データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅶ -東温市-(平成26年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 重信川南岸から北岸へ渡る

(1)川を渡る生活

 ア かつての重信川

 「現在、重信川の水量は減っていますが、私(Hさん)が小学生のころには、きれいな水が豊富に流れていました。当時は重信川で泳ぐこともできました。ただ、戦前の話になりますが、昭和18年(1943年)の重信川の大水で森之木(もりのき)の土手が切れて下林の辺りが被害を受けたことがあります。また、当時、拝志の沈下橋の両岸の土手には松林が広がっていて、それはとてもきれいでした。今の花(か)きセンター(現愛媛県農林水産研究所農業研究部花き研究指導室、東温市)の所辺りも松の木がたくさんあって、私(Gさん)が住む所では、あの辺りにある田んぼのことを『マツノキ』と呼んでいて、そこへ遊びに行くときには、『マツノキ行ってこうわい。』と言っていました。松には私たちが『ミドリ』と呼んでいた、マツグミが寄生していました。私たちが子どものころにはガムがなかったので、その実がガムの代用になっていました。実は松の高い所にできるので、男の子に採ってもらっていました。実自体はとても小さく、たくさん口に入れなければガムのようにはなりませんでした。味は無味でしたが、あの食感は今でも憶えています。そのほかにもグイミ(ダミ、果実は食用になる)や河原ヨモギなどを採っていました。」

 イ 川を越えて学校へ

 (ア)自転車に乗って

 「中学校へ進学すると、拝志小学校出身の生徒は自転車通学となるので、その自転車を使ってあちこちいろんな所へ行きました。当時は子ども用の自転車がなかったので、私たち(Gさん、Hさん)は、家にある親の自転車を使って運転の練習をしていました。子どもにとって、大人用の自転車はとても大きな自転車だったので、サドルに座ってペダルを漕(こ)ぐのではなく、横乗り(三角乗り)から練習して、自転車に乗るときのバランス感覚を養っていました。」

