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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅲ-八幡浜市-(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 日土の町並みをたどる

(1)村の名残

 ア 本村の権威

 「江戸時代の日土村は大村で、村内が12組に分けられていました。出奥(いでのおく)から続藪(つづきやぶ)までを本村(ほんむら)といって、庄屋は出奥にありました。この庄屋は日土村全体の庄屋でもあり、宇和島藩でも五本の指に入る大きな庄屋でした。本村というのは権威を持っていたのだと思います。その名残が私たちの子どものころにはありました。小学校の時に運動会で分団リレーというのがあり、日土校区を1分団、2分団、3分団というように分団に分けてリレーをするのですが、人口でいうと日土の半分以上が集中している昔の本村がどういう訳か一つの分団になっていました。子どもの数が絶対的に多いので毎回勝つのですが、昔の本村で一つの分団が構成されていることに対して日土の人は違和感を持たないのです。私(Cさん)が小学校6年生の時に新しく来た先生が、『子どもの数が全然違うのにおかしいではないか。』と言って分団の再編成をしたのです。その後はどうなったのかは知らないのですが、私もその時に『こういう考え方もあるのか。』と思ったのです。」

 イ 役場橋

 「日土地区は喜木川沿いに集落があるので、何本かの橋が架(か)かっています。防川(ぼうがわ)にある大正橋を昔は役場橋と呼んでいました。橋の南側の建設会社のある場所に日土村役場があったからです。昭和18年(1943年)8月の集中豪雨で役場が流れてしまって、新堂(しんどう)に村役場を移したのです。昭和30年に日土村は八幡浜市と合併し、村役場は日土支所になりました。役場橋は昭和35年(1960年)ころにコンクリートの新しい橋になるのですが、その時に役場もないのに役場橋というのもおかしいということで、私(Cさん)の祖父が大正橋という名前をつけたのです。喜木川下流に昭和橋があったので大正橋にしたそうです。」


(2)商業の中心地、中当

 ア 津がいい場所

 「日土の商業の中心地は中当地区になります。道の両側に店が並んでいました。オイズシ(金山出石寺(きんざんしゅっせきじ))へ行く街道沿いであり、さらに小学校、中学校があったので、学校で何か行事があると人が集まって来る場所でもあり、いわゆる、つ(津)がいい場所だったのです。私(Bさん)の家は中当の小学校の隣で雑貨屋をしています。店を始めたのは明治40年(1907年)と聞いています。大正9年(1920年)に西宇和(にしうわ)郡役所からもらった鑑札が残っています。昭和30年ころはオイズシヘ行く参拝客も多く、みんな歩いて行っていました。参拝客用にワラ草履(ぞうり)や竹皮で作った草履を店先に吊(つ)って売っていました。オイズシまで、ここから十数キロあるので途中で草履の鼻緒(はなお)が切れてしまうことがあります。そのために予備として買ってくれていたのです。農家では雨が降るとカッパではなくて、まだ蓑(みの)を着て笠を被(かぶ)っていたのです。笠はタッコロバチといっていました。蓑笠からカッパに切り替わるのが昭和30年代でした。また、昭和30年代から40年代は、学校で参観日など保護者が来る行事があると、遠くから来る人はバスで来て、帰りには生活用品を買って帰っていました。」

 イ 二つの映画館

 「中当に日映館、防川に共栄館という映画館がありました。どちらも広さは20坪ぐらいで、50人から60人ぐらい入れましたが、暗幕の代わりに壁に筵(むしろ)を吊って、地べたに筵を敷いた映画館で、本格的な映画館ではありません。映画館になる前は、日映館はニワトリ小屋、共栄館は製材所だったのです。上映は毎日ではなく、月に5、6日間ぐらいでした。映画がある日は、放送をしていました。私(Aさん)の家は商売(農機具屋)をしていたので、昭和33年(1958年)から35年まで、宣伝のために店の主催で地域の人を集めて年に2回ぐらい上映会をしていましたが、最初は無声映画でした。
 地方を興行して回る村芝居が来ることもありました。上演は防川や出奥(いでのおく)のダイダイ(夏柑)倉庫を借りてしていました。一度来ると、1週間から2週間興行していました。木戸銭(きどせん)(興行を見物するために払う入場料)はわずかな金額でしたが、国定忠治の『赤城(あかぎ)の山も今宵(こよい)限りか。』などの名場面になると、おひねり(金銭を白い紙に包んでひねったもの。本来は神仏に供えたものだが、祝儀にも使うようになった。)が飛んでいました。芝居の一座の子どもは、その間だけ日土小学校に転入して、昼間は学校に行って、夜になると芝居に出ていました。子どもにとっての日常の生活の中でのイベントでは、紙芝居がありました。時々、紙芝居が自転車に乗ってやって来るのを楽しみにしていました。」


