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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅴ -愛南町-(平成25年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 中浦の景観

 中浦は、江戸時代には内海浦(うちうみうら)の一部であった。内海浦は、由良(ゆら)半島の南岸から御荘湾の奥にまで広がっており、江戸時代の史料「大成郡録(たいせいぐんろく)」には、枝浦として魚神山(ながみやま)・家串(いえくし)・平碆(ひらばえ)・柏崎(かしわざき)・中浦(なかうら)・赤水(あかみず)の名が挙げられている。明治22年(1889年)の町村制施行に伴い、柏村と内海浦が合併して内海村となったが、昭和23年(1948年)に、御荘湾岸の地域は内海村から分村して二分され、中浦や高畑(たかはた)、赤水などが南内海村として独立し、平山(ひらやま)(大島を除く)と深泥(みどろ)が御荘町に編入された(図表1-2-2参照)。
 南内海村役場は中浦に置かれた。南内海村は、昭和31年(1956年)に御荘町と合併したので、独立した自治体としての期間は8年ほどであるが、この時期に平城と中浦を結ぶ道路が整備された。昭和28年(1953年)発行の『愛媛県新誌』には、当時の中浦について「イワシ巾着網(きんちゃくあみ)を主とする純漁村で(中略)現在も264戸中商店はわずかに9戸である。(②)」と記され、商業機能の備わっていない漁村とされているが、聞き取り調査によって作成した町並み図によれば、昭和20年代から30年代にかけて、小さな商店が道路沿いのあちこちにあり、地区内の商業機能をある程度担っていた(図表1-2-3参照)。
 中浦の景観やそのくらしについて、Aさん(昭和12年生まれ)、Bさん(昭和12年生まれ)、Cさん(昭和17年生れ)、Dさん(昭和17年生まれ)、Eさん(昭和39年生まれ)から話を聞いた。

(1)海辺の町並み

 ア 県道沿いの景観

 「中浦は、もとは内海村でしたが、昭和23年(1948年)11月に分村して中浦、赤水、高畑の御荘湾南岸が南内海村になりました。昭和29年(1954年)ころ、南内海村の人口は4,000人ほどでした。それから御荘町になったのが昭和31年(1956年)9月ですので、南内海村の歴史は短いのです。
 中浦の県道(平城中浦線)沿いやその近くに、雑貨店、たばこ屋、食堂、銭湯、アイスキャンディー屋、はきもの屋、鍛冶屋などがありました。食堂は、昭和40年代まで、八百屋もしながら仕切りをして一杯飲み屋をしていました。パチンコ屋は最初、公民館の隣でやっていました(図表1-2-3参照)。
 役場や農協(中浦農業協同組合)や漁協(南内海漁業協同組合)も県道沿いにありました。漁業組合のことを『ギョウカイ』(漁業会の略)と呼んでいました。役場の隣は農協でした。その斜め前は農協の精米所でした。百貨店の名が付いた店が役場の斜め前にありました。その南隣の店は、自分でも商売をしていましたが、行商の人が他所(よそ)からやって来て、お盆やお正月の前には新しい服を売ったりすることもありました。
 役場は、3階建ての大きな木造建物でした(図表1-2-3の㋒参照)。昭和20年代半ばまで、役場には進駐軍の軍人が来ることがありました。清家八郎兵衛村長が『今日は、進駐軍が来る。』と言うので、わざわざ見に行ったことがあります。2人か3人、ジープでやって来て、革靴で板の間へどんどん上がっていくのです。『革靴で上がるんか。』と驚きました。その後、村長が百貨店に走って行って『何か、ええもんないか。』と言いながら買い物をしていました。役場はその後、御荘町と合併してからは支所になり、公民館の所に移転しました。
 役場の海側に造船所があって、私(Bさん)の父が船大工をしていました。昭和19年(1944年)ころ、私方の造船所は、線路(船体を載せる船台に取り付けたレール)を国に接収されてしまい、造船所は南郡(なんぐん)(南宇和郡)で1か所だけ、久良(ひさよし)(城辺地域)にまとめられました。それまでは、木船を造ったり、補修したりしていました。
 百貨店の南隣に小さな川がありました。今はふさいでいますが、川に板を渡して、この辺の人たちが夕涼みをしていました。将棋をしたり夜通し騒いだり、女の子が通ったらひやかしたりしました。川の上に作られた店もありました。その店の所に、映画館のビラが貼り出されるのです。『誰(だ)が為(ため)に鐘は鳴る』(1943年製作のアメリカ映画)のビラを見て、映画を見に行ったことを憶(おぼ)えています。
 文房具や薬を扱う店もありました。その店は、たばこ屋だったり自転車屋だったりしました。自転車や薬は船越から来た人が店を開いていました。内科医もありましたが、お医者さんが亡くなると、そこで娘さんが美容院をしていました。電気パーマといって、中浦で最初の美容院でした。私(Cさん)が小学4年生の時でしたが、すごくお店がはやって、女の子たちがパーマをかけていましたが、学校の先生は何も言いませんでした。
 湾の奥に、船着き場がありました(図表1-2-3の㋖参照)。桟橋がなかったので、歩み板で巡航船(じゅんこうせん)(御荘湾や内海の航路を回る船)に乗り降りしていました。宇和島(うわじま)に通う天長(てんちょう)丸やはるかぜ丸もここに着いていましたが、歩み板を使わずに直接乗り降りしていました。巡航船の経営をしていた家には、氷を突く(かき氷は、鉋(かんな)を逆にして氷を前後に突いて作った)氷屋もありましたので、よく食べに行きました。
 小学校の校舎は、昭和30年(1955年)ころは2階建てでした。台風が来て、校舎の2階に山手のお宮の木が倒れ込んだのを憶えています。運動場の前の海にある島には、小さなお宮がありました(図表1-2-3の㋔参照)。その島には橋が架かっていました。水泳競技のときは、沖に船をつないで縄でコースを作り、船を置いてそこでターンするように泳いでいました。海岸端の、地引き網の船を置いたり網を引っ張り上げたりする所を『網代(あじろ)』と呼んでいました。網代は海岸に何か所もあり、空き地でしたので、子どものころはそこで遊んだり泳いだりしていました。
 昭和の終わりころまで、中浦の家並みの中に大きな松がありました(図表1-2-3の㋕参照)。松は、ハツ(マグロのこと)の見張りをする場所でした。私(Bさん)らは見たことはないですが、聞いた話では、枝と枝との間に見張り場を作っていて、ハツが来たら村人に知らせるのだそうです。マイクなどはない時代ですから、大声で『来たぞー、来たぞー。』と知らせていたそうです。そうするとみんなが浜へ出て、網を引くのです。その浜は、今は埋め立てられています。」

