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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅴ -愛南町-(平成25年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 船越のくらし

(1)漁師町の人々

 ア イワシまき網船の乗組員

 「海岸を埋め立てる前は、網船(あみふね)が着いていた岸壁には直径が1mから2mはあるような大きな石を使った石組みがあって、とれた魚をそこで陸揚げしていました(図表1-5-2の㋕参照)。その時には、船越の住民の多くが手に籠(かご)を下げて魚をただで貰(もら)いに来て、網船の漁師たちは困ったような顔をしながらも、柄(え)の付いた小型の網で魚をすくって籠の中に入れてくれていました。
 昭和30年(1955年)ころは、船越に4統(統は船団を数えるのに用いる)のイワシ(マイワシ)まき網船(せん)があって、そのまき網漁業が地元の主要産業でした。乗組員は半年契約で、それぞれの網のリーダーであった漁労長が、その網船の乗組員を、交渉しながら確保していました。1統ごとに2隻の網船と運搬船と灯船(ひぶね)(夜間に網漁を行う際に灯(あか)りをつける船)があったので、全部で30人くらいの乗組員を集めていたのだろうと思います。同じ漁労長の網船に乗る人が多かったようですが、入れ替わりもありました。漁労長は、乗組員を確保して契約を交わし終えると、自分の家に全員を集め、景気づけのための『腹合わせ』という宴会をしていました。気持ちを一つにしてがんばろう、という意味の『腹合わせ』だったのだと思います。昔の家は襖(ふすま)を開けると広い座敷になるので大勢の人が集まれました。私(Dさん)の父親が漁労長のときに、うちで腹合わせをしたのですが、ある時、人が大勢入り過ぎて家の座が落ちたことがありました。
 当時の船越には、少なくとも120、130人の乗組員がいました。乗組員の賃金は半年払いで、その間は、『月貸し』といって、毎月、前借りの形で網元からお金を借りていました。そして、半年ごとの漁獲高によって旧暦の盆と正月に貰う賃金でそれを精算していました。
 網船の多くは焼玉(やきだま)エンジン(シリンダー内の赤熱(せきねつ)状態になった球形の突起〔焼玉〕に油を吹き付けて爆発させる仕組みのエンジン)を使っていたので、出漁のときに港の前でゴーゴーと音をさせながら玉を焼いていた光景をよく憶えています。」

 イ 水産加工場で働く「かこ」

 「昭和30年ころ、船越湾内には、10軒近くの網元があって、その網元の大きな網船でとれたイワシを加工する工場もたくさんありました。日振島(宇和島市)の網船が船越の魚市場に水揚げをしていたのも、多くの水産加工場があったからです。工場では、煮干し(イリコ〔イワシを茹(ゆ)でて干したもの〕)や丸干し(目刺し〔イワシの目に竹などの串を通し、数尾ずつ連ねて生のまま干したもの〕)などを作っていました。
 私(Aさん)の実家も、船越近くの久家で300坪(約990m²)ほどの水産加工場を経営していて、煮干しや丸干しの他にカツオ節も作っていました。家族の他に、『かこ』と呼んでいた、10人ほどの女性の作業員さんたちに手伝ってもらいながら、魚の種類や大きさによって、炊いて干したり、串を刺して塩物としたり、開いて干したりする作業をしていました。魚の加工は鮮度が重要なので、かこさんたちに一斉に作業をしてもらえたのは助かりました。
 イワシまき網船が漁か帰ってくると、乗組員たちは、とれた魚のうち、いくらかをギョウカイ(船越漁業協同組合のこと)の魚市場に水揚げして、大方の魚を船に残しておきます。やがて水産加工場の人たちによる入札があり、例えば、うち(Aさん)の加工場が、ある網船(の入札)を落とすと、その網船は、『金長(かねちょう)(Aさんの実家の屋号)へ行け。』とギョウカイの担当者から指示を受けた後、うちの加工場の前の岸壁に船を着け、乗組員たちが、20貫(かん)(約75kg)入りぐらいの竹籠を使って魚を量りながら、加工場の中の大きな入れ物の中に運び込んでいました。そして、加工場の方でも、『魚が入ったので、すぐ来てくれ。』という合図の赤い旗を振って、かこさんたちを呼び寄せます。船越のかこさんは、入札で船越へ行った父親がその中の一人に声をかけて、連絡を取り合ってもらいました。網船が港に帰って来る直前には、ギョウカイのサイレンが2度鳴るので、かこさんの方でも、それが聞こえると、加工場からの合図を気にしてくれていました。
 船越では、多くの女性が、普段は山の畑などでイモや麦などを作りながら水産加工場で『かこ』として働いていました。賃金は時間給の当日払いでそれほど高くはなかったですが、少しでも生活の足(た)しにしようと、加工場で働くことのできる人はほとんど行っていました。
 当時、船越湾内の水産加工場で作られた製品は、主に伊予市内の三つの花かつお製造会社に出荷されていました。専用の運搬船がギョウカイの前の岸壁に横付けにされ、その船に製品を積み込んで運んでいました。」

