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愛媛の技と匠(平成9年度)

(2)舶来へのあこがれ

 ア テーラーへの道のり

 **さん(北宇和郡日吉村下鍵山 大正9年生まれ 77歳)
 日本最後の清流、四万十川の支流広見(ひろみ)川沿いに国道320号を進み、国道197号との交差地が「シイタケとユズの香りの村」日吉(ひよし)村(北宇和郡)の中心下鍵山(しもかぎやま)である。清流広見川の谷底平野に位置する下鍵山は、明治末年までは1戸の人家も見られなかったが、高知県と宇和島・大洲方面を結ぶ交通の要衝として、明治末年以降、地元の先覚者であり初代日吉村長を務めた井谷正命氏(在職明治23年~27年〔1890年~94年〕)により計画的に集落が建設された。特に同氏は私財を投げ打って道路の開設に奔走した。昭和3年(1928年)に至り、長さ258mの高研(たかとぎ)山ずい道の完成により、木材やミツマタなどが檮原(ゆすはら)(高知県)方面から日吉経由で大洲・宇和島方面に搬出されるようになり、昭和初期には山間地の物資の集散地としてにぎわった。その後国道197号の改修とともに国鉄(現JR)バス営業所、郵便局、公営住宅などが移転、建造された。また平成6年には、特産品販売施設日吉夢産地が国道320号沿いにオープンし、訪れる人々でにぎわっている。現在の下鍵山の街並みは、他町村に見ることのない道幅の広さと整然とした家並み(写真3-1-7参照)を誇り、当時としては画期的なことだったと推察される。ここに井谷氏の道路開設への熱い思いをかい間見ることができる(⑥)。
 この先進的気風をもつ山あいの村で、昭和10年(1935年)当時、まだまだハイカラ職と思われたテーラーを目指して、その道一筋に生きてきた**さんは、ふるさとを後にした当時のことを次のように振り返った。
 「この日吉村は、今でこそJRのバス路線も廃止(現在宇和島自動車が運行)になってきているが、わたしが丁稚(でっち)の時代の昭和10年ころには、宇和島市へ幌付(ほろつ)きの乗用車が、定期便のバスとして1日3回走っていた。
 道路の新設にかかわる世情について、明治23年、当時の村長井谷正命氏は、『3間(1間は約1.8m)幅の道路を造らないけん。』と常々言っていた。当時の村人は、『際限もない、馬道でも、せいぜい1間半もあれば広すぎるのに、とてもヤンチャイ(役たたずの)3間もの道が要るもんかい。』と、かなりの反対があったという。井谷村長は『東京というとこへ行ってみよ。自動車という物が走りよるんじゃぞ。この村もいつかは自動車が走るようになるんじゃ。』と言っていた。時代はそのとおりに進んでいくのだが、その当時は、宇和島の仲買人が県境を越えて、檮原村へ木炭やミツマタなど林産物を買い付けに行くのに、1日で往復できなかったので、檮原か日吉で泊まるしかなかった。そこで日吉村の中心の下鍵山も一時期、13軒もの料亭・旅館があったという。いわば県境に近い山間のむら里としてにぎわいを見せた時期もあった。その後、国鉄のバスが行き交って走るようになり、檮原へ日帰りができるようになると、泊まる客も少なくなり、さしものにぎわいも次第に寂れて、今ではわずかに2軒の旅館が当時の面影を残しているに過ぎない。その後、山景気(木材ブーム)の時期もあるにはあったが、時代は次々と移り変わり現在に至っている。」

