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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅴ -愛南町-(平成25年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

3 柏から郡境へ

 明治45年(1912年)に県道宇和島-宿毛線の御荘村平城から内海村柏までの改修が終了すると、柏から宇和島方面へ向かう村内の路線の候補として、立石(たていし)の山腹を経てハギノを越える「ハギノ線」や柏崎(かしわざき)の海岸沿いを通る「海岸線」などの四つが提案された。そして、当時の柏崎の区長をはじめ住民たちの強い嘆願などによって「海岸線」が確定路線となり、大正4年(1915年)には柏崎まで改修が進み、さらに大正8年(1919年)には、南予では県道三瓶(みかめ)-卯之町(うのまち)線(西予市)の三瓶トンネルに次いで古い鳥越(とりごえ)トンネルが開通した。
 その後、国道への昇格に伴って全面的な改修が図られると、旧内海村においては、昭和43年(1968年)に御荘方面から柏まで改修が完了し、昭和45年(1970年)には柏の北原(きたはら)から大浜(おおはま)へ抜ける内海トンネルが完成して、須ノ川(すのかわ)まで改修が完了した。そして、須ノ川と柿之浦(かきのうら)(旧北宇和郡津島町)とをつなぐトンネルが建設される予定であったが、国道をできるだけ由良(ゆら)半島に近づけ、半島の産業や生活の向上につなげたい、という村の強い主張などによって、昭和46年(1971年)に由良半島の付け根にある旧国道の鳥越トンネルの下方付近に新たなトンネルが建設され、これにより旧内海村から他町村への交通の便は飛躍的に向上した(図表3-1-1参照)。
 柏や柏崎地区の国道56号の変遷に伴う人々のくらしの移り変わりについて、Eさん(大正15年生まれ)、Fさん(昭和7年生まれ)、Gさん(昭和12年生まれ)、Hさん(昭和24年生まれ)から話を聞いた。

(1)柏の交通事情

 「旧国道56号は、造られた当時は立派な道路だったろうと思います。旧鳥越トンネルの壁面には、鉄の棒で穴を掘り進めた跡を見ることができますが、削岩機のない時分の手掘り作業には、相当な労力と時間がかかったはずです(写真3-1-5参照)。ただ、そのおかげで交通の便がよくなったといっても、柏から宇和島方面や御荘方面へ行くのは、今と比べればかなり大変でした。海岸端の道路で車同士が離合するのにも、狭くて路肩の危ない道をバックするのはだれしもが嫌なので、『お前の方が下がれ。』と言い合うこともよくあり、時には、避(よ)けきれずに車の横側をこすってしまうこともありました。
 国道が柏の集落の中を通っていたころは、舗装も十分にはされていなかったので、車が通るたびに土埃(つちぼこり)が立って大変でした。最近はあまり見かけなくなりましたが、当時、道路端の家には、必ずと言ってよいほど垣根や塀(へい)がありました。たぶん、道路からの埃や泥(どろ)はねなどを避(さ)けるためだったと思います。子どものころの私(Hさん)の目からすれば、国道は、宇和島方面や御荘方面とつながる重要な道路というよりも埃っぽい道という感じでした。というのも、子どものころは、家に自転車があったという記憶さえなく、もちろん自家用車なんて持っていません。その上、バスにもあまり乗ったことはなく、せいぜい、たまに御荘の歯医者などへ行くときに利用するくらいでした。ですから、乗り物を使って柏から他所(よそ)へ出るということがほとんどなかったので、国道を幹線道路として見ることはありませんでした。当時の柏の子どもたちは、ほとんどがそうだったと思います。
 昭和45年(1970年)ころでもまだ、私(Hさん)の家のある柏の脇田(わきた)辺りでは、自家用車を持っていた家は数えるほどしかありませんでした。ある時、仲間同士で宇和島へ映画を見に行くことになったのですが、だれも車を持っていなかったので、ある所からトラックを借りて、荷台の中に皆で乗り込み、幌(ほろ)をかぶりながら、旧鳥越トンネルを抜けて宇和島まで行ったことがあります。そのころは、役場でも公用車は2台くらいしかなかったように思います。
 しかし、車が少ないからといって速く走れていたわけではありません。南宇和郡内の旧国道は、山際や海岸に沿って造られた箇所が多かったので、カーブのために見通しが悪く、幅員が狭い上に路面も整備されていなかったので、スピードを上げて車を走らせることはできませんでした。
 昭和30年代から40年代の半ばくらいまで、柏の国道が渋滞になることはめったにありませんでした。むしろ、バイパスやトンネルが新しくできてから車の通行量は多くなったように思います。道路が整備されることと自動車が増えることとが同時に進んで行ったような印象があります。」

