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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅵ -上島町-(平成26年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 生名のくらし

(1)島の生活

 ア 大事な井戸水

 「弓削や岩城に簡易水道があったころ、生名にはそれがなかったので、まず、水の心配をしなくてはなりませんでした。昭和60年(1985年)に、弓削や岩城と一緒に広島県から上水道が引かれるまでは(上島上水道企業団によって、広島県三原(みはら)市からの浄水を主水源として岩城島、生名島、佐島、弓削島の4島に対して生活用水が供給され、『友愛の水』と呼ばれた。)井戸水を使っていました。
 今では、毎日のように風呂に入りますが、井戸水のころには、風呂を毎日沸かしている家はありませんでした。貴重な水なので、まずは飲用として確保する必要があったからです。だから、親戚同士や近所同士で『もらい風呂(よその家の風呂に入れてもらうこと)』もよくしていました。薪を持って行って、しまい湯(みんなが入り終わって最後に入る風呂)に浸(つ)からせてもらうのです。また、水の量が少ないだけではなく、質も少し違っていて、海に囲まれた島なので、井戸水に少し塩分が混ざっていました。ある時、私(Dさん)が、島外から来た人に、井戸水を沸かしたお茶を出すと、『いい昆希(こぶ)茶ですね。』と言われたことがありました。毎日飲んでいれば気にならない塩味(しおみ)も、初めて飲む人には分かるのです。
 その井戸水も、夕方から夜にかけてたくさん使うと水が上がらなくなり(溜らなくなり)、汲(く)むのを止(や)めて朝まで待ったということはよくありました。特に、村井戸(共同井戸)の周りで、たらいを使って洗濯をしていたころと違って、どの家にも洗濯機が入り、使う水の量が増えてくると、井戸が枯れることも多くなったように思います(図表1-3-2①のウ参照)。」

 イ 百姓伝馬

 「農作業のときには自分の畑まで歩いて行きますが、畑が遠い場所にあって、そこまでの道がついていなかったり、道はあっても荷物や農作物を担いで歩くのが難しかったりする農家は、『百姓伝馬(ひゃくしょうでんま)』(以下、『伝馬』と記す。)と呼んでいた、一丁櫓(いっちょうろ)の小舟を持っていることが多く、それを漕いで畑へ行っていました。現在、生名橋の生名側の橋脚が立っている高松(たかまつ)辺りにあった畑へは、当時は道がなかったので、伝馬で行くか、潮が引いた時に歩いて行くしかありませんでした。普段は、家に近い港の周辺に繋がれていて、生名港から脇にかけての砂浜にも、たくさんの伝馬が並んでいました。
 伝馬は、畑への往復だけではなく、いろいろな使われ方をしていました。例えば、農家の人が藻葉(もば)(甘藻(あまも)〔浅海の泥土に群生する海水生の多年草〕)を採るのにも使われていて、採った藻葉をそのまま畑まで運び、乾燥させて肥料にしていました。イモ(甘藷(かんしょ))を作るときの肥料には藻葉が最適らしく、横広だった伝馬に藻葉を山のように積んで運んでいました。また、入糞肥(じんぷんこえ)を伝馬に載せて運ぶこともしていて、因島の田熊(たくま)(現尾道市)へ持って行って売り、そのお金で必要なものを買って帰るということもありました。私(Fさん)は、明治時代や大正時代の生名村の予算収入書の中に、村の共同施設であった便所の人糞を売って得たお金が計上されていたのを見たことがありますが、かつては、人や家畜の糞尿が畑作の貴重な肥料として売買されていました。
 私(Aさん)が小学生たった昭和20年(1945年)前後ころは、小学生でも(生名)島を一周できるくらい普段から伝馬を漕いでいたので、潮の流れに対する感覚というものが身に付いていました。私(Bさん)が小学校2年生のときに、5、6人の友達と伝馬に乗り、因島の土生(はぶ)ヘケーキ(氷菓子)を買いに行ったときは、『潮がこっちに来よるけん、ずーっと(真っ直ぐに)向こうへは行かんと、わい潮を通って行こうぜ。』などと言い合いながら伝馬を進めました。生名島と因島との間(長崎瀬戸)の潮流(ちょうりゅう)(潮汐(ちょうせき)〔海面の上昇と下降〕に伴う流れ)が逆になると、陸に近付いたときのわい潮(潮流の本流部とは違った岸近くの潮流)も基本的には逆に流れる、ということを考えながら漕ぎ方を工夫する知恵が、当時の小学生にはありました。しかし、私の後の世代くらいからは、子どもたちが普段から伝馬を漕ぐということも徐々になくなっていきました。それは、道路事情がよくなったり工場勤めの人が増えて農家が減ったりして、伝馬を使う機会が少なくなったからだと思います。」