 (ア)職人の通らんといけん道

 紳士服は男性の着る洋服のことである。洋服は、近代になって和服に対して礼服・勤務服として広まった。そのころ、洋服の裁縫には在来の仕立職人が動員された。しかし、和裁と洋裁は基本的に技法・工程が違うため、新しく技術指導を受けねばならなかった。
 洋服の需要が一般に高まるにつれて、本格的な洋服裁縫職人が各地に生まれてきた。その職人を西洋仕立職・洋服裁縫師といった。ことに注文紳士服をつくるものをテーラーともいうようになった(⑤)。
 「昭和10年(1935年)、15歳のときこれからの職業ということで、兄にも勧められて宇和島市の松永洋服店へ弟子入りをして、丸4年間、その店で紳士服仕立ての修業をした。その時期は、国が中国大陸の開拓を勧め、多くの若者が新天地を目指して大陸へ移住していた。当時、兄は大連(現中国リャオニン〔遼寧〕省ターリェン〔大連〕)で満鉄(南満州鉄道株式会社)に勤めていたが、その兄の勧めもあったりした関係で、思いついて大連へ渡り、満鉄の洋服部へ勤めることになった。満鉄というのは半官半民の国策会社で、満鉄コンツェルンとも呼ばれ、鉄道以外にもあらゆる事業に進出している多角的経営の大会社で、なにしろ、社員専用のデパートまで設けられており、洋服部はそこに所属していた。
 昭和18年に、ちょっと帰郷して、家内と簡易な結婚式を挙げ一緒に急いで引き返した。連れて行ったものの、終戦後が大変で、家内と子供一人を連れてリュック一つの丸裸で、生まれ故郷のここ日吉村へ引き揚げてくるしかなかった。無事に帰ってきたもんの、まず住む家から工面しなければならん。家を工面して寝起きする所ができたら次には食べ物の工面という有り様で、しばらくは、みんな食べ物に苦労をして難儀したものだ。
 終戦後の5、6年間は、洋服生地はもとより、物がなかったですけに、お客さんが持ち込むいろんな物を改造したり、更生服をつくったりしとった。インバ(明治初期より流行した男子和装用コート、トンビ、二重廻(まわ)しともいう)をほどいて、外套(がいとう)(オーバー)に、あるいは軍関係の生地から紳士ズボンを仕立てるといった、更生が主な仕事だった。
 昭和20年代後半から、生地もぼつぼつ出回り、経済復興期の昭和30年代半ばから、十分に出回るようになってきた。そうこうしているうちに、時代とともに一般の人々もよそ行きに仕立服を着るようになってきた。今思うと、どうにかこうにか生活ができたのは、身に付いたもの、腕に付いたものがあったお陰だと思っている。新弟子のときは、何と言っても女中さんの代わりのように兄弟子から使われたが、特につらいこともない代わりに、仕事自体は兄弟子のを見て覚える、盗まなければならなかった。そのうち、いつの間にか古参株になっていたという状況で、今では、まあ、なんの職でも、一通りは通らんといかん道はあるもんだと思っとる。」

 (イ)むらの洋服屋の勘どころ

 「一つの洋服の生地でも、その厚みによって違えんといかんとこがある。襟をとって見ても、下っ側(裏生地)より上っ側(表生地)が、言うに言われんほど、わずかに余分がないと反(そ)っくり返るんだ。幾ら違いにせいと言うほどのものでもなく、いわゆる勘だね。それが分かるようになるには少なくとも3、4年はかかるもんだ。
 紳士注文服は、その人の体の特徴を捕らえて、その人に合った着やすい服に仕立てて着てもらうものであり、既製服は服の寸法に体を合わせて着るとも言える。
 仮に人間の体を真っ二つに割ったとすると、必ず左右同じではない。右手をよく使うような職人さんは、肩甲骨から右の肉付きがよく発達している。それを上から寸法を取らないけん。右手が左より約7分(1分は約3mm)くらい長い人はざらにいる。ただ、腕だけ長いんじゃなく体のバランスも違う。それとうつむき加減の人、お腹の出ている人ではそれなりに寸法を合わせるんです。背中の丸い人は上衣の後ろ丈を、やや長めにとって突っ張りを防ぐのだが、これなんかも採寸の勘どころというべきだろう。
 この山村で長く農作業を続けて来た人や上背のある人は、前屈(まえかが)みの体形になりがちなんだ。長年鉋(かんな)をひいた大工さんには、右肩上がり左肩下がりのねじれた体形になっている人をよく見かける。洋服には大なり小なり、肩の部分にパットが入っている。このような人の服は、肩以外の部分にも薄いパットを入れて服の形を整える。
 その人の体形全体に気を配りながら、採寸をするが、それが、中には困ることに、『わしゃ、いつもこうしているんじゃ。』といいなはる人がいる。いざ、仮縫いという時に背中をピーンと伸ばしなはる。日ごろ、背中を丸めて歩いてはるのを、よく見かけているもんだから、『それじゃ、困るけん、普通にしてやりなはらんか。』と頼んでも『こうじゃ、これでちょうどいいんじゃ。』と言われる。後は、本人に黙って普段の体つきに合うように仕立てることになる。
 中には変わった人もいて、特に肥満体の方には、『ズボンの股上(またがみ)を深くしてくれ。』という注文が時としてある。そんな方に限ってお腹が出ていて、バンドをキチッと締めないため、腰骨の位置までバンドが下がり、ズボンの裾(すそ)を引きずるようになる。股上が浅くてもキチンとはき込んで、ベルトを締めれば留まっているのだが、『わしゃ、これが好きなんじゃから、オラの言うようにしてくれ。』と言いなさると、お客さんの注文通りにせんと仕様がない。世の中にはいろんな人がおいでまさい。
 紳士服の生地や柄の流行は、昭和40年代からガラッと変わってきた。まあ大体、若者は紺とグレイ、年配者で茶系統と決まったようなものだった。それにしても、男物の流行は5年くらいは変わらないが、女物は毎年といってもいいくらい変わっていく。流行に遅れることのないように、専門誌などで研究しながら、どうにか遅れを感じることなく、やってこれたと思っている。」

