データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅶ -東温市-(平成26年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 川上のくらし

(1)自然とともにある生活

 ア 水のあるくらし

 「川上は、生活用水にはあまり困らないところでした。今は地下水が減ってしまったものの、昭和30年ころはまだ豊富にあったので、井戸を掘れば大抵は水が出ていました。ただし、家から水脈が遠かったり、近くても深かったりした場合には、共同井戸で水を汲(く)んだりもしていました。上砂(あげすな)の川上小学校の近くには、『辻(つじ)井戸』と呼んでいた共同井戸がありました(図表1-3-2①のア参照)。上砂辺りは水脈が結構深く、井戸も深く掘られたものでしたが、誰が使ってもよいものでした。
 川上の町中には道路(古い国道)に沿って小川(水路)が流れていて、私(Bさん)の家の裏にも通っています。小川はうちの近くで渋谷川と繋がり、今は、小川を流れる水の量を調節するために渋谷川との境目に可動式の堰(せき)が造られ、渋谷川が増水したときは、その堰で小川の入口を塞いで川からの水が流れ込まないようにしています。しかし、昔はそのような堰がなかったので、小川の脇に建っていた私の家は、大きな台風による大雨が降るたびに床下浸水の被害を受けていました。ただ、渋谷川からの水を堰き止めるようになった今も、うちの辺りは大丈夫でも、途中、その小川に繋がるさらに細い水路から次々と水が流れ込むので、比較的低地の中之町辺りでは水が出る(小川の水が溢(あふ)れる)ことがあります。小川が近くにあると、そのような苦労がある一方で、便利なこともあります。子どものころには、そこで水遊びをしたり、母親たちが、洗濯をしたり、御飯などを入れておく、シタミ(底を四角に、上部を円形に作ったざるの類)という、竹で編んだ入れ物などを洗ったりしていました。それほど小川の水もきれいでした。」

 イ 川上の「石鎚おろし」

 「川上では、風が吹くと、季節に関わりなく『石鎚(いしづち)おろし』(石鎚山系の山々から麓(ふもと)に向かって風が吹くこと)があって、土埃(つちぼこり)が巻き上がります。しかも、冬場などは、松山から来た人が、『ここら(川上辺り)に来たら、毎日が台風じゃの。』というくらい強い風が吹きます。特に、土砂の周辺は風が強くて、川上小学校の運動場も、その場に居続けられないほどの風が吹いて土埃が舞いあがります。ですから、小学校の校舎の窓は、いつも拭(ふ)いていなくてはならないくらいよく汚れます。
 昔は、川上周辺に今よりも水田が多くて、夏場は田に水が張られるのでそれほどでもないのですが、田が畑に変わる冬場は、至る所で土埃が上がって大変でした。その上、道路も、昔は今のようなアスファルト舗装がされた道ではなくて土道だったので、余計にひどかったです。私(Dさん)が小学校に通っていた時分は、雨の中で傘(和傘)をさして歩いてもびしょ濡れになっていました。強い風のせいで雨が横から降ってくるような感じになるからです。」

 ウ 川内を襲った「三八豪雪」

 「昭和38年(1963年)の、いわゆる『三八豪雪(さんぱちごうせつ)』(昭和37年の年末から翌年2月にかけて日本海側を中心に日本各地を襲った記録的豪雪)のときには、川上辺りも1週間くらいは町中がどうにもならない状態でした。小学校も何日か休校になり、先生方が児童の家を訪問して回っていました。
 その豪雪のことで私(Aさん)がよく憶えているのは、積もった雪で腕の太さくらいになった電線が凍ってしまい、その重みで電柱が倒れてしまったことです。それと、そのころ、自分の山にヒノキやスギを植林してちょうど10年くらい経(た)ったときだったので、心配になって山へ様子を見に行ったことが忘れられません。山の中ほど雪が深くなるので、雪をかき分けながら山へ入ると、若木全てが雪の重みで倒れかけていました。その後、木の手当てのために5月まで山へ入ることになったのですが、それくらい大きな被害を受けました。倒れかけたヒノキは、起せば何とかなりましたが、スギの方は困りました。雪の重みで木の先端が少し折れたスギを、仕方がないので伐採して製材所へ運んで切ってみると、丸太のときには普通の1本の木に見えたスギが、製材所でノコギリを使って薄く製材すると、パラパラと細かく割れて飛び散ってしまうのです。木の先が折れるくらいなので、雪の重みで木がかなりしわった(曲がった)のだと思います。スギは一度しわると、そのしわった箇所の年輪と年輪との間が切れて離れてしまうのです。雪の被害というものは怖いものだと思いました。」

