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愛媛のくらし(平成10年度)

(1)平家伝説の里②

 イ 四季折々の仕事

 (ア)**さんの労働暦

 「(**さん)1月は、タバコを作りよるときは、ぼちぼちその準備をしよった。2月は薪(たきぎ)取りをしよった。3月はぼちぼち虫と一緒に出てきて、畑をはい回ってジャガイモ植えたり、畑の空いとるとこを耕したりしてた。4月は、この上の山にな、大きなヤマザクラがあるんよ。その花が咲いたら、サツマイモの苗立てるとか、サトイモをぼちぼち植えるとかしよった。トウモロコシの苗も立てよった。5月は、田んぼ持っとる人は、田んぼしよったが(田の世話をしていたが)、うちはムギを植えとったんで草引きしたりした。畑の手入れはようけ草が生えて難儀かった。6月はムギを刈り、ハデ(丸太などで作った穀物や雑穀を乾燥させる構造物)に干して、唐棹(からさお)(*12)でたたいて麦こなし(ムギの実を落とすこと)をした。7月はダイズをまいたり、トウモロコシ植えたり、8月は草引きしたり、ソバをまいた。9月は肥草(こえくさ)(カヤなどの雑草木を畑の肥料とした)を刈った。そして秋になったらな、あそこの岩(天皇峰の近くの岩)にツタがようけ生えとったが、そのツタが色づきかけたらムギをまくと昔の人は言っとった。10月は麦まきから、稲刈りの手伝いからいろいろあった。田んぼのある所でも二毛作はせんかった。11月はそろそろ冬の段取りせないかん。寒いけんな。12月はお正月の準備するぐらいでこれという畑の仕事はなかった。」と語る**さんの昭和44年(1969年)の労務日記を整理して表にまとめた(図表1-1-7参照)。

 (イ)山の仕事

 下猿田のある嶺南は、雨の多い地域である。昭和46年(1971年)から昭和55年までの年降水量の平均は1,938mmであるという(⑪)。この豊富な降水量は木の生長を促し、早くからこの地域を林業の盛んな地域にした。
 我が国の有名林業地のほとんどすべてが焼畑農耕地帯に成立しているといわれるが(⑫)、嶺南地方でも焼畑が行われ、焼畑・植林・伐採・焼畑というサイクルの中で、木材価格の高騰とともに次第に林業地へと拡大していった。

   a 植え付けから搬出まで

 山の仕事は、植え付けから下刈り、除伐、間伐、伐採、搬出まであるつらく厳しい仕事である。**さんの昭和55年(1980年)の日記帳によると、自分の持ち山の手入れも含めて1年間に204日も山仕事をしている(図表1-1-9参照)。当時の1日の労賃は約6,000円であったという。当時の山仕事の様子について**さんに話を聞いた。
 「夏は大きな鎌を持って刈り付け(下刈り)に行ったり、11月から2月ころには木を切った後に植林できるよう整地にようけ行った。3月は、スギやヒノキの植え付けに行った。植え付けは、一人が250本ほど苗を背負い、遠い所は朝の6時には家を出て、片道5kmほどの山道を歩き、午前10時ごろに目的地に着くと、まず食事をしてから仕事にかかったんよ。午後2時から2時半ごろに腹が減るんで再び食事をして、植え終わるまで働いたもんよ。帰りは疲れ果てて、木材を運ぶ架線(かせん)があれば、架線に乗って帰るときもあったんです。危険は承知のうえじゃったが、ときには線が切れたり継ぎ目が外れたりすることもあって、死人が出ることもあったんです。」

