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愛媛の技と匠(平成9年度)

(2)砥部焼が生み出す美と心②

 エ 下絵付け

 (ア)山水画の魅力

 **さん(伊予郡砥部町五本松 明治43年生まれ 87歳)
 **さんは、大正14年(1925年)旧村立砥部工業学校で主として陶画を学んだ。卒業後、同校の助手を勤め、砥部町窯業試験場技術員などを経て、昭和32年(1957年)に「竹山窯」を開いた。昭和52年(1977年)「下絵付け」で「国の伝統工芸士」に認定される。昭和55年には「窯業絵付工」として卓越した技能者「現代の名工」の労働大臣表彰を受けている。平成2年には、愛媛県教育文化賞を受賞した。
 平成2年11月天皇陛下御即位を祝して、愛媛県より献上する花瓶に「四季山水絵」を謹画。さらに平成5年6月皇太子殿下御成婚の御祝いとして、愛媛県より献上する花瓶の依頼を受け「色絵雲鶴文花瓶」を謹製した。
 **さんは、砥部焼が伝統的工芸品として通産省指定(昭和51年)を受けるに至った基礎を作りあげた一人である。白磁の上に藍色の濃淡で表現した山水画(*23)は、落ち着いた雰囲気を漂わせる。特に、遠近感を出すためのボカシの技法は、伝統的な山水画に新しい境地を開いた。砥部町庁舎の玄関を入ると、四季を描いた山水画の陶壁が広がっている。

   a 一生が勉強よ

 **さんは、「話するほどのことはしてないが、せっかく来ていただいたのだから」と控え目に話してくれた。
 「砥部工業学校というところでな、わたしは素人(しろうと)ですけんな、焼き物は、こうして作るんだということを習ったわけよ。専門は陶画というんで入ったんだが、陶画とロクロを多少やったくらいよ。教えてもらった先生は、酒井如雲いうて**君のおじいさんよ。絵が非常に上手な人でな。山水画は、修業して一人前に描けるようになるまでどのくらいかかるかと言われても難しいな。それは『一生かかるな』、『一生が勉強よ』。人によって違うけどな。まあ、3年から4年もやればたいていはできるようになるかな。
 絵付けの構図は、人、人によっていろいろ考えて付けるしな。この花瓶には、こういう絵が似合うかなと思ってやる。花瓶に合わんといかん。龍とか鳳凰(ほうおう)(*24)などは昔からあった図柄だが、それをどういうふうにおさめたら花瓶が生きてくるかよ。絵付けは素焼きしたものに描くから、じきに吸いこんでしまう。だから練習しなかったら描けんな。絵だって頭の中にないものは、出てこんからいつも勉強せんと。下書きは鉛筆で描く。焼くと消えてなくなって残らん。
 いつもうまく仕上げたい気持ちはあるけど、1,300℃くらいの窯の中に入れるから、出てきたら全然違う。呉須で描いた時には黒ずんでいるが、焼くと藍色に変わるしな。呉須で描いた時には遠近感というか、そんなもんも分かりにくいわけ。焼いて初めて浮き出てくるのよ。長年の『勘(かん)』で描くが、焼けて出てくるまでは細かい部分までは、わからんのよ。窯から出すのが楽しみなところもあるが、もっとも下手な絵が上手になって窯から出てくることは決してないしな。」
 **さんから話を聞く席には、息子さんの**さん(昭和13年生まれ、59歳)の同席も得た。「竹山窯」の**さんの作品は、**さんがロクロをひいたものに、絵付けする。二人で一つの作品が生まれている。「下絵付け」と「上絵付け」の違いについて、**さんが説明してくれた。
 「下絵付けというのは、染付けのことを言うわけですね。上絵付けというのは、いっぺん本焼きした上からもういっぺん絵の具をのせまして、今度は750℃から800℃くらいの温度で焼くんです。そうすると、いろんな色が出るんです。下絵付けは、絵が光っている上薬(うわぐすり)の下に絵があるんですよ。上絵付けは、上薬の上に色がついているんです。描いた絵の具そのものが溶けるんです。」すると、**さんは「温度も焼き方も違う。上絵の赤は難しい。本焼きでは、なかなか色が出ない。柿右衛門(*25)は、上絵の赤を出すのに苦労した。」と付け加えた。

