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愛媛の技と匠(平成9年度)

(2)伊予絣と生きる

 ア 藍(あい)染めと織機の改造

 **さん(北条市別府 大正7年生まれ 79歳)
 **さんは農家の跡取りであったが、昭和9年(1934年)、福岡県小倉市(現北九州市)に出て陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)に勤務した。日中戦争が始まるとまもなく、軍属として中国大陸に派遣され、3年間兵器の修理に従事した。2度目の派遣で中国大陸のほかに台湾、沖縄諸島を回った。昭和21年(1946年)に復員し、松山の漁網会社に勤めたが、会社が倒産したので、昭和30年に自宅の隣に工場を建てて藍壷(あいつぼ)を据え、昭和34年まで藍染めを自営した。その後、松山市堀江の絣会社にしばらく勤めた後、昭和35年(1960年)に白方興業に入り、平成3年に退職するまで勤続した。えひめ伝統工芸士認定者である。**さんに、かすり会館での体験談などを語ってもらう。

 (ア)絣織り機の改造に取り組む

 「急に『かすり会館』をするちゅうことになっての。こんどは絣を織らさないかんけんの。『**さん、なにもかにもやってくれ』と言うので、機は、よその工場に置いとるのを20台あまり移して、『かすり会館』を創(つく)った。
 絣の機も昔の機とは違う、改造してしもた。前は、ベルトが上と下とに1台ずつ掛かってしよったから、雨が降ったときとか朝とか気候の変わるたびに、ベルトが短くなったり、長くなったりするんで、回転が違うわけよ、スリップがあって。回転が違うたら、シャットル(杼(ひ))(*21)(写真2-3-19参照)を打ち込んでもきちっといいところで止まらんのよ。ちゃーと向こうの根元でぱっと止まらんと、絣ちゅうもんは柄が合わんのよ。タオル織るように軽いシャットルで織るんじゃったら、少々ずれてもかまんのじゃけど。絣だけは、ちゃーんと向こうへ行って、止めるとこがちゃんときまらんと、柄が合わん。
 それで、入れた大賀(おおが)式の機全部、1台ずつにモーターを付けて回すように改造した(写真2-3-20参照)。じゃから、狂いはない、朝も晩も、雨が降ろうがどうしようが。回転が同じようにできるんじゃ。モーターの回転はまあ普通2,000ぐらい回るが、その半分ぐらいの回転の機械を入れた。こまい(小さい)から1馬力ぐらいだと思う。改造するのはちょっと改造しとるきりで、下のモーターから上のプーリーを大きいのに変えた。それで回りだした。
 それと、機に錘(おもり)をちょっと付けたもんじゃ。杼をパーン、パーンとたたくやつが、たたいたときは重たいんじゃけんどが、崩れたときにパンとはずれるけん、軽うなる。極端に言うたら、機が角く回るわけよ。それで、わしが錘を付けてそれがないようにした。それを付けてから皆(み)んなが言いよった。『**さん、あんた、あの機械据えてから、なんじゃなあ、20台も動かしとるが、知らん顔してゴトゴトゴトゴトして暇なようななあ。ありゃ、どうしたんぜえ』じゃって、いっつも言われよった。」

 (イ)藍染めを始める

 「昭和30年(1955年)、自宅で藍染めを始めた当時は、本当の藍(*22)を徳島から仕入れて、染めよった。始めは、北条の人で『為おいさん』という人を雇うていた。その人から藍染めを習うて、ちいとの間やりよった。昔は藍染めぎりでしよった、どこもかしこも。そのかわり動力でどんどん織ったりしやせんで、皆手織りがほとんどやった。
 それから後に化学染料に変わった。イヒ学染料じゃけん、何回も染めいでええわけよ。1回染めて、もう1回染めたらきれいに染まるようになる。化学染料になってから機械でやる。槽の中で回りよる、一定の長さにそろえとる糸を、機械でたくって引っかけたら、ものの2分ぐらいで染めて、絞って上げる。
 『かすり会館』ができるようになって、わしが藍染めをやったんよ。本当の藍染めをやるために、甕(かめ)を据えたんじゃけんの。甕を据える以前は、壷(つぼ)を二つぐらい据えて、これが藍染めの壷じゃいうことにしとったぎりじゃった。『本当の藍染めをわしがするし、何もかもするけん、ここへ甕を据えよう』と言うて、『かすり会館』へ据えた(写真2-3-21参照)。それで、化学染料でやるし、本当の藍染めもやるし、両方をしだした。ハンカチとかなんとか軽いものは、本当の藍でしてやろうというのでしだした。すると、お客さんが、『こりゃほんとの藍じゃ』と言うて買うて帰りだした。わしが、藍染めもやるし、機械もだれでも動かすようにしといてやるし、もう、あちらもするしこちらもするし忙しかった。」