(3)日土小学校

 ア 若草色の校舎

 「昭和30年(1955年)ころまで、この地域で色がついた家はほとんどなかったのです。外回りをベンガラで塗った赤褐色の家はありましたが、どの家も木造で和風建築の家でした。昭和31年、私(Bさん)が小学校6年生の時に日土小学校(現在の中校舎)が完成しました。私が一番憶(おぼ)えているのは、それまで色のついた家がなかったモノクロの町の中に、淡い若草色のペンキで塗られた小学校の校舎が現れたことです。たまたま、同じ時期にうちの家を建てたのですが、うちの家は『真っ赤に塗れ。』と言われてベンガラをゴシゴシと塗らされたのですが、塗った後を見るとベンガラ油なので汚いのです。隣の学校を見て『きれいだなあ。』と思ったことを憶えています。」

 イ 子どもへの優しさのある校舎

 「最初に校舎に入ったのは、6年生だった私(Bさん)たちの学年でした。5月ころに松村先生(日土小学校を設計した建築家松村正恒氏)が校内を回りながら説明をしてくれました。新しい校舎になって職員室の前に足洗い場ができていました。それまでは、運動場を裸足(はだし)で遊んで、そのまま校舎に上がっていたので廊下(ろうか)は土で真っ白になっていたのですが、先生は、『裸足で校庭を走ってこいよ。遊んでこいよ。でも、校舎に上がるときは、足洗い場を作っといたけん、水が流れているから、最初に深いところで大洗いをして、斜めになっとるけん、終わったら上がって水がちょろちょろ流れよるところで小洗いをして、足を拭(ふ)いて上がれよ。』と言われました。その後で校舎に入り、職員室、階段、音楽室、川の上にあった非常階段を回っていきながら説明を受けました。
 その時に、私が先生に質問したことは、窓にあった日除(ひよ)けのことです。『先生、何でこれはあるのですか。』と聞くと、『日除けや。風は通ろうが。』と言われ、すごいなと思ったことを憶えています。教室の戸も『学校は冬に冷たい風が入らないように作っているから。』と言っていました。戸の部分をよく見ると学校の戸は柱に切り込みが入っていて、隙間(すきま)ができないように作られていました。自分の家と学校を比べると、家には柱に切り込みが入っていないので冬になると隙間から風が入ってくるのです。『うちの家は寒いな。』と思っていました。他にも自分の家と比べると、学校の柱や手すりは全て面取り(角を取ること)をしていたので触っても当たりがよいのですが、うちの家の柱は角ばったままでした。『学校の柱は優しくていいなあ。』といつも思っていました。
 階段もそうです。通常、階段の蹴上(けあげ)(一段の高さ)は17cmから21cmぐらいなのですが、学校の階段は蹴上が12cmしかないのです。大人だと低く感じるのですが、低学年の子どもが昇り降りすることを考えて作ったのだと思います。私(Bさん)は小学生の時に交通事故にあって少し足が悪かったので、緩やかな勾配(こうばい)の階段の優しさは身をもって感じました。
 黒板もそうです。メガネをかけなければ黒板がよく見えなかったのですが、その当時生徒が600人いて、だれもメガネをかけていなかったので、恥ずかしくてメガネはしていなかったのです。先生が前の方に座らせてくれていたのですが、それでも黒板が光ってよく見えなかったのです。ところが、新しい校舎になってから黒板が凹面(おうめん)になっていて緑色に変わってよく見えるようになりました。後で調べてわかったのですが、反射しない緑色の黒板はメーカーが昭和28年(1953年)に作ったものでした。それを、田舎の小学校で昭和31年には取り入れてくれていたのです。
 そのように、あの校舎には、いろいろなところに子どもへの細かな気配りと優しさがあることを、私は身をもって体験したのです。卒業式の前に6年生全員で職員室の上の廊下を掃除しようということになって、それまでは給食室でお湯をもらって拭(ふ)いていたのですが、今回はぬか袋を持って来て磨こうということになり、寒い日にみんなで廊下を磨いたことが最後の思い出になっています。
 私(Cさん)はBさんの思い出とは少し違います。校舎の1階が職員室で、隣は校長室だったのですが、その真上が6年生の教室でした。私たちの学年は60人近くの生徒がいて教室の端から端まで一杯でした。ちょっと動くと振動がすごいのです。下に居る校長先生から『6年生、静かにせんかい。』とよく怒られていました。」