(2)電気が灯る

 大正3年(1914年)、川上村の仙波茂三郎と松木喜一によって、川上村一円を供給区域とする喜茂(きぼ)電気所が設立され、川上水力発電所と改称して事業の拡張を進め、大正9年(1920年)に川上水力電気株式会社が誕生した(設立当時における川上村の〔電灯〕需要家数は472戸)。その後、電力の需要量が増して伊予鉄道株式会社から受電するようになり、やがては、大正11年(1922年)に伊予鉄道株式会社と合併した(④)。
 「川上は、松山から離れた周辺の集落にしては、比較的早いころに家に電気が通じ、電灯がつきました。それは、大正時代に川上水力発電所ができて、川上村の家々への電気の供給が始まったからです。遅い家でも昭和に入ったころには電灯がついていました。ただし、今のように大量の電気がつくられてはいなかったので、電気を自由には使えず、戦前くらいまでは、ほとんどの家で傘付白熱電球の電灯が1灯ついているだけでした。そのため、電灯のある部屋は一部屋で、ほかの部屋を照らすときは、その電灯を持ち運んで使っていました。当時の家は、障子や襖(ふすま)で田型に部屋が仕切られていることが多かったのですが、それぞれの部屋で使えるように、電灯には6、7mの長い電気コードが付いていました。戦後になると、家に電気メーターを設置して各部屋に電灯をつけ始めました。
 私(Aさん)は、川上に電気が灯(とも)り始めたころの様子を、ある人から聞いたことがあります。その人の父親が今日か明日かの命だというときに、家に電線を引き込んではいたものの、電気が通っていなかったので、近所の人たちから、『(亡くなりそうな父親に電灯の明かりを見せるために)水力発電所に(早く電気を通してほしいと)お願いに行け。』と言われたので、そのようにするとすぐに電気が通ったといいます。そして、電灯の明かりを見た父親が、『まばゆうて(電灯の)向こうが見えんかい。』と言ったそうです。当時は、10燭光(しょっこう)(光度単位の一つで、1燭光は白熱電球約1ワット)程度の電球だったと思いますが、それでも、ものすごく明るく感じました。」

(3)川上での人々の娯楽

 ア 芝居を楽しむ

 「名越座のあった川上では、子どもから大人までみんな芝居が好きで、しかも自分たちで芝居を演じることも盛んでした。かつては、名越座で川上小学校の学芸会をしていました。学芸会は、北方と南方の児童に分かれて、それぞれ別の日に出し物をするのですが、そのときは、児童の家族が大勢名越座に来て、子や孫の演じる芝居を観て楽しんでいました。
 私(Bさん)は、名越座で地元の人たちが演じる村芝居(田舎芝居)をよく観に行っていました。村芝居は、私よりも上の世代の人からが中心になって取り組んでいて、聞いた話では、川内地域の出身で大阪へ行っていたある人が、疎開で地元に帰って来て、戦後、その人が座長となって何人かの人たちと一緒に芝居を演じるようになったのが始まりだそうです。ただし、素人集団なので、その人たちも普段は地元で農業や商店街の店などで働いていたのだと思います。村芝居の公演は、月に何回か行われる程度で木戸賃(見物料金)も必要でしたが、楽しみにしていました。
 村芝居の役者たちの中には、玄人(くろうと)はだし(素人(しろうと)ながら、専門家が驚いてはだしで逃げ出すほどその道に熟達していること)の芸達者もいて、二枚目とか女役とか、それぞれの役柄や役割も決まっていました。お花(祝儀)も飛んでいて、それを幕間(まくあい)(芝居で一幕が終わって次の幕が開くまでの間)に、まだまだくだしをり(〔お花を〕くださっていて)、誰それさんから誰それさんへ、というように次々と紹介していました。今とは違ってほかに娯楽の少ない時代だったので、芝居をしたり観たりするのが流行っていました。」