 (ウ)藍は生きている

 「藍は、藍作りよるところから袋または藁(わら)のかますで売りよる。それを買うて、1俵を二つの甕に入れる。きれいに入れて発酵さすじゃろ。発酵しだしたら、ちいとのあいだ(少しの間)置いとかなんだらいかん。15日やそこらは。花(藍花)(写真2-3-23の説明参照)が出だして澄むようになったら、チコチコ使うわけよ。順番に使う。何回も染めていくとだんだんに薄うなっていく。ちいとは染むけど、ようけ染まぬようになってくる。そやけん、次に建てた二つの甕で一番始めに染めたりする。ほて、次にいく。順番に何回も使っていって、一番しまいに花が出たやつを全部出したら、あとあと使えんようになるけん、それは、そろそろチクチク使う。それで、全体の調子をとるわけよ。甕全部を一遍に使うんじゃない。
 染めるのも勘です。まあ、仮りにその時わしがおらんとしょうがな。新しく建てた甕でも、よそから来て『染めらしてくれい』じゃの言うて。ほで(それで)、知らん者が、『うんうん、染めてお帰り』じゃの言うて、この新しいやつで急に染めたらな、明くる日、甕は駄目になる。藍の発酵しとるのが止まってしまう。次はなんぼしても染まらん。そやけん、藍染めは、知らん人にさせたら大ごとになる。
 布を甕から出したらね、布の絞っとるところを、際から膨らまして空気を入れんと、白いままで残る。空気でさらさんと色が出んのやけんね。絞って、そこへ置いておいたんでは駄目じゃ。藍染めだけは空気に触れて、初めて藍の色が出る。空気に触れなんだら色は出んのじゃ、何回染めても。
 藍は生き物、寝かしておいて、そして外へ出したら良うなる。わしは、買うてくれた人に、『帰って、たんすにでも1年も2年も入れときよ』と言ってきた。置いとくのは、たんすの中にでも畳んで入れて置いとかんと、日光に照らして1か月でも、2か月でも置くのは良うない。寝かしておいて、それから出して、架けようなり、どうなりして構わん。ほかのものは染めてすぐにも日光に当ててもかまんけど、藍染めは寝かしとる方が、結局いいわけ。本当じゃけん。藍染めばかりは何か月か寝かして、ちゃんとたんすへ入れといて、ええ色が出て、消えることも少ない。他の染料とは違うわけ。」

 イ 天然藍染め(正藍染め)に打ち込む

 **さん(松山市安城寺町 昭和12年生まれ 60歳)
 **さんは、昭和27年(1952年)に鴨川中学校を卒業して、松山市安城寺(あんじょうじ)にあった渡部絞り工場に3年、同市和気(わけ)の三和織物に絞りで2年ほど勤めた。家業である農業の手伝いの後、昭和33年に白方興業に入社し、初め絣の絞りの担当であったが、昭和42年にタオル担当になった。昭和56年に「かすり会館」の絣絞り担当になり、平成3年、**さんの後をうけ、藍染めに転じた。平成6年退職して、現在はパート社員として引き続き勤務している。えひめ伝統工芸士認定者である。**さんに、天然藍染め(正藍(しょうあい)染め、本藍染めともいう)について、藍建ての工程や苦労話、藍染めへの思いなどを語ってもらう。

 (ア)天然藍染めを始める

 「伊予では、明治初期の紺屋(染物屋のこと)さんとかは天然でやってたんですけど、伊予絣では明治30年代の中ごろから化学藍(*23)と天然藍の割(わり)建て(*24)となったと聞いておるんですけど。だいたい『藍染め』言うたら、割建てよな。うちでやっとるような植物染料だけのは『天然藍染め』と言います。天然藍染めは、その当時(昭和57年「かすり会館」で天然藍染めを始めようとしていたころ)伊予絣ではやってなかった。それでやるに当たっては、徳島まで行ったり、うちは新居さんという藍屋さん(徳島県板野郡上板町在住)から藍を入れていたので、その人に最初指導やってもらった。**さんは自宅で機屋をやっていたんですよ。そこでやってたのは割建てなんです。天然はここへ来て初めてなんですよ。それで、徳島の方からいろいろ教わったんです。
 わたしが藍染めを始めたのは、『かすり会館』に来てからで、本格的に始めるまでの何年かは、**さんの休日のときにはその代わりに絣の担当から染めの方に来て、1日いて染めたりしていました。**さんが辞めた後、『お前に任さい』と言われ、任されたが、**さんに聞くか、徳島に行って聞くかじゃないと分からないんで、休みのときに日帰りで徳島にも2、3度行きました。
 最初は、藍を傷めたり、死なしてしもうたことがありますけど。右も左も分からないままにまかされたものですから、『こんなんで、こうこうなったんですが』と言うて、徳島まで行ったりしてね。最初の平成3年の1年間はよかったんですが、2年目にちょっといかんかったんです。原因は、pH(*25)の下がり過ぎでした。そのときは藍甕11本建てて3本がおかしくなった。まあ、あれで少しは勉強になったと思うています。藍を傷めて初めて分かるんですな。あのときは色巻いた(顔色が変わった)。まあ3本で済んだけどな。新しく建てた甕ではなくて中程度使って染めが済んだものだったので良かった。新しいものじゃったら仕事にならなんだ。」

