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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅵ -上島町-(平成26年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 下弓削のくらし

(1)食事

 ア 麦飯の思い出

 「私(Eさん)が小学校低学年のころは、白米に麦を混ぜたものを食べていました。米に麦を混ぜて炊くと、麦の方が白米よりも軽いので上の方に浮きます。お弁当に入れるときには、白米の上に載っている麦をのけてから入れてくれていました。その後、麦の筋がなく、見た目だけは白米のような形をした麦が出てきましたが、とにかく麦からは解放されたかったので、どんな形でも麦は嫌だなと思っていました。」

 イ 子どものおやつ

 「子どものころ(昭和30年代)は、夏には、学校から帰ると海へ泳ぎに行っていました。休みの日には、一日中泳いでいたこともよくありました。海へは、親に縫ってもらった袋の中に煎(い)ったソラマメを入れて、首に提(さ)げて行きました。海で泳いでいると、袋の中のソラマメがふやけてくるので、お腹が空(す)けばソラマメを食べていました。また、家では、普段、炊いたサツマイモを籠に入れて釣り下げていたので、お腹がすけば、それを御飯までの間に食べていました。
 近所の駄菓子屋さんでおやつを買うこともありました。当時、お店で『日の丸キャラメル』が売られていたのを憶えています。キャラメルが1箱あたり10粒くらい入っていて、一緒にカードも入っていました。そのカードを何枚か組み合わせると日の丸ができるというもので、カードを何枚か集めたらキャラメルを1箱もらえました。1箱の値段は、5円から10円くらいだったと思います。キャラメルのほかには、『かんころ棒(干したサツマイモを臼(うす)で挽(ひ)いて粉にし、それを練って棒状にしたもの)』や煎餅なども売られていました。
 アイスキャンデーのことは『アイスケーキ』と呼んでいて、自転車に乗ったおじさんが、アイスケーキを荷台に積んで、チリンチリンとベルを鳴らしながら、近所に売りに来るのを楽しみにしていました。アイスケーキは、『長宝(ちょうほう)』という店が作っていました(図表1-2-2のウ参照)。『長宝』は屋号で、昔、『長宝丸』という尾道航路の船を持っていたことがら、そのように呼ばれたそうです。」

 ウ 塩分を含んでいた井戸水

 「弓削は降水量が少ない地域で、生活用水がいつも不足していました。時間給水になることも多かったため、どの家庭も自家用の井戸を持っていました。海岸に近い家の井戸水には、塩分が多く含まれていて、子どものころは、水は塩辛いのが普通だと思っていました。お風呂に入ったときは、石けんが泡立ちませんでしたが、おそらく塩分の多い水が原因だったと思います。後になって、お風呂で石けんか泡立ったときには感動しました。昭和30年(1955年)より少し前に、下弓削では、深坂(ふかさこ)の池を水源とした簡易水道が設置されましたが、この後も水不足の問題はなかなか解消されず、飲み水には『町水(ちょうすい)(町の水道)』、洗濯には井戸水、というように用途に応じて使い分けていました。昭和60年(1985年)に、広島県から上島3か町村(旧弓削町、旧生名村、旧岩城村)への送水が始まって、ようやく水不足の問題が解決しました。」

(2)人々の楽しみ

 ア 『昭和座』の思い出

 「昭和10年代に、当時の弓削村長が、商船学校(現国立弓削商船高等専門学校)を借り切って、夜、運動場で映画の上映会を催し、村民に観せてくれたことかありました。
 下弓削には、『昭和座』という常設の映画館がありました(図表1-2-2のキ参照)。最初は芝居小屋で、地元の村芝居で使ったり、よそから役者の一座を招いたりしていました。私(Cさん)の娘が5、6歳のころ、『お兄ちゃんと一緒に、先に芝居を観に行っときや。後で行くから。』と言って、子どもだけで昭和座へ行かせていたこともありました。
 昭和30年(1955年)ころ、昭和座で映画を上映するようになり、私(Fさん)は、小林旭や石原裕次郎が主演の映画や『鞍馬(くらま)天狗』の映画などを観ました。保護者同伴であれば、年齢による入館規制はありませんでした。
 学校では、映画の内容によって生徒が観てよいか許可を出しており、仲代達也が出演していた『天国と地獄』は、学校から観覧の許可が出たので観に行ったのを憶えています。
 洋画も上映していて、『十戒』なども観ました。私(Gさん)が小学生のころ、授業の時間に映画を観に行く機会があり、学校から並んで昭和座へ映画を観に行きました。昭和座がなくなったのは昭和42年(1967年)ころです。」