 (イ)堰堤と通学橋

 「私(Hさん)が小学校何年生かの時までは、拝志小学校と同じ敷地内に拝志中学校がありました。中学生の学芸会に小学生が招待されて、それを見た憶えがあります。拝志中学校は上村(うえむら)と上林(かみはやし)そして下林の子どもたちが通学していましたが、私が中学校に入学するころには他の中学校と統合されて重信中学校になりました。重信中学校へは、昭和34年(1959年)に整備された上重信橋を自転車で渡って通っていました。当時の上重信橋は、『通学橋』と呼ばれ、今架かっている橋と比べると幅が狭い橋でしたが、重信川の南側に住む私たちが重信中学校へ通学するには大変便利な橋でした。この橋ができるまでは、私たちが重信川を渡って川の向こうへ行くには、拝志小学校の下(しも)にあった堰堤まで行かなければなりませんでした。ただ、誰が置いたのかは分かりませんが、河原には上林の人や農協付近の伽藍(がろ)、八幡(はちまん)から川向いの見奈良(みなら)へ渡る人のために、あちこちに川を渡るための板が置いてありました。恐らく、地域に住むお年寄りが置いてくれたのだと思います。板は川を渡る人が渡りやすいように、水が流れている部分にだけ置かれていたので、この地域の人たちはその板の上を通って川を渡り、見奈良方面へ行っていました。当時は松山市内へ行くには見奈良駅から伊予鉄道の汽車に乗っていたので、これらの地域に住む人たちは、わざわざ遠回りして拝志小学校の下にある堰堤を使うのではなく、最短距離で見奈良駅まで行くために、この板を渡っていました。板は助兼(すけかね)のお宮(三奈良(みなら)神社)の裏あたりにも置かれていました。このような、板が置かれただけの簡易な通り道は、大雨が降って水が来たら(水量が増えたら)簡単に流されました。普段は子どもでもズボンをまくり上げて板の上を渡っていましたが、水が来たら危ないので、よく両親から、『川を渡るときには川の水の様子に注意しなさい。』と言われていました。
 沈下橋のことを私(Gさん)たちは『堰堤』と呼んでいました。川の向こう岸までずっと続いていたら良いのですが、川の真ん中に向かって低く造られ、堤もそこで切れていたので、大雨が降って川の水量が増えると、堰堤の真ん中部分を水が流れていました。中学校へ通うときには、それでも学校には行かなければならないので、水の流れに負けないよう、必死に自転車を漕いで渡っていました。自転車を漕いで渡れないときには、自分の足は濡れてしまいますが、自転車を押してその堰堤を渡っていました。大量の水が堰堤の真ん中に集まってきて、その水が堰堤にぶつかって渦を巻くので、それを見ながら渡っていたら目が回るようでした。目をつぶって通らないといけない感じで、目を開けていると本当にその渦に吸い込まれそうになり、とても怖い思いをしました。自転車を押して渡るのでも、素早くサーッと渡らなければ、『そこに水が流れよんじゃけん、目がまうよ(回るよ)。』とよく言われていたので、川や堰堤を見て、危ないなと思ったときには無理に渡ることはしませんでした。私(Gさん)の家は仙幸寺(せんこうじ)にあったので、中学校へ行くのに通学橋を渡ると遠回りになるので、よほど水が出ているときでなければ使いませんでした。ただ、大雪が降って雪が積もると、堰堤へと続く道が分からなくなるので上(かみ)の通学橋へ回っていました。そのときは、道沿いに立っている電柱を目印にしながら、この電柱とこの電柱の間が道だろう、という感じで自転車を押して通学橋まで行きました。私の家から学校へ行くのに、上へ向いて行っていたら遠回りで、しかも坂道になっているので、自転車を漕いで行くのが結構しんどかったのを憶えています。上重信橋は通学橋としての役割を担っていましたが、私(Gさん)が住んでいた仙幸寺辺りの人にとっては、普段の生活は堰堤で十分に間に合っていました。」

