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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅲ-八幡浜市-(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 日土の産業と交通

(1)酒六の企業城下町

 「続藪に酒六日土工場があり、タオルを製造していました。酒六という社名になったのは昭和16年(1941年)です。それまでは盛寿(せいじゅ)タオル工場(昭和8年に酒六株式会社が日土村の関西織物株式会社を買収した。)や丸喜工場(丸喜綿布株式会社、昭和7年設立、酒六の前身)と呼ばれていました。昭和30年代は酒六に200人ぐらい女工(女子工員)さんがいました。私(Bさん)が小さいころなので50年以上も前のことですが、夕方になると酒六工場で働いていた女工さんが帰るので、うちの前の道にはいつも石鹸(せっけん)の香りがしていました。工場の中は綿(わた)ぼこりが舞うのでみんな、工場の中にある風呂へ入ってから帰っていたのです。
 昭和30年(1955年)ころは八幡浜へ出るバス便も少なくて、買い物は皆が住んでいる町の中で済ませていました。買い物をする店は日土の商店しかなかったのです。私(Bさん)の家は雑貨屋をしていたのですが、毎年4月に新入社員が入ると先輩がうちの店に買い物に連れて来てくれるのです。うちの店だけでなく、日土にあった商店の全てが恩恵を受けていました。酒六の前身の関西織物株式会社の時代を含めると、日土に工場ができて100年ぐらい経っているので、日土の商店にとってはありがたい存在だったと思います。
 酒六に勤めていた人もいます。私(Bさん)の母も家内の母も勤めていました。日土の住宅地図に家族のだれかが酒六に勤めていた家に印を付けると、ほとんどの家に印が付くはずです。外から来ていた女工さんが、日土の人と結婚して、ここに住むようになったことも少なくありませんでした。日土が嫁さん不足にならなかったのは酒六のお陰です。社員だけでなくタオルの縁(ふち)を縫(ぬ)うような内職の仕事もあったので、日土の町に与えた影響は本当に大きかったと思います。まさに酒六の企業城下町だったのです。
 一番賑(にぎ)やかだった時期は、昭和35年から40年(1960年から1965年)ころだと思います。酒六日土工場という働く場所があり、ダイダイやミカン(温州ミカン)の値段がよかったころでもあり、日土が潤(うるお)っていたのです。その酒六日土工場も、平成に入って閉鎖になり、現在、その跡地はミカン畑になっています。」


(2)山を開墾してミカン園にする

 「明治19年(1886年)に新堂(しんどう)の二宮嘉太郎が夏柑栽培を始めました。それ以後、夏柑栽培は日土の主産業でした。町内には集落ごとに夏柑集荷場がありました。当時は夏柑を竹カゴに入れて出荷していたので、夏柑カゴ作りを専業でしている家もありました。昭和30年(1955年)ころから温州ミカンを栽培するようになりました。山の木を切って開発してミカンを植えました。日土は山に囲まれているので、ミカンを栽培すると他の地域より早く色がつくのです。紅葉が標高の高いところからはじまるのと同じです。極早生(ごくわせ)とかアオギリと言っていました。他の地域のミカンよりも早く出荷できるので値段がよかったのです。味はそれほどよくなかったのですが、当時は色で選別していたので問題なかったのです。お金になるので標高の高いところの山を開墾してミカン園にすることが多かったのです。昭和40年(1965年)ころには、ミカンの値段がよくなって、いわゆるミカン成金のように裕福になる家もありました。経済的に余裕ができた家では、子どもを大学へ進学させるようになってきて、後継者がいなくなってきました。昭和48年(1973年)ころから値段が下がってきて、だんだんと伊予柑に切り換わってきたのです。日土だけでなく県内どこでもそうなのですが、伊予柑の値段がよいからと伊予柑の木を植えても、実がなるまで5年ぐらいかかるのです。その間は、収入がない状態で生活をしなければいけないので、なかなか怖くてそれができずに後継者が減っていったのです。
 私(Aさん)たちの世代は、自分が苦労して開発したミカン園なので情熱を持ってミカン栽培をしていました。ところが、息子の代になると、車が通れる道がないようなミカン園は栽培をやめるようになり、次第に道路に面した便利な場所だけで栽培するようになってきました。」

