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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅵ -上島町-(平成26年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 弓削商船から世界の海へ

 国立弓削商船学校(昭和26年〔1951年〕からは国立弓削商船高等学校となる。)の航海科で学んだBさん(昭和12年生まれ)と機関科で学んだCさん(昭和12年生まれ)、Dさん(昭和12年生まれ)から、地域に根付いた「弓削商船」での学業や寮生活、外国航路の仕事について話を聞いた。

(1)学校生活

 ア 白い制服

 「弓削商船高等学校には、本科と専攻科があり、さらに本科には航海科と機関科がありました。それぞれの修業年限は、本科3年、専攻科2年で、専攻科では、本科を卒業した者が大型練習船に1年半乗り、最後の半年は、現在のインターンシップのように民間の商船で汽船実習を受けて修了していました。私(Bさん)たちは、昭和28年(1953年)4月に、その弓削商船高等学校の2期生として入学し、昭和33年(1958年)3月に修了しました。私(Cさん)とDさんは機関科の23期生で、Bさんは航海科の52期生です。
 当時の学校の始業は朝の8時で、終業は午後の3時から4時くらいだったと思います。1年生のときには、海技免状を取得するための商船教科の授業はほとんどなくて、国語や社会、数学、理科などの基礎教科の勉強をして、2年生から商船教科を中心とした授業に変わりました。学校行事や学外へ出るときは、襟(えり)カラーの付いた制服を着用し、帽子も被(かぶ)っていましたが、普段の授業や演習のときなどは、水兵用の白い服を着ていました。決められた服という意味では制服なのだろうと思いますが、汚れることも多く、むしろ作業服のような感じでした。」

 イ カッター訓練

 「カッター(10または12挺のオール〔擢(かい)〕で漕(こ)ぐ、後尾が方形のボート)は、慣れるまでが大変でした。一人が本のオールを持って12人で漕ぎ、艫(とも)(船尾)で舵(かじ)を取る艇長の後ろに艇指揮がいるのですが、艫の方を向いている漕ぎ手は、その艇指揮の指示で動きます。指示は、合言葉の掛け声で行われていて、例えば、進み始めのころは、『1(イチ)・2(ニィー)・3(サン)、1・2・3』と言っていた掛け声が、『1・2、1・2』という声に変わると、みんなの漕ぐペースが上がり、船のスピードも速まりました。また、カッターを回転させるときは左折が多いのですが、そのときの、左舷側の者がオールを海中に入れてブレーキをかけ、右舷側の者が漕いで回る指示も艇指揮がしていました。このようなカッター訓練は、授業の一環として毎週1回、2時間くらい行われていました。
 また、クラス対抗のカッター大会も開かれていて、1試合に14人くらいが出場するので、1度出た者を2回目の試合の出場者から除けば、結局は、クラスのほとんどの者が参加することになり、どの学年の生徒もカッター訓練をよくしていました。」

 ウ 短期実習
 
 「練習船に乗って日本を一周しながら航海技術や機関技術の訓練を行う短期実習(1か月間)が、1年生と2年生のときにありました。私(Bさん)の場合は、1年生のときは『北斗(ほくと)丸』、2年生のときは『進徳(とくしん)丸』で、いずれも(運輸省)航海訓練所の2,000 t クラスの大きさの練習船でした。
 1年生のときの短期実習は、夏休みの終わった9月の初めから約1か月間の日程で行われていました。実習は、実地訓練の大変さはありましたが、普段の寮生活に比べれば、上級生がいないので自由な雰囲気だったし、麦飯ではなくて白米御飯が出されるなど食事も良かったので、楽しくもありました。寄港する場所は、出発前に大体決まっていましたが、ある程度の変更は船長の判断に任されていて、どのようにうまく航海をするかは、船長の腕次第でした。だから、実際に台風に遭った際の緊急避難も、航海技術や的確な判断などが試される、貴重な訓練の一つでした。
 寄港地へ着くと、全員が一度に上陸すると船を空けることになるので、半舷上陸を行っていました。半舷上陸とは、乗組員の半数を船に残し、交代で上陸することをいって、奇数と偶数の部屋の者で分けることが多かったように思います。残った方の学生は船内でいろいろな作業をして、上陸できる方の学生は、お土産を買ったり食事をしたりすることもできたのですが、大体は、皆お金をあまり持っていなかったので、買ったり食べたりはせずに船へ帰って来ていました。
 私(Bさん)が2年生のときの短期実習で、佐賀県の唐津(からつ)に寄港して、唐津海員学校(現国立唐津海上技術学校)の学生と野球の試合をしたことが印象に残っています。試合の後で、唐津海員学校の学生が船の見学に来てくれたので、船内の案内をした記憶があります。逆に、弓削でも同じようなことがあって、よその学校の練習船が弓削の浜都(はまと)湾に入港して来ると、弓削商船の学生との交流がよく行われています。
 航海科と機関科は別々に短期実習をしていて、私(Cさん)は、実習で日本海側を回り、新潟(にいがた)や山形県の酒田(さかた)などに寄港しましたが、『大きい船が来た。』ということで、割とたくさんの人が見物に来ていました。その後の、半日くらいの上陸の間も、水兵用の白い制服が目立つのか、結構注目を浴びました。ただ、4年生のときの実習は、期間が長くてそのような自由な時間も取れましたが、1、2年生のときの1か月間の実習では、そのような白由時間は余りありませんでした。」

