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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅴ -愛南町-(平成25年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 近海から遠洋へ

 愛南町中浦では、日本各地の沿海や太平洋へ出漁するまき網漁業が行われている。まき網(「巻き網」あるいは「旋(まき)網」と表記する。)は、魚群の周囲に網を敏速に回し、端から順次網をしぼって魚をとる漁業である。群れて泳ぐマイワシ、サバ、アジ、カツオ、マグロなどをとるまき網漁は、「一網打尽」という語がふさわしく、底引網漁業と並んで重要な漁法で、最近の日本の年間漁獲量のほぼ3分の1がまき網漁業によるものである。
 イワシ網漁業は、江戸時代より地引き網が主であったが、明治20年代になって、内海(うちうみ)村網代(あじろ)(愛南町)の浦和盛三郎が綿糸の漁網を使った独自のまき網を考案し、漁法の近代化に貢献した。まき網漁は昭和になると集魚灯の使用が始まり、石油やアセチレンガスから蓄電池を用いる集魚灯へと変化した。蓄電池を用いる防水電気集魚灯は昭和8年(1933年)、内海村赤水(あかみず)(現愛南町)に住んでいた清家政夫によって開発され、漁獲は著しく増大した。戦後は発電機が導入され、昭和 24年(1949年)には、県内のまき網93統(「統」は船団の数え方)のうち、南宇和郡が半分以上の53統を占めていた。しかし、昭和30年代に入ると宇和海や宿毛湾沿岸のマイワシ漁は不振を極め、まき網漁の船団は県外へ出漁するようになった。県外進出は、昭和27年(1952年)、中浦の大浜漁業が島根県に進出したのが最初である。大浜漁業は続いて山口県や長崎県、石川県、新潟県、岩手県など日本近海各地に出漁した。さらに、昭和56年(1981年)からはミクロネシア、パプアニューギニア方面へも出漁し、まき網漁の海外進出の先鞭(せんべん)をつけた。しかし、本拠地である中浦港への水揚げはごくわずかで、大半はそれぞれの漁場に近い県外漁港に水揚げされた。
 県外へ出たまき網漁業とそのくらしについて、昭和24年(1949年)ごろから平成7年(1995年)まで、まき網漁業に携わったBさん(昭和9年生まれ)から話を聞いた。

