データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛の技と匠(平成9年度)

(2)鏡の前の人生

 **さん(伊予郡広田村総津 昭和10年生まれ 62歳)
 理容という名称は、昭和10年(1935年)理容術営業取締規則が実施されてから公称になったと言われている。さらに昭和22年(1947年)理容師法が制定されるに及び、現在では大部分の店が○○理容店(又は理容院)という名前を付けている。しかし、一般の人々の間では、床屋(江戸時代からの名称)、散髪屋という言葉が通用し、床屋さん、散髪屋さんと親しみを込めて呼んでいる。
 理容業は人々の日常生活に溶け込んでいる職業であり、理容店は、われわれの身近な存在である。昔から将棋を指したり、おしゃべりを楽しんだり、言わば地域の人々の憩いの場所でもあった。江戸時代の戯作(げさく)者(通俗小説家)式亭三馬(しきていさんば) (1776~1822年)の『浮世床』からもうかがわれるようにその当時から庶民の社交場であった。
 愛媛県下の理容店舗数をNTT職業別電話帳で調べたところ1,947店あり、70市町村のうち理容店のないのは二つの村(宇摩(うま)郡別子山(べっしやま)村、越智(おち)郡魚島(うおしま)村)だけであった(図表3-2-2参照)。理容業は、地域に根を下ろして人々のくらしを支え、一方、地域の人々に支えられて今日に至っているのであろう。しかし、どのような地域にも理容店は必要であるとしても、別子山村や魚島村程度の人口では理容店の経営は成り立たないであろう。別子山村の役場に聞いたところ、以前住友鉱山の社宅があったころには店があった。現在、住民は伊予三島市や新居浜市などで散髪をしているのだろうという話であった。魚島村役場の話では、昔から理容店はなく、伯方(はかた)島(越智郡伯方町)の木浦(きのうら)から月1回理容師が出張して来るが(村内に理容施設あり)、年寄りがよく利用している。また因島(いんのしま)(広島県因島市)や今治市などで散髪をする人もいるようだとのことであった。

 ア 広田村の人となる

 **さんは、理容師として伊予郡広田(ひろた)村でただ一軒になってしまった理容店を守り続けている。昔ながらの**さんの店には懐かしい風情が残っている。都会の現代的な店とは異なる何かほっとさせてくれるような雰囲気があり、まさに村の散髪屋さんというにふさわしいたたずまいである。通りすがりの村人が「よい(おい)元気か。」と気軽に声をかけていく、そんな情景を想像させてくれる。
 「わたしは松山市出身です。高校のころ難聴に気づき、卒業後しばらく別の仕事をしていましたが、結局理容の道を選びました。ですから人よりスタートが遅かったのです。理容師の資格を得てから約2年間、北条市、松山市、松前(まさき)町、内子(うちこ)町、小田(おだ)町など県内の理容店を転々としながら修業しました。そのころ(昭和30年代の初め)は職人が不足していたのでどこでも使ってくれました。しかし、いきなり店に飛び込んで頼むのではなく、あそこへ行ってみないかと次々に勤め先を紹介してもらいました。散髪の仕事が忙しいのはいわゆる紋日(もんび)(祭日、祝日など特別の行事が行われる日)の前です。ですからその時期を中心に回りました。そのほか自衛隊や裁判所にも行きました。そこでは何もかも自分一人で仕事をするのですから、技を磨くのには適していました。『包丁一本さらしに巻いて』(歌謡曲の歌詞)ではないが、鋏(はさみ)と剃刀(かみそり)だけを小さいかばんに入れて、まあ渡り職人(職場をあちこち変えて渡り歩く職人)のまねごとをしたようなものです。
 わたしが今のこの店に落ち着いたのは昭和33年(1958年)です。もともとこの店はわたしの家内の父の店だったのですが、その父の死後、家内には技術があっても理容師の資格がないのでわたしが後を継いで営業を続けることになったのです。
 ここにやって来てすでに40年近くになります。もうわたしも立派な広田村の人間です。最初のころはよそ者でしたからうまくいきません。狭い村のことですからなかなか大変でした。しかし、ここで仕事をするからには地域に溶け込まなければなりません。そこでまず村人との付き合いを大切にしました。勤労奉仕などには積極的に参加しました。また遊びも大事にしました。当時麻雀(マージャン)がはやっていましたが、その麻雀仲間にも入りました。野球、ソフトボール、バレーボールなどスポーツもやりました。そのようにして仲間の輪を広げていったのです。散髪を通して付き合うだけではだめです。心の通った日ごろの付き合いが店の繁盛にもつながるのです。村の人たちに本当の仲間として受け入れられるまでには長い年月が必要でしたが、お陰で今はみなさんから大事にしてもらっています。お客から野菜や手づくりの箒(ほうき)、蠅(はえ)たたきなどよくもらいます。家内は畑仕事が好きなのですが、苗などももらいます。言わばお客とも近所付き合いと同じような付き合いをしています。そういう親しいお客が一人でもいるかぎり散髪の仕事をやめるわけにはいきません。人情の面から言えば若い人は都会の人と同じですが、年配の人には昔の人情がまだまだ残っています。わたしの店はそういう年配の人に支えられているのです。」
 その年配の人たちが若いころから座っていたのではないかと思われる1台の理容椅子(いす)がいまだに健在で、訪れた者は郷愁に駆られる(写真3-2-9参照)。

