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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅶ -東温市-(平成26年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みをたどる

(1)宿場町としての川上

 ア 古老に聞いた宿場町の賑わい

 「川上神社(明治時代には川上大宮五柱(おおみやいつはしら)神社と呼ばれ、第二次世界大戦後に改称された。)の前を通る道は、かつての金毘羅街道で、街道筋には商店や旅館が数多くありました(図表1-3-2①のカ参照)。その旧街道の、川上神社前へ上がる坂は、明治初期に松山警察署の川上分署(明治10年〔1877年〕開設)があった場所だったことから『分署坂』と呼ばれています(図表1-3-2①のエ、写真1-3-1参照)。分署が置かれたということは、当時の川上が、それだけ栄えていたということです。江戸時代から明治時代までは、移動手段の中心は歩きだったので、松山方面から東予(とうよ)方面へ行く場合には、川上に泊まってから中山越(なかやまごえ)(旧街道の現東温市松瀬川の檜皮(ひわだ)峠から同市土谷(つちや)へ出て、中山(なかやま)川沿いに西条(さいじょう)市丹原(たんばら)町千原(ちはら)を経て同市丹原町鞍瀬落合(くらせおちあい)に至るまでの山道のことで、『桜三里(さくらさんり)』ともいう。)で山を越えたり、東予から松山へ来る場合には、山を越えて川上に泊まったりすることが多く、自然と商店や旅館が集まり、住む人の数も多かったのだと思います。
 川上の上之町(うえのちょう)の旧街道沿いでお店をしていた人から聞いた話ですが、朝開けた店の入り口の戸が夕方ころには閉まらなくなっていたのだそうです。その理由は、明治時代から大正時代のころまで、毎日、40、50頭ほどの荷馬(荷物を付けて運ばせる馬)が山(先述の中山越や、現久万高原町笠方(かさがた)から黒森(くろもり)峠を越えて河之内を経る山道など)から川上まで下りてきていたらしく、馬方(うまかた)(馬で人や荷物を運ぶのを職業とする人)たちが朝からたくさん店に来てくれるので、草鞋(わらじ)裏に付いた土が入ロの敷居の溝を埋めてしまうくらい詰まるからだったそうです。お店の人が毎晩、鍛冶屋に作ってもらった専用の道具を使って敷居の土を掘り出して戸を閉めていたと聞きました。それくらい多くの荷馬と馬方が行き交っていたということです。」

 イ 宿場町のおもかげ

 昭和の時代に入り、自動車の発達と国道の改修、国鉄予讃線の松山駅開業が、宿場町(宿駅)・川上を大きく変貌させた。『川内町新誌』には、「昭和2年4月、予讃線が松山まで開通したことで、川上駅の宿泊者数の減少はまぬがれなくなった。また、周桑自動車株式会社が、西条-松山間の自動車の運行を始め、川上駅は通過駅となり、次第に昔の面影を失っていった」とある。
 「川上に多くの旅館があったことや、千鳥(ちどり)屋、稲田屋、大頭(おおと)屋、米田(よねだ)屋といった旅館の屋号(家屋敷を特定するために名字ではなく付けられた呼称)は知っていますが、私(Aさん)の生まれる前のことなので、それらが繁盛していた時の様子を見たことはありません。昭和30年代ころには、屋号の付いた旅館や商店はほとんど営業をしていませんでした。ただ、当時はまだ、分署坂近くにあった米田屋の草葺(くさぶき)の大きな家をはじめ、川上が栄えていたことをしのばせる立派な屋敷が数軒残っていました。それから、米田屋の西隣の戎(えびす)屋については、今も同じ場所に、屋号の『エビスヤ』を店名にした薬局が営業しています(図表1-3-2①のウ参照)。川上神社の玉垣(神社の周囲に巡らされる垣のことで、石などに寄進した者の名前が刻まれることがある。)に寄進者として名前が残されている屋号の旅館や商店などが集まっていたのは、川上の中でも上之町、中之町(なかのちょう)、下之町(しものちょう)といった比較的高台の旧街道沿いでした(図表1-3-2①参照)。その辺りが、明治や大正ころの川上の中心地だったのだと思います。」