 ウ 潮流や潮目を見る

 「伝馬をうまく操るためには、櫓(ろ)を漕ぐ技術はもちろんですが、潮流や潮目(しおめ)(二つの潮流の境目に沿って生じる帯状の筋目)を見る力も必要です。瀬戸内海では、1日に2回の満潮と、2回の干潮が交互に規則正しく繰り返されています。ですから、生名島と因島との間の海を伝馬で漕ぎ出すときには、その時の潮流を考えなくてはなりません。私(Aさん)にも経験があって、伝馬が潮流に乗れば、漕がなくても進むくらいなので楽ですが、潮流の逆方向へ行かなくてはならないときは、漕ぐのが大変でした。
 立石港と因島の長崎港とを結ぶフェリーボートにしても、あれだけの大きな船が、両港の桟橋間を真っ直ぐに進むのではなく、潮流によっては、流れに逆らうように大きく迂回(うかい)する進路を取ることがありますが、潮に流されることを計算してそのようなコースを取るのです。それほど潮の流れが速いので、どれほど馬力のあるエンジンを積んだ船でも流されてしまいます。潮の流れが速いときに、一丁櫓の伝馬では、それに逆らって進むのはなかなかできません。ですから、そういう場合は、海岸に沿って船を漕いでいました。なぜなら、海岸近くを流れる『わい潮』は、生名と因島の間(長崎瀬戸)の真ん中辺りを流れる本潮とは、潮の流れが違っていたからです。
 また、生名橋が架かっている辺りの海も、水道(海峡)が狭くて潮流が速いので、伝馬を押し切れない(櫓を漕いでも進めない)ときがありました。そういうときは、二人くらいが乗っていれば、一人が舳先(へさき)(船首)に綱をかけて海岸へ降り、その水道を回りきる(通り過ぎる)まで、陸(おか)から綱を引っ張って舟を進めることもあり、高松の砂浜では、そのような光景が時々見られました。ただし、岸から引っ張ると、潮の流れによっては舟が地につく(岸に近づき過ぎて舟底が海底につく)ので、舟に残った者が棹(さお)のようなもので海底を突いて舟を浮かしていました。ですから、海岸に降りて舟を引っ張ることができたのは、潮が下がる(岸から離れるように流れる)ときでした。」

 エ 昔の名残

 「生名と弓削は、江戸時代にそれぞれ松山藩と今治藩に属していたからかどうかは分かりませんが、文化や言葉の違いが多少あるように思います。私(Bさん)が子どものころには、うちへ遊びに来ないか、ということを、生名では、『うちに来い。』と言いましたが、弓削では、『うちげへ来い』と言っていました。『うちげ』の『げ』は家のことで、『うちの家』という意味です。今でも、弓削の人たちが、そのような言い方をしているかどうかは分かりません。
 生名橋ができてからは、生名の人たちと佐島や弓削の人たちとの交流の様子が少し変わってきて、やがて岩城とも繋がればもっと変化すると思いますが、それぞれの島の繋がりが一層強くなってきたような感じがします。そういう中で、生名特有の方言もあまり使われなくなりました。特に、平成20年(2008年)に生名中学校が弓削中学校に統合されて以降は、徐々に、子どもたちの間での言葉の違いはなくなっているように思います。」

 オ 県境の島

 「昭和30年(1955年)前後に起きた合併問題で、生名村が愛媛県に残るか、それとも当時の因島市(現尾道市)と合併して広島県側に入るかで、島の意見が二分されたとき、私(Fさん)はまだ子どもでしたので、どのようなことなのか、よくは分かりませんでした。
 私(Aさん)たちの世代でも、合併問題の詳しい内容や動きは分かりませんでした。ただ、当時は、生名の公務員の人たちは別として、私たち民間人にとっては、自分たちは広島県民である、という意識が強かったと思います。電気や金融は広島県の電力会社や銀行などを利用していますし、テレビなどから流れてくる情報も、大体が広島県のものでした。というのも、生名で受信できる電波は、広島県の民間放送局4波とNHK(日本放送協会)広島放送局からの2波だったからです。最近になってようやく、ケーブルテレビで愛媛県の放送局の番組を見ることができるようになりました。ですから、私(Aさん)は、60 歳を超えるくらいまで、広島市内の町名は知っていても、松山市内の町名はほとんど分かりませんでした。
 私(Bさん)は、生名村役場に勤めていましたので、仕事の関係で愛媛県庁へ行くことがあったのですが、昭和40年代ころは、まだ県の職員から私たち役場職員に対して、『いきなじまさん』ではなく、『いくなじまさん』と呼びかけられることがありました。また、県の中学校駅伝大会の様子を伝えるテレビ放送の中で、アナウンサーが、『いくな中学』と言っていたので、放送局に電話を入れて、『いくな』ではなく、『いきな』であることを伝えたこともありました。県の端にあった生名は、県全体からすれば、それくらいの印象だったということです。」