   b 新しい境地を開いたボカシ

 愛媛新聞「ひと彩々」(平成8年4月1日付)に砥部町庁舎の玄関にある「四季を描いた山水画」の陶壁(写真2-1-28参照)について「精巧な霧吹きを使って、藍の濃淡のばかしを工夫し、伝統的な山水画に新しい境地を開いた。」という記事が載っていた。この技法について、**さんが説明してくれた。
 「陶版の上に鉛筆でスケッチしておいてですね。後は、呉須で描いていくんです。鉛筆で下書きしてもカーボン(炭素)は、600℃から700℃くらいで焼くとなくなってしまうのです。そして、大体の骨描(こつが)き(絵付けのときの輪郭線)とかダミ(線描きした間を薄くぬる)とかは、やっておくんです。その後、微妙なボカシをしていくんです。昔はですな、網の上で絵の具をつけた刷毛(はけ)でこすると、下に細かい霧が『バー』と落ちよったんです。今は、コンプレッサー(圧縮機)を使いましてですね。スプレーガン(噴霧器)というので霧を吹きかけるんです。そうして、ボカシていくわけです。」

 (イ)和紙染めの魅力

 **さん(伊予郡砥部町五本松 昭和32年生まれ 40歳)
 **さんは、佐賀県出身。九州造形短期大学でグラフィックデザインを学ぶ。山田公夫さん(平成8年、「ロクロ成形」で「国の伝統工芸士」認定)と結婚し砥部へ。義父(きよし窯窯元)の勧めもあって、佐賀県立窯業試験場で陶芸の基礎を修得する。平成8年、砥部焼では初めて女性の「国の伝統工芸士」(上絵付け)に認定された。
 最近の砥部焼をみると、女性の活躍ぶりは目覚ましい。えひめ雑誌所収の「愛媛の陶芸文化(⑦)」によると、次のように記されている。
 「今年(平成9年)も砥部焼伝統産業会館で砥部焼で働く女性陶工だけの作品展『まどんな展』が開かれた。今回は52人の女性が出品し、売れ行きは好調という。」さらに砥部焼の歩みの中での女性の立場について「確かに、過去にも女性は砥部焼にとって大きな労働力として活躍した時代はあった。明治29年(1896年)の砥部焼の『職工人名簿』によれば、砥部焼陶工550人のうち185人は女性で、3人に1人は女性の陶工であった。そのころの仕事は『型絵付け』という型紙を使って刷毛(はけ)で摺(す)り込むステンシルが女性の主な仕事で、1日千個の茶碗に絵付けしたという。」(中略)「戦後の女性の仕事は石膏(こう)型を使った鋳込(いこ)みや水拭きといった仕事で貢献したが、あくまで裏方の作業が多く家計補充的労働力の性格が強かった。」(中略)「ところが最近の砥部焼での女性陶工の仕事の性質は少し様子が違ってきたように思う。女性は自ら模様やデザインを決める重要な役割まで担うようになり、ロクロにまで参画しようという勢いである。」
 **さんは砥部焼の伝統ともいえる呉須で草花を描くとともに、有田(佐賀県)で学んだ技術を取り入れ、みずみずしい感性で新たな砥部焼づくりに挑戦している。そのかたわらには、素朴な「おひなさま」があった。窯の栞(しおり)には「心の中に芽ばえた何かステキなものを求めて気持ちのおもむくままに土をこね、ひねっていたら、つぎつぎと生まれてきた私の人形たち。砥部焼の白磁と藍を生かした素朴で愛らしいこの人形たちには、私のポエムがいっぱいです。」の言葉が添えられている。そして、砥部焼の「おひなさま」について話してくれた。
 「最初は素朴な、こんなおひなさまがあったらいいなあと思って作ったのが始まりです。手作りで手描きなので、3年くらいは仕事の合間に作っていたんです。色付きで型のものは、有田とか瀬戸(愛知県)に行ったらあるんですよ。藍(あい)染めだけの素朴なものは見たことないので、いろんな絵の具を使いたい時期があっても、おひなさまだけは呉須で通そうと思ったんです。一番気を使うところは『顔』ですね。表情が優しくなるように丁寧に絵付けをしていきます。」

