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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅲ-八幡浜市-(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 魚網

 漁業に使われた網の素材は、初め、山野に自生する籐(とう)、葛(かずら)、蔓(つる)などの植物繊維が用いられ、農耕が行われるようになって、栽培した麻の繊維が使われ始めたと考えられている。特に江戸時代中期から、全国的に麻で編まれた魚網が大量に使われた。同じ時期、宇和海沿岸でも、イワシ網漁が需要の増大と藩の奨励によって急速に発展し、宇和海は「西国一の漁場」と称せられたという。
 明治時代になると、麻網から綿網へと主力が移っていった。その理由としては、麻糸の網の耐用年数が半年程度に対して、綿糸の網は1年、2年程度と、綿糸の方が長持ちすることや、重量が綿の方が軽く大型化しやすいこと、網の価格が綿の方が安かったことなどが挙げられる。
 明治42年(1909年)に、穴井(あない)(現八幡浜市)の薬師神伝治が手動もじ網機を発明し、綿糸の撚糸(ねんし)(撚(よ)りをかけた糸)を用いた改良網の製造を始めた。薬師神は研究を重ね、大正2年(1913年)には動力式蛙股(かえるまた)機が完成し、綿網の普及が一段と進んだ。『八幡浜市誌』によると、薬師神は「朝日綟子網(もじあみ)株式会社」を設立し、全国のおよそ4分の1を生産したという。
 しかし、綿網は、麻網と同じく腐敗しやすいという欠点があった。昭和になると合成繊維の利用が研究され、昭和20年代には、ナイロン網の実用化が図られ、急速に普及した。綿網に比べて、ナイロン網は水分の吸収がないため軽く、腐敗しなかったからである。
 魚網は、網の編み方によって有結節網(糸を結んで網にするもの)と無結節網(結び目のない網)に大別され、綟子網は無結節網の一つである。網は、素材の繊維や編み方によってそれぞれ特徴があり、使用目的に応じて使い分けられる。
 この項では、薬師神伝治の子孫で、四国でただ1社、網作りを続けるHさん(昭和17年生まれ)とIさん(昭和50年生まれ)から話を聞いた。

(1)綟子網製造

 ア 明治28年創業

 「綟子網製造は、明治28年(1895年)ごろに個人経営で始めました。創業者は私(Hさん)の祖父で、2代目は祖父の弟、3代目が私、今は、息子のIが4代目として仕事を引き継いでいます。朝日綟子網株式会社となったのは大正15年(1926年)です。昔から穴井は、事業をやっている人が多く、手袋とかタオルを作っている工場が何軒もありました。うちの工場の近くにマホラン工場(マホランと呼ばれる植物から糸や紐(ひも)を作る)もありました。また、穴井は座敷雛(ざしきびな)の発祥(はっしょう)地です。座敷雛はその家の長女の初節句(はつぜっく)を祝って行うもので、座敷いっぱいに庭園を作り、内裏雛(だいりびな)を中心に様々な人形が配置されます。事業所関係が多かったので、豪華に行われるようになったのだと思います。現在では事業所はうちだけになってしまい、ミカン栽培や漁業が多くなりました。
 現在の建物は、昭和32年(1957年)に地元の大工さんが建ててくれたものです(写真3-1-10参照)。それ以前の建物は、火事で全部焼けてしまいました。昔の資料はほとんど残っていないのですが、うちの会社で使っている織機(しょっき)は私の祖父が発明したもので、昭和10年(1935年)にその発明した織機に対して優等賞をいただいた時の賞状が残っています。
 綟子網はあまり知られていなくて、漁師さんでもどういうものか知らない人が多いくらいです。また、外国にはこのような網はなく、日本だけなのです。綟子網の綟子とは、おそらく糸の撚(よ)りを戻すという意味で、糸に撚りをかけ、出来たその糸の撚りを戻して解いたところに緯(よこ)糸を入れ、また撚りを入れて網を形成していくことから、そのように言うようになったのではないでしょうか。綟子網の用途は、漁師さんによっていろいろな使い方をしているとは思いますが、主に養殖の生(い)け簀(す)とバッチ網というイワシ曳(び)きやチリメン曳きに使用されています。
 明治時代には、県内に綟子網を製造している会社が他にもあり、全国にもあったようですが、現在では全国でも3社だけになりました。広島に2社、愛媛に1社、その1社がうちの会社です。広島の会社は他の魚網も作っているので、綟子網を専業でやっているのはうちの会社のみで、網目の種類も3社の中で一番多いです。網の素材は、はじめは綿でした。綿の後はビニロン、そしてナイロンへと移り変わりました。うちの会社は、ビニロンは使わずに、昭和32年(1957年)に綿からナイロンへ移行しました。現在使用している原糸は、東レ(東レ株式会社)の糸を使っています。東レのタイ工場で作られた糸が、岡崎(愛知県)の東レを経由して、会社に届きます。綟子網は作るのに人手がかかるので、中国などから入ってくる網よりもずっと値が高く、漁網の中では一番値段の高い網なのです。」

