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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅴ -愛南町-(平成25年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 炭焼きとくらし

(1)炭焼きを生業として

 ア 山奥で木を運ぶ

 「炭焼きの現場は道路端ばかりとは限らないため、どのようにして搬出すればよいのかを考えておきます。搬出には都合がいい道路端といっても、交通量は多いし枝葉の処理は必要になるし、便利がいいのも考えものです。
 搬出方法は、その現場によっていろいろと異なり、運搬車で出したり、道の細い奥地などの難しい場所では人間が担ぎ出したりします。道のない山奥になると、ワイヤーロープを使って架線で運搬するということになります。100町歩(約100ha)もあるような山では、1本の線では運ぶことができず、今のようにパワーショベルで道をつけながら搬出するわけではないので、道のある所まで出して来なければなりませんでした。架線にもいろいろあって、他県では、集材機を使って運ぶ方法と、『運材(うんざい)』といって木の重みだけで上から下へ運ぶ方法の二つのやり方がありました。架線が1,000mで、自動車エンジンを搭載した集材機になると、合わせて1千万円ほどしていました。搬出距離の長い現場では、2本目や3本目の架線を張って木を下ろしていました。
 昔は、架線を使うには、年に1回行われる難しい国家試験を受けて、架線技師という資格を持っていなければなりませんでした。今は、免許を取得するための筆記試験が一つになったと聞いていますが、昔は、法規と構造と知識の三つの筆記試験があったように記憶しています。もちろんそれ以外に実技もありました。
 当時を振り返ると、私が若い時には、木馬(きんま)(木材や炭を運ぶときに用いるソリの一種)を担いで行って木を積み出しました。木馬と道の間には『そろばん』と呼ばれる枕木を敷いていましたが、切り出してきた量が多いときは、平地で運搬しやすいように『そろばん』に油を塗っていたため、重みと摩擦で煙が出るほどでした。また、急な下り坂では木馬が止まりきらず、人間もついて走らなければなりませんでした。その後、私が仕事を始めたころにワイヤーロープが普及し、ブレーキが利(き)くようになってからは、走らなくてもよくなりました。
 木馬が入らない所は、カタギンマ(荷を横木の上に載せて肩で担ぐ道具)を使って2時間ほど歩いて運び出したこともあります。木や炭を出すのに、木馬やカタギンマが重宝していました。」

 イ 炭焼きとくらし

 「子どものころから父親の炭焼きを手伝い、学校を卒業してからもその仕事を手伝っていました。
 僧都地区は、現在は80戸ほどですが、今から50年くらい前(昭和30年代)には約100戸が住んでいて、その内の60戸くらいは木炭を製造していました。当時は、僧都木炭組合という組織があって、ほとんどの炭を大阪へ送っていました。生産者が60戸くらいあったため、区長よりも組合長の方が有力者であったように記憶しています。組合長が責任をもって、組合の金銭管理、運営を行っていました。年間60戸分の売り上げを管理するのですから、かなりの大金になっていたはずです。その時の資料は、前任の組合長の家に残されています。その後、木炭組合から生産組合に名称が変わり、組合長を私が引き継ぎました。
 学校を卒業してから父親と一緒に仕事をしたのは1、2年でしたが、とても嫌でした。仕事は骨が折れる割にはお金にならず、別の仕事場に働きに行く方がだいぶお金になりました。昭和40年(1965年)ごろ、この辺りで学校を卒業したばかりのアルバイトの人が、日当750円をもらっていたように思います。仕事ができる人でも日当1,000円、女性が500円から600円もらえるか、もらえないかくらいでした。そこで、日当1,000円以上、月3万円以上稼いでみようと思い立ち、一生懸命働きましたが、実際にそのくらい稼げ出したのは卒業してから5年を過ぎたころだったように思います。そのころにはまだ1万円札があまり出回っておらず、僧都から城辺までのバス代が35円、南高(なんこう)(愛媛県立南宇和高等学校)で販売されていたパンが12円で、いなりずし一つが15円、うどんが40円、定食になると120円だったように記憶しています。卒業したてのころは、1,000円あれば散髪をして映画を見て、うどんを食べて帰ることができていました。
 30歳を過ぎてから、本格的に炭焼きの仕事を始めました。そのころは、僧都には1軒しか炭作りの専業者がいませんでした。その時は、原木のある山中に炭窯を築いて生産するやり方でしたが、その後、炭窯を1か所に集めて、山から原木を運んできて生産するやり方に変えてから、少しずつ炭を焼く人が増えてきて、僧都地区で10軒くらいにはなったように思います。昔の人は、原木を運ぶという発想を持たなかったのか、移動して原木のある所に窯を造り、炭を焼いていました。移動しながら炭を作るのだから、電気を引いていません。私は移動せずに窯を固定して炭を焼くようにして、僧都で初めて炭窯に電気を引きました。夏の暑いときには扇風機が使えるようになったし、ラジオや冷蔵庫も使えるようにしたため、仕事場が本当に快適になりました。
 昭和50年代は木材の価格が堅調で山の景気がよく、僧都にも多くの山師(林業従事者)がいました。そのころ私は30歳代の初めで、カシ山(カシの木が多い山)に炭窯を築いたのですが、木は、炭よりも材木として出す方が値が高かったため、『お金にならんのに。』と周りの山師たちに笑われました。その当時は、今のようにウバメガシではなく雑木とカシの木しか焼いていなかったので、非常に安かったのですが、それでも今ほど炭が安くなるとは考えられませんでした。当時は、雑木の炭でも1tほど業者に卸せば、従業員一人分の日当にはなりました。」

 ウ 製炭業のこれから

 「今、大月(おおつき)町(高知県幡多郡大月町)では、町が支援して立派な窯を造っていて、最終的には10窯ほど造る予定だそうです。研修のための費用を町が出してくれるので、炭焼きをやりたいという人は、習いに行けるのだそうです。
 私の家に炭焼きの研修に来る人も時々いて、1か月から2か月も通ってくる熱心な人もいます。だれが焼いても、熱心にやれば炭は焼けるようになりますが、よい炭を焼けるようには、すぐにはなれません。よい炭が一窯(ひとかま)でどれだけ取れるかが重要で、悪い炭をいくら焼いても価格が安いため、儲(もう)けになりません。」
 Aさんは、これまで40年以上の長きにわたって、炭焼きや炭窯づくりに携わってきた。そして、時代に合わせた産業振興の取組姿勢が認められて、平成22年(2010年)には、公益社団法人国土緑化推進機構の「森の名手・名人」81人のうちの一人に選ばれ、全国的に顕彰された。


<参考引用文献>
① 篠原重則「愛媛県津島町の製炭形態」(人文地理学会『人文地理17巻3号』 1965)、同「四国西南地域の移動製炭者の生態とその存立基盤」(愛媛地理学会『愛媛の地理 創刊号』 1967)、同「四国地方の製炭地域の類型」(日本地理学会『地理学評論40巻11号』 1967)、同「林産物検査制度の沿革並びに木炭用材の生産について」(愛媛県『愛媛県史 社会経済2農林水産』 1985)