   b 木材の搬出

 **さんは、伊予三島市の山林管理委員を務めるかたわら約20町の山林も所有し、長年山仕事に従事している。**さんに話を聞いた。
 「木材はどこで切っても谷間を滑らせて川へ落としたんです。川の水が少ない時には鉄砲堰(てっぽうぜき)(*13)を作って流したこともあるよ。昭和26、7年(1951、2年)ぐらいだったかな、要所要所に木材を川の両端に立ててね、そこに水をためてちょっとした反動で水がさっと流れる仕掛けを作るんです。そこに切り出した木材をためておいて水をだーっと抜くわけです。そしたら木材が水と一緒に流れるわけよ。しかし木材だから途中で止まり、水のほうが早く流れてなくなるでしょう。そこで方々に堰(せき)を作って水をためておいては抜くんです。猿田川では4か所ぐらい作ったんです。それより前には、台風を待っていたんですよ。夏までに川辺に木材を出しておくんです。台風待ちしてね。『今日雨が降るぞ。』ということになると、皆がさっと飛んでいってね、川へ木材を落とすんです。結局銅山川に行ったら流れが緩(ゆる)やかでしょう。そこにアバ(網場)というて、木材を受け止めるためのワイヤーを張り渡しとくわけよ。木材がそこまで流れると止まるんよ。よそから流れてきたやつと混ざる時もあるけど、刻印を見れば持ち主が分かるんよ。銅山川に出るとね、富郷を通る鉱山の索道(さくどう)というのがあった。木材をその索道駅まで運んで伊予三島市へ出しよったんよ。その次は馬で木材を運んだ時代もあるんよ。昔はこの辺りでは馬を飼っていたんよ。木材を運んだりするための馬をね。当時は移動製材というのがあってね。山で製材して木を軽くしてね、製品にして運んだんよ。富郷小学校の真上の索道駅までずっと馬で運んでいたんよ。それで昭和30年過ぎぐらいから架線が入ってきてね。山から山ヘワイヤーを張って、そうして小さな滑車をつけてね。それに木材の前と後ろを結んで、トバシというて木材を架線でだーっと飛ばすんよ。ここから富郷の索道までね、あっち行きこっち行きしながら共同で線を張ってたんよ。架線を張る時には馬を持っている人が仕事が無くなるんでかなり反対したんです。だけどやっぱり効率の上がる方がいいけんね。それで架線を張りよるうちにだんだんと道路ができて、架線の距離も短くなったんです。架線では製品も出しよったんですよ。軽い方がね、やっぱりいいし、丸太だったら消費地で大分捨てなきゃいかんけど製品にしとけば無駄がない。移動製材いうて、機械を山々に運んで現地で製材して製品にしてたんです。道路がだんだんできるにしたがって移動製材もやまったんよ。今度はトラックにすぐ積めるから丸太で出すようになったんですよ。この富郷から下猿田の中間のところまで道ができたころから丸太で出すようになったんですわ。」

 (ウ)商品作物をつくる

 銅山川流域の商品作物として重要なものは、ミツマタ・葉タバコ・茶・高冷地野菜などであった(写真1-1-23参照)。ミツマタは明治30年(1897年)ころにこの地域に導入され、明治末年から大正初期には、その栽培はピークに達し、下猿田でも主に焼畑で栽培され、昭和30年代までは各農家の重要な商品作物として出荷された。大正初期になると、富郷地区に刻みたばこ用の「阿波葉」が導入された。大正15年(1926年)には豊坂に大蔵省専売局のたばこ取扱所も設置され、下猿田の常畑での最も重要な作物となった。しかし、労力不足から昭和40年代になると激減し、同46年(1971年)ころには消滅した(⑪)。茶は昔から山野に自生する在来種の茶を摘み自家用として飲んでいたが、その後昭和32年(1957年)ころから「やぶきた種」を植え、昭和54年(1979年)に富郷農業協同組合(以下富郷農協と表記)が製茶加工事業を始めると、そこで製品にして個人的に販売している。高冷地野菜は、富郷農協の奨励のもとで栽培されたが、下猿田での取り組みの様子について**さんに話を聞いた。
 「高冷地野菜を栽培した一番最初はね、昭和40年代だったんです。金時ニンジンをやったんです。やっぱり高冷地じゃないときれいな色がつかないんですよ。この辺りだと平地より5、6℃は気温が低いでしょう。それに夜と昼の寒暖の差がひどいもんだからええ色が着くんですわ。富郷農協主体で下猿田を中心にやったんです。はじめは良かったんですが、同じところに何作も繰り返しやるとね、弊害が起きるんですよ。連作はやっぱりいかんですわ。センチュウという害虫が入ってきてね、顕微鏡で見ないといけないような小さなやつじゃけど、その虫がニンジンの表面をかむのかニンジンの表面が汚くなるんですよ。それでも3、4年続けてやりよったんですよ。次にピーマンもやってみたが、それも大したことないんで、その後はしばらく高冷地野菜の栽培はやめていたんです。しかし、富郷農協を活性化させるためには何かやらないかんというんでね、それで昭和58年ころから補助も出るんじゃけんやらんかということで、キャベツをやったんですよ。キャベツは最初3年間くらいは良かったんですよ。初めは順調にいったんですわ。盆を境にして夏に出したんですわ。どうしてやめたかというとね、やっぱり野菜じゃけん価格の浮き沈みがひどいんですよ。松山や新居浜、三島、川之江などの市に出荷してたんよ。1日に200kg、500kgと出荷してた。しかしまた弊害が起きて、コナガ(蛾の一種)が発生したんですよ。ええ薬もようけあったんですけどね。その薬にも抵抗力ができてね。どの薬をやっても死なんようになったんですわ。それでキャベツは3、4年続けてやまったんです。その後は個人個人で自分の食べる分とか親戚の家にやるぐらいしか作らんようになって、換金作物は無くなってしまったんですわ。」