   a 大切なわたしの技術

 **さんは「’97愛媛の陶芸展」(平成9年8月27日~9月1日まで「いよてつそごう百貨店」で開催)のトークショーで「和紙染め」への思いを次のように語った。
 「和紙染めは、有田の試験場で勉強している時に教わったものです。唯一、有田の香(にお)いがわたしの中でするかなというものなのです。砥部に来てからは、ほとんど周りの方々が筆だけで簡単な草花を描いているのが砥部焼ということで、また、そういうものが受けていました。そういう絵を技術的にも描いていかなければいけないのではないかと思って、最初は簡単な草花を筆で描く練習をしていたのです。これだけでは物足りないという感じが、年を追うごとにしていました。
 もう1回、基本に返って有田で習った和紙染めを思い出しました。和紙染めだったら、わたしの好きな油絵に似たタッチが単色で出せるかなと、小さな展示会から少しずつやっていくようになりました。最初は和紙染めで花を表現しても賞に入るどころか、その評価にも値いしないくらいの作品しかできなかったのです。どんなに一所懸命やっても成果が得られない年月が3年くらいありました。
 ある時、ふと和紙染めにろうを塗って、はじいたり削ったりと、ちょっとした工夫をしてワンステップ技術を上げてみたら、どんどん作品の大きさも広がっていくし表現の仕方も広がってきたのです。そういう中からだんだん作品がまとまってきて、自分が表現したいものが固まってきたのです。『あ~、やっていてよかったなあ』と安堵(あんど)しました。
 次は色絵具に興味をもちだし色を使っての表現に移っていきました。いろいろやっていますが完成することなく、まだ思いは満たされていません。和紙染めにしろ色を使っての表現にしろ、これから先もっと長い間、わたしが製作活動をする中で付き合っていかなければならない大切なわたしの技術なのです。もっと広げたり、ふくらませたりしていくことがこれからの課題だと思っています。自分の中で納得のいく作品ができたらいいなと思っています。」

   b 有田の香がするもの

   (a)ティシュペーパーを使う

 「素焼きのところまでは、主人が作ってくれるんです。和紙染めは、もともと和紙でしたんだと思いますが、わたしはデザインした形にティシュペーパーを手でちぎるんです。有田の試験場で教わったのは、手軽なトイレットペーパーだったんです。それも『ガザガザ』したのが一番いいと言われたんです。最初はそれでやっていたのですが、このころはそういうトイレットペーパーが見つからないのです。だからわたしの発想ですがティシュでは、どうかなと思って。
 手でちぎった『ピラピラ』は、ハサミみたいにきれいに切れませんよね。これを生かすために、わざと手でちぎるんです。そして自分の好きな呉須を大量に作っておいて、大きいダミ筆で上から紙にしみこませていくんです。素焼きの上に置いたティシュに呉須がすぐ吸い込んでいきますので、それをはがすと筆で書いたのと違うやさしい感じの絵ができるんです。絵はいろんなパターンを組み合わせ、そこにろうを塗ったり、削りを入れたりしながらデザインをふくらませていくんです。」

   (b)手間のかかることが好き

 「ろうは、そのつどコンロにかけて溶かして使っていたんです。今は、発水材といってろうと同じ作用するのを有田から取り寄せるんです。素焼きの上に書いておくと乾くとろうと同じだから、この上に呉須を塗ってもそこだけ呉須がのらないんです。そのまま薬をかけて焼いたら、ここにも薬がのらないので土の生地だけが見えてしまうんです。
 食器としては生地だけが見えたら、汚れがついて不便なんです。だからもう一度、素焼きに入れるんです。そうするとろうの液が焼けて無くなって、白抜きになっています。呉須があるところと、ないところの模様が簡単にできるんです。ろうを使うと手間がかかるんですが、わたしは、そういうのが好きなんです。
 削りに使う道具は、剣先(けんさき)というペッタンコの金だけの道具を売っているんです。最初はこういう道具なんだと思って使っていたんです。力を入れると指が痛くなるんです。主人に割りばしで両側をはさんで巻いてもらったら、すごく使い易(やす)くなったんです。
 素焼きしたものを削りますよね。呉須の削った粉が散って、周りに着くと製品としては『ペケ(駄目)』になるんです。コンプレッサーで粉をのけるのです。削りをちょっと使うのはいいが普通の食器にこういう作業をすると、よけいに手間が増えますよね。わたしは、めんどいことが好きですし、いろんな表現がしたいから削りを入れたらいいと思うものには、入れるようにしているんです。」

