データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅵ -上島町-(平成26年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 魚島の町並みをたどる

(1)魚島の景観

 「現在は魚島港(篠塚漁港)から島を見上げたら、山には木々が生い茂って青々としています。しかし、昭和30年(1955年)ころの魚島は、今のような景観ではなく、城山(しろやま)と三角点(さんかくてん)の所に林があったほかは、山の所々に多少木が生えている部分があり、それを住民が利用する林として残っていた程度で、後は全て畑という感じでした。個人の林は、薪(まき)を作るためのものとして利用されていましたが、一度に切り出すのではなく、林を保つことができる程度にしていました。私(Bさん)のうちは山林を所有していなかったので、親威が使う薪用の木を切り出しに行って、それを分けてもらうようにしていました。母は、薪用の木をどのようにして手に入れるか、ということに悩んでいたみたいで、父ちゃん、木がないけん、どこそこへ切りに行こうか、とか、『林を買おうか。』と言っていたのを憶えています。薪は木の種類によって用途が異なっていました。風呂焚(た)きなど、日常の生活では松の木が用いられ、クヌギやバべ(ウバメガシ)のような、火力が強く、硬い木は、亡くなった人を火葬するために置いていました。クヌギやバベを割るときには『これは死に木じゃなあ。』と言いながら作業をしていました。また、当時は、木の高さが今と比べると低かったので、麓から山を見上げると、山道を歩いたり、畑で作業したりしている人々の姿を見ることができました。稜(りょう)線付近の畑では、農作業をする私の母が鍬(くわ)を打っているのが分かるくらいで、山の上から見下ろしても、人々が下(麓)で何をしているかが分かりました。漁に出ている人への連絡のために、山上で揚げられる旗も沖から確認できていました。」