 (イ)藍建て(⑮)

 藍染めの特異性は、他の植物染料とは違って、藍をそのまま煮ても藍の色素を取り出すことができない点にある。それは藍の主成分であるインジゴチン(青藍)が水に溶解しないためである。このため、まずこのインジゴチンを還元して溶解性のあるインジゴホワイト(白藍)にする。この藍液で糸や布を染め、染め液から引き上げて空気に当てると、酸化して再びインジゴチンとなるため、青色に発色するのである。このようにして、藍の染め液を作ることを「藍を建てる」という(⑯)。

 [準備]
  木灰20kgを80℃の湯100ℓに入れ、かき混ぜて一晩置くと、木灰が沈殿する。その上澄みを取り、1番灰汁(あく)を作
 る。こうして順次、6番まで取る。(これが甕1本分の灰汁。1番灰汁は後足し用に取っておく。)

 [藍建て]
  ① おけに、砕いたすくも(*26)(半俵のすくもで約23kg)と5合(1合は約0.18ℓ)の石灰、6番、5番、3番の灰汁
   を混合した50℃くらいの灰汁を、すくもが染みる程度入れてよく練る。藍甕に50℃くらいの6番、5番、3番の灰汁
   70ℓとおけでよく練ったすくもを入れて、よく溶かす。藍甕の半分くらい(一杯は約280ℓ)に常温の灰汁をつぎ入れ
   る。液の温度が30℃に下がると、麩(ふすま)(*27)を入れる。発酵するまでヒーター(暖房器)を入れて、26℃に保
   つ。
  ② 3、4昼夜で藍は発酵し、液の表面に金色の膜が張る。
  ③ 朝晩2度、櫂(かい)入れをする(液をかきまぜる)。藍花(あいばな)ができる(写真2-3-23参照)。かきまぜるとき
   のにおい、色、泡の出方などで、発酵が近いかどうかが分かる。
  ④ 石灰を入れる(中石(なかいし))。
  ⑤ 1日半か2日で、液面が赤みを帯び、藍花が柔らかな半球状になり、花の色が少し澄んできたら、嵩(かさ)上げと言っ
   て、4番、3番、2番の灰汁を混合した灰汁を2回に分けて入れ、甕の上部まで満たす。藍花は、発酵が進むと消えなく
   なる。量と色は次第に変化し、藍が完全に建つと黒みのある赤紫になる。
  ⑥ 発酵状態を見て石灰と麩を入れ、仕込みを終わる(止石(とめいし))。

 [天然藍染め]
  「止石した次の曰くらいから、ぼつぼつ染め始める。すくもを入れてから、染め始めるまで、藍建てする人によって違いま
 すが、うちらではだいたい1週間ぐらいです。始めは、pHが高いのでちょっと染めが悪い。何日かするとよく染まるように
 なる。」

 (ウ)藍甕の管理

 「藍はアルカリ性でpH10より下がると、腐ったりするのがちょっと怖いところです。それに、ようけ量を染めると具合悪い。いちばん染めのいいのがpH10から10.5ぐらい。pH11を超したらちょっと染めが悪くなる。pHが低いと、発酵はいいが藍を腐らす恐れがある。これを藍が死ぬ、あるいは藍を殺すなどいろいろ言う。pH10より下げるのは怖くてようしないが、10.2から3になると上げてやる。上げるには、灰汁はpHが13.5から14.0ぐらいあるんですが、それを加えてやる。どうしても、染めてると藍液は減っていく。それで灰汁を足してやる。灰汁だけでpHが上がらない場合は、石灰を少し足してやる。石灰をあまり入れ過ぎると、染めが悪くなったり、色が悪くなったりするので、入れ過ぎないようにしなければならない。木灰の灰汁だけでpHが上がればそのほうがいい。
 温度は、21から25℃ぐらいがいいんです。いちばん染め付きの良いのは22、3℃。20℃を切ると、藍の発酵が弱ってくる。また、28から30℃に上がると、藍が腐るというか、傷んでしまう。このときにpHを上げれば大丈夫だが、そのかわり染めが悪くなる。
 現在は冷暖房が入っているが、今年しなで、27℃から暑いときには28℃に上がっている。その時には、甕の蓋(ふた)を少し透かしておくんです。寒いときは、昔は、甕4本の真ん中の空間に穴を開けて、そこに炭火とか起き炭を入れて、温度を上げた。今は、煙を出すわけにいかんから、ヒーターを入れている。3、4時間入れたら24℃ぐらいに上がります。温度が上がりかけると、蓋をせずに、上にすだれをかける。ごみが入ると、藍は雑菌にも弱いですから。昔は冬、機屋さんに行くと、いつも煙が上がっていました。冬は1日中炭を焚(た)きよった。
 液が薄くなったら、捨ててしまって、新しく藍建てをする。継ぎ足しはできない。染める量で日数は違ってきますが、だいたいうちで4か月から6か月で、新しく建て替える。現在、藍甕は毎月2本ずつ建てている。」