   (c)器と向かい合う中で

 「陶芸展などに出品する作品は、デザインが一番難しいです。書き過ぎてもいけないし、かといって中途半端になってもいけないし、わたしは書きたい方なのでどこまでで止めるかです。頭の中でいろいろ考えておいて、自分の中で少しずつ蓄積されたものがありますよね。それをスケッチなどして、きれいに1回整理しながら書いていってデザインが決まってくる、だれもがそうされると思うんです。
 わたしはここで決めていても、器の前にきたら気分が変わってしまうんです。常日ごろ、こんなのが書きたいな焼けたらいいなと思っているのを少しずつ書いていくんです。何度もいろんなパターンの組み合わせだから、以前やったもののここが好きだからと考えが足してゆかれるんです。わたしの作業は、決まったところからやっていって、次はどうしようかと器と向きあっている中で、だんだん出来上がっていくんです。いつもそうやっているから、その方が自分も楽なんですよ。楽しみながらやっています。」

 オ 上絵付け

 **さん(伊予郡砥部町大南 昭和10年生まれ 62歳)
 **さんは、昭和30年(1955年)に県立砥部高等学校窯業科(昭和37年、県立松山南高等学校砥部分校となる)を卒業し、同年、梅山窯に入所した。以来、現在も**さんと共に砥部焼の歩みを見続けてきた。**さんは「わたしが仕事を始めたころから、よき理解者として協力してくれました。彼と共に歩んできたようなものです。」と話している。
 **さんの信条である「牛歩悠悠」について尋ねた。「牛が歩くように、しっかり仕事を見つめて少しずつやっていったら、わたし程度には技術が身につくんではないかと思って。結婚式でも何か言葉をと言われたら色紙などに書いています。家庭生活でも、あせってはいかんということ。まあ二人で協力しあって、少しずつ築いていったら、普通の家庭ができるんです。どっちか一人が急いではいけないんです。」
 **さんのこの生き方が日本を代表する陶芸家に最も身近に接し、その技と人なりを吸収したのではなかろうか。昭和30年から34年まで県商工課の嘱託としてデザイン指導を行った鈴木繁男の弟子第1号ともいわれている(⑧)。また昭和31年に砥部を訪れた富本憲吉とは、京都の試験場へ内地留学したとき、朝夕、工房を訪れ身近に接している。昭和52年(1977年)、上絵付けで「国の伝統工芸士」の認定を受けたのも富本の勧めによるものである。さらに昭和34年から36年まで県商工課の嘱託となった藤本能道には「赤絵付け」を学んだ。その中で「染付歯朶(しだ)文」の模様が生まれた。

 (ア)絵付師への道

   a 鈴木繁男との出会い

 「わたしが定時制の窯業科を卒業して、この会社に就職したのが昭和30年の春だったんですよ。ちょうど鈴木先生が県の商工課の嘱託で砥部焼の指導に来られたんです。そのころの砥部は、花器ばっかりで食器は作っていなかったんです。焼き物をやるなら食器をやらないかんということだったのですが、食器は地道な技術が必要なのです。ロクロも絵付けもいっぺんにはできないんです。社長がわたしに『先生の手伝いをお前せい。』と言われたんですよ。先生は砥部に3か月おられて東京へ帰られて、また3か月たったら砥部へ来られていました。おいでになると先生の下でお手伝いしていたんです。
 先生が考えられて、こんなことならできるんではないかと始めたことは、ラシャ(羊毛で地が厚く密な毛織物)をハサミで切ってスポンジにはるんです。そしてラシャに呉須を吸わせて押しつけて、素焼きに吸い取らせる。ラシャ版ですよね。筆を持つ技術がないころに何かデザイン的に面白いものができるんではないかとやった仕事です。また、『呉須うち』といって筆で『ピー』とはねたら呉須が『ツルル』と出るんですよ。それを濃い薄いでいろいろとたたきつけたりしてね。そのすきまに先生がちょっと筆で模様を書いたりね。筆はだれも持てる人がいなかったんです。わたしも筆は不得手だったので、最初は線を引くことから始めたんです。」