(2)魚島の町並み

 ア 港を中心とした町並み
   
 「昭和38年(1963年)から修築事業を始めた篠塚漁港は、以前は波風の影響を受けて、荷揚げ場が決壊したこともありました。その時は、村の若い人たちの有志が奉仕で復旧作業に出ていました。役場に勤めていた私(Bさん)が、担当者として漁港整備に携わり始めた昭和48年(1973年)には、防波堤や物揚場、道路などの整備が行われました。
 昭和30年代は魚島村の児童生徒数が多く、それに応じて教員の数も多かったので、赴任してくる先生方に入ってもらう教員住宅の数が間に合わず、民間の住宅への間借りで不足分を補っていました(図表1-1-3参照)。村の教育長さんは、学校に必要な先生の数をそろえることが仕事ですが、村の学校へ赴任して来られる先生方に住宅を提供するため、間借りできる住宅を探すことも大切な仕事でした。初代の教育長さんは、自分の親戚中や気心の知れた人にあたって、『家を貸せ。家を貸せ。』と言っていました。ただ、単純に家を確保するのではなく、女性の先生には女性が住む家を、男性の先生には男性の家を、というような配慮が必要だったので、大変な仕事でした。家の確保に際しては、当時の教育委員会の委員さんも一緒になって騒いでいた(動き回っていた)のを憶えています。昭和45年(1970年)ころ、魚島には商店が数軒ありました。どの店も雑貨屋という感じの店で、塩を売ったり、下駄を売ったり、鼻緒を立ててくれたりもしていました。ある店は日用雑貨を扱っていましたが、ソースの量り売りもしていました。商店を営む家には、元は網元をしていた家もありました(図表1-1-4のア参照)。魚島では明治24年(1891年)から朝鮮(ちょうせん)出漁が始まっており、現在の韓国釜山(かんこくぷさん)市の南西部に位置する巨済(きょせい)(ゴーチェ)島(とう)へ行っていたようです。この朝鮮出漁もあって、魚島には網元が多くあり、その人たちの中には、韓国の道(どう)議員(道は地方行政区画の一つ)を務めた人もいたそうですが、土地や家など、生活基盤が韓国にあったので、終戦後に財産を失ってしまったとも聞いたことがあります。このように、魚島と韓国との関わりは深く、神社(亀居八幡(かめいはちまん)神社)の玉垣に、韓国の方の名前がたくさん記されているのも、このことが関係していると思います。
 また、豆腐店もありました(図表1-1-4のイ参照)。1日に10丁から15丁作っており、魚島の外へ出すのは、高井神と豊島(とよしま)(旧弓削町)だけだったように思います。島に電話が普及していない時は、高井神や豊島で豆腐を販売する店の人が、前日のうちに、弓削航路を航行している『うおしま丸』の乗組員に、『明日は10丁な。』とか、『うちは5丁な。』と伝えて注文をしていました。豆腐店はその注文を受けて、翌朝6時台の魚島発の船に豆腐を積んで発注元の店へ届けていました。また、新聞は弓削から、うおしま丸が運んで来ていました。魚島を朝6時台に出た船が、折り返しで弓削を11時台に出ていたので、朝刊が島に着いて配達されるのは昼過ぎでした。配達は魚島の人が委託されていて、当時は郵便物の配達についても役場が郵政から委託されていたので、新聞配達をする地元の人に役場からお願いをして、郵便物も新聞と一緒に配達をしてもらっていました。配達する人も、新聞と郵便の両方からの委託料が入るので良かったのだと思います。うおしま丸は地元の村営汽船だったので、村の人々はそれを重宝に使っていました。何々がないけん、買うて来てくれ、と言ったりして、本当に船員の方には無理を言っていました。
 そのうおしま丸は、弓削方面へのモノの移動や売買に利用されていましたが、今治方面では私たちが『トーカイ』と呼んでいた渡海船が利用されていました。魚島では『天狗(てんぐ)丸』などが渡海船をしていました(図表1-1-4のウ参照)。渡海船は全島民を対象に注文を受けていて、例えば、私が今治の店に品物を注文して、魚島まで送るように依頼をすると、その品物を渡海船が魚島まで積んで(運んで)来ていました。その際、渡海船は運賃をもらいますが、仲買のような役割も帯びていたので、商品の代金から利益を得ることができていたと思います。
 魚島は集落が小さく、職人さんは少なかったのですが、大工と鍛冶屋はいました。大工は、船大工もやるし、一般の家の建築なども仕事としていましたが、魚島では新築や修築する家の数が限られているので、一般的な大工の仕事は生名や弓削で行っていました。また、鍛冶屋は一軒だけ井ノ浦にありましたが、ノコギリの歯を研ぐ目立てなど、ちょっとしたことは何でも自分たちで行っていました。
 それから、電器店は一軒ありましたが、大型の電化製品を販売する店ではなく、電球や電池など、日用品を主に扱っていたように思います。また、魚島には食堂が多くあり、食堂では、お好み焼きなどを食べることができ、学校の先生のお弁当を作っている店もありました。『ケーキ屋』と呼ばれていた店では、アイスキャンディを買うことができました。漁業組合には、漁具を修理したりする、漁師のための鉄工所がありました。昭和30年代よりも前のことになりますが、共同井戸のすぐ近くには風呂屋がありました。島には警察官の駐在所もありました。駐在所があった辺りには、かつては学校が建っていて、私(Aさん)の父親は、その学校に通っていたそうです。村には映画館がありませんでしたが、弓削の映画館の人を仲介の人が連れて来て、『キョウド』の2階で上映していました(図表1-1-4のエ参照)。『キョウド』とは漁協のことで、協同組合なので『キョウド』と呼んでいました。映画祭が開催されて、年に3、4回は上映されていたと思います。
 屋号になりますが、『タルヤ』と呼ばれていた家がありました。元々は樽(たる)屋だと思いますが、昭和30年代から40年代にかけて樽を作るということはありませんでした。樽は枡(ます)網(定置網)を浮かす、ブイの代わりに使われていました。この枡網用の樽は宮窪(みやくぼ)(現今治(いまばり)市)から購入していたように思います。樽をブイとして使っていたころは、その中に海水が入り込んで、網を持ち上げるときにかなりの重さになっていました。樽にはきちんと栓をしていますが、潮の流れが速くなると海中にある網が水の抵抗で引っ張られてしまい、そのときにブイに使っている樽も海中に引き込まれるので、樽に水圧がかかり、どうしても海水が入っていました。海水が入ったときには、樽の栓を外して海水を抜いていたのを憶えています。」