 エ 練習船「花陵丸」

 愛媛県立弓削商船学校(国立弓削商船学校の前身で、明治41年〔1908年〕に発足)は、昭和11年(1936年)に愛媛県水産試験場より第三種漁船「伊予丸」を譲り受け、それを「花陵(かりょう)丸」と命名して(弓削島の「狩尾(かりお)」の集落名に由来)練習船とし、その後、エンジンの更新やレーダーの設置などを行いながら昭和36年(1961年)まで使用した(①)。
 「授業の一環だった短期実習のほかに、希望者だけで行う実習もあって、私(Bさん)は、2年生の夏休みに入ってすぐの時期に、5日間から1週間かけて行われるボート巡航に参加しました。ボートは、一本のオールを二人で漕ぐ、18人乗りの大きなボートでした。教官も二人乗船してくれていて、そのときは、瀬戸内海を香川県側へ漕ぎ出し、小豆島などを巡って帰って来ました。
 私(Cさん)も、ボート巡航をしたことがあります。そのときは、瀬戸内海が凪(な)いでいたので、航海中に危険を感じたことは余りありませんでした。しかし、風がない分、漕いで船を進めるしかなく、それが結構大変でした。しかも、来島(くるしま)海峡周辺の潮は、流れが速く、しかも複雑なので、教官に潮汐についての指導を受けながら、生徒たち自身で潮の流れの方向や強さを調べ、潮で船が流される度数を前もって計算し、その度数分だけ前もって舵を切る、『当て舵』を行いながら航海しました。
 また、夏休みに、校内の木造練習船「花陵丸」に乗って瀬戸内海を巡航する、3年生の希望者を対象とした訓練もありました。定員30名の訓練でしたが、定員一杯の参加者がいて人気がありました。私(Bさん)が参加したときは、瀬戸内海から九州の別府(べっぷ)(大分県)まで行って、阿蘇(あそ)(熊本県)の方を見学して帰って来ました。」

 オ 海技免状の取得

 「大型船舶(20 t 以上の船舶)に、船長や航海士、機関長や機関士として乗り組むためには、国家試験(海技従事者国家試験)に合格し、海技免状を取得する必要があります。試験は、筆記試験と口頭試問(口述試験)があり、特に、口頭試問では専門的な知識が問われるので結構むずかしく、受験者全員が試験に通るわけではありませんでした。しかも、専攻科での汽船実習を終えておかないと受験資格が得られないので、そこまでたどり着くのも大変でした。学内の定期試験で合格点を取れなければ追試験があり、不合格科目が三つ以上あれば追試験なしに即落第になりました。落第すれば、その学年にもう1年間在籍することになります。そうならないように皆それぞれに勉強するのですが、それでも落第する学生は、全体の1割くらいはいたように思います。」

(2)寮で学ぶ

 ア 全寮制

 「当時、弓削商船は全寮制で、弓削島出身の学生も、自宅から通わずに寮に入っていました。寮の名前は、現在と同じ『白砂(しらすな)寮』ですが、当時は、学校の敷地内にあって、渡り廊下で校舎と繋(つな)がっていました。普段、寮で生活するのは1年生から3年生までで、4年生や5年生も、実地の航海から戻って来たときには、寮で生活をしていました。
 2階建ての寮には、1階と2階にそれぞれ五つの部屋があって、一部屋には、三つの班(一つの班は大体、3年生2人、2年生2人、1年生2人で構成されていた。)を合わせた20人前後の学生が入っていました。また、階ごとに寝室もあって、それぞれの寝室で1年生から3年生までの90人くらいが一緒に寝ていました。
 1年生は、春から夏にかけて、寮の中にいるときは、裸足で過ごしていました。それは、やがて裸足で作業することの多い船上訓練に備えた鍛練の一つとして、寮で受け継がれてきたものでした。ですから、入学時に持って来た新しい靴は、1年生が終わるころまできれいなままでした。」

