データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅴ -愛南町-(平成25年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 県境から一本松へ

 城辺地域と一本松地域とを結ぶ主な道は二つあった。一つは、通称「山手線」と呼ばれた、旧城辺町の矢の町から豊田(とよだ)町を過ぎて旧一本松町の上大道(うわおおどう)や札掛(ふだかけ)を通って一本松の中心地に至る道で、もう一つは、矢の町から深浦や垣内(かきうち)を過ぎて中川(なかのかわ)を通る「海岸線」である。元々は、「山手線」の方が主要な道路であったが、昭和28年(1953年)に国道昇格が決定したのは「海岸線」の方であった。その後、昭和35年(1960年)に、南予で初めて国道規格に合格した中川トンネルが開通し、昭和47年(1972年)の一本松トンネルの開通、昭和54年(1979年)の一本松バイパスの完成など、道路の改修整備事業が次々と進められ、宇和島方面と隣県の宿毛方面へ通じる幹線道路が拡充した(図表3-1-1参照)。
 一本松地区の国道56号の変遷に伴う人々のくらしの移り変わりについて、Aさん(昭和3年生まれ)、Bさん(昭和5年生まれ)、Cさん(昭和21年生まれ)から話を聞いた。

(1)山側の道と海側の道

 「城辺から深浦を抜けて一本松へ至る海側の道が整備されるまでは、城辺から豊田や上大道、広見を抜ける山側の道路がよく使われていました。バス路線があったのも元々は山側の道路の方で、城辺から増田中組(ますだなかぐみ)行きと、その支線として正木(まさき)の御在所(ございしょ)行きのバスが走っていました。御在所行きのバスは、最終便の運転手が、そのまま翌朝一番の御在所発のバスを運転できるように宿泊所が構えられていましたが、運転手の中に御在所に自宅を持つ人がいて、一時期は、その人が御在所路線の専属のように仕事をしていました。
 私(Bさん)が一本松小学校に勤めていた昭和30年代半ばころ、一本松の高校生は、御荘の南宇和高校へ自転車で通うのに、ほとんどの者が深浦回りの国道56号を通っていました。山側の道路は海側の道路に比べて高低差があったからです。広見と上大道との間に大きくて深い谷があって、今でこそ陸橋が架かって通りやすくなりましたが、橋がなかったころは、その峠の曲がりくねった坂道を上り下りしなくてはならなかったので自転車通学は大変でした。また、小学校の修学旅行でバスに乗って宇和島方面へ行くときに、子どもたちが乗り物酔いをしやすかった場所が三つあったのですが、最も酔いやすかったのが旧津島(つしま)町と宇和島市との境にある松尾(まつお)峠の坂道で、次がこの上大道の峠で、その次が旧津島町にある嵐(あらし)峠の坂道でした。2番目になるほどの難所が山側の道路にはあったので、昭和30年代から40年代にかけて、国道となって整備が進められた海側の道路を利用する人が多くなったのでしょう。一本松から城辺までバスで行く場合には、山側のバス路線を使わずに、海側の深浦を通るバス便で行く人が結構いました。しかも、昭和41年(1966年)に、深浦の手前の垣内から蓮乗寺(れんじょうじ)へ抜けるバイパスができてからは、バスで通うのも楽になって利用者が増えました。その時に、山側の道路を通る増田中組行きのバス路線は本線から支線に変わりました。」