(2)生名の経済を支えた造船工場

 ア 日立造船因島工場

 「生名では、自営業や公務員を除けば、農業や漁業で生計を立てていた人は少なくて、日立造船やその関連企業に勤める人が圧倒的に多かったです。日立造船は、会社全体でいえば日本有数の大手造船会社だったので、その工場に勤めている人は、生名に住んでいながら都会の人並みの給料をもらっていました。ですから、『日立造船に勤めれば食い外れはない。』と言われて、すぐに結婚話がきていたそうです。生名には、祖父の代から3世代続いて日立造船に勤めていた家も何軒かありました。それから、目立造船は、給与面だけではなく、勤務条件も良くて、役場勤めの私(Bさん)にとっては、日立造船の、午後4時終業や土曜日休みがうらやましかったのものでした。
 私(Eさん)は、昭和44年(1969年)に日立造船に入社しましたが、そのころは、工場の始業は午前8時で、終業は午後4時でした。ただし、1年後くらいには終業時刻が5時に変わったように記憶しています。その代わりではありませんが、昭和40年代後半には、隔週で土曜日が休みになりました。もちろん、急ぐ仕事があるときは、土曜日でも出勤していましたが、その場合は手当てがつきました。仕事が相当に忙しいときには、1か月の残業時開が100時間を超すようなこともあって、体力的にはとてもきつかったのですが、手当代は、かなりの金額になりました。その上、船の補修作業で海外出張をすれば、手当はドル(アメリカ合衆国ドル、国際的な商取引の決済に多く使用されている基軸通貨)で支払われたので、為替レートが1ドル360円のころ(昭和24年〔1949年〕から昭和46年〔1971年〕の間)は、相当な収入になりました。」

 イ 造船工場で働く

 (ア)通船での通退勤

 昭和39年(1964年)に生名村が発行した『いきな』には、因島との交通について、「立石港-因島土生港間に、公営因島生名渡船事業組合が運航するフェリーボートが1日36往復(6:00 ~ 23:30)、1日平均1,215人の乗客を運ぶ。更に、因島運航(株)日立造船通勤専用船が朝夕各々3回就航して約400人の工員を輸送している。なお、就航時間、勤務時間等の関係から約200人の工員は、フェリーボートを利用している。(③)」とある。
 「日立造船に勤めていた人は、生名からの通退勤の際には、日立造船が用意した専用船に乗っていましたので、船賃はかかりませんでした。通勤専用船だったからか、『通船(つうせん)』と呼ばれていました。通船は、生名や弓削など、島ごとに出ていて、遠い所では、大三島(おおみしま)(現今治市)や瀬戸田(せとだ)(現尾道市)からも出ていました。弓削のような大きな島だと、久司浦(くしうら)(地元では『くじら』とも言われている。)や上(かみ)弓削、下(しも)弓削などの港に順に寄っていましたが、生名では立石港のみの発着でした。水深が比較的浅い生名港には着けるのが難しかったのだと思います。
 私(Bさん)は、一時期、公営渡船の仕事をしたことがあります。朝夕の通勤時間帯の客は、ほとんどが日立造船で働いている人たちでした。ただ、日立造船の社員もいれば、下請け業者に雇われた人もいましたので、どのような立場の人に対してなのかは分かりませんが、景気の良いときなど、残業で帰りの便が遅くなると、日立造船が公営渡船の無料パス券を出してくれていたようです。」