(3)品評会

 「私(Dさん)は、日土の山の方に住んでいたのですが、昭和30年代はまだ牛やヤギ、羊を飼っていました。棚田は全部牛を使って耕していました。牛は春に田んぼを耕すときに使い、夏に太らせて、秋祭り以降に売って、子牛を買っていました。当時は、それが唯一の現金を手に入れる手段でした。小学校で牛市も立っていました。運動場の鉄棒に牛をつないでいたのです。牛市と言っても売買を目的とした市ではなくて、品評会です。それぞれの家で飼っている牛を連れてきて『うちの牛はどうだ。』『この牛はいいだろう。』というように自慢し合って1等賞、2等賞、3等賞を決めるのです。賞を取るとお酒1本などの賞品がもらえました。牛の他にヤギや羊、馬の品評会もあり、それぞれで賞を決めるのです。私(Bさん)も羊を出して3等賞をもらったことがあります。畜産以外にも、イモや麦、ダイダイ、ミカンなどの農産物、それから自家製の味噌(みそ)などの食品の品評会もありました。
 現在でいうと収穫祭と農業祭を兼ねたような催しですが、名称は品評会と言っていました。毎年12月に2日間小学校で開かれ、講堂では品評会を行い、運動場ではうどんなどのバザーを行っていました。それが、町をあげての唯一のイベントでした。現在も、2月に各地区で『ふるさと祭り』という形でその名残があります。品評会が始まったのは戦後だと思います。私たちが小学生の時代にはありました。
 私(Bさん)が品評会に行って一番驚いたのは、テーラー(耕耘(こううん)機)を見たときです。それまでは、田んぼを耕すときには牛で、荷物を運ぶときには自転車にリヤカーをつけて運んでいたものが、テーラーに荷台を付けて運ぶように変わってきたのです。」

(4)牛馬での運搬から自動車へ

 「昭和30年ころの日土の道では、歩く人ばかりで、自転車でさえあまり通っていませんでした。荷物の運搬は馬車かリヤカーでしていました。まだ、馬車引きがいたのです。続藪に1軒、中当地区より奥の方の集落で2軒、馬方をしている家がありました。私(Bさん)の店の前の道を馬が通るのですが、ポトポトと糞(ふん)を道に落としていくので、すぐに箒(ほうき)と塵取(ちりとり)を持って糞を除けて、店の裏の空き地で乾燥させて畑の肥料にしていました。現在なら馬が通って糞を店や家の前に落とされると皆さん怒りますが、当時はだれも怒らなくて、そのようにして再利用していたのです。家で飼っていた羊やニワトリの糞も同じようにして肥料にしていました。それでも肥料が足りないときは、浜に行って魚を買ってきて穴を掘って腐らせて肥料にしていたのです。農家の人は、牛にリヤカーを付けて荷物を運んでいました。私(Aさん)の父は、昭和25年(1950年)に肥料屋を始めたのですが、その当時、農家の人が牛を連れて肥料を買いに来ていました。
 車は、バスがたまに通るくらいでした。私(Bさん)の家は商売をしていたので、八幡浜の卸屋から商品を仕入れていました。車がないので、仕入れは、卸屋さんが大きなカバンを持ってバスでここまで来るか、こちらから自転車で八幡浜まで行くかどちらかでした。自転車では仕入れることのできる商品の量も限られ、名坂(なざか)峠を越えるため、体も大変だったので、昭和35年ころに思い切ってミゼット(ダイハツ工業が生産していた三輪自動車)を買いました。日土ではそれが最初だったと思います。当時の価格で約30万円(国家公務員上級職の初任給が1万800円の時代であった。)だったと思います。昭和37年(1962年)に運転免許を取ったのですが、ミゼットで運転の練習をしていました。まだ、道路が舗装(ほそう)されていなくて、デコボコの道で怖かったです。そのころ、日土には道路の標識がなくて、標識の意味を知らなくて困りました。もちろん信号機もありません。
 私(Dさん)は川辻(かわつじ)から高校へ自転車で通っていたのですが、昭和38年(1963年)には町の入口の日土橋までは舗装され、昭和40年(1965年)4月には中当までは舗装されていた記憶があります。
 八幡浜へ行くバスの便は昭和30年代に入ってから段々と増えていきましたが、バス便が増えるたびに地元の商店は売り上げが減っていました。便数が多くなるのは、この地域のバスの利用者が増えたということです。経済的に豊かになり、買い物や遊びで八幡浜に出て行く人がそれだけ多くなったのです。八幡浜の街(まち)でお祭りなどがあると、行く時間はバラバラなのでよいのですが、帰りは同じ時間になるので臨時使が別に1台出るくらいでした。昭和40年代になると、この辺の人も車を持つようになり、次第に商店が寂(さび)れていきました。現在はほとんどの店がやめていますが、一番大きい原因は、自動車の普及だと思います。昭和45年(1970年)ころから自動車を持つ家が増え、50年代に入ると、一家に1台は自動車を所有する時代になりました。そうなると、だれもが車で八幡浜に買い物に行くようになっていったのです。昭和46年に大型スーパーが八幡浜に出店したのですが、その影響も大きかったと思います。」