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愛媛の技と匠(平成9年度)

(2)吉凶禍福に心をこめて

 **さん(伊予三島市村松町 昭和3年生まれ 69歳)
 最近、水引にいろいろな加工を加えて艶の良い色水引や、水引にはくを巻き付けた金や銀の水引や、絹糸を巻き付けた絹巻水引など、多くの種類の高級な水引が開発された。これらの水引を使って高度な水引細工の技術を生かした置物や記念品、贈答品がつくられるようになった。
 水引細工は県の伝統的特産品に指定され、結納品や縁起物として、今後ますます発展が期待される分野である。デザイン的にも多彩になっている現状や水引細工の奥義や今後の展望について前項に引き続いて**さんに聞いた。また、二大生産地である飯田市と宇摩地域の関係についても、歴史的背景から現況までくわしく語ってもらった。

 ア 水引細工

 (ア)技の修練

 「うちは親父が水引屋へ丁稚(でっち)奉公に行って水引をやりまして、20歳で独立して昭和5年(1930年)に個人創業し、金銀巻きから始めました。それから、結婚して、細工物を始めました。わたしが2代目です。わたしの家内は子供のころから見よう見まねで水引の伝統工芸を全部やって来ていまして、わたしよりも先の昭和59年度の伝統工芸士です。
 わたしは24歳からこの仕事を始めました。特に、手をとって教えてもらったということは限られた分野だけです。一般的なところは見よう見まねですね。それでやっていて自分もこれには苦労したという肝心なところは先輩が教えてくれます。苦労してやってきたことを、直接教えてもらうと楽にいけます。商品なり作品なりを見れば、どういうふうにもっていって、どうなっとるというのが、大体分かるようになってきます。
 非常に難しい結納セットは、あらゆる部品の集合でできておる。だから技術的にはあらゆるものを取得してないとできないのですが、水引細工は寄せ集めると、言葉は悪いですが、ごまかしが利くのです。だからつくり方さえ全てを習えば、特に一つ一つの商品の技術が生きてなくても素人さんでもつくれるということです。いろんなものが沢山ついているから、細かい点の善し悪しは目に付かず、全体としてということになります。だから難しそうに見えるものは、一応のつくり方は分かってないとむろんできませんが、特別冴(さ)えた技術がなくても物はつくれます。我々が見たら、集合した複雑なものでも細かい部分が目に入りますから、『この人は腕のきれる人だなあ。』『この人は素人さんに毛が生えたくらいの人だなあ。』とかいうのは分かりますけれども、一般の素人さんは全然それが分からないです。よくお客さんが見えて、『これはとても難しいなあ。』と言うてくれますけれども、部品を沢山集めてつくるものは、従業員が部品をつくってそれを集めてつくってもできるのです。
 伝統工芸士としての経験の中でポイントとなる技術とは、わたしだけでなく全ての人にとっても問題となるところだと思いますが、水引細工において非常に複雑そうに見えるものは、実は比較的簡単なのです。本当にその人の技術が熟練しているかどうかということは、非常に簡単な、いわば水引1本とか2本とかでどのようにものを表現しているかを見れば分かります。非常に数少ない水引で物を表現して、どなたが見てもこれは何をつくっとるのだということを認めていただけるということは、かなり熟練しなくてはできない。これが一番難しい。それをやらしてみたら、『この人は腕の切れる人じゃなあ。』とか、『何でもできる人じゃけれど、そうたいした腕ではないなあ。』とかいうことが一目りょう然です。」

 (イ)伝統工芸士

 「伝統工芸士は、県に規定があり、それに適合しておれば協同組合が推薦するわけです。組合がこの人という人を推薦して、市が審査し、さらに県が審査して適格者だということであれば決まります。つまり、技術的なことや人格を一番理解している仲間内が、経験とか年数とか、県のコンクールなどに出品してどういう賞をもらったとか、賞はもらっていないけれどもこの人は技術的に優れているということで、推薦します。
 やはり、県が認める資格ですから、いかにそのことだけに技術的に優れていても、人間的にちょっと問題があるということでは、人々が『あの人が伝統工芸士だったら、伝統工芸士はいい加減なものじゃ。』と思われては困りますので、資格はもらえません。ですから、県全体でも数が少なく価値が高いものなのです。人間性と技術との両面が備わらないといけないということです。
 水引・水引製品は昭和55年(1980年)に県の伝統的特産品の指定を受けました。これは、愛媛県における地場産業で、伝統があるいうことです。
 戦後しばらくの時代は、水引細工といっても簡単なものでした。日本が高度経済成長に入ってから、豪華化・高級化してきました。日本の経済と同じ方向で発展してきました。高度経済成長期が終わって、安定成長期に入ると豪華化・高級化も横ばいになり、それから少し落ち着くと、大型のものよりちょっと小さいものや、手が込んだものがいいというふうに変わってきました。時代の流れというものはありまして、色彩とかデザインとかは多少変わっていきました。
 伝統的に用途はほとんど婚礼に関係しています。婚礼は、非常におめでたいということからして、日本で古来からめでたいといわれている『松竹梅』とか『鶴亀』とか『海老(えび)』とか『鯛(たい)』とかいうものに固まってきたわけです(写真2-4-44参照)。そういう技術を生かして、工芸品を作るというのはだいぶ後の話です。」