 (エ)天然藍染めの良さ

 「天然藍では、染め方によって淡い色とか、濃紺とかいろいろできるんですが、その品物によって、あるいは柄によって染め分けるわけなんです。これも、染める回数によって甕によって濃度が違うわけなんです。ただ、発酵建てですから染料の継ぎ足しができないんです。染めれば染めるほど、だんだん液が薄くなっていく。甕もいろいろ濃度が違いますから、薄いところから濃いいところへだんだん染めていくのが基本。淡いきれいな色のところ、濃いところで回数を減して、中ぐらいのところで染めて、濃いところでちょっと仕上げをする。いろいろ染め方を変えながら、色合いを出していく。2か月過ぎてくると、染めが落ちてきますから。ええとこ、建ててから1か月か1か月半ぐらいですか。けど、それはそれなりにええ色が出てきます。
 甕に漬ける時間は、布によりますが、ハンカチみたいなものはだいたい1分ぐらい、それを何回も染め重ねていく。暖簾(のれん)とかああいう生地がごつくなってくると、2、3分ずつ3回ぐらい漬ける、それの繰り返しで、十数回漬ける。染めて、絞って、広げて、置いておく。そしてまた、染めて、絞って、広げて、置いておく。これを繰り返す。こうして何回も何回も染め重ねて、きれいな色を出す。その回数を、どこで止めるかですね。例えば、水色にしようとする場合は3、4回漬ける。柄によって濃淡をつける場合には、他の部分を漬ける回数を増やす。絞りをしておけば、薄いところは漬けずに、濃いいところを漬ける。
 藍は直射日光には弱い。天然の染料だから日には強いという人がいますが、日に当てると焼けてしまう。やはり陰干しの方がいい。出来上って製品になっても、干すのは陰干しの方がいい。洗うのは中性洗剤で押し洗いがいいですね。藍染めというのは、洗うと白いところは白くなり、藍色が映えて、使えば使うほどきれいになる。天然藍だからはげないということはない、少しずつは落ちていくが、それなりにいい色になります。」

 ウ 染料とともに生きる

 **さん(松山市北久米町 昭和18年生まれ 54歳)
 **さんは、昭和37年(1962年)、愛媛県立松山工業高等学校繊維科を卒業、京都や今治の染色会社に勤務したあと、昭和42年に白方興業に入社した。最初はタオル染色の担当であったが、昭和47年に絣染色に担当替えとなり現在に至っている。えひめ伝統工芸士認定者である。**さんに、様々な染色について語ってもらう。

 (ア)染め一筋に

 「『かすり会館』の絣染めについては最初から、**さんとわたしがやったんですけど。わたしは絣へ来て2年目やから、詳しいことは分からんから、**さんが主にして、わたしが補助みたいにしていた。わたしの仕事は、化学染料だけです。藍染めは、やり始めから**さんがずっとやりよって、その後は**さんがしてたんです。今のように藍甕でやり始めたのは、昭和57年(1982年)ごろからです。始めに壷を2個置いていたのは、インジゴピュアーを入れて見本として、観光客に見せる具合で、実際には染めていなかったんです。会館が観光ルートに入ったのは開館半年後ぐらいだったと思います。
 戦後行われていた混合発酵方法(阿波藍とハイドロ、インジゴピュアー、スレン、カバノール等の混合)は、したことがないんです、**さんはしてるんですが。インジゴピュアーというのを使っていて、旧本社のとこに甕がようけ座っていた。
 タオルの染色には、反応染料(*28)を使う。絣とは染色方法が違います。タオルは大量に染めますから、大きな機械で、かせ(綛(かせ)のこと。糸を連続したまま一定の長さにし、束ねたもの)にせず、チーズ(糸を丸めたままの状態にすること)染色する。絣の場合は、絞ってますし、かせにして染めないかんのです、手間がいります。
 現在使用している染料は、だいたい主にナフトール染料(*29)と反応染料の2種類です。ここに入ったころと染料は同じですけれど、色は昔と違いますね。私か絣を始めたころは、色はほとんど黒じゃったんです。昔のインジゴピュアーで染めよったころは濃紺です。最近は紺の方が多いです。その他には赤系統が多いですね。ブルーでもグリーンやら、赤みがかった紫に近い茄子(なす)紺みたいのもあるし、いろんなものがあるが、だいたい地色はブルー系統が多い、赤系統、白絣もありますけど。模様にはグリーンとか黄色とかいろいろな色が入っている。昔のように着尺(きじゃく)(着物用の織物のこと、一般に幅約34cm、長さ約11.4m)だけでなく、いろいろな洋服などに使っているので、そういう風になるんじゃないかと思います。」