 (ウ)シンガーミシン(*7)

 「昭和30年代の木材景気のころには、紳士服仕立ての注文も多かった。注文服は上衣、ベスト、ズボンで三つ揃(ぞろ)えとも言う。これを1週間で仕上げることができれば、一丁前の職人としてどこへ行っても通用した。それと言うのが、今の既製服の製法と違って、厚手の生地は、まず、『縮紗(しゅくさ)』をする。生地を湯通しするんだが、これが大切なんだ。洋服は、表と芯(しん)と裏とが一体とならなければ、つってしまう。全部の生地を湯通しする。次に型紙をおこして、裁断して、仮縫いをして一旦着せてみて、またきれいに解いてしもうて、再びポケットからつくり始める。その全てが職人の一人仕事ですけんな。既製品の分業仕事とは大きい違いだ。全てを一人の職人がつくり上げて、その人にぴったし合う服に仕上げるのが注文服というもんだ。そこんところが口でいろいろ言うても、なかなか分からんじゃろと思う。まあ、仕上がったものを見りゃ、だれが見ても何と言うことはないんだが。
 注文服の生地は、厚みも重みもある。生地という1枚の布地を裁っていき、縫い合わして手足のついた人間の体に合わそうと言うんだから、いろんな所に素人には分からん、目に見えん泣き所がある。
 ここにあるシンガーミシン(写真3-1-8参照)と仕立台は、50年近く一緒に仕事をしてきたものだ。このミシンは、ここで仕事を始めた当初に、隣の土居(どい)村(現東宇和郡城川(しろかわ)町土居)の方から、当時としては大金だったが、大借金をして譲ってもらったものだ。足踏式で故障もなく、よく働いてくれ、今でも十分使える。ただ、注文服はミシンで次々と縫っていく所は割と少なく、半分以上は手縫いによる手仕事なんだ。特に、シンガーミシンは、重ね縫いには強く、威力を発揮する。昭和30年代の半ばころから各種の国産ミシンが出回り、性能もよくなって、今まで使ってきているあとの2台は国産である。
 仕立台も、シンガーミシンを入れたころあつらえたのだが、ミシンの上とこの台の上を通っていった紳士服を全部合わせると、想像もつかない金額に上ることだろう。
 洋服仕立屋の物差しは、すべてインチ尺を使っていた。型紙を作るとき、背丈は別として基本になるのは胸周りで、これから割り出してインチで型紙を作っていく。
 その他、特殊な用具類にマンジュウというアイロンや鏝の受け台(ウマ)がある。大型のものを大マン、袖の縫いしろの、のし分けに使う袖マン、鉄の台座に取りつけた鉄マンなどがあり、それぞれの部位により使い分ける。洋服屋専用の裁ち鋏は正三郎か子鉄、金平の銘のものと大体決まっていたようだ(写真3-1-9参照)。」