 イ 家並みの中の景観

 「今もそうですが、それぞれの家に屋号がありました。店の仕事を表す『フロヤ』『カジヤ』があったり、清水さんの店なので『しみせ』と呼んだりしました。ほかにも『ネンブツヤ』『キシヤ』『大黒(だいこく)』『ブラジル』『本家猪野(ほんけいの)』『浜猪野(はまいの)』『銀行(ぎんこう)』などの屋号がありました。
 浜手から山側へ入った、百貨店(雑貨食品店)南の川沿いの道(図表1-2-3の㋐~㋑参照)が、昔のメインストリートだったそうです。昭和20年代に駄菓子屋や豆腐屋などがありました。豆腐屋さんは、店内にある階段の下に引き出しが付いていて、商店らしい構えでした。そこは、終戦当時は配給所もしていました。隣の家は酒のほか、米や針金など雑貨も扱う店をしていました。その向かい側の角には、理容店がありました。模様の入ったガラス窓でハイカラな感じでした。その近くには、昭和20年(1945年)ころまで、アメやメンコ、パンなどを売る店がありました。そこから海側にあった『ブラジル』の屋号の家では、私が子どものころ、家に行くとコーヒーを出してくれました。インスタントではなかったと思うのですが、コーヒーを全然知らなかったので、不思議な味ですごくおいしかったです。ほかに、傘(かさ)屋や桶(おけ)屋、ブリキ屋さんもありました。ブリキがいらなくなるとブリキ屋は別の店に変わりました。また、旅館は、マスヤとツタヤ、カドヤがありました。どの旅館も客を泊める部屋は、三つか四つでした。
 山手にある教員住宅は、初めは、引揚者(太平洋戦争が終わって大陸から帰還した人)の住宅でした(図表1-2-3の㋓参照)。後で、学校の先生が住むようになって教員住宅と言うようになりました。縫製工場もあちこちにありました。近くの女の人が働きに行って、服を作っていました。昭和30年代から40年代の中浦が、一番活性化していたように思います。男の人は水産会社の社員になって海で働き、女の人にも仕事があって、収入もそれなりにありました。そのころに地区の施設が続々整備されました(図表1-2-4参照)。メインストリートは、町中(まちなか)の狭い道から海側の広い県道(猿鳴(さるなぎ)平城線)に移りました。」