 イ 会社を受け継ぐ

 「私(Hさん)が穴井に帰ってきてこの会社を継いだのは昭和41年(1966年)です。従業員は一番多い時で80人ほどいました。工場は、5時ころから22時くらいまで、2部交代制で13時45分に交代していましたから、途中に休憩を45分とるので、従業員の労働時間は8時間です。当時は宿直の人もいて、朝の3時くらいに電源のスイッチを入れて操業の準備作業をする人もいました。工場の奥には風呂場もあり、仕事が終わると従業員の皆さんがお風呂に入っていました。また、この建物の2階は座敷になっていて、昔は忘年会や新年会などの大宴会をやっていました。昭和40年代の最盛期には、1日に約20反(1反は150.1m)、1か月に約500反は出来上がっていたのではないかと思います。繁忙期には残業をしていたほどでした。現在は、網目の種類にもよりますが、1日に7、8反、1か月に130反くらいの生産です。夜に機械の音がすると近所に迷惑をかけるようになるので、三瓶(みかめ)(西予市)に工場を作ったりしたのですが、工場が分散していると目も届かなくなるし経費もかかるので、平成16年(2004年)に機械を穴井へ持って帰ってきて、工場を拡張して1か所にまとめました。今では雇用体系も随分と変わり、本採用からパートになりました。従業員数は30名ほどで、穴井と隣の真網代(まあじろ)や周木(しゅうき)、長早(ながはや)(西予市)の人がほとんどです。週休二日で、勤務時間は8時から17時までです。工場で働く人はほとんどが女性で、ボイラーや機械の調整などの仕事は私たちを含めた男性5人で行っています。」

 ウ オイルショックと200海里

 「昭和48年(1973年)のオイルショックの時には、糸が手に入らなくなりました。糸の原料は全部石油だからです。もちろん樹脂(じゅし)もそうでした。糸の値段がどんどん上がり本当に苦労しました。景気がよかった時期は、『200海里』以前になります。昭和52年(1977年)に200海里漁業専管水域が設定されると、日本の漁業は大きく変わりました。沖合や近海はまあまあでしたが、遠洋がかなり減ってしまい、魚網の販売も200海里設定以前と比べると半分くらいの扱いになってしまいました。」

(2)綟子網の製造工程

 ア 下撚りをかける

 「網に使うナイロン糸の下準備として、ナイロン糸を捩(ねじ)って撚(よ)りをかけ(下(した)撚り)、糸巻きに巻き取ります。使用する糸の太さは、2号から16号まであります。(写真3-1-12参照)」

 イ 上撚りをかける

 「下撚りのかかった糸は、さらに2本を合わせて捩りながら撚り合わせ(上(うわ)撚り)、1本の糸にして糸巻きに巻き取ります。」

 ウ 経糸と緯糸に分ける

 「上撚りのかかった糸を、経(たて)糸用と緯(よこ)糸用に糸を分けます。」

 エ 整経する

 「必要な本数の経糸を揃えて巻き取ることを整経(せいけい)といいます(写真3-1-13参照)。1度に巻き取る長さは4反分、1反は150.1mで余分も必要になるから最終的には800m近くになります。製造する網の幅は50cmと1mの2種類、網目の種類は50cmの中に38本入っているものから、280本入っているものまで、1mm単位で作ることができます。130経(けい)と書いてある場合は、50cmの中に経糸が130本入るという意味になります。」

 オ 網を織る

 「整経した経糸を織機(しょっき)に取り付けます。2本を撚り合わせてある経糸の撚りを、それぞれ戻したところへ緯糸を通すようにして網を織っていきます。網目は正方形で、網目の大きさは、網戸の網目のちょっと大きいくらいから1cmくらいまで、1mm単位で歯車を調整することで変わります。経糸を織機にセッティングして1反分の網を織り上げるまでに、1日8時間労働で約2日間程度、特に機械の調子を整えるのに時間がかかります。織り始めの網目の大きさを決めていくまでに、歯車を変えたり、経糸の撚りを解くなどいろいろな作業をするので、1時間くらいかかる場合もあったりします。ベルトを使って織機を動かしている機械の場合には、ベルトの伸びでも動きが違ってくることがあり、その調整も必要になります。細かい目の網は緯糸も多いので織るのに時間がかかりますが、目が大きい網は能率が上がるのでその分早く出来上がります。」