 (ウ)生産地の変遷

 「この宇摩地域では、工場従業員の手で約70%、そして残りの30%は内職、つまり家庭で部品作りをやる。水引細工は、最初は100%工場生産だったんですけれども、徐々に簡単なものは家で『少々できるけに持って帰ってやりましょう』いうてやり始めた。そのきっかけは、かつて従業員としてうちらに来ていて、退職してお嫁にいったが、手に技術がついとるから家でやれるということからだった。そうすると近所の人も、教えてもらおう、わたしもやろかというようなことで部品の分野ができてきた。それを集めて工場に持ち帰って、ここでつくったものとで組み上げていくというのが工場生産です。
 水引細工は宇摩地域が中心であったものが、今日、なぜ長野県の飯田市に主力を取られたかというと、なまじ、宇摩地域には技術があったことが、結局悪かったということなんですね。ちょっと言い方が変なんですけど、宇摩地域の現状とは逆に、内職を70%にして、工場生産を30%にしたら、商品は安くできるし、生産もどんどん上がる。しかし、そういうふうに内職を主力にしていきますと、商品の質は、どうしても落ちます。われわれが商品を見て『これでは、お金出して買うてくれといえる商品ではない。』とか『これはよう売らん。』ということになり、宇摩地域では、内職を主体にすることをようやらなかった。
 もともと長野県の飯田市には水引細工は全然なかったが、飯田市のある水引問屋へ勤めとった人がちょっと都合が悪くなってやめて、うちの親父に何かすることはないかと相談にきた。『そんなら、水引細工が足らんで弱りよるきに(困っているから)、水引細工せい。』言うたら、先方は全然素人じゃけに、それを全部内職でどんどんつくらした。そんならコストは安いし、その製品がええとか悪いとか、本人も全然分からんのやから、それを大阪や京都の問屋に持っていって、『買うてくれ。』と言うた。『こんな品質の悪いもんなんか、売れるか。』という程度の商品だったが、まあ品物が足らん時期で、もう品物さえあったらもうかっていた。だから品物がのうて皆困りよる。ここへも、問屋の主人と奥さんとがうちの従業員へ渡す手土産持って、『今から頑張って下さいよ。』というて年々来よったくらいですから。とにかく品物が欲しいという時代だったので、問屋は、『これは悪いなあ、でもないよりはましかも分からんけん、まあちょっと送ってきとけ。売れたら売ってやろう。』と言った。買う方も素人じゃけに、買いに行って店の者に『これならあるんじゃ。』といわれたら、『ああそれで結構です。』いうて、それがどんどん売れたんです。そのうちに水引細工をつくる技術も少しずつは上手にもなってくるでしょう。ほんで飯田は、もう今日本一になった。
 われわれはそれができなんだ。そんな悪いものを買うてくれいうて持っていけん、こんなものは商品ではないがということが分かるだけに、宇摩地域の人はだれもそれをようやらなんだ。技術があったがために、宇摩地域はプロの目として外へ出せない。飯田市は素人だから、われわれが見たら、『こんなん商品でないが。』というようなものであっても、『できた、できた。』いうて持っていって、ないよりましやということで売る。われわれから送る品物が足らないので売れていく。現在では飯田市は内職が主体で、80%くらいが内職、20%くらいが工場生産、コストが全然違う。こっちがこんなん悪いけん送ったらいかんというようなものまで、飯田市はどんどんみんながまねして、内職でようけやり出した。宇摩地域はぼやっとしとったら取られてしまった。
 飯田市は水引や元結の発祥地なんです。紙で元結をつくるのは飯田の人が開発したわけなんです。織田信長(1534~82年)の時代ころまでは、みなワラ縄で髪を縛ったり、手に入るひも状のものでやりよったんでしょう。元禄時代(1688~1704年)、紙で元結をつくって縛ると、とっても締まりがいいし、髪が傷まないということで、どんどん全国へ普及していったわけです。その当時は飯田市から技術を習って、その習ったところにまた外から習いにくるというようなことで、宇摩地域は大体和歌山から習ってきたんです。半紙を包丁で断って、手で紙(こ)よりをよりつないでひもを作って、それでするんだからとても能率は上がらんです。しかし、使う人は男女ともに使うんだから、需要は大きいということで至る所でつくられておったと考えられる。それが散髪脱刀令で男性が使わなくなると半減した。大正時代に入ると女性は洋髪化し、元結生産から水引生産へどんどん転向していった。
 飯田市は発祥地であったから販売ルートを持っていた。宇摩地域は歴史的には飯田市からみたら新しいが、原紙は飯田市の分も全部ここからまかなったわけです。宇摩地域は水引の原材料の産地であったということです。現在も全部ここがまかなっています。ここから送ると運賃でも沢山かかります。紙の産地の静岡からとったらトラックでちょっと行けばいい。それなのになぜ静岡でせんのかというと、そこが伝統の違いなんですねえ。元結のころからずっとここからで、そしてここもずっと水引をつくっている。ここは製紙工場と水引工場の両方がある。製紙工場ですいた紙の良し悪しを試験しよるようなものです。『今度のはちょっと弱い。もうちょっと硬い方がいい。』とか、『もう少し繊維は縦に流れた方がいい。』とか、『こういう点はいいが、こういう点は悪い。』ということを、製紙工場に言う。製紙工場はそれを生かして、『そしたらこういう風にすいたらいい。』いうて、『今度の分、また一遍使ってみてくれ。』と水引工場に渡す。そして、『今度はどういう点はいいけど、どういう点は悪い。』というふうに、地元に両方あるから一つの工場で試験しよるようなものです。紙ができて使ってみて、これならというものが飯田市へは行くのです。宇摩地域は試験して、水引なり、元結なりに適した紙をここで使いよるわけです。どこそこに安いのがあるから買うと言ったってはじまらないんです。それで距離が離れていてもやはり紙と言うことになればこちらから買う。宇摩地域は原紙をすくとこがある、水引をするとこがある、水引細工をやりよる、それらが全部そろっている。ですから、西日本の分が全部ここに集約されたわけです。東日本の方が飯田市へ集約されたのです。そして、全国の二大産地になったのです。」

