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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅲ-八幡浜市-(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 昔のにぎわい

(1)四ツ太鼓

 ア あこがれの乗り子

 「私(Dさん)は昭和21年(1946年)、小学校3年生の時に四ツ太鼓に乗りました。乗り子の条件は、小学校3年生に当たる年齢の長男で、町区の4地区(本町(ほんまち)、上町(かみまち)、新町(しんまち)、横町(よこまち))から1名ずつ選ばれました。条件に合う子どもが複数人いる場合は、じゃんけんや抽選により決められることもありました。四ツ太鼓の乗り子は、したいと思ってもだれもができるものではなく、四ツ太鼓に乗れることは、とても誇らしい事だったのです。かき手(担(つぎ)ぎ手)は、世持(よも)ち(世帯持ち)と青年団とが20名ずつ出て、かきあいをしていました。多い時は30名ずつ、60名で担いでいたこともあったようです。
 四ツ太鼓には4人の子どもしか乗れないので、低学年の子どもがあぶれてしまいます。その子たちをどうにかしようということで、子ども神輿を出すようになりました。祭りを盛り上げるということを前提にしたら、男の子も女の子も関係ありません。みんなで一緒になって祭りを盛り上げるのです。子ども全員がお祭りに参加できるということが、お祭りの基本だと思います。」

 イ 四ツ太鼓の練習

 「練習は本番の1か月前から、毎晩2時間程度、公会堂(こうかいどう)(現在は空き地)で行われ、青年団の人に習っていました。当時は、今のように部活や習い事などで忙しい子どもはいませんでしたから、学校が終わってからすぐ、練習に参加していました。練習では、手が平行にならないといけない振りのところで、ちょっとでも(手が)ゆがんだりしていたら、『そこいかん。それちょっと上がりすぎや。』とすぐに注意されます。四ツ太鼓に乗れることは、誇らしくて楽しみでしたが、練習はとても厳しく、嫌になる時もありました。身体(からだ)も頭も柔らかい小学校3年の時分に、1か月間以上みっちり練習したので、今でも身体が覚えています。また、食糧事情のよくない当時に、まんじゅうなどのおやつがもらえることも楽しみの一つでした。肝試(きもだめ)しだといって、近くの墓地に行って石を取りに行かされたこともありました。今思い返してみると、地域の人とふれあい、一体感の得られた貴重な経験でした。」

 ウ 祭り当日

 「準備や運行は青年団が取り仕切り、宵(よい)祭りの晩から神社に泊まり込み、早朝から準備して、7時ごろには出発できるようにしていました。宵祭りとお旅(たび)(喜木八幡神社から神越八幡神社の運行)の前の早朝と後の夕方で、喜木地区をくまなく回っていました。
 宵祭りから祭りが終わるまでの間、四ツ太鼓の乗り子4人は地面に足を付けてはなりませんでした。乗り子たちは神様の化身(けしん)であるといわれており、『神様に地べたに足を付かせて歩かせてはいけない』という考えでそうしていたのだと思います。乗り子が移動するときには、大人が肩車や抱(だ)っこをして担(かつ)いで移動させていました。
 私(Hさん)が一番覚えているのは、宵祭りに青年団の人に肩車をしてもらって、磯岡の上の方まで一軒一軒家を訪ねて回ったことです。そのころ、結構いろいろなところに遊びに行っていたのですが、意外に知らないところがあるものだな、と子どもながらに思ったことを覚えています。」

