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愛媛のくらし(平成10年度)

(1)平家伝説の里①

 **さん(伊予三島市富郷町寒川山下猿田 大正9年生まれ 78歳)
 **さん(伊予三島市富郷町寒川山下猿田 大正12年生まれ 75歳)
 **さん(伊予三島市富郷町寒川山下猿田 昭和7年生まれ 66歳)
 **さん(伊予三島市富郷町寒川山下猿田 昭和8年生まれ 65歳)
 嶺南(れいなん)(法皇山脈の南側)の銅山川沿いの各地は、平家落人(おちゅど)伝説に彩られており、伊予三島市富郷町寒川山下猿田も「平家落人の里」といわれている。伝承によると、このむらは長寛2年(1164年)に始まったといわれるが、その後20年を経た源平合戦の折に、平氏に味方して行動した紀州熊野の一族が、屋島の合戦に敗れてこの地に落ちのび、熊野神社(口絵参照)を守護神として祀(まつ)って先住者と力を合わせて開墾に励み、むらの基礎を築いたといわれている(⑩)。
 銅山川の支流猿田川沿いにあるこのむらは、海抜500m程度の中央構造線上の地滑り地帯にあり、山腹の緩(かん)傾斜面に立地する10戸の家を取り巻くように常畑(じょうばた)や田がひらけている。むらの周辺はかつては焼畑に利用した雑木林が展開していたが、今はスギやヒノキの人口林に覆(おお)われている。家々は山間部特有の1血統1苗字の家が多く、それぞれが屋号(*9)で呼び合って相互に助け合いながら農林業で生計を立ててきた。
 昭和20年代から昭和50年代ころの下猿田での日々のくらしについて、むらに生まれ育った4名の方々にそれぞれ話を聞いた。