 イ 金封(きんぷう)

 紙加工品として、宇摩地域を代表するのが金封である。第二次世界大戦中、出征兵士への心付け用に、水引を結んだ金封を売り出したところ大ヒットし、全国に広まった。昭和55年(1980年)ころからは、過去のしきたりにとらわれない新しいデザインの金封が登場した。引き続いて**さんに金封についても話してもらった。

 (ア)金封の命名

 「金封はこの伊予三島市の村松町が発祥地なんだとわたしは言いよるわけなんです。ここで金封と名付けたんですから、この言葉をわれわれは大切にしたい。現在のお金を包んで水引をかけて、右隅にのしをはるという形は、第二次世界大戦中の昭和10年代の後半に、宇摩地域でできたものです。その時に、のし袋と呼ばなくて金を封じると言う言葉を使ったから、わたしたちは金封、金封と言いよるので、組合の名前も水引金封と今の名前をつけたんです(写真2-4-46参照)。
 金封は手作業の部分が多いんです。金封は種類がとても多く、今は何百種類にもなっています。一般的な下のクラス、水引を5本とか7本とか使う金封は機械で折れます。手作業で紙を折って、結んで、仕上げて、袋入れしたりいろいろしていきます。金封の場合は大体100%内職です。うちは特別いいものを高く売るのだということで、一、二の人は工場でもつくっておりました。製品はいいがとても高くつきます。安いものなら機械で折ります(写真2-4-47参照)。
 一般の人は、機械ですくと洋紙、手ですいたら和紙と簡単に考えられるんですが、機械ですいても和紙と洋紙とがあります。すく機械の構造が違うんです。われわれが使いよるのは洋紙ではなくて、機械すき和紙なのです。
 金封はデザイン的に新しいものが多く、若い人に企画をさせています。日本の祝い事で水引を使うのは、60%から70%は婚礼関係なんです。特に、水引細工はおおかた100%婚礼関係ということです。わたしらの年代の者は、日本古来から非常にめでたいものというのは『松竹梅』とか、『鶴亀』とか、そういう限られた物になります。だからこの分野でなかったらいかんというような頭があって、そういうもので長年ずっときています。現在、時代は全てが変わりつつあるんだということの認識は、わたしはわたしなりにしとるつもりなんですが、頭にしみこんだものは、やっぱり残っているわけなんです。今の若い人は、お祝いであったって、『松竹梅』、『鶴亀』でなくても、奇麗であればいいんだという考えがあるわけです。どうしてもわたしたちがすると古くさい。今の若い人は、若い人の立場で考えたデザインがやっぱりいいということからして、デザイン的に新しいものについては若い者に任しています。技術的な問題はいつの時代が来ようと変わりません。技術は継承していくけれども、デザインというものは時代に応じて変わっていくものだということですね。」