(2)一本松の道路とくらしの変化

 ア 県境を越える道路

 「国道56号の中川地区の改修や整備は印象に残っています。中川トンネルは、当時の他のトンネルに比べて、中が広くて高さのある立派なものでしたが、それと併せて改修されたトンネル西側の道路も、道幅が広く造られ、南宇和郡内で初めてアスファルト舗装がなされたりガードレールが付けられたりした、きれいな道路でした(写真3-1-1参照)。その中川トンネルの西口から少し進んだ先に、道路が大きくカーブしている所がありますが、昔は、その道路端近くに落差が5mほどの小さな滝があって、秋の紅葉の時期には本当によい眺(なが)めでした。
 一本松地区の人たちは、昔から高知県の宿毛方面へも出かけていました。かつての主要道であった山側の道路は、一本松の中心地を横切って(西北西から東南東にかけて通り)宿毛まで伸びているので、その道を通って行きました。昭和10年(1935年)に宿毛と一本松の間の道路改修が終了し県境の篠川大橋が完成した時は、その開通式に参加するため、一本松小学校の高学年の児童が橋まで歩いて行ったそうです。それまでは松尾峠を通る山越えで宿毛まで行く人も多かったでしょうから、高知県との行き来がしやすくなって、当時の一本松の人たちはとても喜んだと思います。
 その後、国道の高知方面へ向かう道路の改修や整備が進んで、今では、この辺りから宿毛へ買い物に行く人も結構いて、私(Bさん)は宿毛へよく行っています。城辺までと比べれば距離的には遠いのかもしれませんが、道路がよく整備されているので、城辺までにかかる時間とほぼ同じの約12分で行けます。時々は、宿毛の大型スーパーで御荘や城辺に住む知り合いに会うこともあり、その人たちにとっても、同じ県内の宇和島よりも宿毛の方が行きやすいのだと思います。」

 イ 一本松バイパス

 「一本松の中心地を迂回(うかい)する国道56号バイパス(一本松バイパス、昭和54年〔1979年〕完成)ができて、一本松の商店街を通る自動車の数はかなり減りました(写真3-1-2参照)。交通渋滞が緩和され、安全面でもよくなりましたが、もともと狭い道で車もスピードを出せず、それほど危険という感じはなかったので、車で通過するための道路と生活道路とに分離されたことは、地元の人や商店街を利用する人よりも、車を運転して通行する人にとって影響が大きかったように思います。
 ただ、中心地からバイパス沿いへ店舗を移した商店や事業所もありましたので、そういう意味においては、商店街にとってバイパスができた影響は大きかったといえます。自動車を利用する人が増えるに従って、店の立地や店構え、商売の方法などもそれに合わせた形に変えていく必要があります。私(Aさん)のうちも、商店街の中の自転車店のほかに、旧国道沿いに自動車修理工場を持っていて、息子がその工場を経営していたのですが、20数年前に工場の敷地を郵便局の建設用地として売った後は、バイパス沿いに新たな工場を建てました。
 今、一本松の商店街の買い物客はかなり少なくなってしまい、客のほとんどは、近所に住んでいて車に乗らない高齢者の人たちです。商店街にかつてのような賑(にぎ)わいがなくなった大きな理由は、バイパスができて車が商店街を通らなくなったからではなく、昭和40年代前半くらいから町内のそれぞれの家が自家用車を持ち始め、同時に、トンネルやバイパスができたり道路が拡張整備されたりして道路事情もよくなり、一本松に住んでいる人の多くが、城辺や宿毛などへ買い物に出て行くようになったからだと思います。徒歩かせいぜい自転車が主な移動手段だったころは、地元から離れることはめったになかったので、買い物も地元の商店で売っているモノで済ませていました。ところが、バスや自家用車を使って遠出ができるようになると、豊富な種類の中からより安くてよいモノを手に入れるために、地元の外へ出て行くようになったのです。」

写真3-1-1 中川トンネル西口近くの旧国道56号

写真3-1-1 中川トンネル西口近くの旧国道56号

平成に入って国道56号の中川区間の改修が行われ、写真左側の中央やや上に見える道路が、新たに造られた国道56号バイパスである。愛南町中川。平成25年12月撮影

写真3-1-2 一本松バイパスと旧国道56号との分岐点

写真3-1-2 一本松バイパスと旧国道56号との分岐点

写真左端の道路がバイパスで、右端の道路が旧国道。愛南町中川。平成25年12月撮影