 ア 食糧難時代を生き抜いた食事

 (ア)日常の食事

 「(**さん)小さいときから、おばあさんに朝早くから起こされて畑に行くのはつらかった。尋常高等小学校を数えの15歳に出て白滝鉱山(*10)に働きに行き、そこで18歳で結婚した。鉱山では選別の仕事をしたが、請負(引き受けた仕事を完成することに対し報酬が支払われる)じゃったんで金が欲しいもんじゃけんよう働いた。ここらでは現金収入というものも無いんで、女性も方々から出稼ぎに大勢来ていてにぎわっとったんよ。ちゃんと社宅もあって、映画館もあるわ、病院もあるわ、なんでもあった。もう都会に行ったようなもんじゃった。昭和20年(1945年)に白滝鉱山から下猿田に帰って、食料が無いんで、昭和21年に歩いて40分ぐらい離れたところの山を切り開いて焼いて、4月ころにヒエをまいてな、9月すぎに収穫できた。ヒエが取れるとすぐにもんで、実を落とし、蒸して干してから、水車小屋の臼(うす)でついて炊いたんよ。あんまり乾くまで待てんかった。7人も8人もが食べるんで食料が無かったんよ。トウモロコシも分けてもらって石臼でごりごりひいて、雑炊にしたり、おかゆみたいに炊いたりして食べた。一番上の女の子がもうヒエの御飯は好かんいうてぐずって困った。ヒエはお米の中にちょこっと入れて食べるのはおいしいんやけど、ヒエの御飯ばっかりになったら、ぱらぱらしておいしくないんよ。そのころ米は配給でちょこっとしかなかった。家には田んぼが無くて米は作らんかったんで、ヒエが中心の食事だった。それだけでは腹の足しにならんけん、マンジャケ(曼珠沙華(まんじゅしゃげ)、彼岸花(ひがんばな))のイモも炊いて、つぶして水に二日ぐらいさらし、だんごにして焼いて食べたんよ。さらしが悪かったら、毒があって酔うてあげる(吐く)んよ。何も栄養なかった。その他、腹のつっぱり(足し)になるようなものとしては、サツマイモとタイモ(サトイモのこと)を少々作っていた。お餅をつく米もみんな買わないかんかったんで、畑に野稲(陸稲のこと)を作った。それにアワからコキビから混ぜてな、固いお餅をようけこしらえた。子供が小さかったんでかわいそうやったな。米の御飯が少し食べれるようになったのは昭和23年(1948年)ころやね。子供のおやつは、サツマイモの切り干し(かんころ)の粉をだんごにして食べさせたり、サツマイモを炊いたり、ヒガシヤマ(サツマイモを蒸して干したもの)を炊いたりして食べさせたが、お菓子もあんまり食べずに大きくなったような気がする。
 昭和23年ぐらいまではヒエを主食にしてたが、それ以後は5反ばかりの畑でムギばかり作って主食にしたんよ。そのころ食べたムギはマルムギで、マルムギは、臼でつかないかんわな。水洗いして3時間ぐらいグツグツ炊かないかんのよ。わたしは野良仕事せにゃならんかったんで、長男が炊いたんじゃけんな。上手に炊いたんよ。晩のうちにムギを沸かしといて、朝までヨマシといて炊きよったわな。ヨマシいうのは、炊いて冷やしといた柔らこうなった麦のことをいうんよな。マルムギは1回沸かしとかないかんのよ。ヨマシに米を少し入れて炊くんや。蒸せてなかったら食べられんかった。米の御飯にこしたことないけど、ムギの御飯もおいしかったよ。押し麦も食べたが、押し麦は早く炊けるんで、朝早く山に行くときなどにお米を入れて炊いてお弁当にして持って行った。
 ジャガイモは一度蒸しといて囲炉裏(いろり)の灰の中にころがし、『ピーピー』いうまで焼いて食べるんよ。今はマヨネーズつけて食べてるが、昔はお味噌(みそ)つけて食べていた。終戦後にはお味噌もなかったんで、もろみ(粕をこしてない醤油(しょうゆ))をつけて食べよった。ジャガイモはくし刺しにして味噌つけてあぶっても食べたんよ。タイモなんかも山楸(さんしょう)味噌つけて、囲炉裏に立てて食べたわな。子供らにひもじい思いをさせないようにいろいろと作ったもんよ。
 ソバも山で作った(写真1-1-17参照)。ソバはとれるのが早いでな(早いので)。だいたい8月の盆のころにまいて、10月いっぱいにはとれた。うちは『ソバきり』が好きでよく作ったんよ。卵とかヤマイモとかを入れて、練って、細切りにして大釜(おおがま)でぐつぐつゆでて食べた。終戦後には『切り込み』というて、細切りのダイコンと『ソバきり』したソバを一緒にしてゆでて食べよった。ソバは長いこと作ったよ。汁はイリコのだし汁やった。
 お醤油も自家製で、1年おきに大きな樽(たる)で4斗(1斗は約18ℓ)ぐらいは作りよった。お味噌でも2斗から2斗5升ぐらいは作ったんよ。味噌の材料はコムギとハダカムギとダイスで、醤油の材料はコムギをいってダイスの炊いたものと一緒に混ぜて、寝かせて麴(こうじ)にしよった。麴にしたやつをおけに入れて、塩と水を入れてだいたい半年ぐらいしたらお醤油ができる。簀(す)いうてな、竹で編んだ筒みたいになったものを突っ込んで中の実をすくい出したら自然とお醤油がたまってくるんよ。それをお豆腐を絞るような箱でこした。しかし、お醤油を作らんようになってからもう20年ぐらいになるな。お味噌もほとんど今は買っている。昭和45年(1970年)ころからは店に頼んでこさえて(こしらえて)もらったものを買って、何か月か寝かせて食べているんよ。
 豆腐とコンニャクも作った(写真1-1-18参照)。豆腐とコンニャクは今も作っとるんよ。コンニャクは、芋(いも)を掘って1週間から10日ぐらい乾かすんよ。芋の皮はいで昔は手杵(てぎね)でついて(今はミキサーでひく)、それにお湯を入れて練り上げる。冷えてきたら固まってくるんよ。それに灰汁(あく)を一定量入れる。灰汁を作る灰は、ゼンマイをゆでる時に雑木で火をたくんじゃが、その時にできる灰をとっといて使うんよ。籠(かご)に布を敷き灰を置いて、その上から熱湯をかけ、少しずつ落として灰汁をつくる。その灰がええ灰でなかったらコンニャクはできんのよ。灰汁は入れんでも固まりはするけど、コンニャクが開いて(ふやけて)しまうけんね。灰汁を入れたコンニャクをお椀(わん)にすくってだんごにして、お湯の中でしばらくゆでるんよ。できたコンニャクは、ゆで汁の中に入れとくんよ。寒くなっとったら1か月ぐらいは大丈夫。普通の水だと溶けてしまうんよ。ここらはみんな自家製よ。昔からの言い伝えで作っとる。見てただけじゃできんわな。今でも正月には子供たちに送っているんよ。
 お茶も植えて自給していた。今は1反ほど植えて500kgぐらい摘んでいる。今は摘む人がいないので機械で摘んで富郷農業協同組合で加工してもらっているんじゃが、昔は自分でもんで作った。
 今は足が痛うなって山へ行けんようになったが、昔はゼンマイやワラビがようけ(たくさん)あって、2貫目(1貫目は約3.75kg)から3貫目ほどもとったんよ。今は造林してスギが多くなりあまり生えんようになった。ゼンマイは今は畑に植えとるけど、取れるまでに5年はかかる。ワラビはあまり食べれん。ゼンマイの保存法は、ゆがいて乾かす。毛も取らんといかん。これがもう面倒(めんど)いんよ。最低7回はもまないけん。ゆがいてちょっとひなびかし(しおれさせ)てから軽くもむ。これを1日に7回もんで乾かすんよ。ワラビは、生のまま編んで干しよった。ゆでて、さらして油いためにしたりして食べる。生で食べる時は炭酸を入れてあくを抜いて食べるんよ。昔はイモの茎とかダイコンをようけ干しよった。昔の保存食だったんよ。イタドリも昔はよく食べた。イタドリは採って来るとちょっと湯につけて、柔らかくなったら皮をむく。ゆでるにはこつがあるんよ。ちょっと切り目を入れてな、沸きよるお湯の中に入れて2、3回くるくるっと混ぜて、色が変わったら出すんよ。そして水に2、3時間さらして食べるんよ。
 シバグリ(自生するクリ)もようけ拾った。わたしの子供のころじゃが、提灯(ちょうちん)をつけて朝早くから向かい側の山へ拾いに行った。かき集めるぐらいあって、大きなトウマイ袋(穀類を入れる麻の袋)いっぱい拾ってきよった。おいしかったな。歯丈夫やし、『カチンカチン』いうて食べよった。」