 イ 寮の一日

 (ア)寮の朝

 「起床は6時で、その前に起きれば上級生に怒られました。しかも、各部屋の1年生が週ごとに担当となって、合図の鐘を鳴らすのですが、起床5分前の鐘の音で起きるのも駄目でした。ですから、昭和30年前後ころは、1階と2階の寝室には、部屋の両側に2段ベッドが3列ずつ詰めて並べられていたので、すぐ隣りにほかの人がいたので、ごそごそと動くこともできませんでした。
 そして、6時の鐘が鳴ると、すぐに毛布と布団をたたみ、ベッドの隅にきれいに片付けてから、寮の外のグラウンドへ急いで行きました。6時15分に点呼があり、その後に体操をするので、グラウンドに整列していなければならなかったからです。ただし、急ぎ過ぎて、毛布と布団の折りたたみが雑になり、四隅が揃(そろ)っていなければ、6時半からの掃除の時間帯に各部屋の整理状況を見て回る寝室担当の3年生にひっくり返されていました。
 それから、7時くらいから朝食になります。寮の食事は朝昼晩ともに御飯と汁椀(しるわん)一つで、朝食は御飯と味噌(みそ)汁、昼食と夕食は汁椀の中に肉じゃがなどのおかずが入っていました。食事を作るのと食器を洗うのは、寮の賄い担当の人たちでしたが、掃除を終えてからの短い時間で、食事をよそったり、それをテーブルに並べたりするのは1年生の仕事でした。しかも、班ごとに長椅子に座って食事をしていたので、同室の三つの班の1年生6人ほどで同室の20人分くらいの食事の準備をしていました。朝食は、大体が御飯と味噌汁だけで、3年生の分からブリキの器にそれぞれよそっていくので、1年生のときは食べる時間も短かったし、自分たち用に残る御飯などの量も少なかったので、いつもお腹を空かせていました。また、昼食も一旦寮に帰って食べるので、準備をしなくてはならない1年生は、昼休みの10分くらい前になると、そわそわしていました。」

 (イ)寮の夜

 「学校の授業が終わると寮に戻り、1年生は、まず風呂掃除から始まります。風呂掃除は週に2回、水曜日と土曜日にありました。そして、それが終われば、夕食の準備に取り掛かりました。洗面所掃除や便所掃除も1年生の仕事で、1年生のときは、勉強よりも寮での仕事の方が大変でした。
 夜の6時からは自習時間となっていて、7時から7時15分までの中休みで班員のベッドメイクの仕事をして、また自習に戻ります。実際は、6時からではなく7時くらいから自習が始まり、中休みも8時くらいでした。中休みには、同室の1年生同士でくじ引きをして、先輩に頼まれたパンなどを、寮内の購買まで買いに行っていました。購買には、購買部のほかに、弓削の『マルショウ』という雑貨店がパンなどの販売をしに来てくれました。その購買も、開いているのは中休みの15分間だけでした。
 消灯時刻は9時で、試験期間中でもそれは同じでした。試験準備を遅い時刻までできないので、勉強は、授業にどれだけ集中できるかが勝負でした。学校と寮とは別で、試験があろうと無かろうと、寮での1年生の仕事には変わりはありませんでした。
 2年生の中には、1年生の指導を任された人もいて、寮の仕事に追われていた1年生にとって、親身に世話をしてくれた2年生のことは忘れられません。それから、寮で経験した、人間関係や規律に従うことなどは、実際に船で働き始めて、いろいろと役に立ちました。」