 ウ むらの出来事

 (ア)屋根のふき替え

 農山村から、夏涼しく冬は暖かいかやぶきの家が姿を消してしまった。下猿田でも最後にカヤをふいたのは昭和56年(1981年)の**さんの家だったという。

   a カヤの準備

 「(**さん)カヤの準備はね、刈るのも皆が刈ってカヤぐろを作って乾燥させ、運ぶんも皆が負縄(おいなわ)で運ぶんですわ。一抱えほどの束を2束ぐらい運ぶんですが、けっこう重かったんよ。山沿いの道を4kmほども運ぶんよ。急傾斜の狭い道になると荷がつかえるんで横這(よこば)いに歩かにゃならん。それを1日にだいたい2回か3回ぐらい往復した。ちょっとえらかったですね。昔はかやぶきの家が方々にあったでしょう。むらの者が今年はここの屋根をふこうか、今年はここの屋根を修理しようかと相談して、毎年助け合いでふいていくんよ。カヤ刈り場の広さの関係で1軒全部はふけなんだ。丸々ふくんだったらやっぱり3年分ぐらいは蓄えておかないといけんのですわ。カヤ刈り場は、4、5人が共同で所有している2町くらいの広さの平坦な所があったが、現在は分配して植林するなどして無くなってしまったんよ。」
 「(**さん)**さんの家の屋根をふいたカヤは、この辺りの自分の土地にカヤ場を置いて(カヤを刈る場所を定めて)、きれいなカヤを、3年分くらい天井裏などの雨にあたらん所に蓄えておいたものでふいたんよ。もしわたしの家をふくとしたら、直径10cmくらいのカヤ束が四千束くらいはいるんじゃないかと思うんよ。カヤは、台風にやられたりして倒れると使えんし、全部は取れんでしょう。だから相当広いカヤ刈り場が要ったんよ。カヤ刈り場は毎年刈らんといけんのよ。古いカヤをきれいなと思うてふいても腐りが早いんよ。だから毎年、その年に生えたカヤを刈って、蓄えておかんといかんのよ。カヤは横に寝させて積んだら腐ってしまうんよ。カヤぐろを作って立てておかんといかんのよ(写真1-1-25参照)。だいたい昔の人ならだれでも知ってたが、カヤぐろはカヤがゆがまんように工夫せにゃならんのよ。カヤがゆがんだら使いものにならんけんな。カヤぐろは土台が肝心で、くいを立てた一番下の土台に、切った木の枝を置いてカヤがくいに折れ込まんように、直線じゃないけど、平均に立っているように下の土台をしっかりしてやらなければならんのよ。上から順々に押さえていくとゆがんでしまう。水が入っても水が抜けてすぐに乾くようにしないとカヤが腐ってしまうんよ。カヤは雨にぬらしておいてはいかんのよ。その他の準備作業としては、冬の間にわらかシュロで縄をたくさん作っておく。タケもけっこういるんで、秋に切って乾燥させておくんよ。竹の子が生えとる時期にタケを切るのは悪いけんな。」