 (イ)紋日(*11)の食事

 「(**さん)5月にタカキビ(高梁(こうりゃん))の粉で笹まき(ちまき)をしよった。餅も年に何回かついた。正月と春のお社日(しゃにち)につくんよ。夏祭りにはちがや(チガヤの葉で巻いた餅)を作り、秋の彼岸にも作ったが、忙しかったらせなんだ(しなかった)。3月のお節句にもひしもち(ひし形に切った餅)をしよったけど、このごろあんまりせんようになった。昔はヨモギを摘んで草餅も作りよった。餅に黒豆やヨモギを入れてついたり、サツマイモの餅もついたり、フクモチいうて餅米とうるち米を一緒に混ぜたもんの中へ黒豆を煎(い)って一緒につくんよ。ノリを入れた餅もついたもんよ。だんごも作ったんよ。5月の男の節句にだんごして(を作って)、タカキビのだんご汁をよう炊いたな。タカキビはめんどうなんよ。食べるまでに寒晒(かんざら)し(寒中にさらすこと)にして凍らせないかんのよ。そして石臼でひいて粉にする。出汁を取って味付けといて、タカキビの粉を練ってだんごにした。昔はタカキビのだんごいうたら、ようけこさえて子供に食べさせたもんよ。おすしも作ったが煮込みもようけつくった。煮込みの材料は、ゴボウやニンジンに油揚にシイタケ、それにイリコを入れて炊いた。クリがあったらクリも入れた。おすしは、エビとゴボウとニンジン、シイタケ、高野豆腐ぐらいを入れてつくったんよ。」


*9:調査協力者を例にとると、**家は泉(いずみ)、**家は明治屋(めいじや)、**家は岡(おか)、**家は上西(うえに
  し)と呼称されている。
*10:高知県大川町にあった鉱山で、金・銀・銅・硫化鉄鉱を産出。伊予三島市富郷町折宇(おりう)の山続きにあり、鉱石は
  すべて索道により三島港より搬出されていたので、索道は富郷町の人々の物資の運搬にも利用された。昭和47年(1972
  年)に閉山。
*11:物日ともいい、祭日・祝日など特別なことが行われる日をさす。

写真1-1-17 ソバ畑

写真1-1-17 ソバ畑

平成10年10月撮影

写真1-1-18 コンニャク畑

写真1-1-18 コンニャク畑

平成10年6月撮影