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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅶ -東温市-(平成26年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第1節 道路の変遷と人々のくらし

 金毘羅(こんぴら)街道は、江戸時代、金刀比羅(ことひら)宮(香川県仲多度(なかたど)郡琴平(ことひら)町)などへの参詣道として賑(にぎ)わった経緯から、その名で呼ばれていた。このうち、川内地域(旧川内町)の松瀬川(ませかわ)から檜皮(ひわだ)峠を越え、土谷(つちや)を経て落合(おちあい)(旧丹原町)に至る区間は、通称「桜三里(さくらさんり)」と呼ばれるが、その由来は、貞享(じょうきょう)4年(1687年)、松山藩の代官矢野五郎右衛門源太が街道整備の一環として、この区間の街道沿いに8,240本の桜を植樹したことによる。金毘羅街道(以下、「旧街道」と記す。)は、明治18年(1885年)に国道31号に指定され、同31年(1898年)ころから35年(1902年)にかけて改良整備されたが、この時、川上(かわかみ)から本谷(ほんたに)川沿いのルートを新設し檜皮峠に至り、土谷からは中山(なかやま)川を渡り田桑(たくわ)ヘ至るルートに変更された。大正9年(1920年)に国道31号は国道24号と改称され、昭和27年(1952年)には一級国道11号(昭和40年〔1965年〕に一般国道と改称。)に指定された。国道11号は、一ヶ谷(いちがたに)から根引(ねびき)峠を経て、土谷へ出るルートに変更することとなったが、新しいルートに、根引峠に河之内隧道(かわのうちずいどう)(全長375m、昭和37年完成)を通し、土谷まで直進することとなり、また、落手(おちで)隧道(全長107.5m、37年完成)を通したことで、田桑まで容易に到達できるようになった。昭和38年(1963年)には、川内地域の国道11号全線が完成したが、その結果、松瀬川から檜皮峠を経て土谷に至る路線は、国道から外れて町道一ヶ谷-土谷線(以下、「旧国道」と記す。)となり、旧街道沿いの桜三里を知る人も少なくなった。その一方で、改修後の国道11号は、マイカーの普及とともに交通量が増加し、幹線道路としての重要性が一層高まった。
 本節では、国道11号の、その改修前後の交通、桜三里沿いに住む人々のくらしについて、Aさん(昭和11年生まれ)、Bさん(昭和13年生まれ)に話を聞いた。