 (イ)船の修繕

 「造船所は、船を造るだけではなくて、定期的な整備も行います。そういう船を修繕船といいますが、私(Eさん)は、その修繕船の部署で働いていました。いろいろな種類や大きさの船が工場に入ってきて、大きいものでは、長さ約200m、幅約50mの20万tクラスの船が入ってくることもありました。修繕では、オーバーホール(エンジンや機械などを分解して、点検整備すること。)をはじめ、船体の補修や塗装、生活圏(船内での生活空間〔船室や食堂など〕のこと)の修理など、いろいろな作業を行います。ただし、納期が大体は10日後くらいでしたので、20万tクラスの船になると、工場内の、エンジンや塗装、電気、パイプなどの各系統を担当する従業員の他に、下請け業者からの派遣労働者を含めると何百人もの作業員が関わります。私(Eさん)はエンジン系統の班に属していたのですが、エンジンはいろいろな部品に分かれるので従業員もたくさんいて、工場全体を合わせれば、多いときには6,000人以上の従業員がいたと思います(昭和46年度の因島工場の従業員数は5,425人(④))。
 岸壁には常に何隻もの船が係留されていて、岸壁に着けた状態で修繕ができる船もあれば、船底の修理のためにドック(船の建造や修理に用いる築造物)に入れて作業をしなくてはならない船もありました。そのため、納期を踏まえてドックの期間をどれくらい確保できるかを考え、船をローテーションさせながら修繕をしなくてはならないので、結構忙しかったでず。例えば、貨物運搬船の場合は、どこの港でいつ荷積みをするかが決まっていて、もし遅れてしまうと、運搬船の船会社が違約金を取られてしまうので、そうならないように、修繕をする船の数や、それぞれの船の修繕期間の長短によって、作業工程が決められていました。だから、場合によっては、朝の定時(午前8時)から翌日の朝6時くらいまで徹夜の仕事をして帰宅し、その日はそのまま休んで、また翌日に同じことを繰り返す、という働き方をすることもありました。ただ、工場内の部署によって忙しさは違っていて、新造船を担当する部署は、長い工期で計画に沿って仕事ができるのですが、次の港(荷積みをする日と港)が決まっている修繕船の部署は、仕事がきつい方だったと思います。
 それから、修繕の仕事の一つとして、修理したエンジンが順調に動くかどうかを調べるために、修繕の終わった船に同乗して来島(くるしま)(現今治市)の手前あたりまで行ったことがありました。修繕船の後ろをタグボート(港内外で他船を引いて移動させたり押したりして出入港を助ける小型船)に付いて来てもらって、エンジンの確認が終われば、そのボートに乗って帰りました。また、エンジンの修理の依頼を受けて、千葉県の港まで行ったこともあります。人によっては、イギリスやスウェーデンなどの外国へ出張して、船の修理をすることもありました。それを『補修乗り込み』と言いました。修繕の仕事場では、『一旦仕事に入ったら、腹が減ったとか、眠たいとか言うな。とにかく、この船をいなさにゃいけん(期限までに帰らせなくてはいけない)。それまでは終わらん。』とよく言っていました。しかも、その船だけでなく、次の船も同じように待っているのです。」

 (ウ)造船不況

 「私(Aさん)も日立造船に勤めていましたが、造船所の景気には、いくつかの波があって、まず良かったのが昭和30年代半ばで、その次に良かったのは昭和40年代半ばくらいでした。逆に、昭和51年(1976年)ころに造船景気の底があって、その後、昭和61、62年(1986、1987年)に大幅な人員削減が行われてしまいました。そのように、『50年危機(第一次造船危機)』、『61、62年危機(第二次造船危機)』と大体10年置きくらいで景気の波があったので、かつて日立造船で働いた人に、何年に辞められたかを聞くと、(昭和)50年という人もいますし、60年という人もいます。
 昭和60年(1985年)ころには、韓国や中国の造船会社の力が強くなって日本の会社は太刀打ちできなくなりました。それ以前は、逆に、日立造船でも中国船のエンジンを次々と作っていて、中国の『大連(だいれん)送り』(遼寧(りょうねい)省大連市の造船会社に納品する製品のこと)の注文が大量に入ると、昼夜寝ずに仕事をしていました。その後、日立造船では、受注が減り始めたため、仕事を求めて、当時はまだ韓国や中国の造船技術は日本の技術に比べれば遅れていたので、それらの国の造船会社へ技術指導員を派遣することもしていました。多くの人が日立造船の人員整理に遭った昭和61、62年ころ、近隣の島々では、『島が沈む』と言われました。」

(3)生名で育つ

 ア たくましい保育児

 生名村保育所は、昭和29年(1954年)4月に開設され、当初は、当時の小学校と中学校の1教室ずつを借りて始まり、その年の10月に現在地の深浦丸山へ移転した(図表1-3-2②のソ参照)。
 「私(Dさん)たちの学年は、保育所の一期生で、卒園時には90名くらいいました。まずは、小学校と中学校の教室を仮屋にしていて、その年の秋口に保育所の建物ができると、そちらへ移りました。当時は、子どもたち同士で好きなように遊ばせる時間か多かったと思うので、今よりも手が掛からなかったかもしれませんが、それでも、大人数の子どもがいたので保育所の先生も大変だったろうと思います。しかも、昔の子どもは、たくましかったので、保育所から脱走する子どももいて、先生が追いかけて行ったりしていました。ただ、島では、どこの誰の子どもかがすぐに分かるので、皆が気を付けてくれていたように思います。」