 ウ 未曽有のマイワシ不漁を乗り越える

 旧西海町が、昭和31年(1956年)に愛媛大学地域社会総合研究所に調査を依頼し、翌年に発行した報告書『産業振興への基礎調査』には、「昭和31年下半期、南宇和郡一帯は、イワシ旋(まき)網漁業創始以来の大不漁に遭遇した。なかんずく、同漁業の中心地である西海町は、その影響を集中的に受け、網子や網元の経済的窮迫は云(い)うまでもなく、同町経済全体の困窮となり、社会問題にまで発展し、全県的、全国的な注視を浴びるに至った。」とある。そして、「(基幹産業であったイワシまき網漁業と水産加工業を合わせた)水産業の31年の粗生産額は、30年に比べて約2億円、55%の減少となる。もしこの水産業の町経済におけるウエイトを70%とすれば、西海町はこの度(たび)の不漁により、39%、4割近くも経済水準が低落した計算となる。まことに大きな経済的打撃と云わなければならない。」と続けている。この未曽有(みぞう)の不漁が船越の町に与えた影響について聞いた。
 「船越の漁業や水産加工業はマイワシ(③)がとれることで成り立っていたので、海況(水温や海流などで表される海洋の状態)や潮流(黒潮(くろしお)本流から豊後水道(ぶんごすいどう)に入る分派の潮流)の異変や赤潮(プランクトンの異常繁殖のために、海水が赤茶色に見える現象で、水産物に害を与える。)などの影響で一気にとれなくなったことは、船越の人たちの生活を大きく変えました。
 中泊(なかどまり)(旧西海町)のまき網船は浜田(はまだ)(島根県浜田市)の方へ基地が移されましたが、船越のまき網船は移されずに終わりました。ですから、船越のまき網船に乗っていた人の中には、中泊のまき網船に乗って浜田へ行った人が結構いて、私(Dさん)の父親もその一人でした。
 まき網船の乗組員だけではなく水産加工場も外へ移りました。久家にあった私(Aさん)の実家も一番上の兄が水産加工場を経営していたのですが、道具一切を持って浜田市へ移りました。船越湾内の水産加工業者のうち、4、5軒は浜田市や米子(よなご)市(鳥取県)へ移って行ったと思います。一方で、他所へ移らずに水産加工場を閉めた事業主の中には地元で真珠養殖を始める人もいて、この辺りの漁業の中心は、イワシまき網漁が廃(すた)れた後、真珠養殖に変わり、さらにはハマチ養殖へと移っていきました。
 まき網船の乗組員たちは、地元のカツオ船や県外のまき網船に乗り換えたり、船舶免許を取得して内外航路の船員に転向したり、仕事を求めて別の町へ出て行ったりしました。また、水産加工場で働いていた女性たちも、真珠養殖の作業場や地元にできた縫製工場などで働いたり、観光・レジャー産業の仕事に従事したりする人が増えていきました。イワシまき網漁とともに賑(にぎ)わっていた船越の町の様子も、昭和31年ころを境にして変わっていきました。」