 (イ)中国への進出

 「金封の生産で中国に進出したのは、コストが安くできるから行ったという人も中にはあるんですけど、われわれの目的はそういうことからではないんです。飯田の業者が韓国と手を組み、韓国で金封をどんどんつくって、日本に送って安く売って、われわれは非常に困ったわけなんです。この進出はコストを安くして、自分たちで金封市場を牛耳ろうとという考え方で始めたんです。われわれは、それが大変値段を崩して困るというので、地場産業であり、伝統産業ということで、『外国生産で影響を受けて困るんじゃが、なんとかあれを阻止するような方法は講じられんもんかいなあ。』いう話を事あるたびごとに種々の会合でしよったんです。
 この地域は水引細工以外にも仕事が非常に多いところですから、その間にもだんだんこちらの方は人手不足で、工場へ来る人もなかなか思うように集まらない。内職者もどんどん減るし、足らん品物は買わないかん。そうなると、『うちも一応韓国でやってやる。』という人もでてきた。そういう人は比較的創業の新しい人で、わたしたちのように親の代からこれで飯食ってきとる者は、こういう伝統のあるものはそれではいかんという気が強かった。しかし、できんとしたら、やっぱり韓国のものを買わないかん。これが段々買う量が増えていくわけですわ。それで『このまま4、5年しよったら、韓国でつくった物を買って、それを仕上げて売る下請けに成り下がってしまう。これではいかん。』という意見から、『いっそのこと、組合でも始めなしゃーないな(仕方ない)。』ということになりました。そして、わたしたちが中国へ見に行って段取りつけて帰り、そのことを組合員に話しました。すると『そんなことしたってうまいこといかん。』と言う人や、『わしゃようせん。』など、まあいろいろ意見があって、結局10人くらいしか希望者がなかったんです。10人でしたら組合の事業としてやるのは具合が悪いので、それでは別にやろうということで、今の会社を作ったわけです。コスト的にどうとかいうことよりは、こちらでできない労働力の不足分を、直接中国の過剰労働で補おうということから始まったんです。
 始めてみると、品物が向こうは断然いいんです。こっちの方が悪い。こっちはお年寄りなどが退屈な時にしよるくらいで、若い血気盛んな人は皆工場へ仕事に行きよる。中国の方が思うように生産できるし、奇麗なものが生産できるということから、今はほとんど金封づくりはあちらへ移ってきよるということなんです。印を押したり、印刷したり、安いものを折るなど、機械でできる分野の物も中国へ持っていっています。
 わたしは、以前は会社や組合の仕事などがあって、伝統工芸士としての仕事がやりにくいということがありましたが、現在は伝統工芸士としての仕事の方が多くなってきています。今、会社の方は息子がやりますので、水引細工の技術的な方面に力を入れています。
 組合の役職をひきましたので、それに関連しての県や国のいろいろな用事がなくなってきまして、時間的にある程度の余裕ができました。いよいよ、持っている技術を心ゆくまで楽しむ時間ができつつあります。今からが勉強じゃと思いますわ。アイデアもさることながら、技術というものは年齢とは関係なく、深めようと思えば際限がありません。だから、そういうものを生かした商品に挑戦してみたいという気があります。ノルマなしで今からは楽しむというようなことで、死ぬまで手の動く間はおそらくやるんじゃないかと思いますね。一生、水引から離れることはないと思います。」

写真2-4-44 水引細工

写真2-4-44 水引細工

**さんの技が生きている見事な水引細工の松。平成9年7月撮影

写真2-4-46 種々の金封

写真2-4-46 種々の金封

新しいデザインも多い。平成10年1月撮影

写真2-4-47 金封紙折機

写真2-4-47 金封紙折機

包み紙の折り方には、関東風・関西風がある。平成10年1月撮影