(2)立石越え

 「柏崎経由で大浜を通る旧国道は、割と上り下りがあって、海岸沿いに回り込むので結構距離があります。ですから、須ノ川方面へ徒歩で行く場合は、遠回りになる国道を通らずに、立石(たていし)の山道を通る『立石越え』で大浜へ出て、そこから旧国道を歩いて須ノ川へ向かうことがよくありました。その道は『大浜街道』とも呼ばれていて、山道としては広かったのですが、勾配(こうばい)がきついので自転車では上がれません。その道を通ることを、『立石に上がる。』と言っていました。立石越えは、柏小学校へ通う大浜の子どもたちの通学路でもありました。
 昭和20年代の初めころは、立石越えで柏へ下りてくると、ちょうど近くに駐在所があって、その隣にはタリヤ(樽(たる)屋)があり、その横には昔の村役場があったのですが、そのことからも、当時、立石越えの道は、近隣住民にとっての重要な生活道路であったことがうかがえます。
 柏の人は、須ノ川のお観音様へ行くときに立石越えの道をよく通っていました。この辺りで露店の出る祭りは他にはなかったので、特に、子どもたちは喜び勇んで行っていました。私(Hさん)も姉たちと一緒に立石越えで行き、帰りは旧国道を歩いて戻った憶(おぼ)えがあります。ただし、私自身は、お観音様へ行くのに立石越えを通ったのは1、2回しかありません。
 立石越えの道は、今も、車では上がれませんが徒歩であれば峠を越えることができます。しかし最近は、通る人をほとんど見かけなくなりました。」

(3)ねぜり松を仰ぎ見る

 「昭和30年代、40年代のころ、柏の人は、宇和島方面よりも御荘方面へ出かけることが多かったように思います。宇和島の方が遠いということもありますが、海上交通の時代から、平城や城辺とのつながりが深かったので、海を囲んで南側の御荘方面へ目は向いていました。
 旧国道を通って御荘へ行くときには、途中、菊川(きくがわ)を過ぎた八百坂(はっぴゃくざか)辺りにあった『ねぜり松』(棙(ねじ)れ曲がった松の意味)を見て峠を越えていました。その松は大木で、一番下側の横に伸びた枝は、その上を子どもが走れるくらい太いものでした。現在の国道は、八百坂付近が真っ直ぐな切り通し(山や丘を切り開いて通した道)になっていますが、当時は、ねぜり松を回り込むようにカーブが続いていました。私(Fさん)が、御荘の平城にあった南高(なんこう)(愛媛県立南宇和高等学校)へ自転車で通っていた昭和25年(1950年)ころには、そのねぜり松がありました。八百坂の坂がきつかったので、自転車で上がるときには、体をねぜって(棙って)漕(こ)がなければならなかったことと、ちょうどその辺りにあった、幹のねぜった大きな枝ぶりの松だったので、そう呼ばれていたのだと思います。その枝の下を通り過ぎて、さらに上の方にあった峠を越えて登校していました。
 ねぜり松のことで私(Eさん)が憶えているのは、終戦当時、バスがまだ木炭車であったころ、城辺から宇和島方面へ行くときに、バスの乗客が、『ねぜり松の所を行けるやろうか(越えられるだろうか)。』と、よく心配していたことです。その次の難所は旧津島町の嵐(あらし)峠で、バスは旧鳥越トンネルの手前で木炭を詰め替えて、旧鳥越トンネルと嵐の坂を越えていました。その嵐峠で木炭を補給することもありましたが、大体は、その次の旧津島町の松尾(まつお)坂の手前で詰め替えをしていました。
 昭和40年代の初めころ、私(Hさん)が高校生の時、柏から南高へ通っていた者のほとんどはバス通学でした。団塊の世代の私たちは、とにかく人が多く、その上、当時はバスの利用者も多かったので、朝の通学や通勤の時間帯はいつも満員でした。そのころは木炭バスではなかったですが、ある時、ねぜり松の辺りでバスが止まってしまい、私を含めて何人かが降りて、バスの後ろを押したことがありました。バスに大勢が乗っていたので、坂を上りきれなかったのだと思います。」