(2)水を求めて

 「昭和29年(1954年)に船越の簡易水道工事は完成しましたが、それでも頻繁に断水をしていて、大久保山(おおくぼやま)ダム(昭和54年〔1979年〕竣(しゅん)工、所在地は愛南町緑(みどり))からの分水が可能になってから、ようやく断水はなくなりました。それまでは、夏場の渇水期には、3日に1度ほどの頻度で時間給水があったり、近隣の久家や内泊(うちどまり)の簡易水道から分水をしてもらったりしていました。
 船越には、高い山がないので保水能力を持つ森林がありません。一方、久家や内泊には、背後に高い山と深い森林があるので地中に水があり、井戸を掘れば船越よりも水が出るわけです。水の少ない船越では、各家に井戸があり、地区住民であれば自由に使える共用井戸もありました。ただし、自分の家の井戸や共用井戸が枯れたときには、まだ水が出ている井戸まで水を貰(もら)いに行っていました。私(Aさん)もうちの井戸が枯れたときに、担(にな)い棒を肩にかけて近所の家へ水を貰いに行ったことがあります。久家や内泊と同様に福浦(ふくうら)も高い山が背後にあって井戸水の出もよかったのですが、その福浦出身の妻は、船越に来て、初めて担い棒で水を運ぶ経験をした、と言っていました。
 船越では、東側の海岸に沿うように大きな道路が通っていて、その道路から陸側の山際の家々にはそれぞれに井戸があります。逆に、道路から沖(海)側に建っている家には井戸がありません。元々はその道路際くらいまでが砂浜だったので、井戸を掘っても潮水が混ざってしまうからです。」

(3)日々の食事

 「船越では米を作っていなかったので、私(Dさん)が子どものころに食べていたものはイモと麦で、あとは魚です。主食は『オカチン』と呼んでいたカンコロ飯でした。他の地域では『ツメ飯』とも言ったりします。オカチンは、生イモを薄く輪切りにしたものを干して切干を作り、それを砕いたものを炊いて作っていました。切干の粉を蒸せばカンコロモチになります。少し高級なオカチンになると、小豆や米などを混ぜて炊いていました。
 夏になると、子どもたちは、竹で編んだツルショウケ(持ち手の付いた桶(おけ))にオカチンを盛り、それを持って海へ泳ぎに行って、お腹が減ったら、その桶からオカチンを手ですくって食べていました。主食としては、イモのカンコロ以外では大麦を食べることもありました。麦飯には、冷汁(ひやじる)(さつま汁〔焼き魚の身をほぐしたものを味噌(みそ)の出し汁に合わせたもの〕)をよくかけて食べていました。
 私(Bさん)のうちでは、小麦粉を使った『包丁汁(ほうちょうじる)』もよく作っていました。小麦粉を練ったものを連木(れんぎ)(すりこぎ)で薄く伸ばし、それを折り重ねて包丁で細く切り分けてから茹(ゆ)でて食べます。小麦粉をあまり洗わない方が、茹(ゆ)で上がりにトロ味が付いておいしかったです。
 それから、冬は、餅(もち)を搗(つ)くのを楽しみにしていました。米の白餅は一臼(うす)だけで、あとの十何臼かは、イモに小麦とヨモギを混ぜた『黒餅(くろもち)』を搗いていました。黒餅は、草履(ぞうり)のように押し延ばして、小さな穴を空けて家の中で干しておくと、固くなって保存が効きました。それを『たらご』とか『べら餅』と言います。丸長でべろ(舌)の形に似ていたのでそう呼ばれていたのだと思います。食べるときには、小さく切って蒸して元に戻していました。ただ、黒餅や『べらご』もまだ上等な部類で、イモの粉を練って餅の形に固めてから、中に餡子(あんこ)として輪切りにした生イモを入れ、それを蒸して作る『イモノモチ』というものもあり、それにはったい粉(新米や新麦を炒(い)ってひいた粉)や砂糖をまぶして食べていました。」