   b 富本憲吉との出会い

 「昭和36年(1961年)に京都の試験場に行く内地留学制度がありましてね。県の方で『**君、行ってみないか。』と言われましてね。会社の許可を得て、半年間行ったんです。社長のお知り合いで砥部から京都へ行った方に紹介していただいて部屋を借りたんです。下宿が富本先生の工房と歩いて3分ほどの所だったんですよ。
 先生は昭和31年から33年ころにかけて3度、砥部へおいでているんですよ。ちょうど、わたしがこの会社に入ったころです。なぜおいでになったかと言うと、そのころ先生は白磁の仕上げ段階というか、有田の柿右衛門の濁し手(*26)という乳白色の白磁でない白い焼き物を追求されていたんです。中国の定窯(ていよう)(*27)の白磁とか。それで砥部の淡黄磁の白磁を生む磁土をやってみたいというのでおいでたんです。その時に砥部では生地が手に入りにくかったのです。テスト的に砥石を掘ってきて先生が試験されるくらい生地を作って、それを京都の窯で焼かれたんです。こんな具合になったと送ってこられたものが、梅山窯の参考館に置いてありますけどね。
 そんな関係で京都の試験場に毎朝行く途中に先生にご挨拶(あいさつ)して、一緒にお茶を飲んでまた帰りに寄っていたんです。先生が頒布会の仕事などをされていたので、ちょっと線引きを手伝わせていただきました。お話をうかがいながら先生の仕事についても深く知るようになりましてね。そのころ、先生がデザインしたものを砥部でやってみたらどうかということで、社長のところへもってこられたんです。わたしもまだ上絵のことが本当にできなかったんです。富本先生という雲の上の人がデザインされたものを、うちの会社でやって品位を落としてはいかんからとやらなかったんです。」

   c 藤本能道との出会い

 「藤本先生は、昭和34年(1959年)に県の商工課の嘱託として砥部に来られたんです。『砥部は、磁器の産地だから呉須の絵付けを一所懸命やるのもいいが、だれか赤絵(赤を主調とした上絵付け)もやらないといかん。』と言われたんです。砥部には、赤絵の仕事をしている人が一人もいなかったのです。藤本先生も赤絵の仕事をされていたし、前の鈴木先生も漆(うるし)の蒔(まき)絵の仕事を家業でやっていた関係で、赤絵もやっておられたんです。そんなことで『**君、君やらんか。』と言われたんです。『自分は絵付けはあまり得意じゃない。』と言いながら、仕方なしにやるようになったんです。そして、だんだん赤絵の仕事にのめり込んでいったんですよ。
 藤本先生は、非常に写実的というか繊細な絵を描かれるんでね。お皿がキャンバスになって、見事な絵を描く方だったのです。そしてロクロもされるし。先生は『工芸は庶民が求め使えるものを提供すべきだ。』と言われて、独自のデザインで頒布(はんぷ)会に出しておられたんです。」

 (イ)4度炎をくぐる赤絵金彩

 「染付けの歯朶(しだ)絵は、呉須で描いていたのです。それが18、9年前ですか愛媛陶芸展が発足し、第1回(昭和53年)の時に花瓶を出したら最優秀賞に選ばれたのです。その時に初めて赤地に金彩でやったのです。藤本先生が審査員で来られるし先生には足かけ3年間、上絵付けの指導も受けたものですから、上絵の仕事を出品しようと思ってやったのです。
 金粉は日本画にも使います。焼き物では、普通、金泥(きんでい)(金粉を膠水(こうすい)に溶き混ぜたもの)をよくすって細い線で結んでいって、その中を塗りつぶすやり方や塗ったものを櫛で引っかいて模様にする技法は、昔からあるんですけどね。付立(つけた)て風(*28)に一筆で一気に描いていくのは、あまりやっていなかったんです。片側を一筆、片側を一筆で描いていくんです。これを金泥でやったのが、技法的にそうないやり方だったのです。
 まず、壺を素焼きにして上薬をかけて、本焼きするでしょう。上薬は、普通の食器にかけている灰釉(最も基本的な釉薬)です。無地の花瓶にロクロを回しながら首のところから高台(焼き物の底についている土輪)まで赤を伸ばしながら引いていって、塗りつけるんです。そして800℃くらいで赤を焼き付けるのです。その焼きあがった赤い花瓶の上に金泥で絵付けしていくんです。全体ができたらもう一度電気窯に入れて、先に赤を焼きつけたよりも30℃から50℃くらい低い温度で焼くと、一度焼き付いている赤が少しゆるんで金を付着してくれるんです。赤の絵の具の原料は、ベンガラという酸化第二鉄です。金付けは4度炎をくぐるんです。素焼き、本焼き、赤絵付け、金付けと。燃料費もかさみ、それだけコストが高くなるんです。
 焼き物は、評論家の人たちが3次元、4次元の世界だと言うんです。絵画の場合は目でみて整えながら出来上がるでしょ。だが焼き物の場合、特に染付けの場合は書いて本焼きすると、普通、磁器で1割近く縮むんです。その上にガラス質の釉薬をかけるでしょ。その溶け具合によって釉薬の下の模様がガラス越しに見えてくるから、炎の度合によって絵の具の発色や釉薬の状況が変わるわけです。『ここでええから、やめてくれ』というわけにはいかないんです。窯まかせ、炎まかせなんです。そこに焼き物の面白さがあるんです。自分がねらっていたものと違うものができてくるんです。」