(4)村の郵便配達

 「私(Eさん)は柏郵便局に勤めていました。昭和30年代の後半ころ、郵便局に3台のバイクが入り、それで郵便配達をしました。それ以前は、自転車で配達をしていて、葉書や手紙、小包などを全て荷台に積んで運んでいました。現在、菊川や平山(ひらやま)は御荘郵便局の配達区域ですが、自転車やバイクで配達していた当時は、その平山や菊川から須ノ川までが柏郵便局の担当でした(柏局は集配区が三つあり、1区は柏・柏崎・須ノ川、2区は菊川北部〔室手・内室手・相川(あいかわ)など〕、3区は菊川南部〔八百坂・浜(はま)・銭坪(ぜんつぼ)など〕・平山であった)。そのため、自転車で柏崎を回って須ノ川まで配達をしたり、ねぜり松を過ぎて平山まで配達に行ったりしていたので、かなり大変でした。ですから、バイクに替わって楽にはなったものの、一方で、当時のバイクは故障しやすかったので困ることも多くありました。バイク自体が今の製品と比べれば品質がよくなかったことが原因ですが、毎日、砂利道の悪路を長い距離走っていたことも影響したように思います。新しいバイクでも、半年から1年ぐらいしか持ちませんでした。
 私(Gさん)も柏郵便局で働いていたのですが、夜の電報配達で須ノ川へ行くときに、柏崎と大浜の間の人家のない所を通るのが少し気色悪かったことを憶えています。海に浮かぶ船の灯りぐらいしか見えない暗がりの中、自転車の前に取り付けた懐中電灯を頼りに片道30分ぐらいかけて通り過ぎていました。また、舗装されていない国道を通って須ノ川や平山まで配達していたのですが、道路が凸凹で荒れていた上に、ガードレールが付いていた所も少なかったので、山際の高い所を上り下りする場合は、滑り落ちる危険を避けるために、自転車を降りて押して進むこともありました。バイクに切り替わった後も結構大変で、バイクがパンクしたり故障したりすれば、城辺の指定修理店へ公衆電話から連絡をして現場まで来てもらっていました。ですから、修理が終わるのに半日ぐらいかかり、仕事がはかどらずに困りました。」

(5)新たな国道の完成

 「待ちに待ったバイパスや内海トンネル、新鳥越トンネルなどが次々とできて、宇和島方面へ車で出かけることが多くなりました。
 もともと田んぼであった場所にバイパスができた時は、柏の集落の中にあった商店のうち何軒かがバイパス沿いへ移転しました。私(Fさん)も、天ぷら(魚のすり身を油で揚げたもの)や蒲鉾(かまぼこ)を作る店をしていたのですが、商売をするなら国道沿いの方がよいと思って、バイパスが完成してすぐに移りました。その後、旧国道は、地元の人が通る生活道路へと変わっていきました。
 私(Eさん)が郵便局長をしていた時に、局舎が古くなり手狭になったことやバイパス沿いへの移転を求める声などもあって、思い切って郵便局を移転しました。今では、それが結果的にはよかったと思っています。
 それから、内海トンネルができたことは、近隣の地域にとって本当によかったことでした。柏崎を経由して海岸沿いを回る旧国道に比べて格段に通りやすくなりました。ただ、内海トンネルは歩道部分が狭くて片側しかなかったので、長いトンネルを中学生が徒歩や自転車で通学するのはとても危険でしたが、その問題も、内海トンネルと平行して歩道トンネル(平成4年に完成した自転車歩行者道で、名称を『内海ふれあいトンネル』という)が造られたことで解決しました。
 また、須ノ川から旧鳥越トンネルまでの旧国道は、山際の少し高い所を曲がりくねるように通っていましたが、海岸近くの低い場所に、しかも道幅が広げられて改修されたので車で走りやすくなりました(写真3-1-7参照)。
 一方で、バイパスや新しいトンネルができて、柏でも、地元の商店ではなく他の地域の大型スーパーマーケットへ行って買い物をする人が増えました。そして、それらの店には野菜なども置いていますので、自家用に作る人も少なくなりました。私(Eさん)のうちにも畑がありますので、作ろうと思えば作れるのですが、年を取るとなかなか大変です。店で買った方が楽で、多くの種類の中から選べてしかも安いので、どうしてもそうしてしまいます。そういう意味では、道路が整備されて交通事情がよくなったことで、いろいろと便利になった反面、地元の商業や農業が衰退するなど、私たちの生活は大きく変化しました。」


<参考引用文献>
①愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)』 1985
②愛媛県『愛媛県史 地誌(総論)』 1983
③城辺町『城辺町誌』 1966

写真3-1-5 旧鳥越トンネル(愛南町側出入り口)

写真3-1-5 旧鳥越トンネル(愛南町側出入り口)

愛南町平碆。平成25年11月撮影

写真3-1-7 新旧の国道56号

写真3-1-7 新旧の国道56号

中央に見えるのが現国道で、それよりも高い位置を走る右側の道路が旧国道である。上側に見えるのは由良半島。愛南町須ノ川。平成25年11月撮影