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愛媛のくらし(平成10年度)

(1)イワシ巾着網

 **さん(伊予郡双海町上灘 昭和9年生まれ 64歳)
 伊予灘に面する人口約5,600人(平成10年4月現在)の双海町は、上灘と下灘に別れ、東西に細長く16kmに及ぶ海岸線を有し、傾斜地でのミカン栽培と漁業が盛んである。昭和62年(1987年)からまちづくりが進められ、「しずむ夕日が立ちどまる町」として、ふたみシーサイド公園などが造成されている。
 平成9年まで、上灘共栄網生産組合長をしていた**さんに、組合が取り組んできたイワシ網漁と、イリコの製造について話を聞いた。

 ア イワシ巾着網漁の変遷

 「上灘の小網では、明治35年(1902年)ころに手押しで櫓(ろ)を漕ぐ巻き網船ができ、『共同網』として半径3km程度の漁場で操業をしておりました。当時は、小網集落に新、旧2統の網がありましたが、昭和18年(1943年)に県水産課の指導で合併し、上灘共栄網生産組合(任意組合)として発足しました。イワシ巾着網の船団は引き船1隻(せき)、網船2隻、運搬船2隻、樽伝馬船(たるてんません)1隻から構成されており、全部で50名程度で1統を形成していました(口絵参照)。当時、小網を含めた上灘地区は西隣の下灘地区との境界海域を守りながら、東は伊予市森(現在、県水産試験場が置かれている辺り)以西で操業していました。それ以北の海域では地引き網による操業が行われていたようです。
 現在の伊予灘海域の漁業区域は、北条(ほうじょう)市沖から佐田岬(さだみさき)半島沖までで、沿岸より約1km以内での操業は地元の許可が必要です(図表1-2-5参照)。
 上灘共栄網生産組合は、戦前は伊予灘海域で操業していましたが、不漁が続き、昭和21年(1946年)ころ、新居浜(にいはま)市の漁業調整委員の了解を得て、燧灘沖でイワシやコノシロなどを巻き網でとることが始まり、それが10年ばかり続きました。当時、寒川(さんがわ)漁業協同組合(伊予三島市)は動力船を導入しており、その操業法は優れていて大変勉強になりました。私は昭和24年(1949年)に上灘共栄網生産組合に勤め始めましたが、昭和26年に引き船とは別に投網時専用の小型引き船(動力船)を2隻導入して網船をけん引して操業し、漁業効率が上昇したのを覚えています。今は魚群探知機がありますが、わたしの入った当時は、肉眼でイワシの群れを発見しながら漁をしており、そのため『山見小屋(やまみこや)』は重要な役目を果たしていました。小屋は伊予市に2か所、上灘地区に8か所ありましたが、見張り人が群れを発見すると、『ザイ』と呼ぶうちわ状の道具を使って沖の船団に合図を送っていました。
 昔は、小網でも、地引き網と巻き網とが共同で操業していましたが、木綿の網を使っていた折は、1日使うと次の日は干して乾かし、渋(しぶ)で染めてまた使うという方法でした。
 昭和28年(1953年)ころ、ナイロン製の漁網が出回ってきました。当時は高価でしたが、その後、価格はずっと据え置かれました。この網は丈夫で軽く、一日中網が使用できることから画期的なことでした。そのうち、網船の綱を自動的に巻く方法や魚群探知機による沖合い漁業の発達で、見張り人も不要になり、それまでの50人から30人で船団の操業ができるようになりました。
 漁船の大きさは、長さが10尋(ひろ)(1尋は約1.5m)、排水量は20t未満でした。昭和33年(1958年)ころには、木造船による操業で、巻き網のすそを絞って揚げる作業を、焼き入れをした歯車によるローラー(*14)で行うようになりました。木造船の寿命は10年程度でしたが、その後、寿命が長く建造費の安い鋼船が出回りはじめ、さらに昭和53年(1978年)にはプラスチック加工の軽量船が建造されるようになり、現在に至っております。」