   b 屋根をふく

 「(**さん)屋根ふきはむらの大行事でしたね。家によって違うけど、**さんの家をふき替えた時は、屋根に上がる人が10人くらいで、4、5日かかったんじゃないかな。古いカヤは、1日ぐらいでのけよった。のけたカヤは畑に入れて肥料にしたんよ。みんな真っ黒になって作業して1日仕事したらすすを吸い込んで夕方には声が出んかった。屋根をふくカヤは、屋根の上にあげるまでにはカヤの葉っぱの多いやつは、葉っぱを切ってのけるなど、下できれいにそろえて、わらである程度の束にせにゃいかんのよ。そのために、束にする人が屋根に上がる人以外に大勢いったんよ。カヤを並べ始めたら下に降りるわけにはいかん。カヤは順々に上がっていかないけんけんな。屋根をふく時は、軒先の場合だと、まず軒先にタケをくくり付けてその上にカヤの束を並べてゆわえて(縛って)いくわけよ。その後はその上にカヤの束を次々と並べ、それをタケで押さえていくといったやり方で屋根はふいていくんよ。それを一通りやって夕ケで押さえたら、今度はまたカヤ束を端からずーっと並べて押さえていくんよ。凸凹ができないようにクワでたたきつけてな、仕上げは屋根ばさみで端っこを切りそろえるんよ。
 屋根ふきをする家は、もちろん賄(まかな)いはせんといけんな。今でいうたらお祝いみたいなものやな。毎晩毎晩お酒を飲んで、出来上がったらまた飲んでいたんよ。
 カヤは寝かせてわらで縛っていくんで、屋根にはある程度こう配はあるけどぬれると腐るのよ。だからふく時期を考えにゃあいかん。屋根は梅雨明けぐらいにふいたんよ。
 かやぶき屋根は、カヤの質がええんだったら、30年はもつと言うけどな。カヤの悪いとこなんかは腐って溝ができてくるんよ。谷になったとこは、カヤが悪く腐った所で、葉っぱがようけついたカヤを使っとったらああいう形になる。カヤが良かったらそうはならんけどな。屋根はある程度傷まんうちに部分的に修理するわけよ。修理は、カヤを80cmぐらいに株の固い部分だけ切って他はほかして(捨て)、それを傷んだ部分に差し込んでいくわけよ。補修は再々せんと長持ちはせん。平均に全体が傷むということは無いけんな。日当たりの場所にもよる。日光のようけ当たる所じゃったらあまり傷まんが、乾燥しにくい所はコケも生えてくるし腐りやすい。屋根にはコケが一番いかんのよ。コケは早く落としてやらんといけん。コケが生えると水を含んで乾かんでしょう。竹ぼうきなんか持って屋根に上がってな、落としてやらないかんのよ。ふき替えをする時には、下から全部ふき替えることはないんよ。新しいカヤと混ぜて使う。カヤがしゃんとしとったらそのまま置いて、新しいのをそのまま上へ乗せることもあるし、いかんと思うたら下ろして、ええとこだけ選って新しいのと混ぜてふいたりしてた。」