 (ウ)川を渡る

 「私(Fさん)が松山中学(愛媛県立松山中学校、現愛媛県立松山東高等学校)へ入学した昭和20年(1945年)当時は、重信川には、宮之段(みやのだん)辺りに住む人たちが普段から利用できる橋が架かっていませんでした。私は伊予鉄道の汽車を利用して通学をしていたので、宮之段の家から最寄りの田窪(たのくぼ)駅(現牛渕(うしぶち)駅)へ行くのに、川の中を通って浮嶋(うきしま)神社へ出て、今の南吉井小学校の西側の道を通って駅まで行っていました。重信川の北岸へ渡ると、私たちが錦水(きんすい)と呼んでいる龍(たつ)(竜)沢泉(さわいずみ)をはじめ、柳原(やなぎはら)泉や三ケ村(さんがむら)泉があります。これらの泉の水は、主に田んぼの灌漑(かんがい)用に使われますが、冬になると田んぼへ水を送る必要がなくなるので、重信川へ返されていました。錦水から重信川へ返される水は、切れる(なくなる)ことがなく、重信川へと続く水路を渡るために2、3本の木で組まれた一本橋が設置されていました。この一本橋は、錦水から流れ出る水の量が増えても流されないように、一方の岸に杭(くい)を打ちつけて、それに綱で結ばれていたので、水が出ると、杭を打っている岸の方へ打ち上がり、水量が減ったときに架け直して利用することができました。
 重信川や錦水の水量が増えると、私(Fさん)はズボンを脱いでパンツ姿になって渡っていました。また、学校から帰るときなど、川の向こうから渡るときには、靴を脱いで、それをお宮(浮嶋神社)の陰に隠して、草履に履き替えて渡っていました。重信川は、渡る道筋がはっきりとしていたわけではなく、一応『ここを通ったらええぞ。』という程度の所を渡っていたので、夜になると、どこを通れば良いのか分からなくなってしまう、というようなことも多々ありました。私たち(Gさん、Hさん)が川を渡るときは、男性も女性も関係なく裾をまくり上げて渡っていました。向こう岸へ行くことに一生懸命になっているので、あのころは、まくり上げる恥ずかしさのようなことは何とも感じませんでした。中学校へ通うのも、スカートを上の方ヘクルクルと巻いて、裾が濡れないようにして自転車を押して堰堤を渡っていました。もちろん、水が出て水量が増えているときも同様でした。靴を濡らさないように靴下も脱いで、裸足で渡っていました。いつもタオルを用意していて、渡り終わったら濡れた足をそのタオルで拭(ふ)いていました。
 私(Fさん)が松山から帰る途中、先に川の北岸に来ていた近所の女性に、『あっFさんがおった。良かった。一緒に渡ってえな。』と言われたことがありました。私(Fさん)一人で川を渡るのであれば、少々深い所があっても最短距離を歩いて渡るのですが、そのときは女性の手を引いて、川の流れや瀬の変化を読みながら、遠回りになっても危険な所を避けて渡っていたのを憶えています。川を流れる水量が多いときには、水が濁っていることが多く、波の形や流れの様子で深さを見極めていました。本流が広くても深い所があり、その見極めに失敗して私自身が川に沈んだことがあったので、人を連れて渡るときには、なおさら注意して渡っていました。学校へ行くときには、重信川の水の様子に気を付けながら登下校する道順を決めていました。当時は、太陽や雲の様子から川の状況やその日の天気を判断していました。『朝、太陽がギラギラ照ったら雨が近い。』や『西の空に雲の土手(ライン)がスーツとできたら明日は雨。』というものです。また、梅雨時になると昔からの言い伝えで『雨が一升降ったら、二升降ったと思え。』と言われていて、川を流れる水量を予想するときには、雨量を2倍として想定するようにしていました。実際に朝起床して雨が降っているときには、少し遠回りにはなりますが、今の拝志大橋が架かっている辺りには自転車でも渡ることができる沈下橋があったので、そこを渡るために別府(べふ)まで回っていました。
 私(Fさん)の家から田窪駅までは片道45分くらいかかっていました。高校(松山中学、松山第一高校、松山東高校と、Fさんの在学中に戦後の学制改革により名称が変更されている)へ通っていたときには、伊予鉄道の汽車が鳴らす汽笛を聞いて、駅まで必死に走ったことがあります。当時、伊予鉄道の汽車は必ず同じ所で汽笛を鳴らしていたので、問に合うかどうかを計ることができたのです。この汽笛のおかげて、乗り遅れるということはありませんでしたが、田窪駅で汽車が動き出してから飛び乗ったことがありました。時間的にも体力的にも通学には本当に苦労しました。登校するために横河原を朝6時に出る汽車に田窪から乗って立花(たちばな)駅で下車し、学校まで歩いて通っていました。普段の通学だけで一日に歩く距離は相当なものでしたが、私(Fさん)が中学1年の時には、松山空襲(昭和20年〔1945年〕)で校合が焼けてしまい、三学期からは御幸寺山(みゆきじさん)(松山市)の麓に建築されていた修練(しゅうれん)道場(愛媛県立青少年修練道場、現〔公財〕常盤(ときわ)同郷会本部地内へ移築)へ学年全員が集められての授業となり、さらに歩く距離が延びてました。
 私たち(Gさん、Hさん)が中学生のころには、拝志の方にもバスは通っていたのですが便数が少なく、1時間に1本程度だったので、見奈良や田窪の方へ出て、汽車に乗って松山へ行っていました。当時は今のような電車ではなく、ディーゼル機関車が客車を引っ張っていて、デッキに人が立つくらい大勢乗っていました。松山の学校へ行く人たちも乗っていました。立花駅まで行くと、当時は森松線の汽車もいました。
 学校へ登校するときには重信川を渡れても、帰るときに川が増水して渡れないということがありました。そのようなとき、私(Fさん)は学校から立花駅まで歩いて帰る途中に石手(いして)川の様子を見たり、汽車の中から小野(おの)川の様子を見て、『これはもうダメやろう。重信川は渡れんやろう。』と判断して横河原まで汽車で帰って、歩いて横河原橋を渡り、吉久を回って宮之段の自宅まで帰ったことがありました。横河原駅から自宅までは歩いて2時間弱かかっていました。夕方、横河原駅から歩くと、自宅までの道に車が走ることもないし、街灯もない、家の灯りもほとんどない状態だったので、辺りは真っ暗でした。私の姉は、重信川が増水しているのを知らずに普段通り田窪で汽車を降りて、重信川の北岸まで帰って来たところで『これはダメだ。渡れない。』と思って、田窪駅まで引き返して、汽車で横河原へ行き、歩いて帰って来たことがあります。そのとき姉は、家に着いて玄関を開けたとたんに土間に座り込んで泣き出しました。夜、辺りが真っ暗になっている中を歩いて帰って来ることが怖かったのと、家に無事に着いた安堵(あんど)感から涙が出たのだと思います。」
 