 エ 乗り子の化粧と着付け

 喜木に住み、長く美容師をされているBさんは、四ツ太鼓の乗り子と、稚児(ちご)の舞を踊る子どもの化粧と着付けについて、次のように話す。
 「私(Bさん)は、20歳から86歳の今に至るまでずっと、四ツ太鼓とお稚児さんの化粧と着付けを担当してきました。四ツ太鼓が一時中断してからは、お稚児さんだけ担当しています。やり始めた当初は母と二人でしていましたが、母が65歳で亡くなってからは、全て私一人でしてきました。
 四ツ太鼓の乗り子たちは、朝の7時にはご祝儀(しゅうぎ)を集めに地区を回り始めるので、夜明け前の4時ごろから準備を始めていました。化粧をして着物を着せて、一人仕上げるのに約30分、4人で約2時間はかかります。とにかく時間までに早く仕上げなければいけないのが一番大変でした。
 四ツ太鼓の乗り子の化粧の手順は、まず、顔全体を白く塗って、それから鼻だけさらに白い色で塗ります。そして、眉(まゆ)を描き、口紅をひき、頬紅(ほおべに)を少しつけたら完成です。昔の子は比較的おとなしく、嫌がることなく素直に化粧されていましたが、口紅や眉墨(まゆずみ)などは、赤、黒の原液ですから、子どもがちょっとでも動けばずれてしまい、やり直さなければなりません。また、おしろいをつけるときに目をつぶっておくよう言っても、割合すぐに目を開けてしまったりします。そういう細かい部分では気を遣(つか)い、苦労もありました。
 また、つくる(化粧する)子どもはみなきれいにしてあげなければ、親御(おやご)さんも納得しません。それがなかなか難しいところでもありました。化粧をしたら男の子でも女の子でも皆かわいらしく、きれいになって、子どもたち本人も喜んでくれていました。特に、私(Bさん)は子どもが男の子しかいなかったので、女の子を『つくる』のは特に楽しみでした。自分が化粧をして着付けをした子どもたちがお祭りで活躍している姿を見るのは本当に楽しみで、『つくる』ということは、私の生きがいでした。
 四ツ太鼓が中断されてからは、お稚児さんのみをつくってきましたが、20歳でやり始めてから86歳の今まで、何事もなく無事に仕上げて子どもたちをお宮まで連れて行くことができました。本当に大変な仕事でしたが、おかげでこの年になるまで元気に病気一つせず、一日も寝こんだことがありません。無事に何事もなく済(す)ませることができて、ありがたいと感謝しています。そして、元気でやらせてもらえて、幸せだと思っています。」

(2)周辺のにぎわいと家庭でのにぎわい

 「私(Aさん)が喜木にお嫁に来たころ、秋祭りの時期になると八幡神社周辺は大変なにぎわいでした。喜木川沿いの河原には牛市が立ち、松山や九州から多くの人が買い付けにきていました。また、芝居小屋も建てられ、巡業で各地を回っている役者さんが来ていました。昔は、今のようにテレビなどないですから、みんなこぞってお芝居を観に行っていました。喜木の周辺に住む人たちも祭りを心待ちにしている人は多く、日土(ひづち)から来る人は皆、『喜木はお祭りがにぎやかなけん、行かないけん(にぎやかだから行かなくてはならない)。』と楽しみに来られていました。
 また、町の中には出店(でみせ)が設けられていました。私(Aさん)の家には金物(かなもの)屋さんが来て、土間(どま)で金物を売っていました。1週間くらいはいたと思います。本町と横町の通りには瀬戸物や籠(かご)、金物などの出店がずらっと並んでいました。
 私(Bさん)が子どものころ、5銭や10銭をもらっては、喜んで出店で何かを買って食べていました。10銭ももらえたときにはもう嬉(うれ)しくて、何を買おうか迷っていました。特に楽しみだったのは、『ニッケシュ』(ニッキの粉末を水に溶かして赤や緑、黄色などの色をつけた飲物)や『貝ニッケ』などです(図表4-2-1参照)。貝ニッケは、貝殻に黒砂糖が少し入ったもので、小さいもので2銭から3銭、大きいものになると5銭くらいしました。当時は、今とは違ってお菓子などめったに食べられませんから、本当に楽しみでした。
 昔は、お祭りといったら親戚同士が泊まりがけで行き来することもありました。前の日は、お餅(もち)をついて親戚に配り、祭り当日は、たくさんの人がうちに集まって、普段はめったに食べないごちそうを作ってもてなしました。お寿司や揚げ物、煮物などの匂いが方々の家から漂(ただよ)っていたものです。また、その場で食べるだけでなく、作ったごちそうを重箱(じゅうばこ)にいっぱい詰めて、お土産(みやげ)に持って帰らせていました。そして逆に、お祭りに遊びに行ったときには、こちらがごちそうをもらって帰るのです。あげたりもらったり、そういうことが楽しみでした。今は、昔のように行き来することはなくなってしまいました。昔は、特別なときしかごちそうが食べられませんでしたが、今は、普段からおいしいものが何でも食べられる時代だからだと思います。」

図表4-2-1 貝ニッケ

図表4-2-1 貝ニッケ