(1)地元の海から県外へ

 「私は、中学校卒業の年(昭和24年〔1949年〕)から船に乗りました。昭和30年代の初めまでは、1年中、中浦から横島(よこしま)や鹿島(かしま)(愛南町)、鵜来島(うぐるしま)(高知県宿毛市)周辺まで行って、イワシ(マイワシ)やサバをとっていました(図表2-3-1参照)。1回の漁に出ると、多いときは1,000貫(約3.8t)ぐらい地引き網でとって、煮干しにしていました。
 昭和30年代の初め、イワシの不漁が続いたこともあって、私の勤めていた会社(大浜漁業)の浜田憲三会長は、南郡(南宇和郡)では一番早く、県外に出て三陸沖(青森県、岩手県、宮城県)や日本海で魚をとることを決断し、私も県外で仕事をするようになりました。最初は五島(ごとう)列島(長崎県)、そして三陸沖へ、次に太平洋へと漁場が変わりました。
 昭和30年代、40年代に五島列島や山口県沖へ行き、下関(しものせき)や長門(ながと)(山口県)、博多(はかた)(福岡県)へアジやサバを水揚げするようになりました。漁労長(ぎょろうちょう)になったのは昭和36年(1961年)、27歳の時です。漁労長というのは、漁をする船団の長のことです。船団を1統と数えますが、1統は、本船、灯船(ひぶね)3杯(隻)、運搬船2杯の合わせて6杯でした。本船は網を引く船、灯船は夜の海を集魚灯で照らす船、運搬船は、本船に横付けして魚を氷漬けにして港へ運ぶ船です。本船に10人、灯船1杯に3人、運搬船1杯に5、6人が乗っていましたから、1統に乗組員は30人ぐらいいて、当初は中浦出身者ばかりでしたが、後に南郡、あるいは現地の人も乗るようになりました。
 そのころは、本船は90t型といって、今から見れば小さな鉄船(てつせん)でした。本船で引く網は、長さ1,000m、深さ300mくらいありました。昔の網は綿糸でかさ張り、干さなければなりませんでしたが、今は化学繊維で目が小さく堅牢(けんろう)なので小さな魚もとれます。
 漁労長の下に本船の船長がいて、次に灯船3杯をまとめる長がいました。灯船は、3杯とも同じように灯(ひ)をたいても、うち1杯が主船(しゅせん)で、その船長が灯船をまとめていました。ほかに、無線を使う局長(無線技士)や料理をするコック長が乗り込んでいましたが、残りは漁をする乗組員で、昔は水主(かこ)と呼んでいました。一番多い時は、会社全体で8統あったように思います。統は、本船の船名で区別しました。私は、漁労長になった昭和36年(1961年)ごろには天王(てんおう)丸に乗っていました。同じ会社の中で、先任の漁労長から順に、よい船に乗ります。新しい船ができれば、先任者のお古の船が、次の漁労長に回ります。今はそうではないですが、昔はそうでした。
 会社には、天王丸や大祐(たいゆう)丸、小袖(こそで)丸などの船があって、その上に、第○○と数字が付いていました。私は最初、第3大祐丸に乗りました。小袖丸は、地名から付いた船名です。昭和42年(1967年)、会社の浜田会長が岩手県の小袖(現久慈(くじ)市)という所の漁権(漁業権)を買い、漁を始めたので、その船名を使うようになりました。会社は四つに分かれていて、私が所属した会社は長崎県や山口県の漁権を持っていましたが、島根県の漁権は別の会社が持っていました。操業海域によっては漁権により船の大きさの指定がありましたので、8統以外にも、中型船、大型船の予備の船が中浦港に係留されていました。例えば、西海(にしうみ)沖(愛媛県)には60t程度の中型船で行かなければなりませんが、五島列島には、90tの大型船に乗り換えて行きました。
 私は27歳で漁労長になり、61歳まで34年間務めました。海に出れば、同じ会社でも、漁労長同士で魚をとり合う競争でした。五島列島に行っていた時には、李承晩ライン(昭和27年〔1952年〕、韓国の李承晩大統領の海洋主権宣言に基づき、韓国政府が日本海と東シナ海に設定した境界線。境界線の域内で操業した日本や中国の漁船は、韓国側によって臨検、拿捕(だほ)、接収、銃撃を受けた。)が設定されていました。監視船は、日本の漁船がどこにいるか観測して、網を引き揚げているときを狙って近づいてきます。境界線近くで操業していて、威嚇(いかく)射撃を受けたことがあります。そのころは、韓国の船に比べ日本の船の性能がよく、韓国の監視船が電信で連絡を取り合っている内容を私らが乗っている漁船でキャッチして、その内容によって操業場所を変えることもありました。網でとったアジやサバは、運搬船で下関や博多に水揚げしました。水揚げ港へは、無線電話で事務所と船の間で連絡を取り合って入港しました。その仕事を担当する局長さんが本船に乗り込んでいました。
 年中操業していましたが、2月ごろは風が強いこともあって休んでいました。船の基地は愛媛県の中浦ですが、漁場は長崎県の五島列島でした。盆と正月には必ず陸に上がりますが、下関で休んで中浦に帰らないこともありました。本船がとった魚を運ぶ運搬船が、水や食料を運んできました。毎月1回、満月の日(集魚灯の効果が少ない不漁日)に休養や修理のため漁場を離れるほかは、本船はそのまま海に留(とど)まっていました。
 五島列島でのアジ・サバ漁は夜の仕事です。魚が集魚灯に集まってよくとれるので、一晩で3回網を入れることもありました。朝まで魚が集まるのを待って、漁をすることもありました。そして昼間は休んでいました。一般の船員は操業が始まるまで寝ていましたが、漁労長は昼間も魚群探知機を見て、どこで網を入れるか探して、海の上を『こっちへ走れ、あっちへ走れ。』と指示を出していました。漁場というのは、1回行って漁をしたら、どこがよい漁場か、大体分かります。島の近くや海底に変化がある所など、魚が付く瀬というのは、ほぼ同じです。分かってきたら、海図に印を付けるのです。また、局長が、何月何日どこでとった、というデータを取ります。それを基に、その次の年も同じころに同じ場所へ行って操業しました。
 乗組員は、船尾の網を積んでいる場所の下の部屋で、高さが1mくらいの寝台の中に入って、板の上にゴザを敷いて、ごろ寝でした。後には、寝台に布団(ふとん)を敷いていました。慣れてきたら、エンジンの音が子守唄(うた)のようになりました。食事はコック長がいて用意をしました。私が乗り組んでいた時は、プロパンガスを使って調理をしていました。
 当時、中浦から出港するときは、家族や社員らが港へ出て、紙テープで見送っていました。岸壁を離れた船は、中浦港をぐるぐる回ってから出て行きました。船が出るとき、米や野菜、果物などをたくさん積んで出港しました。酒は積んだ荷物にはなかったように思います。船内で乗組員が酔っているのを見たことはありません。その代わり、漁が終わって港に着いたら、大いに飲みました。
 昭和40年代には三陸沖に出漁し、サバをとった後、八戸(はちのへ)(青森県)や宮古(みやこ)(岩手県)、気仙沼(けせんぬま)(宮城県)、遠くは銚子(ちょうし)(千葉県)に水揚げをしました。会社からの無線で指示があり、指示のとおりの港へ入りました。入港先には、会社の事務所がありました。」

