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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅵ -上島町-(平成26年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第2節 下弓削の町並み

 旧越智(おち)郡弓削(ゆげ)町は、愛媛県北東部、広島県境に位置し、弓削島、佐島(さしま)、豊島(とよしま)、百貫(ひゃっかん)島の4島からなり、北西に広島県の因島(いんのしま)(広島県尾道(おのみち)市)、西に越智郡の生名(いきな)島、赤穂根(あかほね)島などの島々がある。上島(かみじま)諸島の中心である弓削島の地形は、急峻(きゅうしゅん)な山地が多く、平地に乏しい。
 古くは製塩が盛んで、鎌倉時代以降は東寺の荘園となり、『塩の荘園』弓削島荘として有名であった。近世は今治(いまばり)藩に属し、海上交通の要衝として栄え、海の宿駅として上(かみ)弓削に本陣も置かれた。明治22年(1889年)の市制・町村制の施行により、上弓削村、下(しも)弓削村、佐島村、魚島(うおしま)村の4か村が合併して弓削村が成立したが、明治28年(1895年)に魚島村が分離独立した。その後、昭和28年(1953年)に町制を施行して弓削町となり、平成16年(2004年)に生名村、岩城(いわぎ)村、魚島村と合併して上島町となった。
 江戸時代には、藩船の水主(かこ)や帆船の船頭や水夫など、海運業に従事する人が多かったが、こうした伝統を背景に、明治34年(1901年)に弓削海員学校(国立弓削商船高等専門学校の前身)が設立され、以後、多くの船員を輩出してきた。石灰業は、文政3年(1820年)に通称『石山(いしやま)』と呼ばれる石灰山で石灰岩が発見されて以来、長きにわたって弓削町最大の地場産業であった。しかし、大正時代から始まった四阪(しさか)島製錬所(旧宮窪町)への生石(銅製錬時の溶剤として使用)納入が昭和47年(1972年)に終了し、石灰石の採掘は中止された。かつて弓削町の島民の多くは、日立造船株式会社因島工場(以下、「日立造船」と記す。)やその関連企業に勤務することが多かったが、昭和60年代初めの造船不況で規模を縮小または閉鎖する企業が相次ぎ、地域経済は大きな打撃を受けた。
 上島町最大の集落である下弓削地区は、土砂の堆積により形成された陸繋砂州(りくけいさす)の上に立地している。島外交通の表玄関となる弓削港、町役場のある総合庁舎を中心に各種公共機関が集中し、町の行政、経済などの中心地である。
 昭和30年代から40年代にかけての下弓削地区の町並みとくらしについて、Aさん(昭和6年生まれ)、Bさん(昭和8年生まれ)の協力を得て作成した町並み図をもとに、Cさん(大正15年生まれ)、Dさん(昭和10年生まれ)、Eさん(昭和23年生まれ)、Fさん(昭和23年生まれ)、Gさん(昭和27年生まれ)から話を聞いた。