 イ 村の理容店

 (ア)村の変化

 「広田村から松山市までの道路はよくなりました。以前は砥部(とべ)町の千里(せり)から万年(まんねん)までの間に三段カーブと呼ばれていたところがあり、その辺りはバスで通っても怖いところでした。道路整備によってそれもなくなり、燧(ずい)道もできて(*6)、松山がぐっと近くなりました。マイカーも増え、砥部や松山は広田村の人々の通勤圏となり、生活圏となりました。昔の村民の話題は村内のことが中心でしたが、今では村内の話と砥部・松山辺りの話とが半々というところです。松山方面のスーパーマーケットがよく話題になります。どこがいいとか安いとか話しています。また美容院も話題になっています。してみると散髪をするなら松山のどこそこがいいぞと話しているのかもしれません。若い夫婦が子供連れで松山方面へ車で買い物に出掛け、ついでに散髪をして帰ってくる。流行に敏感な若者も松山で散髪をする。そんな状況になりました。ですからわたしの店に来るお客の多くが老人であるというのもうなずけます。もちろん、広田村の全人口に占める老齢人口の割合が高いということにも関係があるでしょう。
 道路事情の悪いころは、松山に出掛けても帰れないことがよくありました。雪や雨の影響でバスがすぐ運休するのです。雪の中を砥部町から歩いて帰ったこともあります。そんな時は、広田村に落ち着いたがしもうたねや(しまったなあ)と思ったものです。雪といえば昭和38年(1963年)大雪が降りました。実はそれを境に村の人口は激減し、典型的な過疎に向かっていったのです(図表3-2-4参照)。大雪で仕事ができない。仕事がない。収入がない。そんなつらい経験がきっかけとなって村を離れる人が増えたのでしょう。おまけに農林業もその後振るわなくなってきました。大雪以降、店のお客も減り、一時はよそへ出ようかと思いました。従来広田村には4軒の理容店がありました。そのうち玉谷(たまたに)にあった店は昭和40年代になくなり、その後総津(そうづ)にあった残り3軒のうち2軒が営業をやめ、数年前からわたしの店1軒となりました。1軒になったので多少は忙しくなりました。それでも村の人口が1,200人ほどで、内6割が女性として、残りの男性のうち半数が松山辺りで散髪すると考えると、わたしの店のお客は240人前後でしょう。もちろん小田町の上田渡(かみたど)辺りからのお客も多少あります。高市(たかいち)は中山(なかやま)町に近いのですが、地元を大事にしてくれていて案外わたしの店に来てくれます。玉谷の人たちは地理的関係もあって松山方面へ出かける人が多いようです。
 村の人口は減るし、加えて都市部で散髪をする客が増える状況では、理容店の主人が仕事に見切りをつけるのは当然です。ですからみな後継者を育てることをしませんでした。わたしもそうなのですが、息子に散髪の仕事をさせてもだめだと思い、無理をしてでも松山の学校に進学させ、別の道を歩ませようとしたのです。理容店だけではありません。この辺りでは子供を手もとに残すという人は少ないのです。村の中学校の卒業生の大部分は松山の高校に進学し、そのままもう村には帰って来ない者も大勢います。ですから4月という月は寂しい月です。結局年寄りが村に残されてしまいます(図表3-2-5参照)。しかしそのお年寄りが今のところわたしの店の一番いいお客なのです。」