 カ 樹脂加工をする

 「織り上がった原反は、ナイロン糸のため、そのままだと引っ張っただけでも糸がずれてしまい、使い物になりません。網に樹脂を吹きかけて、乾燥させて網が完成します(写真3-1-15参照)。樹脂の中には顔料を混ぜており、同時に色も付けられます。樹脂加工によって網に強度を持たせることができます。ナイロン糸を使う以前の綿糸の時は、水につけると糸が締まるため、樹脂加工の工程は必要ありませんでした。
 出回っている網の色はほとんど青色です。海色というか、魚の目をごまかすというかそういう意味があるのだと思います。網の色は、基本的には漁師さんの気分次第のところがあり、他所(よそ)の網の色がよいと思ったら、これよりちょっと濃い色がいいとか、そういう注文もあります。夜使う網の場合は、茶色を注文することが多いようです。どこかの網屋さんは、網の色について『魚に聞いてみんと分からん。ただ、魚がびっくりするような色はやめてくれ。』と言っていました。派手な色は魚が落ち着かないみたいです。」

(3)全国で使用される綟子網

 「うちの会社で作っているのは網の原反になりますから、取引先は網屋さんがほとんどで、100社ほどになります。今では、インターネットを通じて問い合わせがあったりもします。販路はここ10年で広がり、北は北海道から南は沖縄までほぼ日本全国になりました。特に太平洋沿岸の地域との取引が多いです。日本海側が少ないのは、魚が大きく、海が荒いのでうちの小さい網目の魚網は使いにくいためです。商社などを通じて輸出もされているようですが、どこへ運ばれているかまではわかりません。
 意外と四国は出荷が少なく、徳島県は古くから取引がありましたが、高知県の場合は最近で、カツオの一本釣りに使用する生(い)き餌(え)用のカタクチイワシの養殖生(い)け簀(す)に使われています。一番多いのは、愛知県の網屋さんで仕立てをして、伊勢湾辺りでバッチ網というチリメン曳(び)きに使われています。広島県の網屋さん経由で、瀬戸内海沿岸でも多く使用されています。最近では、被災地の宮城県気仙沼(けせんぬま)あたりでも養殖用に使用されているようです。
 うちの会社が作っているのは網の原反ですから、網屋さんに行って加工したものを見せてもらったりもしていますが、網屋さんで仕立てをして、もう1回網屋さんを通したりすることもあるので、最終的にどういうところで使用されているのか、残念ながらすべて把握することはできていません。」

(4)資源管理の重要性

 「沿岸漁業の小魚(こざかな)は、健康のためにも見直されていますから取引は多いようですが、魚がいなくなってしまって漁獲量は一時よりはぐっと減り、イワシなども貴重品のような扱いをするようになりました。今は資源管理という観点から、網目の大きさの規制が始まっています。伊勢志摩(いせしま)あたりは、一旦網目を大きくしたら魚が増えたということで、伊勢湾では、試験曳きをして獲れなかったら獲らないという取り決めをして資源の管理が徹底されてきています。広島県も資源管理の話が盛り上がってきていて、実施をしているようです。長く漁業をやっていこうと思ったら、資源管理は本当に大切なことだと思います。」
 Hさんの話から、四国でただ1社の綟子網製造会社の技術力の維持・向上や若い世代への技術継承の難しさという、製造業の置かれている現状が垣間見えるとともに、漁業を取り巻く資源管理の重要性について、網製造を通じて関わっていこうとする熱意が感じられた。

写真3-1-10 朝日綟子網株式会社

写真3-1-10 朝日綟子網株式会社

八幡浜市穴井。平成24年12月撮影

写真3-1-12 ナイロン糸に下撚りをかける

写真3-1-12 ナイロン糸に下撚りをかける

八幡浜市穴井。平成24年12月撮影

写真3-1-13 整経

写真3-1-13 整経

八幡浜市穴井。平成24年12月撮影

写真3-1-15 樹脂加工

写真3-1-15 樹脂加工

八幡浜市穴井。平成24年12月撮影