(2)川上のにぎわい

 ア <らしを支えた店々

 「昭和30年代の川上には、中之町と市場(いちば)、天神(てんじん)のそれぞれに商店街があり、その三つが繋(つな)がるように並んでいました(図表1-3-2①及び②参照)。下之町や中之町を東西方向に走る主要道は、旧街道であり古い国道でもあるのですが、東に向かって、分岐点の分署坂を上がれば旧街道を、上がらなければ古い国道を、それぞれ進むことになります。そのまま古い国道を行けば、中之町や市場、天神の商店街を抜けます。ですから、その道のことを、町の中を通るので『町筋(ちょうすじ)』とよく言っていました。
 川上の商店街には、普段使いの日用品や文房具などを売る雑貨店が多かったのですが、生活になくてはならない道具類を作る専門店も結構ありました。例えば、鍛冶屋は、鎌やまさかりなどを作る刃物鍛冶や鎌や鍬(くわ)などを作る野鍛冶が、古い店を入れれば私(Aさん)の知るところでも4軒はありました(図表1-3-2①及び②参照)。鍛冶屋の少なかった旧三内村の人たちも、川上の鍛冶屋に農具類を作ってもらいに来ていたので、店が多かったのだと思います。また、中之町には、『枡屋(ますや)』という、枡や秤(はかり)などの計量器を専門に売る斤量(きんりょう)店がありました(図表1-3-2①のオ参照)。その店では、個人の家で使うものをはじめ、商売や農作業などで使うものなど、あらゆる計量器を置いていて、販売だけではなく検査もしていたので、私(Aさん)もよく計量器を持って行って調べてもらいました。それから、天神には、ノコギリの目立て(ノコギリの歯やヤスリの目を起こしたり、鋭くしたりすること。)をする店がありました(図表1-3-2②のソ参照)。昔は、お杣(そま)さん(山で木を切ることを職業とした人)がたくさんいて、その人たちが使うノコギリの目立てをよくしていました。大木を伐(き)るには『鯛鋸(たいのこ)』と呼んでいた、鯛のような形をした大きなノコギリを使うのが良いらしく、私(Bさん)の家の近所にその店があったので、鯛鋸の目立ての様子を見たことがあります。ほかにも、下沖には農作業で使うような縄を稲の藁(わら)で作る工場がありました(図表1-3-2①のイ参照)。昔は、目立てとか縄作りで商売が成り立つ店があったということは、それだけ仕事や普段の生活の中でノコギリや縄を使う人が多かったということです。
 川上には、商店だけではなく、歯科を含めた医院も比較的多くありました。しかも、それらは近い場所に集まっていて便利だったからか、旧三内村から通院する人もいて、結構流行(はや)っていました。私(Bさん)は、自分の家の近くにあった田中医院に掛かっていました(図表1-3-2②のク参照)。子どものころは扁桃腺(へんとうせん)をすぐに腫らしていたので、そのたびに田中先生に診てもらいました。元軍医だった田中先生は、小児科の医者のように優しく接してくれる人ではなくて、子ども心にはとても怖い先生でした。だから、その先生に、『喉(のど)を開けて。』と言われ、綿棒に付けた茶色い薬を喉の奥に塗られて『喉を焼かれる』(薬剤を塗る治療方法が『焼かれるような』痛みを伴うことからこう言われる。)のが本当に嫌でした。
 昭和5年(1930年)の終わりころ、私(Bさん)の父親が市場の今の場所で理容店を始めました(図表1-3-2②のサ参照)。1階が店で2階が住まいです。川上は、大字でいえば北方(きたがた)と南方(みなみがた)に分かれていて、大まかにいえば旧街道を境に北側が北方、南側が南方です。うちの理容店は南方にあって、店から小川を隔てた隣には森林組合(川上村森林組合)がありました(図表1-3-2②のス参照)。そこには、事務所だけでなくて大きな製材所もありましたので、伐採した木がたくさん運ばれてきていました。その森林組合が建つ前は、そこに造り酒屋がありました。天神や市場などの商店街界隈(かいわい)は、店が密集している上に、狭い道路には往来も多くて子どもの遊び場が少なかったので、その造り酒屋が商売をやめて森林組合の建物ができるまでの間は、そこで友達と遊んでいました。それから、うちの理容店の隣に、貸本をしながらおもちゃを売っていた店がありました(図表1-3-2の②のシ参照)。私が子どものころからあった店で、当時は、ほかに本屋がなかったので、よく本を借りに生きました。」