 (イ)散髪今昔物語

 「昭和50年代までのお客はのんびりしていました。午前中にやって来たお客が夕方までいる。そんなこともよくありました。現在では、やって来てすぐにどのくらい時間がかかるのかと聞く人が多くなりました。以前は、込んでいる時『待っといて(待っていて)。』と一言言えば2時間でも3時間でも待ってくれました。どこへも行かず、将棋を指したり、世間話をしたり、雑誌を読んだりしていました。今はそんなわけにいきません。込んでいると『またこうわい(また次に来よう)。』と言って帰ってしまいます。散髪が終わってから話し込む人もなくなりました。20分話していってくれたらよいほうです。たいがいは3分。ここ10年くらい何となく気ぜわしくなりました。のんびりしていた時代の将棋盤と駒(こま)が今でも店にありますが(写真3-2-10参照)、指す人など一人もいません。どうもパチンコにやられたようです。お客は、さっさと散髪を済ませて、松山方面ヘパチンコをしに行かれるのでしょう。
 広田村に落ち着いたころも平素はそれほど仕事があるわけではありませんでした。しかし、紋日が近づくとものすごく忙しくなります。大晦日(おおみそか)はいつも鋏(はさみ)を動かしながら除夜の鐘を聞いたものです。今は違います。毎月平均してお客があり、紋日の前になるとどっとお客が来るということはなくなりました。大晦日でも半日くらい店を開けておけばお客からの文句はありません。特に大晦日の夜の客がなくなったのはテレビの影響(例えば紅白歌合戦)もあるようです。
 お客の足も変わりました。わたしがここで仕事を始めた昭和33年(1958年)から10年くらいは徒歩で来るお客が多く、高市や満穂(みつほ)辺りからも歩いて来る人がありました。その後バイクでやって来る人が増えましたが、そのころは、まだ村内の道路事情も悪く、乗用車も高価な時代でした。やがて乗用車で来るお客が多くなり、時代が変わったなと思っていたところ今度は松山辺りにお客をとられるということになりました。
 小学生を含め、幼い子供たちは親と一緒に松山市の理容店などで散髪をする場合が多いのではないでしょうか。従来坊主頭だった中学生も長髪が許可されたのですが、標準の髪型が決まっていて学校からそのような髪型にしてほしいと要請があります。しかし、そのとおりにすると気に入らない。『松山に行けば好きな髪型にしてくれるんぜ。』と言われて敬遠されてしまいます。散髪のためにわざわざ松山まで行く中学生もいるようです。また以前は女の子もおかっぱ(*7)だったのでわたしの店のお客でした。ところが今はカットで整髪することが多く、一時はやっていたのですが、面倒くさいので、女の子のお客はみな美容院へ譲ってしまいました。
 わたしの店のお客は古くからのおなじみさんが多く、気心の知れた間柄です。お客はただ『やってや。』と言って座るだけ、こっちも『どんな髪型にしますか。』と聞く必要がありません。もちろん今回はこうしてくれと言われる場合もあります。以前は、親、子、孫と3代続いて散髪に来る家庭がよくありましたが、最近は少なくなりました。同じ村に住んでいても、両親と息子夫婦とが別居生活をしている家庭が多くなったことにも原因があるように思われます。
 最近、若い人の場合、バリカンを使わずに鋏(はさみ)だけで髪を刈ることが多いのですが、年配の人はバリカンを使ってくれと言います。バリカンを使わないと散髪したような気持ちにならないのでしょう。わたしがここ広田村に来た時にはすでに電動バリカンを使っていました。しかし停電(そのころ停電がよくあった)の時には手動バリカン(写真3-2-11参照)が役に立ちました。散髪の技は鋏の技です。しかし、一流の職人に言わせると櫛(くし)だと言います。髪を下から上へすいて、櫛から髪の毛をきれいに出して鋏でカットする。それが技だと言うのです。わたしはまだまだ鋏の技の段階です。
 わたしの住んでいる総津というところは、広田村役場もあり、村の中心となっている地域です。わたしの店の近くには村の診療所や高齢者生活福祉センター(写真3-2-12参照)があり、それぞれ送迎用のマイクロバス(無料)を走らせています。村内のお年寄りは専らそれを利用してやって来るのですが、そのついでに散髪をして帰る方がいます。ですから、そのマイクロバスは遠くから散髪にやって来るお年寄りの足にもなっているということでしょうか。余談になりますが、今のお年寄りは昔と比べると服装もよくなり、いつもこざっぱりとしていて、散髪の回数もひところに比べ多くなったように思います。」
 **さんは、今では地域にすっかり溶け込み、村の散髪屋さんとしてなくてはならない人となっている。


*6:昭和49年(1974年)上尾(うえび)バイパス完成。また同年には主要地方道松山~砥部~内子線が国道379号に昇格。昭
  和52年上尾燧道完成。
*7:前髪を眉の上で切りそろえ、後ろ髪は首のあたりで切りそろえた少女の髪型。

図表3-2-2 愛媛県下の理容店舗数

図表3-2-2 愛媛県下の理容店舗数

NTT職業別電話帳(掲載情報平成9年3月14日現在)により作成。人口は平成7年10月1日の国勢調査による。

写真3-2-9 年代物の理容椅子

写真3-2-9 年代物の理容椅子

平成9年7月撮影

図表3-2-4 広田村の人口の推移

図表3-2-4 広田村の人口の推移

『広田村勢要覧 資料編(平成8年版)(③)』P5の人口推移のグラフに、同村の平成7年の人口(国勢調査による)を追加して作成。

図表3-2-5 広田村の年齢 3区分の人口推移

図表3-2-5 広田村の年齢 3区分の人口推移

『広田村勢要覧 資料編(平成8年版)(③)』P6の年齢3区分の人口推移のグラフである。ただし平成7年については、『統計からみた市町村のすがた(④)』の年齢別人口統計を基に作成した。

写真3-2-10 店に置いてある将棋盤と駒

写真3-2-10 店に置いてある将棋盤と駒

平成9年7月撮影

写真3-2-11 今では珍しくなった手動バリカン

写真3-2-11 今では珍しくなった手動バリカン

平成9年7月撮影

写真3-2-12 広田村診療所(上)と高齢者生活福祉センター(下)

写真3-2-12 広田村診療所(上)と高齢者生活福祉センター(下)

平成9年7月撮影