 (イ)絞りと染め

 「工程上では、久留米絣では『括(くく)り』というが、伊予絣の場合は『絞り』という。経(たて)絣の場合は、経糸だけを絞りますから、絞りは緯(よこ)糸には入らなく無地でいい。緯絣の場合は反対に、緯糸が絞りになる。経緯絣の場合は両方の糸が絞りになる。絞りは絞ったところが色に染まらんようになり、柄になる。昔から現在も経緯絣が主流です。経と緯がうまいこと合わんといかんから難しいんです。
 絞りをしまして、そのあと染めるんですけど、機械で絞りをして、化学染料で1回で染めます(写真2-3-25参照)。濃く染めるときは染料を多く入れる。薄く染めようと思うときは染料を少なくする。それはデータをとってやります。それは濃度もあるし、色目もあるんで、データをとって残しとかんといかんのです。
 模様やデザインは、絞る人がしてるんです。絵を描いて、どういう風に絞れるんか、絞れんかったらいかんので、絞る人がするんが一番いいんです。絞りがあんまり近かったら、引っ付いて絞れんようになるんで、そういう関係で。絞る人が一番よく分かるんです。
 手作業が多いですから、絞りなんかも、今コンピュータ入れて、試験しているんですけれども、コンピュータ絞りを。まだ本格的に起動してなく、試験の段階ですけど、結局そういう風になるんじゃないかと思います。染色なんかも基本的には同じですけど、手作業よりも機械の方が確実で、染めなんかも色目ができるんです。
 機械の方が乱れていて、逆に手で織った方がきちんとしている。そのかわり大量には織れない。機械は大量に織るためにあるんですから。手ならいちいち織るとき、経、緯、柄を合わしますけど、機械の方は経、緯を、機織る前に合わしときますが、きれいに柄が合わんのです。」

 エ 絣織り一筋に

 **さん(松山市高浜 昭和10年生まれ 62歳)
 **さんは、松山市高浜に生まれ育ち、昭和26年(1951年)中学校を卒業して、白方機織所に入社した。もっぱら絣織りに従事してきたが、一時タオル織りに転じ、昭和48年の「かすり会館」開館に伴い再び絣織りに復帰し、平成6年の退職まで、織り一筋の道を歩んだ。えひめ伝統工芸士認定者である。**さんに、伊予絣織りの第一線での活躍ぶりを語ってもらう。

 (ア)絣を織り始める

 「絣織りは、就職するまでやったことはなかったです。子供時分に、機械はそれは見よったです、機械はやかましいねと思いよったです。昭和26年の中学卒業後から、白方機織所にずっと勤めとった。昭和39年(1964年)8月ごろまでは、工場は松山市高浜にあったんです。わたしらと一緒に入った人はすぐに辞めました。続かんのやね。わたしらは、どこ行ってもおんなしや(同じ)と思うけん。高浜の人は学校卒業したら、ほとんどそこへ行きよったんですよ。ここでは一番大きな工場やった。
 そのかわり、中学卒業したときに習うときは大変やった。今ごろみたいにしゃんとしてない、皆あのごろはね。いよいよもう、子供のいよいよ子供じゃけん。習うのは大変じゃった、それこそ。教えてくれる人は、厳しかったけんね。泣きもって、やりよった。最初50円やったわ、1日が。習うまでは日給やった。それから受け取り(出来高制)になった。手織りは始めから習わず、機械一本でした。最初は1台から、はた結びいうて糸結びなどを習いました。2、3か月たったら、2台になりました。
 高浜の時代は、機は48台ありました。2台に1人じゃったけん、機織りさんぎりが24人おりました。緯巻きさんが5人、調子取りが2人と経巻きさん1人と、緯わくの人が1人、そして下請けの人が夫婦でいたんです。
 昔は、糸がよう切れよったんです。そじゃけん2台でも難儀しよった。糸が切れても機械は止まらん。自分が見つけんといかんのです。ほして、1本、1本ほどくんです、破ってね。1本、1本抜いて、また柄合わさんといかんなる、そこまで、緯と経の柄合わせんといかんのです。早く見つけてやらんと、1本ずつ抜くんじゃから、ほどくのが大変です。休憩時間は1時間、お昼だけ。朝の8時から晩の5時まで。夏は冷房はきかんけん暑いし、疲れよった。37℃も38℃もある中でしよったんです。
 昔は梅雨時に織れなんだ。雨が降ったら、糸がわたけて(綿状になって)全然織れなんだ。つまって糸が綿ぼこりになってしまう、1本1本が。そして、あい中が引っ付いてしまう。織れなんだらいらいらして余計に腹が立つ。高浜におったときは受け取りやったからね。自分が織っただけじゃないといかんからね。じゃけん、緯糸でも家にとってもんて(持って帰って)、家で合わして行きよったです。長さは30cmくらいあらいね、幅が5cmぐらいあるのを合わす間がないんで。わたしは織っとったんは着物(着物用の織物、着尺のこと)ぎりです。絣を織るんは好きやったんです。」