 イ 相撲を楽しむ

 『川内町新誌』の「人物」編には、「名越盛行(春日山(かすがやま))」の項目があり、次のような内容が書かれている。「巨漢で体躯(たいく)に恵まれ、海軍に志願して呉(くれ)海兵団に入団し、日露戦争に従軍した。その間、相撲では海軍内の横綱といわれ、乗艦した軍艦『春日』の艦名をとって伏見宮様から『春日山』の名を頂いた。(中略)除隊して帰郷した後は地方相撲界の発展に尽くし、大力美技四国一と言われた。(⑤)」
 春日山やその弟子たちをはじめとした川内地域の力士たちの活躍によって、土俵が各地に作られ、若者の相撲人口は著しく増えた。
 「川上では、村芝居のほかに相撲も盛んで、特に、川上神社や揚(あがり)神社で宮相撲が行われるときには、大勢の見物人が神社を訪れていました。大正から昭和にかけて、川上には『春日山』という強い力士がいました。海軍から帰って来た春日山が、地元の相撲好きな者に声をかけて強い力士集団を作っていったので、相撲人気も徐々に高まり、その影響でますます相撲を取る人が増える、ということを繰り返していた川上の相撲は、近辺では一番強いと有名だったそうです。川内地域のそれぞれの地区では、『八幡森(やわたもり)』とか『放駒(はなれごま)』などのいくつかの四股名(しこな)(力士の呼び名)が使われていて、強い力士の四股名は引き継がれることもありました。中でも、『小松川』(揚神社の氏子の屋号)の四股名は何代にもわたって引き継がれ、初代から四代までの顕彰碑が川上周辺に立てられています。春日山の師匠も三代目頭取(江戸時代の初めころから昭和2年〔1927年〕に東京相撲との合併まで続いた大阪相撲の、今でいう年寄〔親方〕のことで、力士経験者が襲名していた。)の小松川四作でした。
 それから、宮相撲のほかに子ども相撲も盛んでした。私(Cさん)が子どもの時ですから、戦後すぐのころだったと思いますが、夜に相撲をしていたので、土俵がつくられた神社の境内に灯(あか)りを焚(た)かなくてはならず、子どもたちがリヤカーを引き、近隣の家々を訪ねて薪(まき)を集めて回ったことを憶えています。その薪が燃える灯りの中で相撲を取っていました。
 相撲はお祭りでも行われていましたが、秋の亥の子相撲が一番盛り上がりました。私(Aさん)は、川内地域でも旧重信町に近い、南方の曲里(まがり)という小さな集落に住んでいますが、昭和30年(1955年)ころは、亥の子に参加する小学生や中学生が男女合わせて50人以上いました。当時は、子どもたちが多かったので、日が暮れて家族の者が田んぼから帰ってくるころになると、外で遊んでいた子どもたちが、腹が空いたのと寂しくなるのとで、あちこちで泣いていて賑やかなものでした。」


<注及び参考引用文献>
①「讃岐街道」の呼称に関することをはじめ、街道の歴史的背景等については、平成8年3月に愛媛県教育委員会から発行された『愛媛県歴史の道調査報告書第三集 讃岐街道』を参照されたい。
②愛媛県生涯学習センター『わがふるさと愛媛学Ⅵ-平成10年度 愛媛学セミナー集録-』 1999及び愛媛県生涯学習センター『平成17年度えひめ地域学調査報告書 えひめ、その住まいとくらし』 2006
③川内町『川内町新誌』 1992、川内町老人クラブ連合会「昔話を集める会」『ふる里の記録 くらしの思い出編』 1984、川内町教育委員会『わたしたちの川内町 平成6年度改訂版』 1995
④川内町『川内町新誌』 1992
⑤川内町、前掲書

<第1章の参考文献>
・川上小中学校PTA『川上村のおもかげ』 1951
・朝倉書店『日本図誌大系 四国』 1975
・平凡社『愛媛県の地名』 1980
・愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』 1984
・重信町『重信町誌(増補改訂版)』 1988
・旺文社『愛媛県風土記』 1991
・角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』 1991
・川内町『川内町新誌』 1992
・愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門『えひめふるさとウォッチング』 1994
・愛媛県生涯学習センター『わがふるさと愛媛学VI-平成10年度 愛媛学セミナ-集録-』 1999
・愛媛県東温市横河原区『横河原区誌』 2006
・東温市地域調査委員会(愛媛県高等学校地理歴史・公民科教員)『東温市の風土と人々のくらし』 2009