(2)太平洋で漁をする

 「その後、太平洋のミクロネシアやパプアニューギニア沖へ、第3天王丸という116tの小さな船で行って、カツオやマグロ(キハダマグロ)をとってパラオに水揚げしていた時期がありました。網でとった魚はすぐに冷凍します。そして、凍って固まった魚を船内の別の所に移し、種類別に分ける作業を手作業で行いました。港で水揚げするとき、選(よ)り分けた魚をモッコのような網で釣って陸揚げしました。パラオで缶詰にしてからベトナムへ輸出していました。南方へ行くときは、船団ではなく、1艘(そう)だけで行きました。その後、漁労長としての最後2、3年は、第7天王丸(349t)という大きな船で南方に行きましたが、体を悪くしたので、61歳で船を下りました。
 第7天王丸は、1艘(そう)巻き(1隻で網を引く)で、魚をとって、処理(缶詰を製造する)して、およそ500tを貯蔵することができる船でした。これまでのまき網漁の船と違って、製造装置や冷凍装置が船内にあり、自動化されていたので乗組員は20人ほどでした。日本人だけでなく、現地のミクロネシアの人も乗り込んでいました。船内で貯蔵でき、満船(まんせん)になれば帰港しましたから、1か月で帰ることもあれば、2か月かかることもありました。航海の日数が少ないと『今回はよくとれた。』という気になりました。
 この船は年中操業できる船ですが、毎年1か月くらいは整備点検で清水(しみず)(静岡県)の造船所に入りますから、その間は乗組員も中浦の家で休めました。」

(3)網船でのくらし

 「生きた魚が相手なので、よくとれるときは寝る暇もないほど働きました。漁をしている最中に、怪我(けが)人が出ることがありました。網を揚げるとき、魚が網から外れてストーンと落ちることがあります。その時に、魚の尖(とが)ったヒレが手足に当たって怪我をするのです。傷口を縫う針など応急処置をするための器具や冷却スプレーは積んでいましたので、器用な人に頼んで傷を縫(ぬ)わせることもありました。
 南方から日本へ戻る途中で台風に巻き込まれそうになったときは、どうかわしたらよいかを考えました。用心しすぎると人に笑われるし、かといって用心しなければ危ないので、近づく台風を避けてどちらに逃げるか、考えるのに苦労しました。急いで港に入ろうと船を動かすと嵐に巻き込まれてしまうこともありましたが、波に逆らわないように沖アンカー(錨(いかり))を打ってじっとしていれば、簡単にはひっくり返りません。
 飯炊きは、もとは漁師だった人で、年を取って現場の力仕事が十分にはできない人の仕事でした。せっかく食料を積んでいるのに、計画的に炊事をしないので、豆腐1丁しかおかずのないような食事が出たこともありました。おかずは、野菜を積んではいましたが、やはり魚が多かったように思います。
 給料の支払いは、盆と正月に、配当制(漁獲が多ければ配当が多くなる出来高払い)で支払う会社が多かったのですが、うちの会社は月給制でした。会長は『家庭を喜ばさんことには漁がない。』という方針で、魚を引いても引かなくても(漁獲の多寡にかかわらず)給料を出していました(月々に家族が事務所で給料分を借りる)ので、家族が安心しました。不漁で配当制の乗組員の家族が泣いていても、うちの乗組員の家族は心配がありませんでした。また、基本給のほかに賞与もあり、南方へ行く船には、航海手当がつきました。
 若いころ、中浦の秋祭りのとき、友達が遊んでいるのに、自分は漁に出なければならないのが辛(つら)かったです。青年団の行事などにも参加できませんでした。不幸ごとがあったら、今は帰ることができるそうですが、以前はできませんでした。私らの時分は、親が死んだ時、自分は漁労長で、船の責任を持っていましたから帰れませんでした。」
 まき網漁船が出航する中浦の沿岸には、かつて、多くの人々が働いていた網干場や製造場の土地が広がっていた。網が綿糸であった時代には、網干場では毎日網が干され、製造場では煮干しや素干しにする魚を加工したり干したりしていた。今、それらの土地は養殖用の冷蔵倉庫や宅地、駐車場になり、漁村の新たな景観を作り出している。


<第2章の参考文献>
・御荘町『御荘町史』 1970
・小野山直喜「第1回日本農業賞に輝く甘夏集団-愛媛県南宇和郡御荘町平山地区-」(日本園芸農業協同組合連合会「果実日本 第27巻6号」 1972)
・正金郎「晩柑かんきつの特産地めぐり 甘夏」(愛媛県青果農業協同組合連合会「果樹園芸 第25巻5月号」 1972)
・若林秀泰『ミカン農業の展開構造-未知への挑戦-』 1980
・愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)』 1985
・愛媛県『愛媛県史 社会経済2農林水産』 1985
・藤田儲三「カタギウマ」(愛媛民具の会『愛媛の民具3号』 1992)
・首藤修史「資本制漁業の発達-大中型まき網漁業と中浦港-」(愛媛県漁港協会『愛媛の漁港と集落-その成立と発展-』 1992)
・渡部文也「深浦漁港の漁業構造とその発展-漁港漁業の地理学的研究-」愛媛県立東温高等学校 1995
・愛媛新聞社『発掘えひめ人-近代を拓いた101人-』 2002
・深浦の移りかわり編集委員会『深浦の移りかわり』 2004