 (イ)伊予三島に行く

 下猿田の人々にとって伊予三島市に行くことは楽しみでもあり苦しみでもあった。昭和35年(1960年)に法皇トンネルが完成する以前には堀切峠(ほりきりとうげ)(川之江市と新宮村の境の峠)経由のバス便もあったが、元気な者は海抜796mの寒川峰(さんがわみね)を越えて片道4、5時間を歩いて行った(図表1-1-10参照)。
 また物資は、馬追(うまおい)や仲持(なかもち)(仲介人)が運んだ時期もあったが、白滝鉱山の三島索道が架設されてからは索道が主な運搬手段となっていた。下猿田の人々が利用した往還道路(人通りの多い道路)は富郷町豊坂から登る(⑩)。
 「(**さん)昔は大変ですわ、わたしが子供のころには、おやじに連れて行かれて寒川峰越えて三島(伊予三島市のこと。以下同じ)に買い出しに行ったね。険しい山道が4kmぐらいあるんよ。やっぱり片道5時間ぐらいはかかったね。子供のころは寒川峰を越えるのに半日以上はかかったな。藤原や猿田の者はみんな寒川峰越えで三島に行ったんよ。これより下(しも)の長瀬や平野の人は具定峰(ぐじょうみね)を越えたんよ。
 買い出しも今みたいにしょっちゅうじゃないわけよ。盆と正月と年に2回から3回、大きなリュックを背負って親子で行った。それで買ったものいうたらイリコなどの乾物が主で、それ以外には石けんなどの日用品じゃった。わたしが若いし(若い者)になってからは、雨でも降ったらすぐに三島に飛んでいってたもんよ。昔は映画館が開くのは夜の7時とか8時だったでしょう。映画を見てから夜の12時ごろから山の中をことこと戻ってくるんですよ。懐中電灯なんか持っててもなるべくつけずに、月明かりで戻ってくるわけよ。一番ぞくっとするのは途中で人と会うことよ。はるか向こうの方から人が来とるのがおぼろげに分かるわけよね。だれか来ているなと思っても向こうもこっちも止まらずに近付くんですよね。気持ちが悪かった。
 法皇トンネルができるまでは、新宮回りで堀切峠を通ってバスが来ていた。金砂湖の端に平野橋があり(写真1-1-28参照)、そこから新宮の方にしばらく行くと小川という集落があるんよ。そこの小川橋というバス停が富郷の一番近いバス停だったんよ。バスに乗る人はそこまで歩いていかないかんかったんよ。そしたら平野橋から小川のバス停まで伝馬船(てんません)で運ぶ商売しよった人がおったんですわ。若いしは、あそこまで行く間にもっと向こうまで行くからね。年寄りとか幼い子供を連れた人なんかがそうやって三島に行きよった。今は自動車で新居浜市には1時間あったら行くんです。便利になりました。」

 (ウ)電気がついた

 「(**さん)電気は昭和21年(1946年)ころについたんです(図表1-1-10参照)。電柱を立てる手伝いをしたり穴を掘ったりは、地元の奉仕よ。白滝鉱山が高知県にあったんですよ。その鉱山の方から電線をずっと引っ張ってきてね。それから藤原を通って天皇峰を越えてこっちまで来たんよ。その時わたしは14、5歳やった。電柱の用材も自分らで全部切って準備し、穴を掘って埋め、電線を引くのも手伝った。電気屋はおったけどね。村から1戸あたり一人ずつ出たんです。
 わたしが小さいころは戦時中ですわ。昭和15年(1940年)ごろからここらは灯油のランプでしたが、戦争が激しくなると灯油が無くなったんですよ。それでも暗くなったら寝たらいいという訳にもいかんのよ。夜なべをしないといけんでな。それで山に行ってマツの根っこの『肥松(こえまつ)』というものを取りにいったんよ。マツの根っこを子供の力でおがす(掘り起こすこと)のに半日もかかるんよ。小さなころでもおばあさんにつれて行かれてね、マツの根っこをよう(よく)掘らされた。それを担いで帰ってきて小さく割るんよ。そしてそれを囲炉裏の横に台を立てかけて焚(た)いたんよ。戦争中はろうそくでなく松明(たいまつ)やった。戦後になったらまた灯油が出てきてランプになった。わたしが子供のころのランプは、五分(分はランプの芯(しん)の太さのこと)とか八分とかいうてね、五分というたら小振りの芯で、八分いうたらもう少し芯が太くて明るいんです。学校から帰ったら、火屋(ほや)いうてランプの火を覆い包むガラスの円筒があるでしょう、あれに息を吹きかけて新聞紙なんかで毎日ランプの掃除をせにゃいかんじゃった。灯油は三島へ行って8ℓ入りの缶を買って運賃はいるけど索道で運び、富郷の索道駅からは馬で運ぶか自分が取りに行ったが、なかなか大変だったんよ。」