(3) 海運業界で働く

 ア 船に乗る

 「私たち(Cさん、Bさん、Dさん)は皆、それぞれ会社は違いますが船に乗っていました。大体が外洋行きで、私(Cさん)がよく乗ったのは鉱石船とタンカーでした。ペルシャ湾で石油を積み、南アフリカのケープタウン(喜望峰(きぼうほう))を回ってヨーロッパまで行く船にも乗りました。そういう場合は、片道1か月以上はどうしてもかかります。スエズ運河を通れば近いのですが、スエズ運河は大体7万t規模の船であれば通ることができたのですが、当時は20万tクラスの船に乗っていたので通れませんでした。その規模の船の乗組員は、機関部(機関長や機関士)が8人程度で、甲板部(船長や航海士)は、商船によって備えるべき端艇(救命艇)が定められていて、それに応じて数が決まるので、機関部よりは少し多い人数でした。そのほかには無線通信士や司厨土(しちゅうし)(船舶での食事などの担当者)がいたので、全員で20人くらいでした。乗組員は、航海中はそれぞれの専門の仕事をしますが、港に着けば、積荷を上げ下ろしたりバンカーを取ったり(燃料油を補給したり)するなど、いろいろな作業も行います。積荷は甲板部の担当で、燃料は機関部の担当でした。
 私(Bさん)は、タンカーや材木運搬船などによく乗りましたが、一番よく乗ったのは自動車運搬船でした。広島県や愛知県、千葉県などの港から積みこんで、アメリカ(合衆国)へ運ぶことが多かったです。ヨーロッパやオーストラリアなどへ運んだこともありました。自動車運搬船は、太平洋や大西洋を渡る船にしては小さい方で、3万5千tから4万tくらいの大きさでした。それでも、長さが200mくらいはあって、セダン(リアデッキを持つ3ボックス型の自動車)タイプの普通乗用車であれば6千台くらいを積み込むことができました。ただ、実際には、同じ車種ばかりを積むことはないので、その台数ほどは入りません。船内には13層ものデッキ(床)が作られ、縦に13台の車が積めるようになっていて、トラックのような背の高い車は、デッキを上げることのできる場所が2か所くらいあったので、そこへ積み込んでいました。専門のドライバーが運転するのですが、車同士のスペースは、前後が約30cm、左右は拳(こぶし)一つくらいで、見事なものでした。アメリカの西海岸へは10日か11日くらいで運ぶことができました。アメリカからの帰りは空船のことが多かったですが、ヨーロッパの場合は、ヨーロッパのメーカーの車を積んで帰ることがありました。自動車運搬船は、比較的背が高くて風を受けやすく、航行中に大きく揺れることもあるので、隙間なく積まれた自動車が動いて傷つかないように気を遣いながら航海をしました。
 私(Dさん)も自動車運搬船に乗ったことがありますが、雑貨や食料品などの貨物船にもよく乗りました。ある時は、冷凍した温州ミカンを横浜(よこはま)で積み込み、アメリカへ運んだことがあります。ミカンなどの果物や野菜などの場合は、傷んだり腐ったりしないように、炭酸ガスや室温などの管理をしますが、それは機関部の仕事でした。積荷の種類によって管理の仕方が変わってくるので、それには細心の注意を払いました。」

 イ 現場で学ぶ

 「私(Cさん)が船に乗り始めて一番苦労をしたのは、電動機械の操作です。例えば、初めは、荷役(船の貨物の上げ降ろしをすること)で使うウインチ(重量物の上げ下ろしや運搬などに使う機械)の操作方法さえ分かりませんでした。ある時、港に着くと、先輩の乗組員たちから、『お前は残れよ。』と言われ、自分一人で荷役をしなくてはならなくなり、その時にはまだ、ウインチの使い方を十分には理解しておらず、教えてもらえる人もいなくなったので、(荷役作業が)止まってしまったらどうしよう、と震えました。その後は、うまく動かせないながらも試行錯誤して作業をやり終えたのですが、船に帰って来た先輩に、こうこうでこういったトラブルがありました、と相談すると、その先輩に、『それは、ここをちょっと触れば直ろうが(直るだろう)。』と言われ、そのとおりにすると、確かに直るのです。その時は、その先輩が神様のように見えて、『この人はすごいな。』と思いました。しかし、1年経(た)つと、今度は自分が、後輩の乗組員から同じことを言われました。
 学校での基礎的な勉強はもちろん大事なのですが、現場で実際に経験をしたり、分からないことを教えてもらったりすることで、船員としての知識や技術が身についていったと思います。」

 ウ 人のつながり

 「私(Cさん)は新居浜(にいはま)の出身ですが、弓削商船に入学して、地元の弓削の人たちにはとてもお世話になりました。同じ機関科だったDさんには、家によく行って御飯を食べさせてもらったり、一緒にミカン摘みをさせてもらったりしましたし、科の違うBさんやBさんのお母さんにも本当によくしてもらいました。それから、地元の商店の人たちにも大事にしてもらって、お金がないときは、後払いで買ったり食べたりさせてもらったこともありました。そのありがたさは骨身にしみて、後になっても残りました。
 地元出身の私(Bさん)も、3年間の寮生活を送る中で、自分の話す言葉が、だんだんと弓削の言葉ではなくなっていきました。弓削商船には、県内外の各地から学生が来ていたので、それぞれの地域の言葉が飛び交う中で生活をしていると、いつの間にか学校独自の言葉を使うようになっていたのです。普段は分からないのですが、ある時、自宅へ帰って家族と話をしているうちに、自分の言葉だけが違うことに気付きました。いろいろな人と出会って、いろいろなことを吸収できた経験は、その後の船の仕事や人間関係に生かすことができました。」


<参考引用文献>
①弓削商船高等専門学校『弓削商船高等専門学校百周年記念誌』 2001