 (エ)職人仕事は残らん

 「手縫いの針は和裁用でも最も小さいものを使い、縫い目も分からんほど細かく縫う。視力が弱るとどうしても小さい針が使えんようになり仕事にならん。
 今ごろの既製服の生地は、注文服の時代から言えば、裏地のようなもんだ。注文の仕立て服は物持ちのいい人では、袖口なんか擦(す)り切れてはくるが、大体20年は着れる。最近になって、『あんたにつくってもろうた服をまだ着よるんじゃが、もう、仕事はやめたんかえ、惜しいことよのう。』と言われ、『歳には勝てませんわい。』と答えている。
 世の中の流れとともに洋服の流行も変わる。しかし、紳士服は基本的には同じだから、大きく変わることはない。流行遅れが気になるのは5年後くらいしてからになる。服型が毎年大きく変わると、月給取りの懐がもたん。注文服1着の価格が、大体その人の1か月の給料としたもので、年齢や地位によって、それなりに相応した服を注文するもので、世の中というものは、実にうまくできているもんだ。
 洋服仕立ての道具類はいつまでも残るが、職人仕事は、銭金(ぜにかね)の残るもんじゃない。仕事をしていると、ほかのことは何も頭にない。この点で職人と商人は全く違う。職人は無口で、お世辞を言うこともなく、一途(いちず)に仕事に打ち込むが、その姿を見て、あの人は変人だと言われることがある。いろんなことをやってきたが、一途に打ち込むことは、いつまでも抜けるもんじゃない。生涯、この職人気質(かたぎ)は抜け切れんじゃろ。」

 イ 革靴とは洋靴

 **さん(温泉郡重信町志津川 昭和14年生まれ 58歳)
 革靴とは洋靴のことである。文明開化とともに輸入された舶来の靴は、当時の日本人の一般的な甲高、幅広、短い足形に合わなかった。そこで、どうしても国産化の必要があった。ときの政府も大いに関心をもち、明治3年(1870年)には最初の民営製靴工場がつくられた。香港から中国人靴師を招き、横浜のオランダ人靴師が教師として指導に当たった。
 わが国での革靴生産は、革細工職人の転業よりも、士族授産の立場から2、3男対策といったまったく新しい職人・職工の徒弟制度により発展したといえる。職工は靴工であるが、居職の個人経営のものは靴師・靴職とか靴屋といい、手づくりで注文靴を製造販売していた。弟子入りした徒弟は裁断から仕上げまでを店主から伝授された。手縫い靴は甲皮師(こうがわし)と底付師(そこつけし)に分業され、裁断・製甲・底付け・仕上げの工程がある。
 戦後、洋服とともに靴の需要は大きく伸びてきた。一方に、各種の新しい製靴素材が開発され、また、新素材に対応した接着製法、成型製法などが開発され、革靴はほとんど機械製の既製靴で占められてきている。すでに、昭和41年(1966年)ころには手縫いの注文靴はほとんどなくなり、靴師は転職するものが続出して、今では手縫いの革靴(写真3-1-10参照)を見掛けることもまれになっている(⑤)。

 (ア)一人の靴職人

 戦後の人々のくらしが安定するとともに、装いも洋風化して革靴は必需品となっていった。その当時、靴職人となり底付師として、手縫い靴の全盛期から衰退期を靴とともに生きてきた**さんの話を要約した。
 「昭和29年(1954年)中学校を卒業した当時は、まだ戦後の就職難のころでした。手に職を付けておけば、食いはずれがなかろうということで、好きというよりたまたま知り合いがあったりして、松山市内の靴屋さん(製造下請け)に見習いとして弟子入りしたのです。そのころ伊予鉄横河原(よこがわら)線はディーゼル機関車になっていましたが、家から通いの4年間は、通勤の汽車賃のみで、給料も小遣いも出ません。お願いして職を習っているのですから、それが普通だったのです。弟子入りした当時は、食糧難の時代が過ぎ、編み上げの軍靴(戦後払い下げになった兵隊靴)も見られなくなり、靴といえば注文の手縫い一式です。当時の物価からみれば、かなり高価な必需品でした。明治生まれの親方は、厳しい職人でした。弟子入りの半年ほどは親方の仕事を見ているばかりでした。何回となく見ることで仕事の手順を覚えるのです。教えてくれることはまずありません。手縫い靴には、片方でも何十という工程があります。その全工程を4年ほどで習ったのですから、今考えると、まじめによくやったものだと思います。ちょうど、遊びたい時期でもあり、それこそ半泣きで習ったのですが、その当時の娯楽と言えば、ラジオと映画くらいのものでしたが、小遣いもなく、遊ぶことができません。それで曲がりなりにも辛抱できたのでしょう。」