 イ 娯楽の殿堂「名越座」

 「川上神社の東にあった名越(なごし)座は、とても大きくて立派な劇場でした(上之町の商店主・名越啓次郎によって明治40年〔1907年〕に造られた、建坪約300坪の入母屋造(いりもやづく)り2階建の劇場〔入場人員1,168人〕で、老朽化のため昭和38年〔1963年〕に閉鎖され、翌年取り壊された。図表1-3-2②のキ参照)。地元の人たちが演じる村芝居だけでなく、よそから役者が来て、その一座による芝居も行われていました。そして、芝居小屋であるとともに映画館でもあったので、映画もよく上映されていて、私(Bさん)が子どものころには、結構お客がいました。名越座の中には花道もあって、歌舞伎役者が来て歌舞伎をしたこともありました。私(Cさん)は子どもの時に、俳優の中村メイコの『にんじん』という芝居を観ました。私(Eさん)も幼い子どものころに、名越座で『まぼろし探偵』(主演は坂本九)という映画を観た記憶があります。当時、私の住む集落では小さな組を作って、その組の皆で名越座まで映画を観に行っていました。いつだったかは忘れたのですが、私(Cさん)が最後に名越座へ映画を観に行った時は、客が二人しかいませんでした。やがて、近くに川内劇場という映画館ができると、名越座の建物は残りましたが、そこでの映画の上映はなくなりました。」

 ウ 三内地域とのつながり

 「昭和30年ころの川上の賑(にぎ)わいの中心といえば、天神商店街と市場商店街(以下、それぞれ『天神』『市場』と記す。)でした。旧国道11号沿いの井内川橋近くの瓦店から渋谷橋までの間が天神で(図表1-3-2②のテ、セ参照)、渋谷橋から川上神社の前辺りまでの間が市場です。川上に買物に来た人たちがまず立ち寄ることの多かったのは、その両商店街でした。
 昭和30年(1955年)に川内村が誕生するまでは、表川を挟んで北側が合併前の旧川上村、南側が旧三内村(以下、『三内』と記す。)でした。三内村役場が井内川と表川の合流点近くにあって川上に近かったことや、三内の山間部に商店が少なかったことなどもあってか、天神と市場の両商店街には、三内の人たちもよく買物に来ていました。当時は、道路事情が良くなくて自家用車を持っている家も少なく、三内から横河原商店街(旧重信町)や松山まで行くには時間と手間がかかったので、川上に来る人が多かったのだと思います。しかも、三内から川上へ来る際に、表川を渡る橋としてよく使われたのは法界門橋でしたが、法界門(ほうかいもん)橋よりも西側の川岸には横河原橋まで橋がなかったので、松山方面へ行くのにも、西谷(にしだに)の人たちは法界門橋を、東谷(ひがしだに)の人たちは滝之下(たきのした)橋を、それぞれ渡って天神に通っていました(図表1-3-2②のチ、ト参照)。川上の商店街が栄えた理由の一つは、その商圏が旧川上村だけではなく旧三内村にも及んでいたからだと思います。」

 エ 「上の佐伯屋」と「下の佐伯屋」

 「旧街道沿いが栄えていたころの上之町に『佐伯(さいき)屋』という大きな商店があって、その店の番頭をしていた二人が暖簾(のれん)分けをしてもらい、天神と市場にそれぞれお店を構えました。ですから、天神の田井商店と市場の渋谷商店は、それぞれ『上の佐伯屋』『下の佐伯屋』と呼ばれていました(図表1-3-2②のツ、コ参照)。どちらも、生鮮食料品は売っていなかったと思いますが、調味料や日用雑貨、文房具、衣料品など、普段の生活の中で使うものは何でも置いていて、今でいうスーパーマーケットのような店でした。
 天神にあった『上の佐伯屋』は、商店街の中でも少し離れた所に建っていたのですが、とても流行っていました。特に、三内の人たちが客として大勢来ていて、中でも、井内の人たちは、ほとんどが『上の佐伯屋』へ買物に行っていたそうです。それは、店の位置が天神の東端にあって川上の中心地からは遠くても、逆に、井内をはじめとした三内の人たちからすれば、一番近くにある大型商店だったからです。ですから、大繁盛していたわけです。一方の、市場にあった『下の佐伯屋』も同様に客が多くて、私(Bさん)は、うちの隣近所でもあったので、『下の佐伯屋』へよく買物に行きました。」

 オ 商店街の夜店

 「天神と市場の両商店街が賑わったのは、連続して立地していたので買物がしやすかった、ということもあったと思います。昭和30年代から40年代ころだったと思うのですが、天神と市場の商店主たちが、両方で夏場に夜店をしようという話になり、『上の佐伯屋』から『下の佐伯屋』までの間で実施した時期がありました。ある年などは、商店街の道路にレールを敷いてミニ列車を走らせ、夜店に来てくれた子どもや大人たちを喜ばせたこともありました。天神には、そのような商店街の催し物を立案したり実行したりする活動に熱心な方々がいて、鮮魚店の『魚又(うおまた)』の御主人もその中の一人でした(図表1-3-2②のタ参照)。」