 イ 青年団の活動

 「今の中央公民館落成(昭和41年〔1966年〕)記念の催しものだったかで、青年団は出し物をしました。女性は、着物を着て踊ったり、琴を弾いたりし、男性は、ギターを弾いたり、歌を歌ったりしました。私(Fさん)も、『踊れ』と言われて、友だちと振り付けを習ったのですが、難しかったのを憶えています。その時は満席で、座り切れない人が立ち見をしていましたが、『何で、こんな下手な踊りを。』と思ったものです。踊りの途中で、踊り方に迷っていると、客席から、『忘れたんか。』と声が掛かることがあり、ステージと客席が一体となっている中で、恥ずかしい思いをしたのを憶えています。また、弓削町の駅伝のときには、応援に行ったり、炊き出しを手伝ったり、買い出しに行ったりしました。盆踊りの時期には、その準備に駆り出されたりもしました。その青年団も私(Gさん)が大人になるころには解散していました。」

 ウ 流行していたダンス

 「弓削には、常設のダンスホールはありませんでしたが、生協(日立造船因島生協)で、青年団主催のダンスパーティーが開催されたのを憶えています。昭和42年(1967年)ころには、船で因島へ行き、港から『ナポリ』というダンスホールまで、友人5、6人とタクシーで行ったこともありました。当時、弓削の人がエレキのバンドを組んでいて、因島のダンスホールで生演奏をしていました。そのバンドの人たちは、因島で何軒かの店を掛け持ちして、生演奏をしていました。因島のダンスホールはかなり広かったのですが、多くの人でひしめき合っていました。そのころは、ルンバやツイストが流行した時代でしたが、ルンバもツイストも動きが激しいダンスだったので、踊っているとほかの人とよく当たったものでした。踊り終えると、弓削行きの船の最終便に乗るために、港までタクシーに乗って急いで移動しました。」

 エ 盆踊り

 「地蔵盆のときには、小さい集落ごとに盆踊りをしていて、このときに、しょうが湯をいただいたりしました。その地蔵盆の盆踊りも昭和30年代前半くらいまではありましたが、その後なくなりました。下弓削では、辻々の盆踊りとは別に、全体的な大きな盆踊りもあって、それは今でも中央公民館で催されています。」

(3)子どもの学びと遊び

 ア お寺が保育園だったころ

 「昭和29年(1954年)に下弓削保育園が開園しましたが、その前に、1年か2年の間、下弓削の自性寺(じしょうじ)に保育園が置かれた時期があり、私(Gさん)はそこへ通っていました(図表1-2-2のク参照)。ほかに保育園の場所として適当な所がなかったからだと思いますが、お寺の境内を保育園として、弓削町が借りていたようです。和尚さんが園長先生で、保育園の先生は町の職員だったと思います。」

 イ 小学校の思い出

 「私(Gさん)は浜都(はもと)に住んでいたので、引野(ひきの)にあった弓削小学校までは遠くて、30分くらい歩いて通学するのが辛(つら)かったです。当時はスクールバスもなかったので、山の反対側から歩いて通って来る子もいました。当時は集団登校ではなく、各自がばらばらに登校していました。学校まで遠かったので、途中で道草をして、遊びながら登校していると、よく遅刻をして先生に叱(しか)られました。帰りは、普通の通学路を通らずに、やはり道草をしながら帰っていました。弓削高校(愛媛県立弓削高等学校)の下に教員住宅があったのですが、その下の海岸線を歩いていました。わざと浜に降りて、岩場を歩いたりして、かなり時間をかけながら帰宅していました。
 学校の思い出の一つに、学校から帰ろうかと思ったら、先生につかまって、校庭でDDTを頭からかけられたことがあります。何をされているのかわからないまま、『せんといかんのんじゃ(しないといけないんだ)。』と思っていました。当時、女の子の間では、たまにシラミが流行することがあって、その防止目的でDDTをかけられたのですが、あれは臭かったです。」