 イ 穴の開いたユニフォーム

 かつては生名島唯一の港であり古くから利用されていた北側(きたがわ)港の埋め立ては、昭和30年(1955年)前後から始められ、昭和35年(1960年)ころに完成した(図表1-3-2①のオ参照)。そして、昭和40年(1965年)の前後に、その埋立地に生名中学校の新しい校舎が建てられた。
 「昭和39年(1964年)3月、私(Dさん)が中学校を卒業するのと同じころに新しい校舎が完成しましたので、私たちの学年は引越しの手伝いだけをして、1年下の学年から、その校舎を使いました。ただ、校舎の建築工事が始まるまでは、その広い土地を運動場として使っていて、バレーボールや軟式テニス、野球などをしていました。それというのも、新しい校舎ができるまでは、貯木場近くの海岸端に小学校と並んで建っていた中学校には運動場がなくて、バレーボールや軟式テニスのコートとして使えるぐらいの広場しかなかったからです(図表1-3-2①のカ参照)。
 昭和30年代ころは、生名中学校の部活動として、バレーボール(排球(はいきゅう))部と卓球部と軟式テニス(軟庭(なんてい))部がありました。私(Cさん)はバレーボール部に入っていましたが、同級生77名のうち半分が男子だとすれば、30数名の男子が三つの部活動に分かれて入っていたことになり、同学年のバレーボール部員が結構いました。しかも、それが3学年あるわけですから、レギュラーになるのは大変でした。
 私(Dさん)もバレーボール部でしたが、上級生に鍛えられました。立石山(標高約139m)の頂上のある場所に、決まった小石が置かれていて、練習中に失敗すると、夏の暑い日でも、その石を取ってくるように上級生に言われるのです。そして、次に失敗した者が、今度は、その石を元あった場所に置いてくるように言われました。練習中はその繰り返しです。もし、山の途中に置いて帰ったとしても、その場所を次の者に教えることができないので、どうしても山の頂上まで上がらなくてはならず、泣きそうになるほど辛(つら)かったです。私(Cさん)たちのころは、弓削や佐島や岩城など、上島のどの小中学校もバレーボールが盛んで、しかも強かったので、上島地区で勝ち上がり、越智郡の大会に勝たないと県大会には出場できなかったのですが、上島地区で勝つのが一番難しかった気がします。ですから、試合に勝つために厳しい練習をしていました。私(Cさん)たちの年代のときには、松山東高校(愛媛県立松山東高等学校)のグラウンドが県大会の会場で、結果は、準決勝で負けてベスト4でした。生名港から今治港まではポンポン船(焼玉(やきだま)エンジン〔シリンダー内の赤熱(せきねつ)状態になった球形の突起に油を吹き付けて爆発させる仕組みのエンジン〕の船)に乗り、今治駅から列車に乗って松山駅まで行き、県大会に出場しました。
 私(Bさん)はバレーボール部ではありませんでしたが、中学生のころ(昭和33年〔1958年〕)に、生名中学校の男子バレーボール部が県大会で優勝しました。監督や部員たちが生名に帰って来たときには、パレードが行われて、島中の者が大歓迎しました。その後、役場の仕事で愛媛県庁へ行ったときに、ある県職員と、そのときの県大会の話になって、穴の開いたシャツを着た選手の多い生名中学校が決勝まで行ったのには驚いた、という意味のことを言われました。昭和30年代の前半には、まだ回転レシーブ(バレーボールのレシーブ技術の一つで、昭和39年〔1964年〕の東京オリンピック競技大会で全日本代表チームが採用して優勝して以後、世界的に普及した。)という技術がなく、前に突っ込んでボールを拾うばかりだったので、グラウンドの土のコートで激しい練習をしていた選手たちのシャツに穴が開いていたのでしょう。
 私(Cさん)が県大会に出場したときも、ユニフォームのお腹の部分に穴が開いていたのですが、それは、むしろ名誉なことだとして、親も縫ってくれなかったのです。」


<参考引用文献>
①生名村『生名村誌』 2004
②生名村、前掲書
③生名村『いきな』 1964
④生名村『生名村誌』 2004