 (エ)医者を呼ぶ

 「(**さん)昔は、普段のちょっとした病気は、越中富山の薬屋さんの置き薬で間に合わせてたが、大病人がでると大変じゃった。ここから天皇峰(写真1-1-29参照)を越えた藤原というところに山中さんと言うお医者さんがいて、村医さんになってもらっていたんです。電話がなかったころで、病人が出ると直接、呼びに行ったんです。それで先生が元気なうちは良かったんですが、70歳ぐらいになって足が悪くなり、もう歩いて行けんということになってからは、かごを作って若い者が迎えに行きよりました。かごの中で言いたい放題言う先生を命がけで連れてきてました。6人ぐらいが交代しながらかごをかくんですが、病人をかごに乗せて行くこともあり、2往復しないといけん時もあって大変でした。その後、先生は年をとってもう診察できんと言うて昭和32年(1957年)に高知県に帰ってしまったんです。それで、無医地区ではいかんということで、伊予三島市が長瀬という所に医者を置いてくれたんですが、それも長続きせず困りました。しかし、そうこうしているうちに交通の便も良くなって、ちょっと何かあったら伊予三島市の方へ行けるようになったんです。今は昔と違って救急車もちゃんとあるし、小学校の送迎用の車もあって、それで送り迎えしてくれるんで、結構、重宝してます。」