(2)山や磯で

 「春先に『お節句』といって、旧暦3月3日と4日に山と海に弁当を持って行き、楽しむ行事がありました。中ノ谷(なかのたに)の人は中浦の山手の桜がたくさんあった場所と浜へ行くなど、中浦の小さな組ごとに行き先が違っていました。
 中浦の周りの山で、一番高いのは石鎚山(いしづちさん)と呼ばれる山(約229m)です。中浦のテレビ塔がある辺りからずっと続く山頂の付近(分水嶺(ぶんすいれい))には、松並木の巨木がありました。その下の方は雑木林で、さらにその少し下から段畑になっていました。石鎚山にはお宮はなかったのですが、石室(いしむろ)(石が積まれた岩屋)はありました。
 イノシシの被害は、中浦では聞いたことがないのですが、段畑の上の山に行くと、イノシシの被害を防ぐシシ垣が残っています。高さが1.3mくらいで、半島の頂上や頂上から少し下がった場所のほか、セビラや猿鳴の方にもあります。
 昭和20年代から30年代の中浦は、半農半漁でした。山の裾(すそ)は段畑で、イモ(甘藷(かんしょ))と麦を作っていました。5月に麦を刈り取って、その後にイモを植えて、11月にイモを掘ったら、その後に麦の種を蒔(ま)いていました。その取入れと作付の時期が一年で一番忙しいので、農繁休業もあって、春と秋に学校が3日くらい休みになり、麦やイモの取入れを子どもも手伝いました。農業をしていない家の子どもは、農家へ手伝いに行っていました。一方で、『金物(かなもの)休み』といって、鍬(くわ)や包丁を使ったらいけない日がありました。その日は鍬を使えないので山仕事ができません。
 段畑で刈った麦わらを山盛りにして、浜から海に流していました。浜辺の麦わらの山で子どもが遊んで、麦わらに乗っていて海に沈んだり落ちたりして、亡くなる事故がよくありました。小学生なら大抵泳げるのですが、親の目の届かない所で子どもだけがいると、小さな子は泳げずに溺(おぼ)れてしまうのです。
 イモから作った切干(きりぼし)は、焼酎の原料になりました。干棚(ひだな)といって、切干を作るために、竹を縦や横に編んで台を作り、その上に張った網の上に切干を並べていました。場所が足りないので、あちこちに干棚があり、里道(りどう)や水路の上にも切干の干場を作っていました。広見(ひろみ)町(現鬼北町)の近永(ちかなが)にアルコール工場があったので、そこに送っていました。切干になるイモは高系(こうけい)4号という品種でしたが、それとは別に、白イモ(サツマイモの一品種。高系4号と比べて甘い。)を作っていました。福井県に出稼ぎに行っている人から毎年、時期が来ると『白イモを送ってくれ。』と催促がありました。段畑で作った白イモが、福井県で楽しみにされていました。
 中浦では、集落のある所から岬(みさき)の方(御荘湾の湾口)や東の尻貝(しりがい)(「鍬谷(しりがい)」とも書く)など海岸の近くにある農地へは、船を漕(こ)いで行って農業をしていました。農繁期には、北東の灘前(なだまえ)(「オモチュウラ」とも言う)や樫ノ浦(かしのうら)に行くときは、船でイモや麦を運んでいました。下肥(しもごえ)も船で運んでいました。船で行くとき、子どもも大人と一緒に漕ぐことがありました。船越(西海地域)へ行く道は、荷車が通るくらいの幅がありましたが、中浦から東隣の尻貝へ行くのに、昭和25年(1950年)に道路が開通するまでは、幅が50cmくらいの野道(のみち)しかなかったのです。その野道は山道で上がり下がりがありましたので、干潮のときは海岸の岩場を歩いたこともありました。
 猿鳴の人は、精麦のため中浦の精米所へ麦を持ち込むのですが、担(かつ)いででは量に限りがあるので、量が多いときは船で銚子ノ口(ちょうしのくち)(御荘湾の湾口)を回って運んでくることもありました。」

図表1-2-2 内海村の分村(昭和23年)

図表1-2-2 内海村の分村(昭和23年)

『新訂内海村史』9ページの図から作成。

図表1-2-3 昭和20年代から30年代の中浦の町並み1

図表1-2-3 昭和20年代から30年代の中浦の町並み1

調査協力者からの聞き取りにより作成。

図表1-2-3 昭和20年代から30年代の中浦の町並み2

図表1-2-3 昭和20年代から30年代の中浦の町並み2

調査協力者からの聞き取りにより作成。

図表1-2-4 中浦の施設設備

図表1-2-4 中浦の施設設備

『御荘の歴史年表』及び聞き取りから作成。