坊(なかのぼう)」「西之坊(にしのぼう)」「定泉坊(じょうせんぼう)」「理覚坊(りかくぼう)」「釜田坊(かまたぼう)」の小字があるが、これは、江戸時代中期(寛保年間〔1741~1774〕)に書かれた記録にある大宝寺の塔頭(たっちゅう)(大きな寺院の中にある小さな寺院)11坊のうちの5坊の名と同一の地名である(④)。これらの小字の地に、それぞれの塔頭が位置していたことが想定される。中通組に「京後坊(きょうごぼう)」という小字があり、通称名「チョゴボウ」と位置が一致しているが、江戸時代中期の大宝寺塔頭に、「京後坊」あるいは類似音の坊名はない。また、小字「中屋」に通称名「ナカヤボウ」があるが、これも江戸時代中期の塔頭にはない。伝承によれば、塔頭は初め48坊あり、その後24坊になったとされるので、京後坊やナカヤボウは江戸時代中期より古い時代の塔頭名かもしれない(④)。

図表1-3-1 菅生3組の小字と地番

図表1-3-1 菅生3組の小字と地番

明治9年に作成された菅生村「段別畝順帳」にある小字と地番を、Aさん、Bさん、Cさん、Dさん、Eさん、Fさんが照合調査した表により作成。

図表1-3-2 菅生中通の小字地図(3枚のうち1枚)

図表1-3-2 菅生中通の小字地図(3枚のうち1枚)

明治9年菅生村「段別畝順帳」及び地籍図、聞き取りにより作成。旧地籍図をもとに土地一筆のおよその範囲を示しており、境界線や道路、水路等は省略した箇所がある。

図表1-3-3 菅生中通・中組・北村の小字集成図

図表1-3-3 菅生中通・中組・北村の小字集成図

小字地図7枚、地形図より作成。小字のおよその範囲を太線で示した。