 (オ)イノシシを追う

 イノシシの被害が増えているという。古来、我が国では、イヌに追わせて追いつめてとる、落とし穴に落としてとる、餌(えさ)をまいて誘い出す、罠(わな)をしかける、イノシシの通り道に仕掛け銃を据え置く、ニタ(イノシシが体に泥を塗り付ける水たまり)の近くの木の上で待ち伏せして撃つなどの方法で、イノシシ猟が行われてきた(⑮)。
 イノシシ猟歴40年のベテランである**さんに、嶺南地方のイノシシ猟についての話を聞いた。
 「ここら辺りでは、イノシシの害はあんまり聞いたことがないんよ。わたしらが猟期の間に捕ってるんで、すぐおらんようになるんよ。猟期は11月15日から2月15日までの3か月間、5、6人のグループでやるんよ。平均したら我々のグループで、子供のイノシシも入れて30頭は捕っているんよ。高知県側はやっぱり山が広いけんね。捕ってしまったけん、来年もうおらんかというてもまた来るんです。イノシシは移動するんですわ。縄張りもあると思うんよ。メスが1頭おって、ここで産まれた子は、よそに行くんですが、また帰って来るんです。向こうから来たイノシシは居る期間も短いんよ。例えば高知の方で追われたイノシシがこっちに入ってきても、何日もおらずにすぐに帰って行くんよ。
 イノシシは、昼に寝てから夜に活動するんですが、どこでもここでもは寝ないんですよ。それでイノシシの一般的な捕り方いうのはね、先ず足跡を見つけてイノシシがどこから入ったかを見分けるんですよ。見つけるとぐるっとその山を見て回るんです。そしてその山から出ていたら次のところを見て、イノシシがその山におるのを確認するんですよ。イノシシがおるのを確認すると、イノシシの入った所に鉄砲撃ちを一人待機させ、逃げ口にも一人、下にも一人、上にも一人とそれぞれイノシシが逃げんように持ち場を決めて配置し、イヌを連れた者がイノシシの入った方から入って、寝場の付近でイヌと格闘させるわけよ。調子が良ければイヌを連れた者が撃ち、逃げたら他で待っとる所で撃つんよ。しかし確率は100%ではないわけですよ。なんぼ(いくら)ここにおるのが分かっても、ちょこっと逃げるかもしれん。イノシシも入ったり出たりしておるんで、イノシシがそこにおるのかおらんのか判断が難しいんよ。追いイヌは1か所から5、6頭で入り、50~100m先でもイノシシをかぎつけると、だーっと走って行くわけよ。イヌは先頭にならって走るんで、先頭のイヌが重要なんよ。元気過ぎてもいかん。やっぱりええイヌいうんか、訓練しているイヌはイノシシを真ん中にしてね、ぐるりと取り囲むんよ。イノシシが怒ってね、イヌをやっつけてやろうと思ってだーっと突っ込んで来るわけよ。そしたら片方に逃げるわけよ。そしたら後ろにおるイヌが攻めるわけよ。中にはきばでやられて殺されるイヌもおるしね。人間は鉄砲持っているからね、たまに飛びかかってくるけどね、木なんかある所だったら避けられるしね、人間がイノシシにやられたということは滅多にないよ。その前に鉄砲でやりますけんね。あんまりイノシシとイヌが近づいとると撃ったらイヌが危ないんですよ。イノシシの向こう側にイヌがおるときがあるんでね。腹なんか撃ったら突き抜けてイヌにもあたることがあるんよ。
 イノシシの好物はヤマイモじゃけど、ドングリなどもよく食べるしね。夏場になったらヘビ、マムシ類も食べるんよ。冬場になったらクズの根っこを食べる。あれはでんぷんがすごく多いんですよ。イノシシのねぐらは、小さな尾根がかかった所で、常緑樹のぼつぼつと混ざった所じゃないと寝んのですわ。落葉樹ばっかりだとね、見通しがいいでしょう。ここら辺りで言うたら、広葉樹のアセビなどがだいぶ生えてる茂みの所で夏は寝るんよ。冬は尾根がかったところの南向きのがけで、雨や雪の当たらない所の下で、木の葉を一杯集めてきてそれを布団にして寝てるんよ。上手に集めて来るんですよ。夏はカヤとか広葉樹の小枝とかを一杯取ってきてね、力を防ぐんです。めったにイノシシの寝場付近を通ることはないですけどね、山路の側にはほとんど寝ないんです。わたしらはこの付近の地形が頭にしっかりと入っているけん、イノシシの通り道は大体分かるんです。イノシシも通る道があるんで、がけ山なんかは通らんからね。餌を取りにくる道と、追われて逃げる道とはぜんぜん違うんです。竹の子なんか掘るやつはね、大体上から下ってきてその道を往復するわけよ。逃げる道は横へ逃げるんよ。イヌに追われた時は一回は山を下り、イヌから離れると斜めに走るんです。大きいイノシシは、イヌをばかにして上を向いてコトコトと逃げるのもいるんよ。」


*12:豆類やアワなどの脱穀や麦打ちに用いる道具。棹の先に自由に回転できる短い竿をつけこれを回して打つ。
*13:丸太や材木を流水によって運搬する際、谷川を一時せき止めて急に水門を開き、水が落ちる勢いで運ぶ方法。

図表1-1-7 **さんの労働歴

図表1-1-7 **さんの労働歴

昭和44年の労務日記より作成。

図表1-1-9 **さんの山仕事

図表1-1-9 **さんの山仕事

昭和55年、50歳時の日記帳より作成。持山の仕事日は内数として(  )で示す。

写真1-1-23 下猿田の畑

写真1-1-23 下猿田の畑

カヤ場と茶畑、トウモロコシ畑が見える。平成10年6月撮影

写真1-1-25 カヤぐろ

写真1-1-25 カヤぐろ

平成10年6月撮影

図表1-1-10 下猿田に関する主な出来事

図表1-1-10 下猿田に関する主な出来事

『伊予三島市 嶺南(⑩)』、『伊予三島市史 下巻(⑭)』より作成。

写真1-1-28 金砂湖にかかる平野橋

写真1-1-28 金砂湖にかかる平野橋

平成10年6月撮影

写真1-1-29 天皇峰

写真1-1-29 天皇峰

平成10年6月撮影