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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅵ -上島町-(平成26年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第2節 島の恵みとともに生きる

 旧魚島(うおしま)村では、周囲の海に水産資源が多かった、昭和20年代から昭和40年代の初めにかけて、鯛漁が盛んであった。しかし、水産資源の減少と海洋汚染の問題が深刻化すると、魚島の漁業は「とる漁業」とともに、「つくる漁業」の充実が求められ、漁業協同組合(魚島村漁業協同組合)によって昭和34年(1959年)にはタコの養殖が始められ、昭和39年(1964年)にはノリ養殖の試験操業が行われた。また、旧弓削(ゆげ)町においても昭和30年代に入って、「とる漁業」による漁業不振が深刻化し、さらに昭和39年に西条(さいじょう)・周桑(しゅうそう)・新居浜(にいはま)地区が東予(とうよ)新産業都市の指定を受けて沿岸部に工業用地が造成されることとなり、弓削周辺海域での「つくる漁業」としてのノリ養殖事業への期待が高まり、推進が決定づけられた。
 一方、農業に目を向けると、旧魚島村には平坦地がほとんどなく、農地の大部分が急傾斜の畑地栽培であり、イモ(甘藷(かんしょ))と麦の二毛作が行われるともに、昭和37年(1962年)からは、ミカンの高値を受けて、既耕地の転換や開墾による柑橘(かんきつ)園の造園が開始された。また、旧岩城(いわぎ)村の農業は、江戸期の木綿から、明治以降は除虫菊、葉タバコ、ゼラニウム、ミカンと栽培品目に変化が見られたが、昭和40年代後半のミカンの生産過剰による価格の伸び悩みに伴い、収益性の向上を目指した作物への転換が試みられるようになった。