 (イ)甲皮師と底付師

   a 靴の文数(*8)

 「1足の靴は、甲皮(こうがわ)師と底付(そこつけ)師の二人の職人の手を経て仕上がります。わたしは底付師の部類に入ります。底付師は、お客さんの足の寸法とデザインを甲皮師に回して、甲皮を縫ってもらいます。縫い上がってきた甲皮を、最初に寸法を出した木型にかぶせて(写真3-1-11参照)、位置がずれないように底にくる部分を十分に伸ばします。その後、木型に合わして周囲を小さな釘(くぎ)で仮り止めをして、次いで底付け、仕上げなど多くの工程を経て完成していきます。途中で木型を抜くことはありません。木型は靴の文数や足型に応じて各種のものがあり、甲の前部と踵(かかと)の部分に分解できます。最終的には前部から抜きます。
 靴が仕上がるまでの材料を調べてみると約20種類くらいあるようです。底付けでも芯(しん)、中底、底などがあり、それぞれ皮の質が違うのです。甲皮は靴の表面ですから、種類は少ないのですが、形やデザインによって色々のものがあります。代表的なものに外トンビ、内トンビ(*9)、それぞれに四つ穴、五つ穴(片側の靴ひもの穴数)などがあり、この縫い方、デザインを甲皮師は習っていくわけです。ここにある外トンビの甲皮は、数年前に甲皮師から回されて来たものですが、底付け前に破約になり、そのうち自分の靴にでも、と思って今日まで残してきたものです。
 甲皮の縁には細皮を縫いつけていましたが、軽い靴の時代になって使わなくなりました。さらに底皮の中底を縫い付け、ここにシラカバの樹皮からつくった芯を入れます。この内縫いには10本撚(よ)りの柔らかい麻糸で縫い目は粗く縫います。縫針は布団針を熱して自分流に曲げ、焼き入れをして使います。」

   b イノシシの毛

 「外縫いは外観上大切な所で、靴の値に響きます。縫い目は細かくきれいに揃(そろ)ってなければなりません。その上、甲皮を傷つける危険性があるため縫針は使いません。全部の縫い目には親方がつけた印があり、そこに小さい縫い穴を開けていきます。外縫いには5本撚(よ)りの麻糸をヨウチャン(松脂(やに)に油を加えたもの)を温めてしごいて、細かい縫い目を上下2本の糸で締め上げ締め上げ縫っていくのです。ヨウチャンは温めると柔らかく、締めやすく、冷えると固くなり水をはじくので防水の効果があります。麻糸は、一方の端の撚りを戻して、イノシシの毛を一本中に入れ、再び硬く撚りをかけ、ヨウチャンでしごいて縫い穴に一目一目通して縫い上げます。イノシシの毛は先がふさふさと割れているので、麻糸と撚り合わせに都合がよく、円味を帯びている毛根は甲皮を傷つけることもなく、粗さと硬さ、大きさと長さともにぴったりなのです。手縫い靴の底付けとイノシシの毛とのかかわりなど、靴師でないと全く知らないでしょうね。
 この底付けはすべて膝(ひざ)の上での仕事です。一目一目、縫って叩(たた)いて締めていくのですから、相当膝が強うないと勤まりません。その上、型が崩れないように最後まで木型にはめ込まれているのです。さらに底皮の中芯は、水につけて柔らかくして、薄くすいた皮を引き伸ばして、米の粉で作った盤石糊(ばんじゃくのり)ではり付けますが、この糊は1日くらいして乾き出すので、その前に周縁全体を必ず木釘で固定します。熟練した職人は、1足の底付けを約1時間で仕上げますが、その後少なくとも2、3日は、形を整えるため木型から抜くことはありません。
 甲皮、底付けともにすべてを手縫いで仕上げることのできる靴職人は、今では数少ないでしょう。その上、最高級の革を使った靴か特殊な靴しか手縫いにしないのです。
 今の既製靴はすべて機械縫いで、合成のゴム底ですから接着剤を使用し高圧の成形・接着機械で簡単に仕上がり、大量生産が可能です。」