 イ イリコの製造

 「カタクチイワシからイリコをつくる際、その鮮度が最も大切になります。巻き網での捕獲では、イワシ同士の『傷み合い』があるので、急いで加工していました。イリコはお盆以降から10月にかけてとれたものがいいとされ、秋イリコとして珍重されています。
 昭和20年代前半は、加工品にして年間100t程度の漁獲量があり、上灘共栄網生産組合の経営状況も良く、共栄網の株を所有している人は豊かな生活ができました。
 当時は、生のイワシをイリコに加工するのを各家庭で行っていました。小網は典型的な海岸集落で、海岸から丘に向けての傾斜地に、図表1-2-6のように、海岸から順番に、a海岸に石垣を積み家を建て、bその上に県道が通り、cその上に二軒ほどの家を建て、dその上を鉄道が走り、eその上にまた家屋ができるという構図になっていました。
 当時は、株主には漁獲物が現物支給されたので、漁師は運搬用竹かごに約60kgのイワシを入れて急な坂を登って各家に持ち帰りました。中には、イワシを運ぶ際に、かご二つをてんびんで担ぐ人もあり、女性にとってもイワシ担ぎは重労働でした。そのあとの時期には、マイラセと呼ぶ直径約60cmの竹かごにイワシを入れて、丸釜(かま)で湯がき、簀(す)の子の上に広げて乾かしていました。簀の子はマダケを幅1cm程度に割り、シュロの繊維で編んで作ったものでした。加工された製品は、問屋と呼ばれた販売の責任者が各家を巡回し、一斗升(ます)(1斗は18ℓ)で計量して集荷していたのを覚えています。その後は、イリコを販売所に持って行き、計量してもらっていました。その際、若干、規定重量より重いと、手数料をその分、余計にもらえました。秋イリコは高値で販売され、イリコ1斗が米1斗に値する程度の高価なもので、一般家庭で珍重されていました。
 イリコの乾燥は生産する各家庭にとって大きな課題でした。いちばん海岸に近い家は、砂浜にスギやヒノキの間伐材で足場を組み、その上に簀の子を並べて、天日で乾かしていました。干し場のない家は屋根の上に干していました。晴天が続けばいいのですが、9月には結構、雨の日が多く、乾燥途中で雨に遭うと、急いで品物を取り込んでいました。乾燥前のイリコは、マイラセに入れて保管していましたが、そのにおいはあたり一面に漂っていたのを覚えています。翌朝、天候に恵まれると、急いで湯がき直して天日干しにしました。雨天が続くと製品にならず、やむなく肥料として畑に埋めていたようです。また、半乾きのイワシを家で保管する際には、畳をはぎ、簀の子を重ね合わせて天候の回復を待ったものです。秋ものは、大きさが8cm程度になると、丸1日以上干さないと乾ききりません。80%ほど乾燥すると、簀の子10枚の量をむしろ3枚程度にまとめて仕上げの乾燥をしていました。
 昔の操業は1年中行われ、休みは海がしけた時だけでした。定休日は年間を通じて、元旦、お日待ち(*15)、それにお盆(8月16日)の3日だけでした。
 昭和30年代に入ると、経済成長と同時に、小網の子供も阪神方面へ就職するようになり、各戸で行っていた釜ゆで作業ができにくくなりました。そこで共同釜といって、2、3軒が共同で釜ゆでを行うようになりました。薪の不足などに対処したのと小型重油バーナーが出回ってきたこともあったようです。そのうち、加工作業が人手不足でできなくなり、一歩進めて共同化しようということで、昭和40年(1965年)に、沿岸漁業構造改善事業を活用して工場が建設されました。3、4年を要しましたが、完全に加工能力を持つようになりました。これで、網を引く者、加工する者も従来どおりの持ち株制度を生かした運営ができるようになりました。
 昭和30年代のイワシの漁獲高は、イリコの製品にして1戸当たり、年間で1.5t程度でした。上灘共栄網生産組合としては、全体で150tの漁獲で、当時としては相当たくさんとれていたことになります。その後、船の設備投資なども行って漁獲量が増えましたが、最高にとれたのが昭和60年(1985年)ころで、800tくらいあったと思います。わたしの47年間の勤務の中でこれが1番の思い出です。最近は400tとれればいい方です。
 昭和30年(1955年)ころは販売主任がいて、卸商と個々の取り引きを行っていましたが、生産者との間に細かなトラブルがあって、共販制度をつくりました。1週間に2回くらい卸商に来てもらって競争入札を行い、愛媛県漁業協同組合連合会と上灘漁業協同組合に手数料を払う方式を確立しました。
 製品の袋詰めは、初めのころは、販売主任が自分で升で量っていましたが、やがて各戸がはかりを購入し、紙の袋に800匁(1匁は約3.75g)ずつ入れて出荷するようになりました。その後、段ボール箱が出回り、製品が傷まなくなって出荷が楽になりました。
 昭和30年ころにはイリコを機帆船に大量に積んで、よく尾道市(広島県)まで運んだのですが、春先のイリコは脂肪が多く、袋の中でれんがを積んだように硬くなり、買いたたかれた苦い思い出があります。最近は、段ボールと冷蔵技術が発達して製品の保存には苦労しなくなりました。秋イリコは、通気性のよい専用の袋に入れて天井につるしておけば変質せず、かなり、保存が効きますので、昔から農家では重宝がられていました。
 イリコの価格は、昭和40年代は1kg当たり150円でしたが、構造改善事業等で加工能力が上がり、よい製品が作れるようになり、600円から700円になりました。また、最近は健康食品として注目され、1kg当たり1,000円の価格を維持しています。特に中羽(ちゅうば)(長さが6cm程度のイリコ)は、だしをとるのにうどん屋などで重宝がられています。
 カタクチイワシの寿命は3年、マイワシは10年といわれていますが、イワシは回帰性があり、生まれた所に帰ってくるといわれています。
 春、イワシは産卵のために、沖から浅瀬に寄ってきます。このイワシは油が乗っています。5月から7月にかけては稚魚をちりめんじゃこに加工するための漁が行われます。イワシは7月末から8月にかけては長さが4cmから5cmになります。それを小羽(こば)イリコに加工するために、巻き網でとるのです。秋イリコは油が少なく、だしの出るイリコとして料理店などでも重宝がられています。ここ数年、秋イリコの原料のイワシがとれなくなりました。魚群探知機の使用やイワシの稚魚の乱獲で、資源が少なくなったのではないかといわれています。」


*14:回転させて使う円筒形のもの。
*15:近隣の仲間が集まって特定の日(1月11日)に徹夜してこもり明かし、日の出を拝む行事。

図表1-2-5 伊予灘周辺

図表1-2-5 伊予灘周辺


図表1-2-6 小網地区断面略図

図表1-2-6 小網地区断面略図

**さんの話をもとに作成。