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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅳ-久万高原町-(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

3 社会生活と信仰、娯楽

(1)消防団

 組員と消防のマトイ、天秤型の手押し消防ポンプが写る写真を見ると、人々の法被(はっぴ)には、「川瀬消防組」とある。「消防組」とは、火災その他の災害に出動して住民を助ける団体で、警察の下部組織として警察署長が任命した。品行方正な人が厳選されたことから、名誉な職として一般住民からも尊敬をうけた。
 直瀬地区では、明治末から大正ころに結成された。やがて昭和14年(1939年)に戦時下での「警防団」に改組され、軍や警察と連携して戦時下の郷土防衛を担ったのち、終戦後解散となり、戦後新たに「消防団」として編成されることとなった。
 写真は戦前の消防組の記念写真である。法被には、組織の名前とともに役職名があり、前列中央の男性が部長、その左隣が小頭、その他は消防手であるようだ。消火の際は「部長」がマトイを持ち、消火の指示を出した。前列右端の人物はトビさんと呼ばれ、鳶口(とびくち)という金属製の金具が付けられた木製の棒を用いて、消火作業での障害物の除去や解体を担当した。中央列右端の人物は筒先(つつさき)という消防ポンプの先を持っている。
 戦後のことではあるが、Bさんによれば、消防団に選ばれ、有事の際にすぐ出動できるよう、家の戸口に消防の法被と帽子を懸けることは名誉だったと振り返る。

(2)戦時下の営み

 寛一郎の写真には、戦時下の出征兵士の見送りの場面が残されている。Aさんの記憶では、村民の出征時、小学生は全員で兵士の見送りに出た。見送るのは、上直瀬地区の入り口であった直瀬橋の傍で、学校にある紙製の日の丸を振って見送ったという。
 逆に、戦没者を迎えに行く場所も直瀬橋であった。当時、川瀬村の役場は下畑野川にあり、戦没者の遺骨はそこに届けられる。遺族は役場まで徒歩で遺骨を引き取りに行き、戻ってきた遺族を村民は直瀬橋で出迎えた。Aさんによれば、日中戦争の初期のころのものだろうとのこと。後に戦争が激化してからは、戦没者の数が多いためこのような丁寧な出迎えは出来なくなった。
 また、Dさんも振り返る。「直瀬国民学校時代、約60人の同級生の中で、3、4人の級友がお父さんを戦争で亡くしたんよ。そのころには、直瀬橋に迎えに行くのも男性は出征しておらんけえ、子どもばかりで、こんな立派なお迎えはようせんかった。」

(3)五社神社祭り

 寛一郎の写真には、上直瀬の氏神である五社神社祭りの様子が残っている。五社神社祭りは、秋の豊作を鎮守の神に感謝して行われる秋祭りで、神輿渡御(みこしとぎょ)や獅子舞が行われた。久万地方でよく行われる「ねり(お練り)」は直瀬では行われていない。昔は11月3日、4日に開催されたが、昭和34年(1959年)に久万町に合併して以降は11月1日、2日に改定され、さらにごく近年にまた11月3日に改められた。
 Bさんによると、祭りの全体の流れは次の通りである。まず神輿が神社の境内から出ると(宮出し)、区長場(その年の区長宅)で獅子舞を奉納した後、村中の希望者の家々を回る。しかし、この習慣は昭和46年(1971年)ころに廃止され、現在は宮出しの後すぐにお旅所(祭神が巡幸するとき、仮に神輿を鎮座しておく場所)で獅子舞を奉納し、永子組の公会堂、段組の公会堂、仲組の公会堂、下組のお旅所と順に回り、最後に再びお旅所で獅子舞を奉納し、宮入りする。各組で酒食が振舞われるため、下組に帰ってくるころにはみな酔っぱらっていたという。
 各場面での舞の内容は次の通りである。

   宮出しの獅子舞 前の功(キリ/三番叟(さんばそう)) 中の功(キリ)
   宮入の獅子舞  すまし 後の功(キリ)
   各組の獅子舞  庭獅子(トントコ)

 神輿の担ぎ手(神輿守)は、永子組、段組、仲組、下組の4組から8人ずつと、当番組からさらに4人の計40人程度が選ばれた。装束(しょうぞく)は、黒いチョッキに白い襦袢(じゅばん)。頭には鉢巻をし、足元は白足袋と黒靴下、草鞋(わらじ)を履いた。胸部には神様に触れることを許されたしるしとして江戸麻(えどそ)(苧)と呼ばれる細いたすきが掛けられた。江戸麻は青い染料で染められた麻製のきれいなもので、神聖なものであった。
 Bさんによれば、神輿守に選ばれるのは家の誉れだったが、戦後の物資の少ない時代には、装束の支度をするのが大変で、嬉しく誇らしい反面、親に迷惑をかけてしまうという切ない気持ちにもなったという。
 現在の獅子頭は張り子製だが、昔の獅子頭は木を刳(く)り抜いて作られたもので、重量があり動かすのが難しかったという。手作りのため、獅子頭は組によってサイズも表情も違っていた。Bさんによると、獅子舞は、頭部と前肢を担当する前の人物のズボンが獅子の胴体と同じ唐草模様の油単(ゆたん)で統一されていないため、正式さを欠いているとのことである。
 上直瀬の獅子は、雌獅子(めんじし)で、同じ直瀬でも下直瀬は雄(おん)獅子が使われた。上直瀬は、明治時代に温泉(おんせん)郡田窪(たのくぼ)(現東温市田窪)のものを習ったという。雌獅子の舞いでは小太鼓2つ、雄獅子では大太鼓と小太鼓を一つずつ使われる。また、雌獅子の舞は所作(しょさ)が優美で、荒々しい雄獅子の舞いとは随分と違いがある。