 ウ 子どもの遊び

 「子どものころ、海へ泳ぎに行くと、アサリの貝殻を使って、貝殻割りをして遊ぶことが多かったです。護岸の上に乗せた相手の貝殻に、手に持った自分の貝殻を強く打ち付けて、貝殻が割れた方が負けでした。勝負に勝てるように、なるべく硬い貝殻を探し集めるようにしていました。
 海へ行かないときには、メンコやおじゃみ(お手玉)をして遊んだりもしました。おじゃみのことを『インゴ』とも呼んでいました。家でアズキやササゲ(マメ科の1年草)を作っていれば、それをおじゃみの中に入れていましたが、アズキなどを作っていなければ、中に小石を入れたりしていました。」

 エ 楽しみだった紙芝居や神楽

 「子どものころ(昭和30年代)、年に何回か、弓削の外から紙芝居屋さんが近所の空き地へ、自転車でやって来ました。そのとき、紙芝居屋さんは、練り飴(あめ)を持って来ていて、集まって来た子どもたちに売っていました。紙芝居は無料で見ることができましたが、飴を買った子は前の方で見ていて、飴を買っていない子は遠慮して、買った子の後ろの方で見ていました。」
 『弓削民俗誌』によれば、「神楽(かぐら)は獅子舞(ししまい)(太々(だいだい)神楽)と本神楽(荒神(こうじん)神楽)とがあり、獅子舞は正月の月に伊勢(いせ)からやってきて、家々を門付けてまわって家祓(はら)いをした。(中略)本神楽は3月か4月頃の農閑期に広島の奥からやってきて、昼間は神社の境内や広場に筵(むしろ)を敷き、四方に笹を立て、シメノコをつけた注連縄(しめなわ)を張りその中で芸をする(②)。」とされ、弓削の人々にとっても、こうした神楽は大きな楽しみの行事であった。
 「私(Gさん)は子どものころ、島の外から太々神楽と荒神神楽がやって来るのを楽しみにしていました。太々神楽は獅子舞で、荒神神楽は、『やまたのおろち』など、神話の神楽を演じていました。神楽を演じるためにやって来る人たちは10人くらいで、必要な荷物を車に積んで来ていました。その人たちは、因島の旅館に宿泊して、そこから弓削へ来ていました。当時、弓削には大勢の宿泊客をもてなす旅館がなかったからだと思います。」

 オ 商船学校の思い出

 「商船学校(弓削商船高等専門学校)は近所にあったこともあり、子どものころの遊び場の一つでした。商船学校には、生徒たちが手旗信号の練習をしたりする、セメントで作った大きな船の模型があり、そこでよく遊んでいましたが、怒られたことはありませんでした。
 また、商船学校の生徒とは、いろいろと交流がありました。商船学校は全寮制で、1年から3年までの相部屋で、3年生は神様みたいな存在で、1年生は小さくなっていたそうです。寮には門限があって、夜、当直の教官が各部屋を点呼して回って行って、点呼の後、生徒がこっそり寮を抜け出して、遊びに行くときに通るのが『ダッサク峠』なんです。上級生の使い走りが嫌で逃げるというよりも、抜け出すこと自体がうれしくて、わくわくしてやっていたみたいです。
 私(Fさん)は、商船学校の生徒から、怪談話のようなことを、あたかも本当にあったことのように聞かされたことがありました。商船学校にいくつかあったトイレのうち、松原寄りのトイレはお化けが出る、と生徒さんが話したので、私はそのトイレには1回も行きませんでした。
 私(Gさん)の母が商船学校で売店を営業していたこともあり、親しくなった生徒たちが、夜、抜け出してよく家に遊びに来ていました。来るのは高学年の生徒さんでしたが、少しほっとしたい、家庭の味が恋しい、という感じだったのだと思います。よく私の家に来ていた人は、懐かしがって、卒業後、たまに訪ねて来ていました。」


<参考引用文献>
①弓削町『弓削町誌』 1986
②弓削町『弓削民俗誌』 1998