 (イ)織り姫の技の世界

 「タオルが不景気になったんで異動せないけん。昔絣をやっとったんで、わたしは『かすり会館』に入ったんです。タオルにも10年ほどいました。絣が好きやったからね、それでできたんよ。絣いうもんは楽しいよと思いよりました。次はどんな柄やろうか思うてね。次々と織りよったのは楽しかったですよ。
 機械は大賀(おおが)式(織機)でした(写真2-3-26参照)。1日に1台で2反ぐらい織りよりました。動力だから早い。慣れたら一人が4台です。おまけに、絣がすごう難しなったんですよ。高浜のときは、幅三か幅六(*30)だけやった。今は模様が付いてすごい。柄も高級になった。そのかわり4台持っても昔みたいなことはないんです。糸そのものが良うなっとるんじゃね。
 高浜におるころは、経糸が約1,000本あるんですよ、それが半分ほど切れよった。それをまた、1本、1本つながないかんのよ。それは難儀しよった。『かすり会館』へ行ってから、それがないようになった。そのかわり4台もったんよね。目が回りよったわい。間がないからくるくる回りよらんといかんけん。それと、緯を合わさんといかん、1本1本と緯糸をね。それがちょっとでもずれたら、もう緯が合わんのよ。神経使うてね、大変でしたよ。そやけん、辞めた途端に、ほっとしました。
 織物検査がようありよったわね。組合の人が行きよったです。『だれそれさんのを持って行こうわい』と言うて、ちゃんと名前書いてね、出してくれよりましたよ。わたしも知事さんから賞状をもろたりしました。
 楽しみやったですよ、柄は。そのかわりとてもやない、最初やったら苦労する。それはもう、糸の道いうもんはね。計算してせんといかんから。今は機械があるからね。前ころは手でしよったからね、大変やったわね。一番に緯巻きさんが、ちゃんと合わしてくれとかなかったら、絣が合わんのです。ずれとったら、絣にちゃんとならんからね。目は眼鏡を掛けずに見えるから、だから、できよったんよね。ほて、もう勘よね、だいたい分かるもん。ほやけん、ここパッとしたらできよった。そやけん、素人さんが、『こうしたらどんなん』言うて、聞きに来よった。『こうしたらええ』と言うと、『ああ本当よ、**さんに見てもらったらいいね』と言いよったわいね。
 昔の人は、真から手を休めん。昔はやっぱり、受け取りやったからね。自分が織るだけ織らんとお金にならなんだ。そやけん、休まず織りよったわね。お昼休みでも、糸が切れとったらつないで、ちゃんと時間が来たら織れるようにしよった。人に負けるのは嫌い、一所懸命しよったです。絣一本やったからね。」

 オ 挑戦する伊予絣

 **さん(松山市久万ノ台 昭和40年生まれ 32歳)
 **さんは、代々絣製造を家業とする家の生まれであるが、絣との接触は学生時代を含めてほとんどなかった。昭和63年(1988年)に大学を卒業した後、神戸で音楽活動をしていた。平成3年の冬、父親から、「絣も本物をつくっていかないと」ということで「ちゃんと勉強をして、すばらしいものがつくれないかな」という話があった。この勧めがきっかけで、翌年の夏から絣織り、藍染めの世界に入ることになった。現在、「かすり会館」で、新生伊予絣を創るべく日々精力的に取り組んでいる。**さんに、新しい時代の到来を見据えて取り組んでいる研究や目指している思いなどについて語ってもらう。