 (ウ)筆を選ぶ

 「『弘法は筆を択(えら)ばず』と言いますが、わたしは筆は選びます。自分の好みの字を書くだけなら、そのほうが面白い宇が書けたりするかもしれません。わたしらのような仕事では、絶対、筆がタッチにふさわしい毛の大きさだったり、長さだったりするものを選ばなかったら書けません。『筆は選べ』と、若い者にも言います。
 線を引く場合は少し使って先がすりへり、ハサミで切ったような筆がいいんです。新しい筆は、線引きには向きません。筆毛のへり具合で線の太さを選んで引くとね、同じ太さの同じ濃いさの線が『スー』と、引けるんです。先のある筆で引くと押さえたら太くなるし、引いたら細くなるんです。そこらの筆の使い方も富本先生や藤本先生に教わったんです。
 あの富本先生でもダミ筆といって大きな筆があるんですが、それを買ってきて、くずして自分で筆を作られるんです。先生は穂の大きさを整えて、半紙で元を巻いて、つばきでねぶって竹につきさして『これが一番使いやすいんだ。』と言ってね。わたしらでも、ちびて使えんかなという筆は針でさばいて細い線引き用の筆を作るんです。いっぺん使い込んだ筆というのは、毛は動物の体毛でしょう、その油気が抜けて絵の具の『乗(の)り』がいいんです。上質の筆は、テン(*29)かタヌキの毛です。普通のは、羊やヤギの毛の筆です。」

 力 独創の世界

 **さん(伊予郡砥部町五本松 昭和9年生まれ 63歳)
 **さんは、青森県出身。画家を志し上京して学んでいたが、焼き物や彫刻に関心をもち、昭和32年(1957年)梅山窯に入所した。以来、梅山窯のデザインのほとんどを手がけ、今日に至っている。
 昭和39年、菊絵模様の荒土の食器を発表し、第1回クラフトセンター賞(丸善)に選ばれた。この模様は、有田や美濃(岐阜県)でもまねられている(⑨)。昭和47年(1972年)、「唐草大鉢」がイタリアのファエンツァ国際陶芸展で入選。この模様は、砥部焼の産地のイメージになっているデザインである。昭和49年には、研究工房・春秋窯を設立し、白磁の製作に取り組むかたわらコラージュ(*30)作品も手がけるなど独自の世界を広げている。
 **さんの世界は、デザインの分野のみでなく昭和52年(1977年)ロクロ成形によって「国の伝統工芸士」に認定された。ロクロの技術習得を目指した陶和会に「櫛目を入れてロクロする技法」を取り入れたいきさつについて尋ねた。
 「陶和会という研究会が始まりましてね。そのころ京都から、こういう仕事があるんだよと技術を覚えてきましてね。みんなで研究したんですよ。ロクロをかなり訓練した人でないと、すぐにはやれない技術なんです。その当時、**さんはすでにロクロができていましたから、**さんを中心に勉強しましてね。ロクロが少しずつできるようになった人から覚えていったんです。まあ、わたしは工場の新しい仕事をするために染付け中心にしてましたから、いつまでも櫛目はしていませんでした。そのうち**さんは、一所懸命に櫛目をやって『**風』のものができたのです。これは、すばらしいことですよ。」と話してくれた。
 平成元年、**さんは近代日本の陶芸展に招待(明治から昭和の初めまでの陶芸家50人の中に選ばれる。福島県立美術館で開催)される。平成2年には、長年の砥部焼のデザインの功績によって、工芸財団より第7回国井喜太郎産業工芸賞を受賞した。平成9年、愛知県陶磁資料館で「現代日本のセラミックデザイン・活躍する6人展」を開催するなど日本の陶磁デザインの世界で活躍している。「’97愛媛の陶芸展」のトークショーの中で、**さんが語った言葉が印象に残っている。「デザインは色や形のことだけを指すのではないんです。デザインは他の人々と共有する社会性のあるもの、自己の道義をしっかり持ちながら、自己満足に陥らないものでなければならないのです。そのためには、常に自分を磨くこと、多角的な感性を磨くことが大切なのです。」