   c 一人前の職人

 「靴づくりの職を半泣きで習い覚えること4年余、20歳で年季が明け、昭和34年(1959年)に約20種類の道具(写真3-1-12参照)が使える職人にようやくなることができました。
 その年から伊予三島市の靴店に、住み込み職人として6年間働いたのです。そのころが一番注文靴のあつらえが盛んな時期で、店には甲皮師1人と底付師が3人いて、毎日靴づくりに追われる日が続いたものです。
 1足の靴は甲皮師と底付師の二人の職人の手で仕上げられます。左右を別々の靴職人が仕上げたら、それこそ左右がカタカタ(いびつな)の靴になってしまいます。厳密には、仕上がった時点で左右の重さ、幅、丈がおんなし(同じ)でないと一人前ではない。カタカタでは売り物にならんのです。見た目におんなしでなければ、職人としてお金が取れんのです。失格です。人の足の大きさは左右で多少は異なるものです。底付けの仕事の中身にも地域や店によって、多少の違いというか、細かいやり方があるものです。それを身につけ、売り物になるものをつくることが、職人仕事であり腕を磨くことなのです。
 そのころ、伊予三島、川之江の大きい紡績や製紙会社には、中・四国や九州から、大勢の若い人たちが働きにきていました。流行の先端をいくあつらえ靴は、若い女性の人気の的で、特に注文が多かったのです。女性用の靴はヒールの高低はありますが、男物より工程が少なく手間がかからず、時間的にも早く作れますが、流行の移り変わりがものすごく速いのです。昭和30年代ですから比較的地味な型が多く、ヒールもせいぜい高くても10cmくらいのものでした。一人役で男物を1足、腕のたつ職人で1足半、工賃が500円くらいと記憶しています。師走ともなれば休みなしの午前様になる夜なべ続きでした。働いている若い人たちが、お正月に晴れて帰省するための靴が欲しくて、この時期はどうしても注文が多くなるのです。1か月に多いときには男女物合わせて60足くらい仕上げたこともありました。」

   d 新品の革靴

 「注文のあつらえ靴が多かったころ、『ギュッ』と鳴る靴が一部ではやったことがありました。これは、中底と芯のシラカバを盤石糊で張り合わせるとき、先の部分のみ糊(のり)づけして、土踏まずの部分はのりづけしないのです。そうすると、歩く度に皮とシラカバが擦れてギュッと音を出します。ただ、困るのは音の出る靴という注文で請け負っても、絶対音が出るとは限らんのです。仕上げて履いてみるまで分からんのです。また、擦り減るのを防ぐため踵(かかと)へ鉄の鋲(びょう)を打ち付け、カッ、カッと音のする靴の注文などもありました。皮は水にぬれると柔らかくなり、ちび(摩耗し)やすいため、重くはなるが長持ちするように鋲を打って、大事に履いたものです。
 靴の色は黒か茶色で革は牛革がほとんどでしたが、時にはヘビ、ワニ、トカゲ皮もあり、上等のものではカンガルー、バックスキン(シカ・ヒツジ)、コードバン(ウマ)、カーフ(子ウシ)などの皮も使われていました。中でもカーフは柔らかく、伸びがあって履き心地がよく、しかも軽く高級品です。最高級品はカンガルーでしょうか。値の高いのはワニなどですが、品があって履き心地もよく、礼装用などからもカンガルーが最高でしょう。しかし、カンガルー革はつくる方は神経を使います。柔らかく、ちょっとさくない(粘りけがない)ため、少し強めに引っ張るとすぐ裂けるし、傷でもつけるとそれこそ大変です。実に扱いにくく職人泣かせの皮革だったのです。
 やはり靴職人としての青春は伊予三島の時代でしょうか。自分の道具と布団、持ち合わせは片道の汽車賃くらいでした。自分の腕一本で6年間、倹約をして開業資金を貯めて、ふるさとの伊予鉄横河原線の横河原駅前通りに借り店舗ながら、靴屋を開業したのが昭和39年(1964年)、東京オリンピックのころでした。マイカー時代の到来前で、城下(松山市)へ買い物に行くには少し遠すぎるといった関係上、東温(温泉郡東部)の中心地として駅前商店街がにぎわったころでもあり、結構、靴の注文が多かったのです。」