 ウ 小学校だけは変わらずに残って欲しい

 「平成16年(2004年)9月に台風で小学校の屋根が吹き飛び、耐震性や老朽(ろうきゅう)化の問題もあり、日土小学校を改修するのか、改築するのかという地域を二分した議論が起こったのですが、私(Bさん)はその特に改修することに賛成しました。昭和40年(1965年)に日土中学校が青石中学校に統合されて、日土中学校は廃校になりました。小中学校の隣に住んでいたので、校舎が取り壊され、住宅地に変わっていくさまを目(ま)の当たりにしました。その特に、自分の学んだ学校がなくなっていくことに寂しさを感じていたので、小学校だけは変わらずに残って欲しいという思いがありました。
 たまたま日本建築学会が、この校舎をよい建物だと評価してくれて、地元にそういう建築物が何かないといけないという趣旨のシンポジウムをしていたのですが、知り合いに頼まれてシンポジウムに呼ばれて日土小学校のことを話すようになりました。シンポジウムで話すようになって様々な方面から『今残そうとしなければ、将来は必ずなくなるよ。』と言われ、小学校にはいろいろな思いがあったので自分が先頭に立って、日土小学校を残そうと公民館へ行ってサポーターを募(つの)ったのが『木霊(こだま)の学校日土会』(日土小学校校舎の保存運動の活動をしている会)の始まりです。」

 エ 日土小学校の評価

 「日土小学校が最初に評価されたのは、松村正恒さんが昭和35年(1960年)に『文藝春秋』で『建築家ベストテン 日本の10人』に選ばれてからです。私(Bさん)が中学生の時でした。松村さんが設計をした校舎は、市内の江戸岡(えどおか)小学校や神山(かみやま)小学校にもありましたが、現在は残っていません。
 私(Cさん)は昭和50年(1975年)ころ、鳥取県の米子で仕事をしていたのですが、たまたま早稲田大学を卒業した建築士の人と出会いました。私が愛媛県出身であることを言うと、『わしも愛媛に行ったことがある。八幡浜いう駅からだいぶん行った山奥だった。』と言うので『それは、日土ではないですか。』と聞くと『そうや、そうや。』と言うので『何をしにいったん。』と聞くと、『ええ建築士さんが建てた有名な小学校があってなあ。』と言うので『それは、日土小学校やろ。』と言うと『知っとるのか。』と言うので『有名かどうかは、わからないけど、ぼくの母校です。』と言いました。その時にはじめて、日土小学校が建築学界では有名な学校であることを知ったのです。」
 平成24年(2012年)12月28日に、日土小学校の中校舎(昭和31年竣工)と東校舎(昭和33年竣工)は、合理的な構造と豊かな空間をもつ木造のモダニズム建築として高い価値が認められ、戦後の学校建築としては全国で初めて、国の重要文化財の指定を受けた。

図表1-2-1 昭和30年ころの日土の町並み①-1

図表1-2-1 昭和30年ころの日土の町並み①-1

調査協力者からの聞き取りにより作成。

図表1-2-1 昭和30年ころの日土の町並み①-2

図表1-2-1 昭和30年ころの日土の町並み①-2

調査協力者からの聞き取りにより作成。

図表1-2-1 昭和30年ころの日土の町並み②-1

図表1-2-1 昭和30年ころの日土の町並み②-1

調査協力者からの聞き取りにより作成。

図表1-2-1 昭和30年ころの日土の町並み②-2

図表1-2-1 昭和30年ころの日土の町並み②-2

調査協力者からの聞き取りにより作成。

図表1-2-1 昭和30年ころの日土の町並み③-1

図表1-2-1 昭和30年ころの日土の町並み③-1

調査協力者からの聞き取りにより作成。

図表1-2-1 昭和30年ころの日土の町並み③-2

図表1-2-1 昭和30年ころの日土の町並み③-2

調査協力者からの聞き取りにより作成。