(2)子どもの生活

 ア 馬が走る

 「終戦前後の話になりますが、当時、地域の子どもの集まりである、子ども会のような組織を『少年団』と呼んでいました。少年団には掟(おきて)のような決まり事があって、どの子どももその決まり事に従って、地域や子どもの社会の中で生活をしていました。例えば、お宮(築島(つきしま)神社)に集合するときには、少年団の年長者が線香を半分に折って火を点(つ)け、ラッパを吹いて集合を知らせます。半分に折られた線香は、およそ15分で火が消えるので、少年団に所属する子どもは、それまでにお宮に集合しなければなりませんでした。たとえ重信川の土手で遊んでいたとしても、ラッパの音が聞こえると15分以内に駆けつけることができるようにしていました。
 少年団では地域の子どもたちが自主的に活動していたので、地域の行事でも役割が与えられていました。例えば、虫祈禱(むしきとう)や亥(い)の子(こ)、山の神さんの祭りなどがそうでした。私(Fさん)は中でも昭和18年(1943年)の虫祈禱が忘れられません。虫祈禱は田んぼの害虫を追い払うための行事で、7月の七夕前に行われていたと思います。少年団が鐘と太鼓を鳴らしながら、『ナンマイダー、ナンマイダー、稲の虫が目むいだー、目むいだー。』と大きな声を出して歩きます。重信川が近くなると『稲の虫が目むいだ。』の部分が、『稲の虫は下(しも)へ行け。』と歌詞が変わっていました。これは『重信川の流れに乗って、どこかへ行ってしまえ』という意味が込められていたと思います。地区を回り終えて、私たち(Fさん)子どもがお宮(築島神社)で話をしていた時に、それまでは聞こえていなかった、川の水が流れる音がゴンゴンと聞こえてきたのです。その時、中学(国民学校高等科)2年生だった少年団の団長が『馬が走りよるけん、見に行くか。』と言ったのです。私たちは最初、『馬が走る』という言葉の意味が分かりませんでしたが、『行こう。行こう。』と言って重信川の様子を見に行きました。すると、川を流れる水が、馬が跳ねているのと同じように、大きく波打って、ものすごい勢いで流れていたのです。ゴンゴン流れて、これはすごかったのを今でも憶えています。
 翌日になって、母が私に『お米を2階へ上げておくれ。』と言うので、普段は物置として使っていた屋根裏へお米を上げていました。その時、2階から辺りの様子を見ると、水が来ていなかったので、『何ともないが。』と思いながら1階へ下りてみると、水が流れて来る音がして、私の家から田んぼ1枚、約30m向こうを水が流れていたのです。盛り土をした部分に建てられた家では、水が勢いよく流れて盛り土を削り始めているのに、家財道具を流されまいと、盛り土が削られていない方へ家財を移動させていました。その様子を見ていた私の家の隣に住む男性が、白い布を旗にして振り始めたのです。恐らく、『もう逃げろ』という意味だったと思います。盛り土は流れ出た水によってどんどん削られ、鶏小屋が流れ落ち、次々と家屋が流されていきました。『あそこの家の人は大丈夫だろうか。』と心配していたのですが、しばらくすると、その家の敷地から煙が上がったのが見え、その家の人が火を使っていることが分かったので、『助かったんだな。』と安心しました。」