(3)商店街と国道11号

 ア 古い国道をバスが走る

 大正時代の川内地域では、国道31号(大正9年〔1920年〕に国道24号に、昭和27年〔1952年〕に国道11号に、それぞれ改称された。)における旅客運輸の中心は人力車や客馬車であったが、大正9年、天神の越智誉六氏によって川上自動車が設立され、河之内から川上を経由して横河原を結ぶ、6人乗り小型バスの定期運行が始まった。しかし、人力車や客馬車との競合が避けられず、大正末期に川上自動車は周桑自動車会社に買収された(③)。現在、川内地域には、伊予鉄道株式会社の「伊予鉄バス」が運行されている。
 「川上には、比較的古くからバスが通っていました。大正時代に、地元の(越智)誉六さんが、2台の自動車を購入して川上自動車を興し、古い国道を河之内の土谷から桜三里を越えて川上を通り、横河原まで、小さな乗合自動車を定期的に走らせていました。やがて周桑バス(周桑自動車会社)に替わりましたが、その周桑バスのことは私(Aさん)も憶えています。アルミニウムの弁当箱のような銀色の箱型の車体だったので、私も含めて当時の子どもたちは、そのバスのことを『弁当箱』と呼んでいました。戦前の国の方針(昭和13年〔1938年〕に国家総動員法公布)でバス会社の統合が行われるまで、周桑バスは川上の古い国道を走っていました。渋谷橋の近くにバスの車庫があり、何箇所かあったバス停のうちの一つは、分署坂近くの米田屋の前にありました。
 その後、昭和30年代には、川上の古い国道を伊予鉄バスが走っていましたが、周桑バスの停留所があったところに伊予鉄バスも停まっていました。商店街が賑やかだったころは、商店の前を歩くときに、気を付けなければほかの人にぶつかってしまうくらい大勢の人が行き交い、しかも、片側に水路のある道は、狭いながらも国道なので自動車も走っていてそのようなところをよくバスが通ったものだと思います。その上で、バスの運行が結構頻繁にあったことを考え合わせると、それだけバスの利用者が多かったということです。」

 イ 田んぼの中を伸びる国道11号

 「川上の町筋であった元の国道11号(古い国道)に代わって新しい国道(旧国道11号)が造られたことに伴い、川内橋の袂(たもと)の道路端に新しい庁舎が建てられました(図表1-3-2②のケ参照、昭和31年〔1956年〕に川内橋及び滝之下までの国道改修工事が完成し、同年、合併によって誕生した川内町の庁舎が竣工)。当時の川内町では最も高い鉄筋建築物で、道路がカーブしている所に建っていたので周りからよく見えて目印になりました。私(Aさん)は、新しい庁舎ができたときに、その2階から新しい国道を眺めたことがあるのですが、役場から川上小学校までの間の国道端には、新たに建てられた伊予鉄バスの営業所のほかは、下沖(しもおき)辺りに5、6軒の家が見えるだけで、あとは建物がなく、周りは全て田んぼでした。
 新しい国道ができた後も、川上の商店街には客がたくさん来ていました。元々、商店街へは歩いて来たり自転車で来たりする人が多かったので、自動車に乗ることのできる人でなければ、それまでと同じように天神や市場で買い物をしていたのだろうと思います。ですから、商店街を通る道路が国道ではなくなって別の新しい国道ができたために、急に商店街の買い物客が減ったということはありませんでした。むしろ、自家用車を持つ家が増えるにつれて、駐車場のない川上の商店街に買い物に来るよりも松山などへ出かける人が多くなり、商店街への買い物客が徐々に減っていったように思います。それでもしばらくは、生活用品は地元の商店で購入して、時々、松山などへ買い物に行く、というように分けている人も結構いたようですが、やがては、そのような人も少なくなりました。川上の商店街の中で、最後まで賑わいが残っていたのは天神でしたが、その賑わいも、急速な車の普及の中で失われてしまいました。」

写真1-3-1 川上の分署坂

写真1-3-1 川上の分署坂

東温市南方。平成27年2月撮影

図表1-3-2 昭和30年ころの川上の町並み①-1

図表1-3-2 昭和30年ころの川上の町並み①-1

調査協力者からの聞き取りにより作成。

図表1-3-2 昭和30年ころの川上の町並み①-2

図表1-3-2 昭和30年ころの川上の町並み①-2

調査協力者からの聞き取りにより作成。

図表1-3-2 昭和30年ころの川上の町並み②-1

図表1-3-2 昭和30年ころの川上の町並み②-1

調査協力者からの聞き取りにより作成。

図表1-3-2 昭和30年ころの川上の町並み②-2

図表1-3-2 昭和30年ころの川上の町並み②-2

調査協力者からの聞き取りにより作成。