 (ア)伊予絣に取り組む

 「道筋を作ってくれたのは、父だと思います。こちらにはすぐに戻らないで、神戸から直接徳島の方に行き、藍師の方にお世話になりました。徳島県板野郡上板町の藍師、新居修さん(国選定保存技術の阿波藍技術保持者)に、『すくも』づくりの勉強をさせていただきました。並行して型染め(*31)、絞り染めなどを学びました。その後福岡県久留米に行き、絣のことを勉強させていただきました。久留米は阿波藍とつながりがあり、国の重要無形文化財指定の久留米絣技術保存会があることから紹介をいただいてまいりました。絣から藍染めに至るまでを、よく巷(ちまた)ではん濫している藍染めとは一線を画する、昔から伝わってきている本物のつくり方を、また、そういったものに携わられている方々の姿勢をかなり勉強させていただきました(写真2-3-27参照)。
 わたしは、このことがすごく良かったと思います。わたしはこの世界はまったく知りませんでしたから、父はこの世界を知った上で、どうすればいいかという方法論を知ってたかと思うんですけど、そういった意味で、わたしがいきなり良いところへ飛び込んでいけたのは良かったと思っています。
 工場と観光とを合わせて、『かすり会館』を創ったというのも、伊予絣を生産していくだけでは採算が取れないからです。普段着から制服に代わり、作業着からスーツに代わり、かつて90%もあった農家人口もわずかになりまして、その人たちの生活着であった絣が生活に必要なものではなくなってしまった。あっという間にまったく違う衣服に変わってしまった。そういう状況の中でも、とりあえず生産を残していきたいとの要望があり、協力をしていただいて機械をそろえて、工場にして生産を続けていこうとしたんだと思います。そうした中において、恐らく行き詰まりがあったんじゃないかなと。つくっていく側のものの感じ方にも行き詰まりがあったのと、経営していく側においても、果たしてこんな継承でいいのか、疑問を持っていたこともあると思います。
 そういったところで、今後やっていくためには、需要にこたえられるものをつくっていくが、本物もつくっていく。伊予絣は、江戸時代から伝わってきた松山の文化ですから、もっと大切にしてもいいんじゃないかな。民間企業ですから、お金のことも絡むかもしれませんけれども、継承することを決めた以上は、なんとしてもつくっていこうという思いが、父にはあったんではないかなと思います。」

 (イ)手織りと機械織り

 「お客さんの要望なんですけど、絣が欲しいという方と藍が欲しいという方とは別なんですよ。例えば、十数万円の藍染めの絣の反物と2万円の機械で織った反物があるとすると、お客さんが選ばれるとき、良いものをというよりは柄で選ばれる方がいらっしゃいます。もちろん値段も違いますし、小物にしたって、ハンカチ1枚5,000円もするものだと、お土産にはなりにくいし、ご家庭でもいらない。そういうものばっかり販売してもしょうがない。絣というのはあくまでも、木綿糸を糸の段階で防染することによって模様を出していくという織物なんですから、前提において藍で染めないと絣ではないということはない。
 でも、お客さんの求められているものはいろいろです。一般的には、『絣が欲しい、安くてちょっとしたお土産になるけん』と言われるお客さんが多い。もちろん、手織りでなければと言われる方もいらっしゃいます(写真2-3-28参照)。ですから、企業としてこちらに力を入れているということはまったくなくて、ただ、販売の様子を見ながら、お客さんの要求がなくなれば動力の方も控え、手織りの方を増産するなど、売り上げに応じた生産体制を取っております。こういった日々の生産活動にあわせて、技術の改良や研究を並行してやっています。」

 (ウ)「工房」から目指しているもの

 「『かすり会館』の中では、従来の『資料館』を、『工房』に替えていっているんです。『資料館』では、もともと藍を建てたのや機を見てもらっていたのですが、生産できるような体制で、実際に本物をつくっていこうというように。私が技法を学んできましたから、本当の技法を伝えようと、ものづくりの好きなスタッフを集めて、つくってもらっています。ただこれも難しくて、バランスが良くないといけないんです。こだわってつくったいいものと顧客のニーズにこたえられるものとの。お客さんのニーズが多いですからね。それから、こちらから逆に提案していくものもありますので、総体的にバランスを取りながらつくっていく予定です。
 抽象的なこととしては、せっかく伊予絣というものを伝承しておりますので、歴史の中で見られるような絣の使われ方から、新しい絣の使われ方というものを提案していけるようになりたいと思います。新しい染色の世界をつくり出していこう、発信地になろうと考えております。具体的には、公募展への出品などに力を入れております。
 と同時に、素材の研究に力を入れております。素材は糸と染料の二つだけしかありませんので、今その研究に取りかかり、細かく研究を進めております。絣に合った糸、化学染料に合った糸、藍に合った糸、例えば服を着るに当たって合った糸、小物に当たって良い素材など、木綿糸の勉強を。ある一定の線しか分かっていないんですよね。意外に知ってるようで、知らないんですよ。例えば、繊維のことでね、どんな繊維で、その特質はどうで、特徴はどうであるかそこまでよく分からない。紡績糸でもものすごい種類があります。いろんな会社がありますし、その特質も違います。紡ぎによっても違います。エジプト棉(めん)とかインド棉とか棉の種類もたくさんあります。トータルで考えると、膨大な研究になりますけど、その中で伊予絣のために一番良いものをと。染料もまた、ものすごいたくさんあります。その中で一番適したものをと。
 それにどういうデザインをするかということ。わたし、始め勘違いしまして、デザインの研究を中心にしました。しかし、デザインだけでは行き詰まることが分かりましたので、今、素材をやっています。素材と技術とデザインですか、この三つのバランスが良くないと先に進まないと分かりました。日々携わっている中で、仕事の時間中には目に見えないですけど、1年たってみれば、必ずそのときよりは上達しているのは間違いないですから。大きな目で見ながら、技術を身に付けていこうと思っています。」