 (ア)オリジナルな文様を考える

   a 大きなタッチの菊絵模様

 「菊絵模様や半菊模様というのは、古代エジプトやギリシャ陶器にもありますね。中国にもあります。日本では、東北のコケシにも描かれています。そういうものを基本にして、われわれも描いているわけです。わたしなりに自分のタッチでね。日本では伊万里に染付けで小さい模様のものはあります。大きなタッチの模様は砥部が最初です。」

   b 市民権をえた唐草(からくさ)文様

 「唐草という文様は、古代ペルシャに生まれ、中国を経て日本に伝わってきたものです。すでに広く使われて市民権を得たものです。後はだれがオリジナルな文様を考えるかだったのです。砥部焼に描かれている唐草文は、わたしが考案したもので一つのつる草を単位として単純化した一本のつるを渦巻(うずまき)にして構成したものです。他の産地ではやっていません。シルクスクリーン(*31)でまねしたものはあります。」

   c 器の中に空間を作る

 「日本人はこじんまりとまとまった世界を好みがちですが、わたしはもっと広い空間を器の中に作りたいんです。何もないところに描き慣れた模様を中心に「見込み」(器の中央に単純化した文様を描くことをいう)として描くことで器の中に宇宙ができるんですね。ロクロをひく時からその思いは頭にあるんですが、そのためにこんな形を作ってやろうと計算して作りあげるのではないんです。手の中で自然に形が生まれてくるんです。こういうデザインは、個人の仕事としては認める人もいますが、企業では『ポツン』と絵を書いたくらいではね。いっぱい書いたものの方が売れるんだな。やっぱり、わたしのいう気持ちみたいなもので企業のデザインは成り立っていかないところがあるんです。
 染付けのデザインもですが、いわゆるラインデザインというのがわれわれの基本的な考え方なのです。もう30年も前からやっているわけなんです。線でもって構成することは、『どのあたりで最終的に単調化したらいいのか』というところにきたわけです。今、企業でも線のデザインが少しずつ加わってきましてね。カレー皿や鉢などでやっています。」

 (イ)白磁って何なんだろう

 「もう30年も前から、ときどき白磁をやっています。白磁って何なんだろうかということですね。絵を描かないから白磁、いわゆる無文というものです。絵が描けないから無文にして白磁にしちゃえ、という解釈じゃないんですね。『お前は白磁がいい、絵を描いてやらん。』という感じでね。釉がけが難しいんです。砥部じゅう同じ白い釉薬ではなく、それぞれの窯元で自分たちの釉薬を作っています。
 白磁の魅力は、やっぱり姿でしょうね。釉薬がよくても形が悪かったらどうしようもないです。姿というのは、ただ機械的にロクロがうまくなったからできるというものではないんです。そこには情緒性だとか、その人の人格だとか、教養だとかいろんなものが含まれてくるんです。例えば中国の定窯(ていよう)の白磁(宋時代のもの)は、それは見事なものなんです。普通の職人だったと思いますが、あの時代は、大変な陶工がいっぱいいたということなのです。白磁はいわゆる一般大衆の使うものではなく、宮廷に納めるものだったのです。日本でも宮廷に納めるものは、派手なものが多いんです。宋の時代は、素朴ないい時代だったと思います。
 日本で白磁って言いだしたのは、朝鮮の李朝(*32)の白磁からです。李朝のころは、コバルト(呉須)を中国から輸入できなかったので非常に高価なものだったんです。優雅でおおらかな姿のいい無文の白磁で、鉄分が出ていても白磁と称しています。世界は朝鮮の焼き物をあまり評価していません。イギリスの大英博物館でも、朝鮮の白磁はないくらいです。李朝の白磁をほめているのは、日本だけです。
 砥部だって鉄分が出ていようが無文の白磁の器は、本当はいいわけです。今ごろの陶芸界やとくに商売上は曇り一つなく、鉄粉が一片もなく完全無欠なものでないと、白磁と言わない主張があります。厳しいわけです。鉄粉があろうがなかろうが相対的に美しくて雰囲気があって、それぞれの見識でみれるものは、白磁と言っていいわけです。企業の場合は、そうはいかないんです。だから絵を入れるわけです。50個いると思ったら倍は作らなければならない。真っ白なものは、なかなか作れないんです。それでもなお白磁を作り続ける。不思議なものです。」