(4)海の子どもたち

 「船越の子どもたちにとって、遊び場は海と山でした。私(Cさん)の子ども時分には、夏は学校から帰れば、鞄(かばん)を置いてすぐに、家の前の海に飛び込んで泳いでいました。冬には、集落の裏山へ登って、仲間同士で、竹や木の枝などを使って陣地のようなものを組み立て、そこを基地にして、木の実を採ったり竹鉄砲で鳥をとったりして遊びました。
 海で泳いでいた時に港を出る漁船があれば、船の後ろからロープを海に垂らしてもらい、船が沖に出てしまう前までそれに縋(すが)って引っ張ってもらう、という遊びをしました。それから、海面から結構高い位置にあった、カツオ船の舳先(へさき)から肝試しに海へ飛び込んだりもしました。親たちは海や山での仕事や水産加工場での作業などに忙しいので、子ども同士でいつも遊んでいて、年長の子どもが年少の子どもの面倒を見ていました。ですから、まだ泳げない子どもがいれば、年長者がわざと海に突き落として泳ぎを覚えさせていました。もちろん、溺(おぼ)れそうになったときには助けながら、泳ぎ方を教えます。
 子どもの遊びはいろいろでした。男子は、ラムネ玉を蹴(け)って遊んだり、桜の木を鎌で削って白い棒を作り、その棒の先に長い布(きれ)を巻き付けて、棒を振りながら布で独楽(こま)をはたいて勢いよく回し続ける『たたき独楽』をしたりもしました。女子も夏は海で遊んでいましたが、男子とは違った遊びをよくしていて、『いちどり』(お手玉)をすることもありました。当時、豆は貴重品だったので、『ちょこはか』と呼んでいた小さな貝殻を海辺で拾ってきて、それを布袋の中に入れて作り、遊んでいました。
 昭和30年(1955年)ころの子どもたちは、紙芝居を楽しみにしていました。外泊(そとどまり)の人が自転車の荷台に道具を積んで旧西海町内の集落を回っていたと記憶しているのですが、今の子どもたちが、学校から帰っておやつを食べながらテレビを見るように、当時の子どもたちは、紙芝居を見に行って、中にはその人から5円か10円くらいの水飴(みずあめ)を買っている子どももいました。紙芝居は若宮(わかみや)神社の石段の下でされていて、子どもたちは、階段ごとに並んで座り、山のようになって見ていました(図表1-5-2の㋓参照)。


<注及び参考引用文献>
①西海町『産業振興への基礎調査』 1957
②村上節太郎『國立公園候補地域 渭南海岸の地理的景観』(愛媛県立公園調査報告書第3報別冊) 1953
③瀬戸内海から豊後水道北部を回遊するカタクチイワシに対して、マイワシは日本列島東岸を黒潮に沿って回遊する海魚である。

<第1章の参考文献>
・内海村『内海村史(上巻・下巻)』 1953
・御荘町『御荘町史』 1970
・朝倉書店『日本図誌大系 四国』 1975
・一本松町『一本松町史』 1979
・西海町『西海町誌』 1979
・平凡社『愛媛県の地名』 1980
・角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』 1981
・城辺町『続・城辺町誌』 1983
・愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)』 1985
・愛媛新聞社『愛媛県百科大事典』 1985
・旺文社『愛媛県風土記』 1991
・愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門『えひめ・ふるさとウォッチング』 1994
・内海村『新訂 内海村史』 2004
・御荘町教育委員会『御荘の歴史年表』 2004
・愛媛県生涯学習センター『えひめ、子どもたちの生活誌』 2007