 イ 子どもの遊び場

 「重信川は子どもの遊び場でした。魚やカニを相当獲りました。当時は川の水が引くと、大きな水溜(た)まりが残り、その中に魚がたくさん残されたままになっていました。私(Fさん)が学校へ行く途中にそれを見つけると、魚を捕まえて持って行くことができないので、その水たまりに石をボンボン投げ入れて、魚が石で見えないように隠して、学校帰りに獲って帰っていました。そのときには、『帰るまでどうか水が乾いてしまいませんように。』と願っていました。カニは大体石の下にいるので、石をめくっては獲っていました。また、当時重信川は水量が多く、深くなっている所があったので、泳ぐことができました。川岸からその深い所へ飛び込んで、飛び込んだ後は、流れが速い瀬の所では川の流れに任せて体を流して、流れが緩やかになる浅瀬で立ち上がって、また飛び込む場所まで戻っていました。お宮(築島神社)の池でも泳いでいました。お宮には東側に芋根池(いもねいけ)、西側に宮前池(みやまえいけ)があります(写真3-2-15参照)。地元(宮之段)では『芋根池で泳くとエンコが引っ張る。』と言われていました。『エンコ』とは恐らく河童(かっぱ)のことだと思います。私か芋根池で泳いだとき、足に水草が絡まり、『ああ、これがエンコか。』と思ったことがあります。宮前池周辺は、朝早く山へ草刈りに行ったお年寄りたちが、午後はお宮へ集まって将棋を指していたので、人の目が届いて安全でしたが、お宮の裏手になる芋根池には目が届かず、水草が成長して危ない、ということを地元の人たちはよく理解していたのだと思います。
 私たち(Gさん、Hさん)が子どものころは、『川へ行こうや。』と言って、友だちとよく遊びに行っていました。当時の重信川は水量が今より多く、フナやハヤなどの魚がたくさんいたし、シジミ貝も採ることができました。魚を獲るにはジョウレンを川下に立てて、川上側から川底を足で踏み込んで、魚をジョウレンに向かって追い立てていました。河原にはきれいな石がたくさんあったので、それを取ったりすることもありました。今はもう見かけませんが、私(Hさん)の実家の裏の川にはウナギやナマズがいました。当時の子どもは、自分たちでいろいろ工夫して遊んでいました。『子どもが遊びをつくる。』と言った方が良いかもしれません。男の子も女の子も関係なく、みんなで集まってよく遊んでいました。夏場には、子どもだけで公民館に泊まって肝試しをしようと、みんなが布団を持ち寄って一夜を明かしたこともありました。その晩は公民館で怖い話や外へ出て肝試しをして遊びました。みんな本当に仲良く遊んでいたのを憶えています。」


<参考引用文献>
①重信町『重信町誌』 1975
②重信町、前掲書

<第3章の参考文献>
・愛媛県『県政グラフNo.34』 1968
・平凡社『愛媛県の地名』 1980
・愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ 中予』 1984
・川内町老人クラブ連合会『ふる里の記録 くらしの思い出篇』 1984
・角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』 1991
・川内町『川内町新誌』 1992
・愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門『えひめ・ふるさとウォッチング』 1994
・東温市横河原区『横河原区誌』 2006
・東温市地域調査委員会(愛媛県高等学校地理歴史・公民科教員)『東温市の風土と人々のくらし』 2009

写真3-2-15 芋根池

写真3-2-15 芋根池

東温市下林。平成26年12月撮影