 (ウ)焼き物の魅力を求めて

   a また作ろう、また作ろう

 「焼き物の魅力っていうのは、今日、こうやって仕事をしますよね。『ももええわい。もう止めよう。』と思わないです。あれ作ってみようか、これ作ってみようかと。そうしていたら1日が過ぎ、また次の朝がきた。そうしているうちに、40年がたっちゃった。その間にいろんな生活がありますよね。ところがいつも『これ作ろう。』という気持ちが高ぶってくるんですよ。だからと言っていい焼き物ができるかといえば、わからないのです。
 何かの拍子で人さまに認められたり、単純な言葉ですが『いいねえ。』と言われたりします。そのうち自分の焼き物は何なんだろうな。少しは世の中の社会性をもった焼き物になってきたのかな。だったら、もう少しいいものを作ろうというたかぶりではなくて、普通に『また作ろう。また作ろう。』という気持ちになるんです。」

   b 日本で通用する砥部焼に

 「今、日本中から砥部に観光バスが入ってきています。だいたい低い値のものしか買わないのです。砥部の焼き物産業として、やはりいい品物を作り続けるしかないですね。『ハイ、ハイ。売れる物でやっていきましょう。大量に売れるから、シルクスクリーンでやりましょう。』となると、量産体制の産地と同じになってしまうわけです。表面的に売れるのを見てていますけど、悲観論ですけどね。
 そうでなくて、やはり希望論として、わたしらがですね。『焼き物って、何だろう。これだけ職業がある中で、なぜ、わたしたちは、焼き物にたずさわったんだろう。』と、みんなで考えていかなければならないんです。何とかもう一つ質の高いものに、何人でもいいから集まって研究してね。日本のどこへ持っていっても砥部の焼き物として通用する仕事にもっていかないと。
 少し格好よくデザインしたり、焼けがいいからとか自分たちの目でしっかり選択して品物を売らないといけないんです。今は売れているかもしれないが、次の時代に砥部はすっかり堕落(だらく)した産地にならないようにね。堕落した産地とだれが言うかというと、それは一般大衆なんです。大衆は、不思議といつもいいものと悪いものを見分けているんです。
 愛媛県では、まだ騒がれていないけど日本中で砥部のことを見ています。四国の砥部って、何なんだろうと。自分たちが今、売れる仕事をしていればいいんだではいけないんです。80軒の組合の人が自分たちがやった仕事の何%かを市場に持って行った時に『あれっ、砥部って、また別の精神的なことをしている。』という産地を常に見せていかないと。それが歴史を作るわけです。」


*23:自然の景色を描いた絵。人物画、花鳥画とともに東洋画の三大部分。
*24:冠を戴き、豊かな羽をもち、姿なき神として飛行する風神を表している。中国・殷代の青銅器や玉器に始まり、明代に
  染付けの代表的な文様の一つとして見られる。
*25:佐賀県有田の陶工。初代は江戸前期にはじめて白磁の上に絵付けする赤絵磁器を完成。代々業を継ぎ今日に至る。明末
  から清初の彩磁を日本化した独得の美しい作品で知られる。
*26:乳白色釉をかけた白磁の上に、明るい赤や緑の上絵の具を使って、さわやかな絵付けをした製品。色絵が美しく映え
  る。
*27:中国ホーペイ〔河北〕省曲陽にあった北宋の窯。純白の素地に透明釉のかかった気品のある白磁を産した。
*28:輪郭を用いず、すぐに墨または色彩で描くもの。
*29:貂。イタチ科の獣。毛皮獣として珍重。猫ほどの大きさで耳が大きい。
*30:貼り合わせのこと。写真やイラストなどの部分や断片を組み合わせて、独自の表現効果をねらう絵画技法。
*31:印刷技法の一つ。絹布などに図柄を描きだし、それを通して各種の材料に印刷する。
*32:朝鮮の最後の王朝。1392年李成桂が高麗に代わって建てる。1897年国号を韓と改める。明治43年(1910年)日本に併
  合された。

写真2-1-28 砥部町庁舎ロビーをかざる陶板壁画

写真2-1-28 砥部町庁舎ロビーをかざる陶板壁画

落ち着いた雰囲気を漂わせているロビー。平成10年2月撮影