(4)草競馬

 大正初期から昭和30年代後半まで、直瀬の大寄駄馬では草競馬が行われていた。大寄駄馬は下直瀬の住民の稲木場でもある。その稲木場の横で、木の枝で囲われた一周400mの競馬場が作られた。草競馬に出走する馬は、レース用の馬などではなく普段住民が飼育しているもので、直瀬だけでなく畑野川や面河村からも馬主が参加した。草競馬が行われる時期は、毎年、空海が入定(にゅうじょう)した3月21日(「岩屋さんの日」、「おいわいさんの日」とも言った)に行われ、岩屋寺詣(もうで)とともに草競馬を楽しむ見物人が100人を超し、出店もあるほど盛大な行事であった。見物人には近隣の村々の人々の他、温泉郡の井内や川内(現東温市)から来る人も多く、ここでの出会いがきっかけで婚姻関係が結ばれることもあり、娯楽としてだけでなく、人々の交流の場ともなっていた。
 もっとも、競馬と言っても賭博(とばく)が行われていたわけではない。優勝した馬には、賞品として酒と米1俵が贈られたが、景品が目当てというよりは、皆で楽しむ遊びであった。参加する馬は5、6頭、騎手も入れ替わるなどして10レースほどが行われた。レースの見どころは、出走馬のスピードだけでなく、酒に酔った馬主が出走後にすぐ落馬するなど様々なハプニングにもあり、それが観客を楽しませた。「案外、怪我(けが)せんもんでな。」とBさん、Eさん夫婦やAさんは当時を思い出して笑う。
 なお、大寄駄馬の地名は、次のような由来をもつ。明治4年(1871年)、久万山では「辛未(かのとみ)久万山騒動」と呼ばれる、旧藩主の久松定昭の東京転任を阻止するための嘆願運動が起こった。嘆願が聞き入れられなかったことから、暴徒化した総勢千数百人の集団が松山へ進出しようとして鎮圧された騒動だが、これに参加した大味川村、杣野村、直瀬村などの村民が集合した場所が大寄駄馬で、そこから「大寄」という地名がつけられたといわれている。

(5)美しい直瀬

 「寛おじさんはわしらのくらしを撮ってくれとったんですなあ。」Bさんは、しみじみと写真に見入りながら寛一郎の写真が直瀬の自然の美しさを写しているだけでなく、人々が忘れつつあるかつてのくらしの記憶を思い出させてくれたことに感謝する。
 今も昔も直瀬は美しい。それはまさに『川瀬村郷土誌』(1909年)の冒頭の一節に余すところなく記されている。
 「海抜六千九百尺、四国山脈の主軸たる石鎚の雄峰を去ること、西南数里、亀ヶ城山、三坂山の南、二(ママ)淀川の上流地方を占むる長方形の盆地、之ヲ川瀬村の楽土となす。天近くして気清く、春は桜桃之を飾り夏は涼風緑蔭に薫し、秋は紅葉燃えんとし、冬は白雪山野を浄化す。風光の明媚、四時佳ならざるなく、穀禾又豊熟して人情至純なり(①)」
 しかし、直瀬の素晴らしさは風景だけにあったのではない。寛一郎が残した数多くの写真にみられたように、風景のなかに人々の日々のくらしがあってはじめて、直瀬は美しくあるのである。


<参考引用文献>
①久万町『久万町誌資料集』 1969

<その他の参考文献>
・鐘ヶ江洋子編集『菅良太郎さんが記録した―直瀬の昔むかし』 2009
・古史研究会編『直瀬の起源と(伝説)時代と推移』 1999
・久万町誌編集委員会『久万町誌増補改訂版』 1989
・愛媛県農務課『山村農業の実態』 1951
・愛媛県教育委員会『上浮穴郡民俗資料調査報告書』 1972
・久万町教育委員会『上浮穴郡に光をかかげる人々』 1974
・久万町教育委員会『上浮穴郡農林業史』 1976
・神野昭『久万高原の文学と伝承』 1977
・馬喰田高年『井部栄治と久万林業』 2000
・久万町教育委員会『久万の伝説』 1985
・伊予鉄道株式会社『伊予鉄道百年史』 1987
・森正史「『上直瀬の民俗』ききがき」(『ふるさと久万』第2号 1970)
・渡部満尾「直瀬水力発電によせて」(『ふるさと久万』第17号 1978)
・川瀬村「村有林 林業沿革史」(『ふるさと久万』第19号 1979)
・高岡文雄「上直瀬氏神五社神社の御由緒書より」(『ふるさと久万』第38号 1998)
・窪田一生「ふるさと久万を生き抜く」(『ふるさと久万』第51号 2012)
・久万美術館「久万高原モダニズム―昭和4年、久万でライカを買った男・小椋寛一郎」 2009
・小椋由子「昭和4年にライカを買った男の話」(『クラッシックカメラ専科』第45号 1998)

写真4-1-17 現在の景色

写真4-1-17 現在の景色

久万高原町直瀬。平成24年12月撮影

写真4-1-19 直瀬橋より

写真4-1-19 直瀬橋より

久万高原町直瀬。平成25年1月撮影

写真4-1-23 大寄駄馬の現在の景色

写真4-1-23 大寄駄馬の現在の景色

久万高原町直瀬。平成25年1月撮影