 イ 島の灯り

 「魚島には『電気屋』と呼ばれていた発電所がありました。昭和43年(1968年)に海底送電線が設置されるまでは、そこで自家発電をしていました。高井神島にも昭和30年(1955年)に自家発電所が完成して、電気が供給されていました。魚島の発電所は夜11時になったら電気の供給がストップして、電気が消えていました。電気が消えた後は、ランプを使っていて、私(Bさん)が学生の時には、学校から帰宅したらランプの火屋(ほや)をよく磨いたものです。ランプは天井から吊(つ)るして使う人もいましたが、私は、ランプがこけない(倒れない)ような台を作って、そこにランプを置き、勉強をしていました。また、風呂には蝋燭(ろうそく)の灯(あか)りで入っていました。
 そして、翌日の夕方から夜にかけて再び電気の供給が始まりますが、日の長さによって供給開始の時間が異なっていました。夏場の日が長い時期は、夜の7時半か8時ころから、日が短くなると、夕方の5時か6時からの供給だったと思います。正月やお祭りなどの、年中行事のときには供給時間か少し延長されていました。電気の供給が止まる10分前になると、電灯がパッパッと点滅します。発電所でスイッチが操作され、電灯の点滅で送電が終わる10分前、5分前を知らせてくれるのです。友人の家などに出掛けているときには、その点滅の合図があったら、『ほんなら、そろそろ帰るか。』と言って帰宅していました。
 昭和43年(1968年)に海底ケーブルで電気が供給された時には、新聞記事を見た友人に、『お前とこ、電気なかったんか。』と言われ、『えっ、どしたん(どうしたの)、なかったですよ。』と答えたのを憶えていますが、当時の魚島では、常時電気がない中で生活するのが当たり前のことだったのです。」

 ウ イカ巣籠

 「昭和30年代前半にはイカ巣(イカ巣漁)がとても盛んに行われていました。私(Aさん)が子どものころは、漁港の用地が今のように広くなかったので、イカ巣漁の時期が近づくと、港付近の土地がイカ巣の籠で一杯に埋め尽くされて、遊ぶ場所がなくなっていました。それでも、人が通ることができるだけの幅は開けられていて、そこで子どもたらが遊ぶので、籠をメイだら(壊したら)怒られていました。もちろん、大人から、『壊したから直せ』というようなことは言われませんでしたが、やはり怒られていたのを憶えています。少し後の時代になりますが、私(Bさん)は、役場の業務として、漁港の用地が不足していることを示す写真を撮りに行ったことがあって、その時は、港周辺はもちろん、港付近の建物の屋根の上までイカ巣の籠が積まれていました。ただ、イカ巣の籠が港を占領してしまうという状況も、島のみんなからすれば、漁業の村なので、『このシーズンだけ待ったらいい。』というように、捉えていました。それだけイカ巣をしている業者が多く、籠自体の数も多かったということです。また、屋根の上にまで籠を置いているということは、それだけ用地が少なかったということを示していました。しかし、漁港が整備され、用地が確保できると、その一方で業者は減少し始めました。当時は高度成長期に入って、島の外へ出た人が多かったからだと思います。あのころは都会での仕事の方が、漁師の仕事よりは良かったのでしょう。ただ、ええ(良い)時代はええ時代でした。都会は高度成長期でしたし、田舎には田舎なりの仕事がありましたから。」

図表1-1-3 旧魚島村の児童・生徒数推移

図表1-1-3 旧魚島村の児童・生徒数推移

『魚島村誌』から作成。

図表1-1-4 昭和45年ころの魚島の町並み①

図表1-1-4 昭和45年ころの魚島の町並み①

調査協力者からの聞き取りにより作成。

図表1-1-4 昭和45年ころの魚島の町並み②

図表1-1-4 昭和45年ころの魚島の町並み②

調査協力者からの聞き取りにより作成。