 (エ)時代は変わる

 「織り物の場合は、若い人は潜在的には関心があると思いますよ。なぜならば、若いころからあれだけファッションにこだわっていますから、意外に見る目は持っていますよ。ただ、織り物に興味がないのは、違う世界だと思っているだけじゃないかと思います。織り物の場合、糸ですね。見るだけでしんどいですよ。絡まる、切れる、いろんなトラブルがありますよね。価値観の問題ですか、現代人としての実感の問題だと思います。つくっていく側の努力がたりないのだと思います。つくっていく側が、高水準のものをつくる方法を、手抜きじゃなくて、知恵の部分でやっていけば良いと思うんですよ、必ずできると思います。
 昔は使いたいものを、自分が身近にあるもので染めていた。ただ、そういったものが伝承されていないから、カルチュア教室のような形で教えられているわけで、本来は、自分で染めてたのが普通だったと思うんです。次のステップでどんどん変わると思います。
 もちろん、今は大きく変わっている途中だと思うんですよ。そこで混沌(こんとん)として分かりにくい、先が見えにくい。量産していた時代から、物が溢(あふ)れる時代に変わってしまって、そこで切り替えがここ10年、いや2、30年かかるんじゃないかと思います。後また、10年すると先が見え始めて、20年すると落ち着いてくるんじゃないか。落ち着くのが良いとはいえませんが、面白い展開してるんじゃないかと思うんです。」


*21:経糸と緯糸との間に通すための道具。舟型の木製の中央部がくりぬかれていて、中に緯糸を巻いた竹管を固定させ、抒
  を投げると竹管が回って、緯糸が抒の横に開けられた小穴から繰り出されるもの。
*22:藍染めに使う植物、代表的な植物染料の一種。日本で普通用いられるのは、タデ科の1年生草木でタデアイといい、徳
  島県の吉野川流域の特産だったことから阿波(あわ)藍ともいわれる。別に、インド藍・琉球藍などがある。
*23:インジゴピュアーといわれ、化学的に合成した藍色の染料。1880年、ドイツ人バイエルが合成に成功した。
*24:植物の藍とインジゴピュアーとを混合して藍建てしたもの。
*25:ペーハーまたはピーエイッチという。溶液中の水素イオン濃度のこと。純枠の水は中性でpH=7、これより大きい値は
  アルカリ性、小さい値は酸性を示す。
*26:藍染め用の染め液を作る素材。藍の葉を十分発酵させて作る。
*27:小麦を粉にしたときにできる皮のくず。
*28:繊維と化学的に反応し、染料と繊維の間に共有結合を形成して染め定着する染料。
*29:下漬け剤と顕色剤とを繊維上で結合させ、下溶性のアゾ染料をつくる染料。アゾイック染料ともいう。
*30:織り幅(9寸4分)における柄の数のこと。幅三は柄の数が3個、幅六は6個であることそれぞれを示す。
*31:型紙を用いてのり防染し、白生地に模様を染める技法。

写真2-3-19 動力織機用の杼(ひ)

写真2-3-19 動力織機用の杼(ひ)

平成9年8月撮影

写真2-3-20 小型モーターを取り付けた改良織機

写真2-3-20 小型モーターを取り付けた改良織機

平成9年8月撮影

写真2-3-21 据えられている12個の藍甕

写真2-3-21 据えられている12個の藍甕

民芸伊予かすり会館内 平成9年8月撮影

写真2-3-23 甕の中で咲いた藍花

写真2-3-23 甕の中で咲いた藍花

藍が発酵すると光沢のある泡が生じる、この泡を藍花という。平成9年8月撮影

写真2-3-25 括りを解き、染め上がった絣糸

写真2-3-25 括りを解き、染め上がった絣糸

平成9年8月撮影

写真2-3-26 大賀式動力織機

写真2-3-26 大賀式動力織機

平成9年8月撮影

写真2-3-27 藍甕部屋に鎮座する藍神様

写真2-3-27 藍甕部屋に鎮座する藍神様

民芸伊予かすり会館内。平成9年8月撮影

写真2-3-28 高機で織る熟練の技

写真2-3-28 高機で織る熟練の技

平成10年2月撮影