 (ウ)修理に生かす腕

 「昭和40年ころから高度経済成長とともに、大量生産の既製靴が出回りはじめ、昭和50年代に入ると注文靴は、安い既製靴に太刀打ちできなくなったのです。せいぜい、既製靴に足が合わないお客さんが注文するといった状況でした。それは、既製靴も今のようにいろいろの規格の物が出てなかったのです。**靴店もだんだんと注文靴より、販売と修理が主体になってきました。昭和50年代から、ますます既製品が出回ってくると、流行の波が目まぐるしく激しくなってきます。量販店の出現とマイカー時代の到来などにより、個人の小さい店に多くの規格品や流行の靴を置くのが、資金面で難しくなってきたのです。また、既製靴や材料の卸屋さんも存続が危なくなり、今では革靴専門の卸屋さんは松山市に1軒もありません。総合履物卸店になっても種類の多い革靴は置くことができないのです。小売店が注文を請けても、神戸の製造業者から1足くらいでは取り寄せることができません。どうにもならんのです。都市近郊の町の寂れていく現象は、横河原の町のみでなく、他の地域でも、他の商売や職人さんにも見られます。
 年季の入った職人の腕を生かすには、つくった物を直すことも含まれます。バブルの好況期には、値は高くても高級靴志向が強く、そのころあつらえた靴も、今では既製品の新品への買い替えか、修理かの時期になってきています。どちらかと言うと、若い人はともかく、型は古くても足になじんだ靴を修理してと言うことになり、職人の出番ともなるのですが、大量生産の既製靴は、履き捨て用としてつくられているため修理が利かんのです。リサイクルの希望はあっても、中にはゴム、ウレタン底など釘の打てないもの、接着剤のボンドも効かず、直しようのない靴もあるのです。その点高級品は『きちっと』作ってあり、修理が効きます。特に婦人用の細いヒールなどは、一月も履けばちびますから、ヒールの先端に差し込んで修理する専用の部品が出ているのです。今の靴修理は何はともあれ、お客さんの希望のとおりに、規格品による機械修理が現状のようです。
 靴の修理をしていて、直らん物は直らん、直る物はきちんと直すことによって喜んでもらえることが職人冥利(みょうり)であり、それが職人のプライドだと思っているのです。修理をしていて、履き古されてはいるが、ふと自分がつくった靴に出会ったときなど、何とも言えないですね。ただ、残念ながら修理用の材料屋さんが成り立たなくなってきています。修理用の材料や部品にも多くの種類があり、ヒールの踵先(かかとさき)の修理用部品でも何十種類もあるのです。それを確保しておくことが難しくなってきています。小さい靴修理屋にとって、材料が手に入らなくなると、お手上げです。洋装の先端を飾った靴職人も、時代の変化に流されようとしているのが現状です。わたし自身は、材料が手に入り、修理の依頼があって、元気な限りは、この店を続けていきたいと思っています。」


*7:アメリカの発明家シンガーが1851年、家庭用ミシンを開発し、シンガー・ミシン会社を設立。その会社製のミシン。
*8:はきものの大きさを表わす単位。元来は、足袋の底の寸法を表したもので、1文は約2.4cm(一文銭の大きさに由
  来)。現在は靴の大きさはcmで示す。
*9:靴の甲(表)皮の形状がトンビに似ているのでいわれる。爪先の甲皮(靴ひもの部分)が、外側か内側かでこの名があ
  る。

写真3-1-7 日吉村の中心、下鍵山の家並み

写真3-1-7 日吉村の中心、下鍵山の家並み

往時のにぎわいがしのばれる。平成9年7月撮影

写真3-1-8 舶来のシンガーミシン

写真3-1-8 舶来のシンガーミシン

足踏式で現在も使用できる。平成9年7月撮影

写真3-1-9 仕立台と仕立用具類

写真3-1-9 仕立台と仕立用具類

向こう側左から、大マン・袖マン・鉄マンと手前左からアイロン・インチ差し・裁ち鋏・ブラシ・針山。平成9年7月撮影

写真3-1-10 手縫いの革靴

写真3-1-10 手縫いの革靴

約20年前の手縫い靴で何回か修理されている。平成10年2月撮影

写真3-1-11 甲皮と木型

写真3-1-11 甲皮と木型

左より内トンビの甲皮と木型と修理のため木型を入れた手縫い靴。平成10年2月撮影

写真3-1-12 底付師の使う道具類

写真3-1-12 底付師の使う道具類

平成9年9月撮影